高橋源一郎のレビュー一覧
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マイノリティは同情を得やすい。マイノリティを責めることは批判されやすい。「イジメられる方にも責任がある」と、声高に叫ぶことは憚られるが、それだってマイノリティを責める結果になってしまうからだろう。「イジメられっ子」は同情されているわけだ。
「悪」とはなにか。本書の中には明確な答えは書かれていない。「解説」の中で中森さんも述べているが、本書で語られているのは「悪」であって、悪ではない。「そもそも」のところで、「悪」とは何なのか、答えは明確ではないのである。その答えは読者それぞれが出すことを求められている。
考えてみると、「悪」とはマイノリティではないか。たとえば『アンパンマン』という作品には「バイキンマン」という明確な「悪」が設定されている。それは「アンパンマン」や「ジャムおじさん」、さらには「カバオくん」といったキャラクターたちが営む平和な世界を害そうとする存在である。しかし、その計画は「アンパンマン」ら「正義」によって、いとも簡単に「潰される」。
『アンパンマン』は、一部エピソードを除けば、圧倒的に「正義」の戦力は大きい。「バイキンマン」=「悪」はマイノリティである。「バイキンマン」は被害者、と見ることもできるのではないか。もちろん、「バイキンマン」にはそうなってしまう責任もあるのだが。
「悪」とは何か。本書を読んで、そういった思索に思い巡らせて欲しい。
【目次】
「悪」と戦う
魔法学園のリリコ
解説 文学にとって高橋源一郎とはなにか 中森明夫 -
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吉本隆明は『言語にとって美とは何か』と『共同幻想論』を読んで、それで終わってしまった。あまり熱心な読者であったわけではない。『言語にとって~』の方はさっぱり分からなかった印象がある。
この本は、高橋源一郎が語っているということで購入。タカハシさんが吉本隆明にそれほど心酔していたとは知らなかった。どちらかというと批判的かと思っていたのだが。
この本は、共著で講演を文字に起こしたもの+対談をまとめた形になっているが、やはりこの点のテーマでは対談ものは避けた方がいい。自分が吉本のことをあまり知らないこともあるが、何かの意図が成功しているようにもやはり思えなかった。
タカハシさんは吉本を語るにしても単著で出した方がいいかと。 -
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よい文章とは何かという問いに、この本ははじめから答えを言っている。綺語を弄した文章ではなくて、誰かに伝えたいと思って腹の底から出た言葉だ。
技術論というよりも心構えの書。「文章教室」と銘打っているが文章読本にありがちな必読リストは無く、あまり美文という訳ではない文章が範として引かれる。文字を知らなかった老婆が必死に学んで残した文章であったり、はちゃめちゃなパロディ小説であったり、労働の中で書く文章であったり、ぼけつつある人が書き残した文章であったり、美しいと言うよりも、どちらかといえば重点が置かれているのはもの凄い文章の方だ。中にはジョブスのスピーチもある。
書き口は語り口調で馴染みやすく、大切なことは何度でも繰り返しているため判りやすい。 -
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書店でみかけて、その場で買った本はひさしぶりだ。あの災害のあとにのぞいたものを、圧倒的な新しい日常の力に流されてしまう前に、考えておきたという気持ちが私にもあったからだ。
その意味ではたしかに役にたった。加藤典洋の「死神に突き飛ばされる」や、ジュネの「シャティーラの4時間」など、貴重なテキストを知ることができたし、それらをつなぐ著者の言葉が、読者にいろんな脱線を許す感じなのもいい。
しかし、最後まで読み終えて、何かが足りないという感じがする。最後の章で著者が語っていること、「自分」から出発しないこと、言葉をもたない存在を起点において語ることは、とても大事なことだと私も思う。しかしこの結論にたどり着く前に、もう少し回り道が必要なのではないだろうかと感じるのだ。
あの災害の直後、ほんの一瞬のぞいた社会の深い裂け目、そのなかに見たものは、ひとによって、おそらくまったく異なる姿をしていたのではないのだろうか。同じ言葉を使っていても伝わらない、共有できないほどに。「非常時」という言葉を、私だったら使いたくはないが、言葉の危機には、そういうことが含まれていたのではないだろうか。その裂け目をすばやく被いつくした、共苦共感を強調する言説。その圧倒的な力に、言葉はどう加担したのだったか。それは、かならずしも政治家やマスメディアの問題だけではなかったはずだが。うつくしい言葉、ここちよい言葉をさがす作業も大事だが、言葉の作用をもうすこし批判的にみつめる作業を欠いてもならないと思うのだ。 -
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62点。読み終わってみてまったく面白くなかったので、半ば言い訳的に「読んだ時代が悪かったな」と時代のせいにした。
リオタール的に言えば、ポストモダンとは近代を支える「大きな物語」や「深さ」が消え、「小さな物語」や「表層の戯れ」が優位になるモダン後期だ。
まさにこの本が出た80年代の日本はポストモダンや現代思想ブーム。しかし、そもそもモダンがなかったのもあって90年代後半からどんどん廃れて今や「現代思想ってなんだったの?」みたいな。ただのフランス趣味かよ、みたいな。
この作品を支持してた人ってまさに新左翼からポストモダンへ的な知識人層じゃないかと思う。近代的な人間観の終焉とかデカルト的な理性中心主義批判を叫ぶような。
つまり、それまで一般的だったマルクス主義的な知がいよいよ限界を迎えてきて、体系的な記述を着実につみかさねていく従来の思想観からすれば、「は?お前ふざけてんのか」と思われそうな脱体系的作品はマルクシズムどっぷりな人には、斬新で魅力的だったのではないか。
反小説的とか脱小説的とかいっても今さら新しい何かは感じない。しかもポストモダン文学だって結局流行っちゃいないじゃないか。
世界文学の水準と一部では激賞を浴びているけど、共通の理解が得られない、世界水準レベルが存在しないのがポストモダンじゃないか。
加藤典洋の春樹批評は僕にはお手上げだし、この解説もちょっと意味がわからなかった。加藤先生曰く、そういうヤツは感受性に乏しいアホらしい。
現代詩的なコンテクストをもつ長編小説だっていうのはわかるけど、結局は失語症だった著者のリハビリのために書かれただけなんじゃないかとも言いたくもなった。
要はこの小説は僕にはちょっぴり、いやかなり難しすぎたってこと。