伊藤亜紗のレビュー一覧
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68 読者を行為させる 装置
74 ヴァレリーにとって詩とは「詩として表現された…生理学的生」
「創造的誤読=読みの複数性」は「不可避の副産物」にすぎない
109 反復や同化
「他者と同じ状態になる」という私たちの衝動が、コミュニケーションの可能性を作っているとヴァレリーは考えている。
130 詩をつくることは詩
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ヴァレリーにとって注意の本質とは、注意の対象と注意のシステムの分離不可能性に、より単純に言い換えれば、注意の対象と注意する主体の分離不可能性にある。初期の『カイエ』で、ヴァレリーはこの分離不可能を「対象の受肉incarnation」と呼んでいる。
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リズムとは、ある列の模倣可能な特性である。模倣可能であって理解可能ではない。
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伊藤亜紗の「利他」についての概論が一番よかった。
なぜ今、「利他」なのか、ということが、まず知りたかったので、ジャック・アタリの合理的利他主義や効果的利他主義についての説明がありがたかった。
中島岳志のいう「利他」は合理的利他主義とは違い、湧き起こるものであること、親鸞のいう若松英輔の「利他」は民藝の文脈からの「ウツワ」にその本質を見出すものであった。特に中島岳志に関しては、意外。ここだけではわかりにくいので、中島岳志の「思いがけず利他」もこの後読んでみようと思う。
國分功一郎の言う中動態がなぜ「利他」と繋がるのか興味があったが、なるほど「義」がそうであったか。つまりはやむに止まれぬ、湧き起こる気持ちとしての「利他」を語るには中動態で説明できるということだ。
これは腑に落ちた。
自分の中に訪れるものを受け取るということ。
中動態は依存症や同調圧力に屈するような、自分の意志を超えてしまうマイナスの面ももちろんあるが、こういったプラスの面ももちろんあるのだ。(中動態はプラスもマイナスも無いので当たり前なのだが)
「利他」の「意志」を中動態で捉えると、中島岳志のいう「利他」と相通じる。そう考えると、納得できる。
(でも、中動態の説明は難しかった…。)
磯崎憲一郎のいう「利他」は文学の書き手がいざなわれる「利他」について。
いずれも、人間は「ウツワ」であり、「意志」は自分が作るものでなく、向こうからやってくるものだ、というのが彼らの「利他」の考え方だ。
それぞれのアプローチで「利他」が書かれているが、読み終わってもなお、世に広めるのは、最初に紹介された合理的利他主義、効果的利他主義でいいじゃないかという気持ちは変わらないな。
まずは、それで動こうというコンセンサスをみんなが持つ。情けはなにより自分のため、でいいではないか。
そうでなければ、間に合わないくらい、今世界はのっぴきならない状態にあるんじゃないかと思うのだが…。
ジャック・アタリのいう合理的利他主義「情けは人の為ならず」でないと、現代社会に届かないと(私は)思う。
「利他」とはそうではない、という彼らの主張の方が正しいのか見極めたい。
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「ふれる」と「さわる」の違い、手や触感で感じることについて。
人間は視覚に頼りがちで、動物的なイメージから五感の中でも下の方とと見なされているが、実際はどうなのか?ということを作者は様々な方にインタビューをして、掘り下げていく。
全盲の方、目の見えない人の隣で伴走する活動をされている方や介護の現場で働く方など様々な視点を入れながら、本当にさわる・ふれるというのは意外と複雑な構図から成り立っていることをまとめている。
面白かったのは作者も実際に目隠しをしてベテランの伴走者とランニングをした時、ロープで目の見えない人と伴走者を繋げるのだが、2人の息が合ってくるとお互いに走りやすくなり、走り終えてもすっきりした感覚になるらしく、それが不思議だった。
逆にロープを通じて様々な感情や思ったことが相手に感じられてしまうので、ネガティブな感情や緊張を感じてしまうと疲れやすいというのも面白かった。
様々な構図を図式化されてとても分かりやすく、コミュニケーションには信頼が必要、などが分かった。
英語では”touch”という言葉のみだが、日本語は触れると触るの2つが存在すること、そして無意識にその2つの言葉を自然と使い分けていることが印象に残った。医者が「体にふれる」ではなく「体をさわる」の方を自然だったり、逆だと生々しく聞こえてしまう。
普段から目で見ているスポーツを別の方法で体験してみる研究の話も面白かった。スポーツ全般は視覚的に捉えていることが多いが実は体験してみたら全然違うところを意識していることが多いのかなと思った。
後半の方がエピソードなどが増えて面白く感じた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレいい試みの一冊だった。
障害者と健常者の違いをハンデと称し、その差を埋めて同じにすることを平等とする、そんな一般認識に一石を投じる。「同じ」にすることを強調するのでなく、「違い」に注目する。注目するだけでなく、その違いの先にさらなる可能性を見出そうとする試みが、明るい!
本書では視覚障碍者を取り上げる。視覚障碍者によるスポーツは
「私たちの多くがいつもやっているのとは違う、別バージョンの「走る」や「泳ぐ」」
だという。さらに、
「それを知ることは、障害のある人が身体を動かす仕方に接近することであるのみならず、人間の身体そのものの隠れた能力や新たな使い道に触れること」
と考えることがすごい!見えないことで発揮される他で研ぎ澄まされる感覚を「能力」とする発想が前向きだ。
その発現をルールの定められたスポーツの場に求める。そのルールは敵味方とも平等だし、ハンデではないのだ。なんなら、その同じルールの下で、つまり、「視覚を使わない」という“ルール”で視覚障碍者も晴眼者も同じ土俵で戦えばいいのかもしれない。
そこまで本書は突っ込んでないけれど、究極はそういうことじゃなかろうか? 条件さえ満たせば、ブラインドサッカーにJリーガーが完全目隠しして同じピッチに立つということだ。それが究極の平等なのかも?という可能性を垣間見せてくれた。
ブラインドサッカー、水泳、陸上、ゴールボールのパラリンピック選手との対話がメインの本書。視覚に頼らない「能力」を有する彼らの発言が実に前向きなのが何より素晴らしい。彼等には我々に見えていないものが見えている。
スキルを高め、判断力を磨くために、ブラインドサッカーの、つまり視覚に障碍を持つ加藤健一選手が、
「視野を広く持ち、次にどうなるか予測を立てておくことが必要」
と言ってのける。これに快哉をとなえずにいられようか。天晴だ。