あらすじ
日本初のドライ・クリーニング店「白洋舎」を創業した五十嵐健治の骨太な波乱に満ちた生涯を描く伝記小説。
家の事情で、幼いころ生母と別れ、養子となり、一攫千金を夢見て16歳で家を飛び出す五十嵐健治。さまざまな仕事に就いては、投げ出すという奔放を繰り返す中で、キリスト教に目覚める。紆余曲折を経て、三越百貨店の宮中係となり、そして、日本で初めてのドライ・クリーニング店「白洋舎」を創業した五十嵐健治の波乱に富み、しかし骨太な一生を、一人語りで綴った伝記小説。網羅的ではあるが、明治・大正・昭和の主要な出来事が紹介され、一種の近現代史にもなっている。
「三浦綾子電子全集」付録として、白洋舎発行の雑誌に寄稿した本書を書き終えた感想と、『氷点』の当選祝いに五十嵐健治氏から贈られた真珠のネックレス写真 を収録!
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Posted by ブクログ
クリーニング白洋舎創業者の伝記に近い小説。さすが三浦綾子、伝記を書いても上手い。またこの創業者のなんと波乱万丈な人生か。若い時の無鉄砲さは誰しもあるが、時代が時代で食べるものもないのに無一文で旅をする。このあたりはさすがに当時でもぶっ飛んでいるのではないか。また新たに溶剤を開発するところなど、日清のカップラーメン創業者もそうだが昔の創業者の熱意はとんでもなく凄いと思う。
キリスト信者なので後半はかなり色濃く出てくるが、キリスト信者と仏教信者のこの思想の強さと一般への広がりは何が違うのかと思いながら読んだが、それは聖書という文字になって形があるかどうかの違いなのでは、と思った。やはり文字にすると訴求が強くなり、残せるので広まりにも貢献するのかと思う。
Posted by ブクログ
全くありがたいもんですなあ。一心に働きさえすれば、認めてもらえる。世の中というものは、そうそうこちらの努力に応えてくれるものとは限らないものです。こちらの真心に感じてくれるものとは限らないものです。しかし、時にそういう人に巡り合うことがある。私はどちらかというと、いい人に巡り合うことが多かった。この酒屋の主人もその一人でした。
「人間は、キリストなしでは、神の前に出ることができない。それは例えば、二階に上るためには、どうしても梯子が要るのと同じことです。この梯子がキリストですな。だから、キリスト倍者が祈る時には、『キリストの御名によって祈ります』と言うのです」 この話にも、私はなるほどと思った。人間の私共には、神に直接お話のできる資格のある者は誰もいない。祈ることのできる者は一人もいない。キリストを仲立にしてやっとお目通しが叶う。そこで初めて神に祈ることができる。それは、名刺に紹介状を書いてもらっていけば会ってもらえるのと同様だと言うのです。
そんなこんなの幾日かが過ぎて、ある朝宿の主人が亡くなってしまわれた。今正に死なんばかりの病人ではあったが、死なれた姿を見た私は、かつてないほどの衝撃を受けました。
この主人が亡くなる朝、中島氏が呼ばれて、枕もとで祈りを捧げられた。中島氏の祈りの内容は、次のようなものでありました。
「在天の父なる御織、この日まで今井兄を守り、導いてくださったことを感謝いたします。
どうか今井兄が今までに犯した罪をおゆるしください。どうか、今井兄がすべてのことを感謝して、この宿のことも、妻君のことも、すべてを神に委ねて、安心して神の御手に想うことができますよう、力をお与えください。もし今井兄の胸の中にいゆるし難き人がいるならば、ゆるし得るよう寛容な心をお与えください。妻君の上にも、親戚ご一同の上にも、豊かな御慰めがありますように、イエス・キリストの御名によって祈り上げます」
こう祈りますとな、宿の主人が、「ありがとう。ありがとう。感謝です。凱旋です」
と言われましたな。私は、人間が死の直前にこんな言葉を出そうとは、夢にも思いませんでした。結核という病気は、死の直前まで、あのように意識がはっきりしているのですな。
そのはっきりした意識の中で、自分の死を凱旋だと、宿の主人は言ったのです。
私は感のあまり、声を上げて泣きました。軍夫ながら戦地から凱旋した私です。将兵の凱旋の様を見てきた私です。こんな小さな宿を残しただけの一生と、人は思うかも知れませんが、しかしこれこそが本当の凱旋だと、私は心打たれました。社会的にどれほど地位が高く、うなるほどの財産を築いたとしても、絶望の中に死んでいくのが、大方の死というものではないでしょうか。
病気が病気なので、葬式に集まる人はほんの僅かでしたが、私はすばらしい葬式であったと、これまた感動しました。そして私は、何とかして洗礼を受けたいものと、切実に願うようになったのです。
「あんこ(若者)、お前働くところを探してるのか」
辺りを憚るような態度に、私は怪訝な思いになりましたが、まさかまた監獄部屋の周旋人でもあるまいと、気を引きしめて、「はい、探しております」と答えると、「そうか。じゃあ洗濯屋の水汲ができるか」とのこと。私は飛びつくように、「やれます。やらしてください」と、頼んだ。これが私と、クリーニング業との初めての出会いとなったわけです。のちに私は、クリーニング会社白洋舎を起こしたわけですが、神はその時既に、この道の備えをしておいてくださったのですな。むろんその時は、神のそんな深い御計らいなど知る由もありません。一時の仕事が見つかったということ、その夜の食事にありつけるということで、もう大喜びでした。
明治の頃の洗濯業というのは、残念ながら世間から高く評価をされていなかった。業者もまた洗濯業というものが、国家社会の被服経済と、どれほど重要な関わりがあるかを自覚していなかった。川柳にも、「洗濯屋近所の垢で飯を食い」などと詠まれていたほどでした。しかし私は、とにかく働く場ができたということで、喜んで男の後について、函館市蓬莱町の加藤という洗濯屋に行った。
当時の函館の洗濯店の上等の得意先は外国船でしたな。船が港を入る時、汽笛を鳴らして入ってくる。あの「ボーッ」という音が何とも言えず胸に沁みましたなあ。汽笛が鳴ると、すぐに屋根の物見台に上って行って、入港を確める。大きな鞄を肩にかける。波止場に駆けつける。孵舟に乗り移る。と、まことに目まぐるしい働きようでした。さて本船に舟が横づけになると、下って来たタラップをましらのように駆け上り、船に乗り移る。乗り移るや香や、駆け足で船室のドアをノックし、洗濯物を集めて廻る。
何しろ同業者が多いわけですから、素早く立ち廻らねば仕事を取りそこねる。幸い私はこの機敏さだけは優れておりましたから、ずいぶんとたくさん仕事を取ったものでした。そうそう、気をつけていても、急いで廻るものですから、受取ったズボンのポケットや、服のポケットに、紙幣だの、シャープペンシルだの、時計だのが入っていることがありましてな。
そんな時には、必ずきちんと返したものです。当り前のことをしたまでですが、当時の洗濯屋業界では大変珍しいこととされ、信用もついたのでした。
ところで、私の仕事というのが、実に思いもかけない仕事でした。私の毎日の仕事は、大きな箱を二つ積んだ大八車を曳いて・・・・・・どこへ通ったとお思いです?何と宮内省だったのです。私は驚きましたなあ。十カ月程前には、北海道のタコ部屋に、脅され、しごかれて土方仕事をしていたこの私が、毎日大手門から宮内省に通うのです。生涯、中をうかがうことさえできぬと思っていた皇居に、毎日通うこととなったわけです。
この私に広瀬太次郎氏が目をかけてくれた。はあ、この広瀬太次郎氏は三井呉服店…今の三越の前身ですな…の店員でした。商人だまりの中でもひときわ目立つ人でしたな。店員と言っても、今で言えば係長クラスでしょうか、時折私に本など貸してくれました。
「健ちゃん、お前、岡野の養子になる気はないかい」と言われたのです。私は、「冗談言いっこなしだよ。ぼくは五十嵐家の跡取りだしね」と、聞き流していたのです。が、主人はまじめな顔で言いました。
「近頃、お前のようなまじめな若者を見たことがない。夜の夜中まで、むずかしい勉強をしているということだが、うちの養子になってくれんかね」これが私の生まれて初めての縁談でした。ありがたい話でしたなあ。
まあ人生、いろいろなことが絡み合って、次第々々に自分の歩むべき道に歩んでいくものなのですな。もし、この養子の話がなければ、私はそのまま、少なくとも何年間かは、岡野洗濯店に勤めたにちがいありません。何しろ、毎日宮内省の商人だまりで、二時間も三時間も勉強することができる。これは大変得難い特権でした。
「では三井呉服店に勤める気はないかね。夜学に行く時間はなくとも、夜勉強する時間ぐらいはあるかも知れないから」と言ってくれた。私は喜びましてね、早速岡野の主人に申し出て、三井呉服店に入社することになった。明治三十一年(一八九八)五月十四日付の三井呉服店の辞令を、今も持っております。社長は三井源右衛門と言われましたな。食事付で日給十八銭でしたから、岡野洗濯店より、月一円近く高かったわけです。はあ、二十二歳になっておりました。
神のお計らいは不思議なものですな。岡野をやめて、宮内省商人だまりでの、あの三時間の勉強時間を失ったと、はなはだ惜しく思っていましたが、何と三井呉服店に入社した私は、広瀬氏の配下となって、またまた大手門から宮内省に出入する身となったのです。
よろしいですか、当時東京にどれほど商店があったかわかりませんが、宮内省に出入を許された商人は、極く限られた数だったと思います。それらの商店に、どれほどの店員がいたかわかりませんが、店主に命ぜられて皇居のご用にうかがうことのできた店員も、そう多くはなかった筈です。
にもかかわらず、どうしたわけか、北海道から舞い戻った、言わばどこの馬の骨とも知れぬ私が、岡野洗濯店に勤めるや否や、宮内省係に廻された。そして、養子にその係を奪われた筈の私が、三井呉服店に勤めると、またもや宮内省係となった。こんなに、二度までも大手門から出入を許された店員は、先ずなかったかも知れませんな。お陰で私は、三井呉服店に勤めていたおおよそ十年、毎日三時間ずつ、商人だまりで勉強する時間を与えられたのです。
ところで、宮内省では、呉服物及び洋品の一切を随時三井呉服店にご用命くださった。反物や布地の他に、テーブルクロス、どんすの壁掛、カーテン、紫ちりめんの幕なども、お納めするのだが寸法を取らねばならない。その度に私は、鳳凰の間、豊明殿、千種の間、御学問所などなどにも参上したものです。ま、放浪時代の生活を思うと、まことに畏れ多いことでしたな。
それはともかく、その時はまさかこの自分に、何十年かのちには、藍総製章をいただき、受章者を代表してお礼を言上する日が来ようなどとは、夢想だにいたしませんでした。むろん、私の入社を世話してくださった広瀬氏にも、これは想像のできぬことだったでしょう。
怒り狂った手紙を私に書き送った実父が、もしその日まで生きていたとしたら、何と言ったことでしょうなあ。
そうそう、自転車と言えば、自動車も私は非常に早くに乗った。日本に初めて自動車が入ったのは明治三十五年でしたな。はあ、これはアメリカ大使館の自動車でしてな、日本人が使った第一号は、その翌年の三十六年、東京府庁の公用でした。第二番目が三井呉服店で購入いたしました。幸いにも、これに私が乗せてもらったわけですが、それは宮内省係であったためです。
実父の船崎資郎は、会ってくれるかどうかはわからぬが、万一会ってくれるとしても、手ひどく叱られることは覚悟せねばなるまいと、ぬいを従えてプラットホームに下り立った。
その途端、大声で、
「健治!」
と呼ぶ声がした。驚いて声のするほうを見て仰天した。何と実父の船崎資郎が、私を目がけて走り寄って来るのです。私は驚きのあまり、持っていた土産物を取り落した。
「健治!よく帰った!よく帰った!」
父は私の両肩に手を置いて、ゆさぶりながら声を詰まらせた。
「お父っつあん!」
私もそう呼ぶのが精一杯でした。あの一瞬を、私は永遠に忘れることができません。父は近日中に私が帰ると手紙で知って、毎日のように駅まで迎えに出てくれていたというのです。
父はそういう人だったのです。激しい愛憎の持主だったのです。
ぬいを紹介すると、父はじっとぬいを見つめてから言いました。
「うん、立派な嫁さんだ。お前のように気忙しくなくて、よくできた嫁さんだ。大事にするんだぞ」
と、こう申してくれましてな。私はその言葉に、二人の妻に別れた父の深い難きを見たような気がしたものです。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」と、生犀星は詩いましたが、ふるさとは訪ねて行くところでもありますな。
今有名になった三浦綾子を訪ねる人、訪ねたい人は、うんざりするほどいる。しかし貧しく、無名の、しかも日本の北の果てに近い旭川に、病いをやしなう堀田綾子を海を渡ってはるばるたずねる見舞客はいなかった。そこへ五十嵐健治が湘南の茅ヶ崎からしばしばたずねて行ったのである。健治は東京証券市場一部上場企業・白洋舎相談役の身でありながら、しかもはじめは堀田綾子から面会を謝絶されながら、辞を低くして尋ねていった。そして彼女のベッドの傍らで、くりかえしキリストの愛を聖書を開いて語るとともに、自分の子供のころからの放浪ばなしゃ、この北海道の小様でキリストを肩じるに至った波乱に満ちた物語りを枕もとで語り聞かせた。三浦子が本書執筆のペンをにぎる時、父親が子供に寝物語りに話してくれた昔ばなしを思い出すように、健治の声がよみがえったはずだ。本書はそれゆえか、珍しく主人公の一人語りで物語りがすすんでゆく。
だれが想像しえたであろう。貧しく、無名の、この病める娘が、のち日本を代表する著名な女流作家となって、自分をはるばる見舞ってくれたその人物の伝記小説を三十年後に書こうとは。人と人との出会いの不思議さ、大切さをつくづく思う。
Posted by ブクログ
五十嵐健治、この人は偉人でありながら、心根が弱い。キリスト教に改心してからすでに10年20年たったときでも、心根が弱い。関東大震災のとき、子どもや妻、従業員を思う余裕もなくひとり一目散に逃げ出したというエピソードなど象徴的である。それゆえに、励みになる。根からの聖人だと、信仰など凡人には不可能なものと感じてしまうところがあるが、そういうところが少ない。
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白洋舎を起こした五十嵐健治の話だ。これまた、回想風に物語は進む。この手のはあまり好きではないが、著者の作品は好きなので読む。五十嵐は、飽きっぽい性格だったのだろうか、職に就くも、早いときは一時間で逃げ出した。これが、幾度も幾度もあるのだ。ただ、人を信じること厚く、逃げられたと思っても、それでもいく日も待ったりするのだった。20歳になるまでは、一攫千金を夢見て、東京に出たりしたが、これが職が続かず、逃げ出してしまうのだ。ただ、その一攫千金も、自分のためではなく、親を、母親を楽させてやろうとのことだったので、憎めないのだ。
五十嵐は、つてを頼り三井呉服店(後の三越)に入る。ここでも人に恵まれ、10年近く勤め、白洋舎を立ち上げる。日本で初めてドライクリーニングの事業を始めた。順風満帆ではなかったが、何とか事業も軌道に乗った創立10年目に目をかけていた社員に裏切られ会社の信用も地に落ちた。五十嵐は全く平静を失ったが、妻の一言で目が覚めた。「私たちは人には捨てられたが、神には捨てられない」と。
聖書をあけ、読んだ。愛する者よ、自ら復讐すな。ただ、神の怒りに任せまつれ。しるして、「主言い給う、復讐するは我にあり、我これを報いん」とあり、もし汝の敵飢えなばこれに食わせ、渇ばこれに飲ませよ。と。
人間、順調にことが運ばれてきている時の方が、思うようにならぬ時よりも危険なのだろう。思うようにいかぬ時は謙遜であり得るが、意のままになる時は自分自身の才や努力を誇って傲慢になる。そんな時、神はその傲慢を打ち砕くよだろうか。ただそこには愛があり、また、自分を取り戻すだろうことを期待しているのだろう。神はバチを与えないから。
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五十嵐健治氏という白洋舎を創立した方の自らの人生を語る小説。1877年(明治10年)生まれの若者が、無一文での各地を巡るその迫力に驚く。明治時代の雰囲気を感じることができたし、その中で群馬で、小樽で、出会った旅館のご夫妻がクリスチャンであったことから、小樽の宿に常宿される中島佐一郎氏との出会いにより救いに導かれる。その後は別人のような歩み。妻も信仰の人!五十嵐氏が救われてからの半生は正に恵みの日々、三越の使用人として宮内庁に出入り、そして独立後も三越の役員・上司たちに支えられ、白洋舎が発展していく。洗濯屋として嫌われていた職業が、近代的ドライクリーニングとして成長していくまでの歴史が克明に書かれている。爆発による大怪我、照憲皇太后のお召し物の溶融事件、支配人の離反、火災、使用人たち21名の列車事故での死、平岩棋一郎による撤去への運動など、激動の日々を守られたというその感動が熱く語られており、これは著者と五十嵐氏の信頼の強さが顕れていると思う。「氷点」で著者が注目される前から、五十嵐氏が著者を見舞い、励まし、懸賞小説当選を一緒に喜んだ!との解説には驚き。五十嵐氏の信仰に全く脱帽である。
Posted by ブクログ
安全大会で皆が神社に祈願に行こうとするのを信仰の押し付けと強硬に反対を押し通してしまう、一方、宮内省掛として皇宮に出入りして不都合が起きなかったのか、といった疑問はあるが、多くの人に愛された、助けてもらったことは、やはり魅力的な資質を持っていたのだろう。波瀾万丈の人生が心に残った。2016.3.15
Posted by ブクログ
クリーニングの白洋舎、創業者の生涯。
キリスト教の洗礼を受けてからの彼の生き方に感銘を受けた。
信仰を持った者の優しさ、強さを感じた。様々な困難も強い信仰心で耐え、前へ進んできた。その姿に見習うことは多い。