町田康のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
町田康さんの猫ちゃんエッセイ第三弾。
町田さんの自宅と作業部屋で飼っている猫たちのことを綴るエッセイ。
町田さんのクセの強い文章が面白く、「猫にかまけて」「猫のあしあと」と読んできて結構楽しみに読んだ今回。
何故だろう。
今迄面白く読めていたのに、今回は町田さんの文章が鼻について仕方ない。
内容としては、相変わらず多くの猫に囲まれて、呑気そうな町田さんとしっかり者の奥様とのかけ合いもいつも通り、猫との関係や付き合い方も変わっておらず、不愉快な要素はない。
それだのに、何故なのだろう。
読んでいくと、何とも言えずイヤな気持ち。
腹が立つとか読むに耐えないという程ではないのだけれど、うん、やっぱり鼻につくが一番近い表現だろうか。
あれれ、わたし何か心境の変化とかあったかなあ。
心当たりなし。
まあ、このエッセイは今後もつづくとは思うけれど、また気が向いたら読んでみたらいいかという軽い気持ちでいることにしよう。
町田さんのために言うと、町田さんは作家として忙しくされながら、捨て猫などを積極的に保護され、病気の猫とそうでない猫とを混ぜて感染させないために、わざわざ転居して猫用の小屋みたいなものまで拵えるという猫にとって大変ありがたいかただ。
元は捨て猫なので、無理に飼い主都合で可愛がったり抱きしめたりしないという、わたしも多く見習うべき飼い主の鑑とも言えるかたである。
おかしいのはわたしであって町田さんではない。
きっとまたいつか楽しく読める日もやって来るだろう。
猫ちゃんの可愛らしい写真も満載の、猫愛に満ちた一冊。 -
Posted by ブクログ
(*01)
単純に面白い、という言葉が最も似合う小説は、現代において町田氏の書くものがその先端を走っているのではないだろうか。ナンセンス、言い回しの妙などからこの文字の笑いをいくらかは解説できるのかもしれないが、どう解説しても難解にはなるだろう。
一言主の神については以前に読んだ事があったが、そのほか2000年代前半に書かれた6つの短編については初見であった。赤塚不二夫から漫画太郎氏まで引き継がれているような擬音のギャグを文で描写した様な節もあり、もちろん落語や文学の特異な言い回し(*02)の援用のほか、今回読んだ限りでは星新一の皮肉でブラックなショートショートが生活感に塗れて立ち現れた様な感じもしてしまった。どれもやはり遠い喩えにしかならないのではあるが。
(*02)
言葉の順列や組み合わせとも言えるが、語単位に分析した時に、通例で使用されれば何でもない語を、違う列や文脈にある文例に、韻やリズムを整えながら、挿入したり置換したりして、面白くさせているというのはある。しかし、大喜利のセンスに近いものがあるが、素人がこの方法で文章を綴ろうとすると、意味的で物語的な作用を起こしてしまう。講談社文庫版の解説で松岡氏が指摘しているのはこのあたりの事情であり、意味作用や物語作用が現われないように暴力的に言い回す、というところに著者の文体の魅力はある。 -
Posted by ブクログ
ペット飼育未経験者が読むと、ふたつの理由から疎まれる可能性が高そうな作品。
闘病生活の生々しさ。猫飼い特有の、猫中心の生活の自虐。
でも、今作はそれが正しい姿に思われる。
なぜなら、安易にぬいぐるみ感覚で飼われて飼育放棄される動物が一匹でも減れば、この作品を書いた意義になるだろうから。
作品のマイナス点は、文体のくどくどしさ、推敲の荒さが目立つ文体だ。
か、句読点の打ち方が雑で、一文が8行に渡る文があった。これを適宜に切断して、「というわけで」を削除するだけで割と読みやすくなるはずだ。
おそらく、原因は看取り終わってから書く、という執筆スタイルだろう。
素人のブログなら及第点だけど、著者が兼業作家のため、総合点は星3つ。
話の内容に対する感想。
動物愛好家としては、当てレコが愉快だった。飼育経験者のあるあるネタ。
突飛な発想と、東川篤哉さんのような仰々しい文体がユーモラスでよい。
人間の衣食住を犠牲にして、病気の猫を看病する描写が痛々しかった。
私の飼育に対する考えは、著者とは異なっている。獣医も匙を投げる病状の時は治療方法を探して延命を試みるよりも、闘病を諦めることで苦しむ時間を伸ばさない方が好ましいと考えている。生きる時間の長さよりも、猫にも羞恥心はあるのだから、恥をかかせるのは気の毒、とも考えている。
だが、著者の選んだ道が誤りだとは思えない。なぜなら、闘病・延命派の飼い主が多ければ症例が増えて、動物への医療技術が進歩する可能性があるからだ。
この本は、骨身を惜しまず、金銭と時間を猫のために費やした詳らかな描写と、数枚のスナップ写真。猫への溢れんばかりの愛情が感じられる一冊だ。 -
Posted by ブクログ
怖えええ。こんな怖い町田康、読んだことない。
ある日突然送りつけられてきた謎の短歌を、雑誌の原稿に無断で引用した作家・糺田。糺田に短歌を書き送った張本人である小角と、小角に協力する美女・未無。
短歌の無断引用を理由に、糺田は小角と未無にどつきまわされるのであった。
って言ったら、町田作品に親しんできた人は「ああ、この糺田とかいう奴はヘラヘラふにゃふにゃその日暮的な日々を送っていて、大方今晩の酒代に困るとかして盗作に及び、その報いを謎の男女から受けるに至るのだろうな。それはもうズタズタに。ボロボロに。はは、おもろ」なんて頭の中で町田文体っぽく思ったりするんじゃないかなと思う。と云うか、私はしました。
自らの怠惰や見通しの甘さから、努力はすれども報われなかったり、そもそも努力の方向性が世の慣習から大分ズレていたりする主人公たちなら、これまで何人も見てきた。
彼らは肉体的にも精神的にもハードな目に遭う。ハード、って簡単に言うけどそこはそれ、作者の想像力に裏打ちされたハードさなので、もう、えらいハードである。
しかし、我らが主人公たちは、いかなるハードにも意外と負けなかったように思う。
例えばプロレスなんてまさにその最たるものだと思うんですけど、やれバックドロップだジャーマンスープレックスだエメラルドフロウジョンだって大技が炸裂して、その度にお客は大盛り上がりする。レフェリーがカウントをする。食らった側が必死で起き上がる。お客どよめく。こうして益々高まってゆく興奮状態と云うのは、「受ける側」のタフさの賜物なんじゃないかなあ。
これと同じようなことは、どつきまわされ系主人公たちにも言えて、我々読者は主人公の受身の上手さを前提として、彼に降りかかる数々のハードを楽しんできたのではあるまいか。
長々書いたけど、『人間小唄』はそういう小説じゃありませんでした。
酷い目に遭う側ではなく、遭わす側視点。
天誅であり革命でありテロル。うわ怖えええ。