橋爪大三郎のレビュー一覧
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ネタバレ「”不倖せの再生産”は避けようと、心の奥底で誰もが感じている」と説く。言い得て妙な表現です。
今、感じる。やっぱり息苦しい、ちょっと違う、なんかずれている、どうして責められるの、どうすればよかったの、ちょっとした不満が重なって積もって沈んで…。自分の中に潜む”こうではない”社会。
「働き方改革は正しくない」と説く。8時間以上働きません、勉強しません。そんなことをしていると、使い物にならない人材ばかりになる、と。たぶん、その通りかな。量が質を凌駕するではないけど、制限してはいけなかったと、この歳になって感じる。
「カタカナ語、絵文字は知的堕落だ」と説く。二言もありません。反省です。
「ノブレス・オブリージュが欠けている」と説く。ひっとしたら、誰もノブレスでないかもしれない。あるいは、ノブレスに含まれているかもしれない。もしノブレスならばすべきことがあるのでは、と、感じる。 -
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俺の中での賢人2人の対談。今後の読書へのヒントが沢山あった。しかし2人は博識で、なんでも知っている。良くまあこんなに知ってるなと思うし、橋爪さんなんかはまたそれをどう分かりやすく伝えるかという点に注力しているようで、流石と思った。核融合発電や中国の宇宙での優位性、宇宙法の話、色々な分野で幅広く勉強していかないと将来を予測する事なんて出来ないよな。外務省が極右勢力というのは面白かったし、なるほどなと思った。しかし世界で活躍する外交官は本当にスーパー能力者なんだろうし、海外の外交官ともやり合わないといけないし、磨かれるんだろうな。2人が教育に力を入れて、主張しているところが印象的だった。今の教育は詰め込み式で勉強嫌いの人を増やし続けてしまう構造的問題があるとの事。日本の教育システムが今求められている形に早くなるといいなと思った。
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教養とは「今まで人間が考えてきたことのすべて」だ、と言い切って、「教養」に触れることへの意義付けや誘いを行っている。よいところもあるが、引っかかるところもある。
【よいところ】
教養とはどういうものであるのかについて、著者の考えをいろいろな角度からまとめている。
・学校の勉強は答えのある問題に対して、早く解答を見つけ出す訓練であり、教養はそうではなく問題を見つけ出すものである。
・教養は教えてもらうのではなく、獲得するものである。
・すべてのものには「バイアス」がかかっていることを意識することが大事である。
・教養は、学ぶことそのものが目的になってもよい。
・本というものは、自分がどう読むかによる。正解はない。
【よくないところ】
上に挙げたようによいところはあるのだけれど、個人的な意見ではあるけれども疑問があるところというか、賛同できないところもちらほらと。
① ネットに対するバイアス
「ウェブは、噂話のかたまりです」と一刀両断するというのはあまりにも新しいものに対する受容性がない。内容の信頼性が課題であれば、それを高める方法を見つけるべきであり、またその方法はいくらでもある。
「権威にもとづかない(出所がはっきりしない)ようなことは、議論に組み込むべきではない」というのは一方的で、あまりに読者のことを信頼していない。さらには「本による「学び」と比べると、ネットによる「学び」は、がくんと質が落ちる。そもそも「学び」にもなりません」とまでいうのは明らかにおかしい。
また紙の辞典を強く薦めているのだけれど、百歩譲ったとしても辞典に関しては明らかに電子の方が優れている。検索性、リンク、携帯性、共有性。辞典こそ電子化にもっとも向いているといえる。ネットというだけで拒否反応を起こしているようでいただけない。
警鐘を鳴らすのはよいのだが、あまりにもバイアスがかかっている。すべてのものにバイアスがかかっていることを意識すべきだと言うからには、自分にもそのことを当てはめて考えるべきだろう。
② 本にかける覚悟
著者は次のように書く。
「本と、ネットの文字情報は、違います。本は、どれも、著者が覚悟を決め、時間とエネルギーを注いで、書き上げた作品です。出来、不出来はあるかもしれないが、不出来なものは、著者の能力の限界です。著者にやる気がないわけではない。だから本を読めば、著者の思いが伝わってくる。それに感応して、ぶれない思いで、本から「学ぶ」ことができる」
なるほど、それはとてもわかる。でも、この本自体が手間を省くことを想定した語り下ろしであることがあとがきでわかってがっくりした。語り下ろしが覚悟を決めていないとは言わないが。それとも、新書は本ではないのだろうか。
③ これが必読書か
著者は必読書として12冊を挙げている。それは以下の通りだ。
■ 政治の必読書
『日本人のための憲法言論』(小室直樹)
『職業としての政治』(マックス・ヴェーバー)
『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント)
■ 経済の必読書
『経済学』(サムエルソン)
『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)
『資本論』(マルクス)
■ 社会の必読書
『「空気」の研究』(山本七平)
『上司は思いつきでものを言う』(橋本治)
『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(宮台真司)
■ 歴史の必読書
『聖書 聖書協会共同訳』(日本聖書協会)
『言葉と物』(ミシェル・フーコー)
『げんきな日本論』(橋爪大三郎、大沢真幸)
いくら何でも統一感がなさすぎないかと。政治と経済はわかる。社会と歴史はそれはないのではと思うのだがどうだろう。聖書は歴史なのか。自著も入れているが、いくら何でも厚顔な気も。また、教養ということをいうならば、少なくとも自然科学と文学のカテゴリも入れるべきでは。そのときは『種の起源』は入れてほしい。聖書を入れるのであれば。
また、「古典の解説書」を読むべきと何度も書いているのだから、もし必読書を挙げるのであれば著者が考える適切な解説書を挙げるのが普通だろうとも思うのですが。
④ これは ジョークなのか
最後を締める言葉が何と「あなたもそんな、2チャンネルの生き方をしてみませんか」。あれだけネットをくさしておいて、これはジョークなのか。もちろん「教養がある人は、ラジオ局で言えば、AM放送のほかにFM放送のチャンネルを持っているようなものです」とその前に書いているので、ジョークでないというのであればそのことだというのはわかる。でも、その譬えもあまりにもできがよくない。そもそもこの本のターゲットがどの層なのかわからないけれども、AMとFMとやら何のことやらわからない人も今ではたくさんいる。そもそもAMとFMを持ってチャンネルとは言わないし、複数のタイプのインプットというのであればAMとFMはあまりにも似すぎている。「日常のやりとりは、雑音にかき消されがちで、AM放送」と書くが、いまはたいていはradikoでネット経由で聴くのだよ、たぶん。そういうことも含めて現代においては教養というのではないのだろうか。
⑤ そしてこのタイトル
『人間にとって教養とは何か』というタイトルはあまりにも大仰すぎないか。このタイトルを付けるのであれば、語り下ろしにするべきではないのではないか。この内容だと『私にとって教養とは何か』くらいな気がするのだが。
【まとめ】
以上、後半はちょっと遊び心込みなのでご容赦を。ちょっと引っかかるところはぽろぽろありつつも、語り下ろしなのでこれくらいかな、と。 -
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教養とはなんぞ?
と悩んでいたところに出会った一冊。
ざっくり読んだ後の感想は
教養とはこの社会に対してバランスよく知識を持ち、自分なりの考えを持てることなのかなと。
このバランスよく、というのが難しい。
教養を身につけようと、古典作品の解説書を読んだとて、解説者が偏った知識や考え方を持っていると、必然的に古典作品の解釈も偏ってくるわけで、それに気づけないと、自分も古典作品本来の主旨ではない、偏った解説を「正しい」知識として受け取ってしまう。
それを防ぐために、良書に出会うこと(できれば原作を読む)、そして偏った知識に出会った時に自分で判断出来ることが大切。
学生時代にちょっと相談しただけで
アレとコレ読んでみなよ、と答えてくれた恩師を思い出すような本でした。
面白くて一気に読めたし、難しいから、と避けていた古典作品を読むのを背中を押してくれました。
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社会学者の著者が教養について、成り立ちや必要性や身につけ方などを読書や辞書など自身の経験などをもとに書いた一冊。
欧州で主に発展した教養について答えのない問題を解決するためのヒントを得るために小さな問題を解決することを学ぶ学校の勉強の意味や古典や辞書の読み方など様々なことが書かれており勉強になりました。
バイアスを知ることで多角的な視点を得ることができ思い込みで判断しなくなることや様々な教養を得ることで人生の質が向上することなども知ることができました。
そんな本書の中でも文学や歴史に触れることで得られるものや暗記のすることの意味や外国語を学ぶ意味やネットでの情報の取捨選択などについては印象に残りました。
本書で答えのない問題が多い社会での生き方を学ぶとともに楽しく継続して教養をつけていく方法や様々な媒体からの取得法を学ぶことができました。
本書で学んだことを活かして自分を発展させていきたいと感じた一冊でした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ中学生でもわかるように書いたとだけあって、難しいことはなく、読みやすかった。
以下読書メモ
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・大条教は、社会を丸ごと呑みこんで、文明につくり変えました。そうした文明は現在も大きな勢力を保っています。
・死ぬということは、ものを考える「このわたし」が、存在しなくなることだ
・存在するものは、経験できる
・「このわたし」は、経験によって世界を確かめつつ、生きている。そのことは、経験的な事実である。でもその始まり(誕)と、終わり(死)は、超経験的な事実である。ふたつの超経験的な事実に挟まれて、「このわたし」は存在している。
・世界は、まったく無秩序なわけではなく、一定の法則に従っている。さまざまな出来事の起こり方には、決まったパターンがある。科学は、そうしたさまざまな出来事がどう起こるかを、合理的に秩序立てて説明する。科学は、人間の経験を整理する学問である。
・宗教も、役に立つかもしれない。宗教は、この世界がここにこうあるとはどういうことか、を考えるようにできている。その際、議論を、経験できることに限定しない。経験でないこと(超越的なこと)も、必要ならば遠慮なく取り込んで行く。死についてもっともつっ込んで、考えてきたのは宗教である。
・真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識することである。すると、それは、自然科学と似ている。自然科学も、この世界の因果関係の連鎖を、認識し尽くすことを目標にするからである。
・科学者は、一度に全体を認識しようとしたりしない。一部で我慢する。将来科学が進歩すれば、やがて自然の全体がわかるだろう、と期待する。
・人間はほんとうは、生き物ではないのだから、死ぬことはない。生まれてもいなかったのだから。人間の生死は、この世界の法則に従って起こる。その法則を体現すれば、生死を超越する。
・中国は広大な農業地帯。世界でもっとも豊かな場所だ。ただしまっ平らで、防御がしにくい。北方には騎馬民族がいて、侵入してくる。そこで、強力な政権が必要だった。
中国の農民のコンセンサスは、つぎの通りである。
1、統一政権ができて、騎馬民族を撃退してほしい
2、それには強力な正規軍を組織し、必要なら万里の長城も築いてほしい
3、そのためのコスト(税金、労役、軍務)を、負担してもよい
・カースト制は分業のシステムである。分業は相互依存なので、紛争が起きにくい。動物を殺害することを禁じている(殺生戒)のも、紛争や暴力を避ける意味がある。カースト制は、人びとに職業集団(ジャーティ=共同体)を提供し、社会の安定に寄与する。しかし、保守的で、不公平である。とりわけ、社会的威信の配分が不公平だ。カースト制の上位にあるバラモンやクシャトリヤはまだよい。もっと下のカーストや、どんじりのグループの人びとは、生きていく気力も失せてしまうだろう。社会的威信の配分が不公平だと、人びとは苦しみ、社会は病んでしまう。
・ 中国の人びとは、自分はやがて死に、祖先として子や孫に祀られると思っている。子孫がしっかりしなければ、自分がきちんと祀られるかどうかわからない。いずれにせよ、中国の人びとにとって、死者は、この世界で生きていた血縁関係をそのまま保存した存在だ。抽象的な霊魂になって、死者の国で自由に暮らすわけではない。
・その代わり、政治家に名誉を与えるのは、歴史である。歴史に名を残すことは、政治に関わる人びとにとって最高の栄誉である。人生の目的、と言ってもよい。
・歴史書は、倒れた前の王朝のことを、つぎの王朝の知識人が、調べて書くのが慣例だ。王朝を越えて、バトンが受け継がれる。それには、あとの王朝の知識人に対する、信頼がなければならない。いまの王朝を生きる知識人と、あとの王朝を生きる知識人が、同じ価値観をそなえているからそれができる。王朝が交替しているからむしろ、権力や利害のしがらみなしに、公正で客観的な判断が期待できる。義を貫き非業の死を遂げた者も、歴史に記され、歴史書のなかに永遠の命をえることになる。
・歴史は、過去についての物語、死者たちの物語である。が、それをいま生きている後世の者たちが、記憶し理解し、評価することである。生きている者たちがいなければ、歴史はない。歴史を気にするとは、自分が、後世の人びとにどう見えるかを気にする、ということだ。後世の人びとは、価値観(艦)を共有する、言わば仲間。その彼らが、死んだあとの自分をどう見るか(だけ)を気にして、自分の死それ自体から目を背けるという態度なのだ。
・ 「忠」は、政治的リーダー(とりわけ、皇帝)に対する服従、だった。「孝」は、(とりわけ、親)に対する服従、だった。中国では、忠を求められるのは、皇帝に仕える行政職員(官僚)。孝を求められるのは、血縁集団(崇族)のなかにいるすべての中国人。官僚組織と宗族とはきれいに分離しているので、忠と孝とは別々の行動原理である。
・生きるとは、何かを大事にすることである(価値)。そして、それを言葉で考え、言葉でわかることである(意味)。価値と意味は、一人ひとりの生き方である。学校では教わらない。理性からは導かれない。人びとに、価値や意味を伝えるのは、家族の役割。共同体の役割。そして、宗教の役割だ。近代になると、家族が孤立し、共同体がばらばらになる。宗教がいくつも並立する。そこで、相対主義になる。
・ 死はかならず、生きている途中にやって来る。でもそれが、終わりである。途中なのに、終わり。よってますます、死は考えにくい。これに立ち向かうには、いつ終かってもいいように生きる。これしかない。これを覚悟という。昔はひとがよく死んだ。武士は刀を差していた。女のひとは命懸けで子どもを産んだ。みんな死んだのだから、自分もいつ死んでもおかしくない、と覚悟していた。
・学問はどうか。昔は教会も政府も横暴だった。「ここに書いてあることを取り消せ。さもないと命はないぞ。」と言われた。「それならやむをえません。」と、命を奪われるひとがいた。真理がある、学問をする、とはこういう意味である。いまでも、学問にたずさわるひとは、その覚悟でものを書くのが正しい。政治も、ビジネスも、家族も、そして社会も、同じことのはずだ。死を前に動じない。自分の生き方がぶれない。これが、ほんとうの教養というものである。 -
Posted by ブクログ
うーん、思った程ではなかったかな。
でも、ユダヤ、キリストそしてイスラムの一神教、政治を重んじた儒学、そしてインドのヒンドゥー、仏教、日本に入って念仏宗、日蓮宗、そして道元の禅宗、神道…世界を見渡せば、いや、日本に限って見たって数え切れないほどの宗教が乱立し、混ざったり分離したりして、本当に訳がわからんというのが自分の感覚。
でもその中で、どの宗教でも良いから、選択して決めよう。さすれば良く生きられるというのだが。
仏陀のように本当に覚るには数億年という途方もない年月がかかるものを、どんどん省略して、最後には座禅していればもう、仏というとあるのには笑ってしまう思いがしたが、それほど人は必死に覚りたかった、自分が生きているうちになんとかしたかったんだなと、胸打たれる思いがした。
もう二十年以上、前に読んだ手塚治虫の火の鳥を思い出したな。まさにあの世界のような気がする。
一つ選択するなら汎神論か、阿弥陀仏の念仏宗がしっくりくるな。一つなのだから、念仏宗かな。