三浦綾子のレビュー一覧
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ネタバレ旧約聖書の内容を一つ一つ説明するのではなく、聖書とはこのようなものだよ、読みやすいから読んでみて、という感じの著書だ。
彼女が感銘を受けたり、影響を受けたりした聖書の言葉を分かりやすく、現実と対比させながら解説している。確かに、この本を読むと聖書を読んでみようかなと思うが、聖書を直接読むよりも、もう少し平易な入門を読んでみようかな、と言う感じ。ほんとに、聖書のとっかかりとして読むにはとてもいい本だ。読んでみて、『なんだか物足りないな』『もう少し何か聖書のことを知りたいな』と思えるような、まさに著者の思う壺のような良書である。
聖書の中に、箴言(しんげん)というのがある。箴言は、長々した文書とは違って、名言とか、ことわざのようなものだ。よい箴言をたくさん胸に蓄えておくと、生き方に大きな影響が与えられるだろう。聖書が難しいと言う人には、ぜひ箴言を読んでみて、と彼女は言うようだ。箴言はわかりやすいが、これを実行するのは難しい。例えば、「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」とか、「あなたが口を開いて語るとき、その言葉は、沈黙よりも価値があるものでなければならない」とか「若さとは成長することである。何に向って成長するか、それが若者の課題である」「地味のよい土地には雑草が生える」「我々はみな、他人の不幸は我慢して見ていられるほど、気が強いのである」など。よい言葉を胸に貯えることは、金を貯える事よりも大事なことである。聖書の箴言は、880ページから920ページまでの40ページにぎっしりとつまっている。聖書の言葉にはいのちがある。決して死んではいない。私たちの心の目を開き、励まし、慰め、あるときはグサリとえぐる。箴言の著者は、だいたいがソロモン王だといわれる。ソロモンはダビデ王の息子である。ソロモンは神に願った「私は小さな者です。しかしあなたの民は数え切れぬほど多いのです。それゆえどうか、私に聞き分ける心を与えて、民を公平に裁かせ、わたしに善悪をわきまえることを得させて下さい」。日本の大岡裁きは、このソロモンの話がネタではないかと思うほど酷似しているという。
キリストが現れたのは、人は罪を犯さずには生き得ない存在であり、その罪の責任を取り得ない存在だからである。わたしたちは罪を許されかつ罪より救い出してもらうより仕方が無いのではないか。生きているという事は、人を傷つけていると言うことだ。何人といえども、未だかつて人を傷つけることが無いといえる人はいない。心の中で始終人を裁いている存在なのだ。その心の冷え冷えと冷たく、なんと冷酷なことだろうか。ヒルティは、その著「眠られぬ夜のために」の中で、「人を愛そうと思うのなら-そしてこれこそ、どんな人間教育にも必要なことなのだが-裁くことをやめなければならない」と書いている。
旧約にせよ、新約にせよ、聖書と言うものは自分の生活の中で『自分ならどうするか』『自分はどうすべきか』を問いつつ読むべきものであろうと思う。 -
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ネタバレ三浦綾子氏の自伝の第3部である。
自伝というよりは、題名が示すように、キリスト教のすすめ的な読み物である。牧師ではない彼女だからこそ、そして、非常に苦しい思いをし、キリスト教など誰が信じるか、といっていた彼女だからこそ書けること、説得力がある信仰入門が書けるだろうとということで、書いてみたということだ。確かに、あいまいな部分は多いように感じるが、読者が少しでもキリスト教に興味を持ってくれればよいという彼女の思いは十分に伝わっているのではないかと思う。
泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか。という問題がある。教会の牧師は、悪口の方が罪深いと言った。大事にしていたネックレスが盗られたとしても、それは、高価なものだ、惜しいことをした。記念に彼にもらったものなのに、残念だ。という、痛み程度に留まるだろう。泥棒に入られたため自殺した、という話は聞いたことが無い。だが、人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時々聞く。私たちが何気なく言う悪口は、人を死に追いやる力があるのだ。泥棒などのような単純な罪とは違う。もっとドロドロとした黒い罪だ。人を悪く言う心の中に渦巻いているものは何か。敵意、ねたみ、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、悪口、陰口となって現れるのだ。この世に、人の悪口を言った事がない人はいないに違いない。それほど私たちは一人残らず罪深い人間なのだ。私たちはその罪深さに胸を痛めることは甚だ少ない。罪を罪と感じないことが罪なのだ。
偉大な科学者ほど、神を信じると昔から言われているが、それは科学を究めるに従って、人間の有限性を知り、人間には知りえぬ世界の多いことを知るからであろう。
罪とは、ゆるしてもらうより仕方の無いものだと思う。一体どうしたら神は許してくださるのか。多少その罪に見合うだけの捧げ物をしたら許して下さるのだろうか。だが、人間の命が地球より重いように、人間の罪もまた地球よりも重い。私たちはいったいいかなるささげ物をして神に謝るべきなのか。私たちが死んで詫びたとしたら許されるだろうか。が、人間の命をもってしても帳消しにならないほど罪は重いことを聖書では示している。ここにきて、私たち人間は、罪の前に全くの無力であり、人間自身ではどうにもならないことを知らされる。しかし、それ故にこそ神は神の子をこの世に使わされたのだ。神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。と聖書は宣言する。つまり、神の子は十字架にかけられて、全人類の罪を、神の前に詫びるために、この世に来られたのだ。これがキリストへの信仰なのだ。神の子イエスは、全く潔い方であられたからこそ、私たちの罪をあがなうことが出来たのだ。これが豚や犬の命では罪は許されない。犬畜生にも劣る人間の世界では、人間の命をもってしても罪は許されない。どうしても神の子でなくてはならなかったのだ。 -
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ネタバレ三浦綾子氏の自伝の第2部である。
結婚後、雑貨店を開き、小説「氷点」が入選するまでの話。
充実した結婚生活を送りながら、小説を書き、雑貨店をきりもりする彼女は、夫に色々と話をしながら、時には反対されながらも自分の意志を通しながら、生活を送る。そんな中でも夫はキリスト教の信徒としてどう生活・行動すべきかの軸はぶらさない。ただ、キリストのみを信じ、信じたら疑わないのである。
ある時、彼女が夫のお気に入りの背広をクリーニング屋に出し、それを店員が盗んで逃げたといわれる。彼女でも誰でもそう思うと思うが、弁償してもらおうと彼女は夫に言う。その時、夫は彼女をたしなめるのである。「綾子は聖書を読んでいるか。聖書にはなんと書いてある。許してやれと書いてあるだろう。いいかい、綾子、許すと言うことは、相手が過失を犯したときでなければ出来ないことなんだ。何の過ちも犯さないのに、許してやることは出来ないだろう。だから許してやりなさいよ。弁償せよ、などとは決して言ってはいけない。」人を許し、人を受け入れることは、人間誰しも容易に出来ることではない。結婚と言うものも、二人の人間が、お互いに全面的に相手を受け入れなければ成り立たないものではないか。すべてを許しあうのが結婚生活でなければならないと彼女はその時思ったのである。
姦淫の場で捉えられた女を人々がキリストの元に連れてきたときのキリストの言葉で「あなた方の中で罪の無いものが、まずこの女に石を投げつけるがいい」と言った。当時、ユダヤでは、姦通した者は石で殺せという律法があったのだ。ここで、このキリストの言葉を聴いて、人々は一人去り、二人去りして、ついには全部去ってしまったという。本当に自分を罪ある者と思うなら、人を裁くことは出来ない。責める事は出来ない。
彼女が物を書くについて、重要なきっかけを作ってくれた牧師に、中嶋正昭牧師と言う方がいる。その方は結婚式で司式をしたが、「結婚式をしたからといって、直ちに夫婦になったとはいえない。夫婦とは一生かかって努力しあってなるものである」と言われた。また、人間は一人では生き得ないこと、夫婦だけでいくら愛し合っていても、人の助け無しには生きてゆけないこと。上のクリーニングの話もそうであるが、「聖書の言葉は、自分の問題をひっさげて読まねばならぬ」と言う。
また、五十嵐健治先生というクリーニング白洋舎の創立者も信徒であったが、彼女はその方とも繋がりもあり、貴重な手紙を頂いている。「人間は恵まれるときはいちばん警戒を要するときです。」と。徒然草に木登り名人の話が出ている。弟子が高いところに登っているときは、名人は黙って見ていた。だが、低い所に降りてきて、地上に近くなったときに、危ない、危ないと声をかけた。見ていた人が不思議がって尋ねると、危険なところでは、注意されなくても、自分で気をつける。けがは容易なところでする。というような返事であった。病人でも、悪いときは自分で大事にするが、治りかけはつい油断して、死んだり悪化したりする人がいるものだ。車も危険な山道より、直線で事故を多く出したりする。 -
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苦手な歴史小説だけど、友人の勧めで読んでみた。
細かな言葉の表現の意味がわからず、言葉の真意がわからない箇所が多いのは無知のせい。
歴史小説だけど、脚色されている分これはこれで読みやすかった。
登場人物の個性がわかりやすい。
政略結婚・人質・親兄弟間で殺しあったりとすごい時代である。
時代としては村上海賊の娘の時代が近い。
命の価値観としては、戦前の日本の特攻にも近いように感じた。
主君のために命を賭して戦う。命を賭けられるだけの人に巡り会えた人もいれば、自分の命が惜しくて命を賭ける矛盾したような人もいる。
この本の中では、敵対しているから、とか、反逆し、とか書かれているけれど、それぞれの心の内にはもっと複雑ないろんな思惑があるんだろうな。
勝ち負けもゲームみたいに単純な○×ではなくて、色んな勝ちだったり負けがあって、それは随所に書かれていた「戦わずして勝つ」っていうのも一つなんだと思う。
印象に残ったのは玉子が嫁ぐときの
「振り返ったとて、過ぎ去った日は還らない」