あらすじ
変わっていく世界と、ぼくたちのいらだち。
与えられた剣と鎧はどうやって手放したらいい?
映画や漫画など様々なコンテンツから、近年のフェミニズムの興隆の中で男性はどう生きるべきかを読み解く、画期的な文芸批評。
【目次】
はじめに
第一部 僕らは何を憎んでいるのか
第一章 能力と傷──ポストフェミニズム時代の男性性
第二章 やつらと俺たち──階級と男性性
第三章 男性性のいくつかの生き残り戦略──助力者と多文化主義
第二部 男性性、コミュ力、障害、そしてクリップ
第四章 『もののけ姫』と障害者の時代
第五章 コミュ力時代の男たち
第六章 「これは私の吃音だ!」──「個性」としての障害と治癒なき主体というユートピア
第三部 ライフコースのクィア化、ケアする男性
第七章 母の息子のミソジニー、母の息子のフェミニズム
第八章 ぼくら、イクメン
第九章 老害と依存とケア、そしてクィアな老後の奪還
おわりに──ケアする社会へ
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Posted by ブクログ
『新しい声を聞くぼくたち』を読んだ。
強く心に残ったのは、男性性をめぐる物語がどうしても「個人の努力」に結びついてしまうという指摘。ケアできる男性や新しい男性性を獲得することが良いことのように語られても、それが結局は別の形のマッチョイズムになってしまうのではないか。そこに上手く馴染めず、ひとり袋小路で苦しむ人もいるかもしれない。そう思うと、胸が少しざわついた。
新自由主義のもとでは「ケア」や「連帯」でさえ個人の資質や努力として語られがちで、そこから外れる人を排除してしまう危うさもある。けれど、そうした視点を言葉にしてくれることで、自分が日々あたりまえに受け取っていた考え方を少し立ち止まって見直すことができた気がする。
男性から男性へのミソジニーや、「ケア=助力したいという男性的欲望」という指摘、「無口こそ男らしい」から「コミュ力が男らしい」へという移り変わりなど、ハッとさせられる発見もたくさんあった。読み終えて、知らなかったことに気づかせてもらえた。
Posted by ブクログ
フェミニズム論の立場から映画、漫画などサブカルチャーを評論する。面白いのは、そこから推測されるような、サブカルチャーに現れるミソジニー的傾向を明らかにする、わけではないことだと思う。むしろ、本書の主眼は、現代的な価値観の中で望ましいとされるケアする男性、イクメン的男性が、アッパーミドルの価値観=ネオリベラリズムと結びついているのではないかという問題提起にあるのだと思う。もちろんそういったフェミニズム的な価値観を否定するわけではなく、ポストフェミニズム的な状況からこぼれおちるものがミソジニーに結びついてしまう現状があることで議論を一歩進めている。障害者の負う障害が「個性」とみられることで障害者への支援が削減され、働ける障害者と働けない障害者の間での区別がなされるようになるという議論も背景にあるというのもはっとさせられる。ただ、当然ながらフェミニズム以前に戻ればよいという話ではなくその次を見据えてどうしたらという点については、自分の理解不足もあって見通せていないのではないか、とも思ってしまった。
Posted by ブクログ
差別や抑圧の解消を目指す言説が「新自由主義的な罠」に絡め取られがちなことに警鐘を鳴らす。そのために「脱構築」を繰り返し、良い意味でも悪い意味でも「めんどくさい」議論になっている。「男性性」の描かれ方を多くの小説・映画・漫画等の物語分析を通して論じている。ただ、知らない作品も多く、知っている作品でも詳細は覚えていないものが多く、この本を頼りにそれらを見返す余裕とエネルギーがあるとよいのだろうが、とは思う。
Posted by ブクログ
前作で、今のポストフェミニズム時代がポピュラー・カルチャーの女性キャラクターにどう投影されたかを、斎藤環さんの「戦闘美少女」という言葉を用いつつ論じた著者(あれ以来、私は巷に溢れるアニメや漫画がその視点でしか見えなくなってしまった。そのようなキャラを嗜好しているのは男性なのではないかという疑問は拭えないが…)。
では、男性は、男性キャラクターは、どのように描かれるようになったのかを論じたのが本書である。フェミニズムの問題とされていることのほとんどは実は「男性の(が?)問題」としたうえで、男性には、マジョリティである自分たちの加害性を自覚・反省する立場の者たちと、自分たちこそフェミニズムの被害者だと主張する者たちに分かれると指摘する。そして、ミソジニーの問題も取り上げつつ、ポピュラー・カルチャーの男性キャラクターは、マッチョな男性像から助力者としての男性像にシフトしつつあるという。
本書で扱われる主な作品は以下の通り。
『怪獣8号』『ジョーカー』『ヒックとドラゴン』『アナと雪の女王』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『Beasters』『鬼滅の刃』『恋愛小説家』『英国王のスピーチ』『そして父になる』『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』『クレイマー・クレイマー』『きのう何食べた?』…。
前作同様、表紙と取り上げる作品群とは裏腹に、かなり骨太な論考が展開される。やはり作品の選び方は難しいなと感じる。全てを網羅できない以上、恣意的にらならざるを得ない。障害者と労働に関する記載など、あまり頷けない部分もあった。それでもしかし、大いに学ぶところがあった。
Posted by ブクログ
抽象的なところは、申し訳ないけれど難しかった。
作品解説の部分は面白かったかも。
ジブリ作品
確かに、ジブリ作品の男性は女性を助ける助力者としての役割。それが弱者男性としての生き残り戦略。
アナと雪の女王
否定的な感情を取り締まることを中心とした作品。
エルサのもっとも大きな試練は感情をコントロールすること。
エルサの魔法の力は、アナが突然の結婚を伝えたことに対する驚きと怒りの感情を抑えられないことによって、暴走を始める。そしてその暴走を解決するのは、アナとの和解と愛の確認。
アナ(上機嫌、幸福感)、エルサ(不機嫌、怒り)のせめぎあい。
男性も女性も、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」がなくなって自由になった反面、理想像が見えなかったり高すぎたり、難しい時代だなぁと思ったり。
以下メモ
・今はポストフェミニズム
フェミニズムは終わり、法的には男女の平等が達成された時代。ポストフェミニズムでは女性は「完璧である」ことを求められる」。同様に男性も完璧を求められる。
・弱者男性論
フェミニズムが主流になり、男性の権利がはく奪されている。
・ジェンダー
男女は自然に分かれていて、社会における様々な役割の差もそこから出てきている、に反論する立場。
性差は社会的に構築されている。
・男は黙ってサッポロビール、から、仕事でも家庭でもコミュニケーションが求められる時代に。
・障害の社会モデル
障害は人間ではなく社会の側に存在する。
車いすで登れない段差があった場合、「障害」は段差を登れない人間の側にあるのではなく、段差そのもの、もしくはその段差を除去できない社会の側にある。
・学習社会
終わりなき成長。人間の能力は常に更新され続けるべきものであって、引退して隠遁生活を楽しむのはおろか、そもそも人間の能力が「完成」されることは不可能。