野崎歓のレビュー一覧
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ネタバレ野崎歓による『星の王子さま』(原題『Le Petit Prince』)の新訳。『ちいさな王子』と直訳されたタイトルが示すように、原著に忠実な訳文であるよう。
内藤訳との大きな違いは、本文が敬体(ですます調)でなく、常体(だ・である調)で訳されていること。理由として訳者が、あとがきにて「『できるならぼくは、この話を、おとぎ話みたいにはじめてみたかった』と、語り手自身が述べているではないか。つまり、実際には彼はそういう語り方を採らなかったのである」と指摘しているのは説得力がある。
(その他はたとえば、主人公から王子への呼びかけが、「坊っちゃん」や「あんた」から、「坊や」「きみ」とされていたり、 -
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1820年代のフランスを舞台に、立身出世を目指す貧しい木こりの子(この文庫本では、彼はそれなりに裕福な木材商の子弟とされている)・ジュリアンの野望と転落を描いた、スタンダールの小説。世界史の歴史に載るほど有名なのに、今まで読む機会がなかった。安倍政権発足以来、日ごとに高まる「反知性主義」に対抗するためには古典を読むのが一番だと思いながら書店内を散策していて、たまたま目に入ったのがこの本である。
主人公ジュリアンは実家を出て、地元有力者・レナール家の家庭教師になる。ほどなくして主人の妻・ルイーズと恋愛関係になり一線を越えた関係になるが、主人は二人の関係に疑念を持ち、レナール家に気まずい空気が流れ -
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19世紀フランスの小説家・スタンダールの代表作の後半である。パリを代表する大貴族の知遇を得ることに成功し、社交界でそれなりに名前を知られるようになり、さらにはその大貴族の娘に求婚され、立身出世の会談を順調に歩んでいたジュリアン。ところがそんなある日、以前愛し合っていた夫人から届いた手紙がきっかけで、彼の運命は大きく狂い始める…。
この巻の読みどころは、ジュリアンに執拗に求婚する大貴族の娘である。ジュリアン相手に繰り広げられる恋愛の駆け引きは、ハラハラドキドキの展開でほほえましい。だがジュリアンが事件を起こして投獄されてからの彼女の動きは、はっきり言って狂気じみている。こんな行動をとられては、ジ -
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詩的な表現を多く含んだ小説なのか、と思ったがこれは違う。
うたかたの日々は、一文一文を真に受け、作中世界の在り方に没入していかなければならないタイプの小説で、伏線や隠喩を解き明かすといった読書をする人にはこの作品の良さが分からないだろう。
我々が生きている世界では、肺に睡蓮は生えない。ハツカネズミは踊らない。わりとちゃんと働く。
だからこの小説はレアリスムではない。が、その反面、圧倒的にレアリスムだ。
世界が綿密に描かれ、作品固有の運動していく。
それを真に受けて読んだ我々がこの本を閉じる時、今読んだものがファンタジックな世界だとは微塵も感じることはないだろう。
そこには圧倒的なリアリティが -
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【コメント】
子供だった大人たちにむけて描いた物語り。
こう書くとなんだかワクワクする。
主人公と男の子が出会い、交流を通して
本当に大切なものは何なのかに気づいていく。
優しくユーモアがあり、ちょっと切なくなる
お話し。
*** 作品の時代背景
この本は著者が実在の友人のレオン・ヴェルト
に向けて書いた物語り。レオンはユダヤ人で
大戦で迫害を受けていたのだ。著者自身も
フランスがドイツに敗れ自身はアメリカに亡命
している。
そういう背景を知って作品を見てみると、
これは単にファンタジーを描いただけの
作品ではないときづく。そこには風刺
(王子が様々な星で出会う奇妙な大人たち
に対する) -
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ネタバレ何度も叫んでしまった。「ジュリヤンこのやろーーー!!!」と。
この野郎、一人の親友に恵まれ二人の女性に愛され三人の恩師に助けられ(ピラール神父、シェラン司祭、ラ・モール侯爵)多くの民をその美貌と才知と得体の知れなさで魅了し死んだ後は小説になっちゃって今でも数え切れない人間の心に語り残り続けているというのに、出世?権力?なんじゃそりゃ!人間不信にも程があるし、勘違いも甚だしい。感情に煽られっぱなし。コミュ障。KY。挙げだしたらきりがない。でも憎めないんだ。嫌いになれないんだよ。「死ぬな」って願っちゃうんだよ。愛しちゃうんだよ。君みたいな男を。君だから。だからもう一度叫ばしてもらおう。「ジュリヤン -
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この訳者は『星の王子さま』の題名の反対派。タイトルの”petit”、つまり「小さい」という形容詞を重要視しているからだ。確かに、小さな星からやっていた、小さな王子の、小さな物語かもしれない。
また、訳者は、この話の中で語り手が「おとぎ話みたいにはじめてみたかった。」とあるように、この話は、おとぎ話調、童話調ではない点を指針とした、とあとがきで書いている。とはいえ、様々な訳を読んだ中では、印象としては、おとぎ話風の印象を持った。
もしかしたら、これが訳者のいう、第二の指針とした、この物語の「温かさ」、サン=テグジュペリという人物のぬくもりの現れなのかもしれないな。