・私が井原忠政「三河雑兵心得 足軽仁義」(双葉文庫)を 読まうと思つたのは、内容ではなく純粋に言葉の問題であつ た。つまり三河弁である。三河弁の使はれた小説は、あることはあるのだが、ほとんど知られてゐない。本書の主人公は三河の雑兵である。時代は三河国一向一揆の頃、舞台は西三河、家康がまだ岡崎にゐた、ごく若い頃のことである。しかし主人公は植田村の人間である。植田はウエタと訓む。現在の豊橋市植田町である。渥美半島の根本にあたる地区である。ここの人間ならば三河弁、それも現在の豊橋方言あたりを使ふ。西三河とはよく似てゐるが少し違ふ方言である。それがきちんと書かれてゐるのか、これに興味があつたのである。結論から言へば、 本作品の登場人物は決して三河弁を使つてゐない。例へば、巻頭喧嘩の前の場面、「やれるだ けやれ。駄目なら駄目でその時だら。」「兄ィ、来たら」(8頁)、主人公茂兵衛と弟の言である。この「だら」「ら」の使ひ方がよく分からない。駄目なら駄目でその時だといふのなら分かるが、そこに推量の助動詞「だら」をつけると分からなくなる。弟の「来たら」も同じで、来ただけで分かるのに、そこに「ら」をつけるから分からなくなる。少し先の「コケにされた俺が悪いんだら」(10 頁)も同様で、すぐ上に「俺も 分かってるよ。」とあるからには、俺が悪いと断定すれば良い。それなのに「だら」を使ふから分からなくなる。この人の「ら」「だら」の使い方が大体をかしい。私達が現在普通に使ふ意味ではなく、むしろ断定の 「だ」に近い意味になつてゐる。「兄ィ、来ただ」と言へば 三河方言である。その前に「三人もおるがね!?」(9頁)と ある。をるはゐるである。今も使ふ。「がね」は西三河方言でもあるらしい。東三河では使はない。この先、「がね」はいくつも出てくる。西三河の人間が 使ふのは良い。「たァけ!」 (10頁)もまたこちらでは使はない。たわけは尾張方言であらう。私達はアホは使はず、たわけも使はず、馬鹿といふ。ここにも三河と尾張の混同が見られる。結局、作者井原忠政は三河の人間でも、愛知県の人間で もないのは明らかで、そんな人 間が分かつたやうな気になつてこれを書いたのかもしれない。 見事にまちがへてゐる。愛知県でも、尾張は尾張、三河は三河、その三河も実際には東と西に分かれるのだが、この人にそれは無意味、所詮まちがつた方 言もどきしか使へない人である、と思ふ。
・私はその昔の三河方言がどうなつてゐたかを知らない。私達の使ふ方言と大いに違つてゐる可能性はあるが、それでもそれを元にして現在の三河方言ができたはずである。wikiに は、「尾張徳川家が名古屋に入る前には、尾張地方でも、三河弁に近い言語が話されていた。 しかし、尾張地方の言語が江戸時代に名古屋城下で形成された狭義の名古屋弁に強く影響され 広義の名古屋弁として一括されるまでに至ったのに対し、三河地方ではそれほどの影響を受けなかったため、幕末までには三河と尾張でははっきりした差異が形成された。」(三河弁の項)江戸に入る前は、方言としては尾三未分化であつたのであらうか。だとすれば「がね」が 東三河で使はれた可能性もある。ただし、wikiの極めて曖昧な説明では何とでも理解できる。ただ、この井原作品に関しては、特に「だら」「ら」が私の感覚とはあまりに違ひすぎる。何なら「ずら」を使ふ方が良い。「ずら」を私は使はないが、昔は推量でよく使つた。本書中、これに置き換へるとしつくり来るところは多い。とまあ、内容について触れる前に字数が尽きた。本作で三河弁を考へてほしくないといふのが私の 結論である。