あらすじ
「3・11」以降、ことばはどう変わったのか。かつてこの世の「地獄」を表現したジャン・ジュネや石牟礼道子のことばの美しさをさぐり、詩や小説から政治家の演説まで、「2011年の文章」も自在に引用しながら、ことばの本質に迫る。タカハシ先生文章教室特別編。
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Posted by ブクログ
まだ途中ですが、とてもいい本。
文章の悪い見本として、政治家の言葉が上げられているのが、何とも言えない。なんていうか、彼らの言葉には本当がないんだなあ。。
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タイトルの「非常時」であるが、直接的には大震災のことを指している。そして、非常時には「空気」に抗い、借りものでない自分自身のことばを必要とされると説く。その自分自身のことばを得るためには、そのことばの内容がどうであれ「考える」ことが必要になる。そこで、それまで「考え」てなどいなかったことに気が付くのだ。まずは非常時にあたって絶句してみるべきではないかというのだ。
実際のところ津波被害にせよ原発の問題にせよ、多くの人は自分自身の明確なことばを持ち合わせていない。これまでに何も向かい合ってきていないからだ。
そういうふうに言われるととてもレビューが書きづらいのである。
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本書の構成は次の通り。「あの日」以降のことばと「文章」についての本だ。
I. 非常時のことば
II. ことばを探して
III. 2011年の文章
いつもの高橋さんの文芸批評のようにいくつもの文章を選んでいる。『文章教室特別編』などという副題も付いている。それでもいつもと違ってより慎重にさらには必然性を持って選ばれているように感じる。ジャン・ジュネのパレスチナ難民キャンプでの虐殺現場を描写した「文章」や『苦界浄土』に書かれた「文章」は強い印象を与える。
もちろん、本書に書かれた文章は大震災の後に書かれている。そして、比喩的に取るべきなのか字義通りに取るべきなのか、やや不明であるがこう書かれている。
「「あの日」から読めなくなった文章があるということだ。
「あの日」までは、ふつうに、楽しく、読めたのに。時には、感動したり、たくさんのものを受け取ることができたのに、「あの日」から、読めなくなった文章がある。」(P.155)
それは、アドルノが「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と書いたものと同じなのかもしれない。
そしてある種の文章が読めなくなった理由は、最後の方に書かれている。それは「死」と「死者」を突然思いだしたからだ。「あの日」のできごとは、自分が子どものとき、「死」に気が付いたときの感覚をもう一度呼び覚ますことであった。
「どの子どもたちも、ある時、「自分の死」というものを突然、理解する。いや、そのことを想像して、理解を拒む。子どもたちにとって、それが、初めて世界が不可解なものに見える瞬間であるといってもいい。その瞬間、世界はまったく理解不能なものに変貌してしまうのだ。
ぼくも、いまでも覚えている。
その「理解」は一瞬のうちにやって来た。
夜、布団の中で寝ているぼくに、その認識が、突然生まれた。ぼくは死ぬのだ。絶対的に、必然的に。そして、一度も味わったことのない、逃れることのできない恐怖が、ぼくを襲った。
朝になると、恐怖は、かき消すようになくなっていた。世界は、以前の優しさを取り戻していた。だが、夜になると、また恐怖がやって来た。そして、その度に、世界は、のっぺらぼうの怪物のように見えるのだった。」(P.189)
ああ、思い出した。
一方「考え」のないことば、あの日以降に顕在化された不自由さにとらわれ、そのことに気が付くことのないことばが溢れている。あからさまに「空気」を感じ取る機会も増えた。その中でできることは、一層「文章」と「死者」に対して真摯に対峙しようとすることだけなのかもしれない。それがことばを一時失うことになったとしても。
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周りに誉められる答え、一般的に正しいとされる答えを言葉にすることは、日常の余裕のあるときにはとても良く響く。だが、非常時には何一つ響かない虚しい言葉になってしまう。なぜか。正しいとされる答えは、「その時その人たちに」必要なものを何も宿していないから。
自分を決して裏切らない、自分の中にある正しい答えを見つけ出し、結果に拘らずそれを行動にすること。それが考えるということ。
その行動に宿る心に懸けること。
一般的な正しさに生きず、自分の偏った正しさに生きることができるか。難しい…
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これこそ賢い思考というのだろう。3.11の前後の世界の変容を言葉を手掛かりにして読み解いていく。「ことばを探して」の章から抜粋します。「自由のない文章、想像力に欠けた文章、考えるということを嫌悪し、ただいいたいことだけを連ねた文章・・・。(中略)ぼくたちは、ぼくたちを囲んでいる文章の正体を知っておく必要があるのだ。」
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震災後、社会は変わった。社会というか、著作に書かれているように空気が変わった。
震災といえば、まだ311である。
あの衝撃は、以後の地震災害を未だ凌駕している。
音に出すのを慎重になった言葉、単語自体もいっぱいあった。言葉にならない、言葉が出てこない、まさに絶句した時間も長かった。
それは、死者やその身近にいる人びと、渦中にいる人の立場、心情を想像してだったと思う。
電力の大消費地である東京に住んでいる罪悪感も大きかった。加害者のような気持ちだった。
読後、この著作の内容を私は受け止められてない、ざわついた気持ちで、再度、ランダムに開いては読んでみた。
非常時、まずは自分を見つめる。足元を見つめる。
こだまのように、誰かの発言を周りに、次につないでいく。その結果、私も色んな文章を聞くことができているのだ。
考える。反射で答えない。
前を見る、上を見る。でも、その前に足元を見る。
Posted by ブクログ
誰が書いていたのか
思い出せないけれど
2001年のアメリカでの同時多発テロ事件の
後では「言葉」と「世界の見方」が
変わったと書いていた文章を思い出していた
まして
髙橋源一郎さんがこの一冊のタイトルになっている
2011年の3/11の時は
この日本という国で起きた出来事
まさしく「非常時のことば」である
この一冊の中で
紹介されていく
石牟礼道子さん
ジャン・ジュネさん
加藤典洋さん
川上弘美さん
内田裕也さん
ナオミ・クラインさん
太宰治さん
山之口獏さん
リンカーンさん
堀江敏幸さん
鶴見俊介さん
まどみちおさん
…
その言葉、文章の数々が
「絶句」してしまった人の心に
波紋が広がっていくように
沁みわたっていくように
思いました
答えが無いことを考え続ける
自主規制。空気を読む。考えることを放棄する。それが楽。でも。
イスラエルの戦闘地域で、ジュネが夥しい数の死体を、艶めかしく書いた。その意味。
考え続けること。答えは出ないけど。
Posted by ブクログ
3.11以降、多くの文章が読めなくなったと著者は言う。
それは、「死者たち」の存在を知ったからだと。
それから著者は、ひたすら「下」へ、「大地」へ、「根」のある方へ向かう文章、「こだま」のように「小さな」声で届けられるものを聴き取ろうとする。
今わたしたちに必要な言葉とは何か、ということを深く考えさせられる。
Posted by ブクログ
ずっと感じてた後ろめたさの中身を教えてもらえたようですごく嬉しい(というのは違うけど他にことばを思いつけない)。石牟礼道子に泣きそうになるのは想定内だけど,古市憲寿に「このかっこいい文章は誰」と思わず頁をめくってしまったのは意外というか何というか,読んでみたくなった。
Posted by ブクログ
震災後の今だからこそどんなことばが大切でどのような文章が必要なのか語っている本。探っているのは実はことばだけではなくあのあとにどんな変化が起きてそれはどういう意味なのかを問うている。
秀逸な文章に私も直に触れたいと思った。
Posted by ブクログ
ことばについて書かれた本。
『非常時のことば』というタイトルだけど、もうこの状況から完全に抜け出すことは叶わない気がする。
だからこの本に書かれた話は限定されたシチュエーションの話に思えないところもある。
「あの、頭の中が「真っ白」になって、なにもことばが考えられない時のことを、大切にするべきではないだろうか。」
という言葉が印象的。
でもずっと真っ白でいいと言っているわけではない。
私は思考を止めていたな…と思う。
何も言いたくない。
ただ話を聞くだけ。神妙に頷きながら。
でもそれは拒絶だったかもしれない。そう思った。
何も言えない。
許されない。
そう思っていた。
今もまだその考えがこびりついているはず。
まだ言葉は出てこないから。
でもこの本で、少しだけ変わったかもしれない。
本当かどうか分からないけれど、もしかしたら、ほんの少しは。
Posted by ブクログ
苦海浄土が祈祷・朗誦・音楽に似た…神様と神様2011の重ねて読んでみて…ことばのない赤ん坊なずなの味わい…読んで感じたことをなかなかことばにすることは難しいのですが、源一郎さんは、そうだそうだそうだった、そういうことだと、みんなが共感できる文章を書くことに、とてもすぐれていると感じます。
Posted by ブクログ
書店でみかけて、その場で買った本はひさしぶりだ。あの災害のあとにのぞいたものを、圧倒的な新しい日常の力に流されてしまう前に、考えておきたという気持ちが私にもあったからだ。
その意味ではたしかに役にたった。加藤典洋の「死神に突き飛ばされる」や、ジュネの「シャティーラの4時間」など、貴重なテキストを知ることができたし、それらをつなぐ著者の言葉が、読者にいろんな脱線を許す感じなのもいい。
しかし、最後まで読み終えて、何かが足りないという感じがする。最後の章で著者が語っていること、「自分」から出発しないこと、言葉をもたない存在を起点において語ることは、とても大事なことだと私も思う。しかしこの結論にたどり着く前に、もう少し回り道が必要なのではないだろうかと感じるのだ。
あの災害の直後、ほんの一瞬のぞいた社会の深い裂け目、そのなかに見たものは、ひとによって、おそらくまったく異なる姿をしていたのではないのだろうか。同じ言葉を使っていても伝わらない、共有できないほどに。「非常時」という言葉を、私だったら使いたくはないが、言葉の危機には、そういうことが含まれていたのではないだろうか。その裂け目をすばやく被いつくした、共苦共感を強調する言説。その圧倒的な力に、言葉はどう加担したのだったか。それは、かならずしも政治家やマスメディアの問題だけではなかったはずだが。うつくしい言葉、ここちよい言葉をさがす作業も大事だが、言葉の作用をもうすこし批判的にみつめる作業を欠いてもならないと思うのだ。