野崎歓のレビュー一覧
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(訳者解説から抜粋)
この本の表題、『赤と黒』の意味は様々な説がある。この2色に政治的、歴史的な意味があるという解釈が多くなされ、代表的なのは、「赤が軍服を、黒が僧服を表す」という説。そのほかにも、「共和主義・自由主義と宗教」の対比だとか、「情熱と死」の対比だとかいう説もあるが、いまだに真意は明確ではないのだそう。
また、上巻・下巻どちらの巻末にも英語で「To the happy few」というフレーズはスタンダールから読者へのメッセージであり、「最後まで付き合ってくださったあなたは幸福なる少数者なのですよ」という自負がみられる。
(感想)
我々の恋心、「こんな恋愛をしてみたい」という気持ちを刺激してくれる。 -
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モームの選んだ「世界10大小説」の一つ。『赤と黒』の初版本には、副題として表紙に「19世紀年代記」、中扉に「1830年代記」と記されている。
「年代記(chronic)」という単語に「この作品を単なるフィクションとは受け取るなかれ」という著者の意図が見てとれる(訳者野崎さんの読書ガイドより引用)。
『赤と黒』で描かれるのはシャルル10世の治世(王政復古期)である。王党派や教会権力(保守的勢力)vs. 自由主義勢力(改革派)という対立構造があることを踏まえておくと良い。
また、この小説は「史上初の、サラリーマンを主人公とする小説だと述べる研究者もいるくらいで、ヴェリエールではレナール氏、パリではラ•モール侯爵に雇われるが、家庭教師に雇われる前の彼の蓄え、給料を比較しながら見ると、彼の社会的な「価値」のバロメーターがわかるというわけだ。
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「フランス組曲」は構想として4部、または5部に渡る大長編になる予定だった。しかし書かれたのは第2部までである。著者がアウシュヴィッツで殺されてしまったためだ。
第一部「六月の嵐」はフランスに進攻してきたドイツ軍のあまりの進撃の早さに、パリの人々が逃げ惑う話だ。
前線の情報が入るのが遅く、遠く砲声は聞こえてくるがパリに住む人々はフランス軍がそんなにあっけなくやられるわけがないと信じていた。一刻も早く逃げなくてはいけない事態になっても、大丈夫かもしれない、とどこか信じている。正常性バイアスの典型例だ。
しかしフランス軍の敗走が明らかになり、事態がいよいよ深刻になってくるにつれて、みな慌てふためく。
労働者階級の人たちが取るものも取らず体一つで逃げている一方、ブルジョワに属する人たちは、どこか浮世離れしていて、災害から避難するくらいの気構えでいる。命の危険があるとは感じていない、そのうちに当然のごとくまたパリに戻ってこれると信じている。
第一部には資産家やその使用人、人気小説家とその愛人、ダンサー、美術愛好家など様々な人物が登場し、それぞれが今までたどった人生を丁寧に浮き彫りにしながら、これから始まる逃亡劇を逐一描写している。場面の切り替えが上手く、切羽詰まった表現に臨場感ある。この第一部を読むだけでも著者の力量が並大抵ではないことが実感できる。
おそらくここに登場した人物たちが第3部、第4部にも登場し、物語の重要な役として活躍するはずだったのだろう。一人一人に特徴がある。いろんな伏線が張られていたはずだ。
第二部「ドルチェ」は占領されたあとのフランスの田舎町が舞台だ。
ドイツ兵が進駐してきて、町の比較的立派な建物を接収し、駐屯しはじめたところから始まる。接収と言っても所有者もそのまま住むことを許されていることで、どちらかというとドイツ兵が間借りしている、居候のような感じだ。
ドイツ兵はみな若く、礼儀正しく、都会育ちのようで教養もある。ドイツ式の習慣を押し付けることもない。笑顔で挨拶を交わし、住民(占領民)との交流を積極的に交わす。皿を借りる時も必ず初めに断りを入れる。庭の苺を取る時も住民に許可をとってから取る。いつでも、どこまでも下手なのだ。子供たちをいち早く手なずけ、一緒に遊んでいる。
現代の私たちの目から見るととても奇妙で、ナチスドイツというイメージからかけはなれている。フランスに対してはそういう占領政策だったのだろうか。
町にいる若い女性たちも、都会の雰囲気をまとわせ洗練されたドイツ兵たちに心奪われていく、敵であるはずなのに恋愛感情を抱く。ドイツ兵はドイツ兵で、フランス女性に対して悪い感情は持っておらず、大人の女性として扱う。
しかし、夫が、そして兄弟がドイツの捕虜になっている女性もいるのに、その敵兵との恋に落ちるなんてことは、やはり禁断なのだ。
第二部を読み終えて思い出した写真がある。
戦時中にドイツ人との間に子どもを成した女性が、パリ解放後に裏切り者として頭を丸刈りにされて晒し者として街中を連れ回されているロバート・キャパの作品だ。
初めてみたときは、気の毒だが仕方ない、という気持ちをもった。友人や近隣の人の苦労をよそに、生きるためとはいえ、自分だけ良い待遇だったらいい、という身勝手な人なんだから、と。
彼女を吊しあげる群衆の残酷さが怖かったが、もし、その場に自分がいたとしても、止めはしなかっただろう。
でもこの「ドルチェ」を読み終えたとき、自分の浅はかさを知った。同時代を生きた作家の見た戦争はこうだったんだ、と初めて知った。
ナチスドイツの戦争犯罪を現在の私たちは知っているから、きっと占領下のフランスでは、人々は圧政のなかで汲々と息をひそめるように生きていた、と考えがちだけれど、この当時、少なくとも田舎では、そんなこともなかったということだろう。
目を転じて、太平洋戦争前夜の日本も、とかく暗黒時代のように語られがちだ。
しかし、大国アメリカに対して真珠湾攻撃で先制の大打撃を与えた年の瀬などは、日本全国あちらこちらで空前のお祭り騒ぎだったはずだ。暗い影なんて街中のどこにもさしてなかったことと思う。私たちが暗いイメージを投影してしまうのは、敗戦し、焼け野原となった悲惨な歴史を結果として知っているからだ。
歴史から教訓を得ることは大事だが、現代から遡って歴史を、とくにその当時の人々を断罪することは、ときに過ちとなる。
ドイツ人だからとか、フランス人のくせに、ということで人を固定化することは簡単だし、楽だ。その前に、その人はどういう価値観を持った人なのか、どういう生き方をしてきたのか、を知るべきじゃないのか。そんなことを「ドルチェ」は問うている気がする。
第3部以降の展開は著者の覚書等の資料から推測するしかないが、戦況にリンクさせるようにして、著者は展開を変えるつもりでいたようだ。連合軍の反転攻勢により、ナチスの戦争犯罪の数々が明らかになり、著者が生きてその事実を知ったとしたら、もしかしたら第2部は書き換えていたかもしれない、と個人的には感じる。それくらい第2部はドイツ軍兵士に対して、ある意味、彼らも戦争の犠牲者だといういう目線で描かれている。
物語はここで絶筆となっているが、この本の後半には数々の資料が載せられている。
著者イレーヌ・ネミロフスキーは1903年、ウクライナのキエフで銀行業を営む裕福なユダヤ人の家庭に生まれた。しかしロシア革命によりフランスに亡命を余儀なくされる。第二次世界大戦がはじまった時には、夫と娘2人でブルゴーニュ地方の田舎町に避難していたが、ナチス占領下となった後の1942年に、フランス人憲兵により自宅から突然連行された。
イレーヌの夫は連れ去られた妻の消息をつかむため、つてを頼りに手紙などで方々に懇願を続ける。それほど健康でもなかった妻の体調が何より心配で、きっと収容所のような劣悪な環境では体調を崩してしまうと訴えている。駐仏ドイツ大使にまで手紙で懇願し、妻はけしてドイツに対して反抗的な小説は書いていません、連行されたのは何かの手違いではないですか、と綴っている。連行された理由がユダヤ人だからだということではなく、反体制的だと勘違いされたからだと思っていたようだ。
当時どこまでナチスの残虐行為が知られていたのかわからない。もしかしたら各地に収容所を造っていたことは知られていたのかもしれないが、まさかユダヤ人を根絶やしにする目的のものだとは、誰も、思いもしていなかったはずだ。
これらの手紙からは最愛の妻を取り戻そうとする夫の必死さが切ないほど伝わってくる。しかし努力は全く実を結ぶことはない。
結末を知っている読者からみれば、書簡の中には希望のかけらも見いだせない。絶望しかない。残酷な仕打ちを無理やり見せられているようだった。全てが無駄なのだから。
資料編として収録されているこれらの手紙の数々も、本編に劣らない価値があると思う。
イレーヌの夫も後にアウシュヴィッツで亡くなってしまったため、トランクは夫妻の長女が引き継いだ。迫害から逃れているときもけして肌身離さず守り抜いたため、奇跡的に著者の死後60年以上経ってから『フランス組曲』は発表された。
「二十世紀が遺した最大の奇跡」という帯に書かれた表現に誇張はない。
叶うならば、完結した奇跡の物語を読みたかった。 -
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ネタバレ語り手の私が観たマノンの様子は、上流の令嬢にも見え、慎み深い心の持ち主に見えたというので、その後に書かれているアメリカに送られることになるまでの行動からイメージする奔放な様子とはイメージが違い、頭の中で描く姿が定まりません。
シュヴァリエのことを愛してはいるように思えるときもあるのですが、いやいや、その行動は無いでしょう、何を考えているの?本当に愛しているの?と言いたくなる。シュヴァリエが気づいているように、単に「楽しみ」を「享楽」を求めているだけで、それは「愛」を超えているように思える。愛が根底にあれば裏切り、それも楽しみや享楽を求めた裏切りを許せるものなのか?裏切る人間に愛があるのか?本当にそれは愛なのか?読んでいて、マノンがシュヴァリエをアメリカに渡るまでの間にも、本当に愛していたのか、愛しているという言動をしても、なかなかそうだとは思えませんでした。最終的にアメリカにまで付いてきてくれたシュヴァリエのことを、それ以降は本当に愛していたのかもしれないとは思うのですが。
そもそも「愛」とは何か、「好き」「恋」との違いは何か?とも思います。シュヴァリエのことを「好き」ではいたのでしょう。「好き」を「楽しみ」「享楽」が上回るというと不謹慎さがありますが、現代に置き換えて「仕事」ややりたいことが「好き」を上回る、結果、愛や結婚をあきらめるというように考えれば、ありなのでは。
楽しみたいという気持ちは責められないもので、それは現代でもある。ましてや、当時は女性が自分のしたいことをやれるような方法は全然ほぼ無かったわけで、そう思うとマノンの行動が前回読んだ時よりも、仕方ないかと思えてきました。出身が決して恵まれていないのに本も読み詩も読み、色々世界について知ってくると、その世界に近づきたい、出身の層で一般的とされている在り方で終わりたくないという気持ちが生まれるのは、ありえるようにも思えました。その結果、とる行動は反社会的で、遵法意識が無いようにも思いましたが。
そもそも、小説の形がシュバリエの話を基に書いたという形で、あくまで男側の一人称、主観で語られる世界なので、そのフィルターを通してしかマノンを語られておらず、マノンの真意がわからないですし。
椿姫と比較して、椿姫のような純愛ではないと考えられるのかもしれませんが、むしろ椿姫より本当の本物の人間らしい、椿姫は想像上の理想化された純愛だとも今回読み直して思いました。
アメリカに渡ってからマノンの気持ちに変化があったのか、わからないのですが、いずれにしても読み物としては、アメリカに行ってからのマノンでなく、堂々と楽しみを求めるマノン。マノンに振り回され、考えがふり幅大きく変わっているシュヴァリエの辺りの方が読んでいて面白かったとも思います。
もう一つ、今回再読して、ティベルジュの献身、友情部分に非常にワクワク、惹かれて読みました。これはもう友情というより愛、ティベルジュがマノンに会った時の様子が知りたい。 -
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1942年アウシュビッツで亡くなったロシア系ユダヤ人作家が遺した作品。
生き残った娘に託されたトランクの中に入っていたもので、創作ノートも残っており、本になっている2つの章(?)で終わらず、もっと続く予定だったようだ。
最初の「六月の嵐」はドイツ軍が侵攻してくるというニュースを聞いてパリ市民が郊外へ逃げていく「大脱走(エクソダス)」の様が描かれる。複数の家族、夫婦、恋人たちが登場する。なんというか因果応報なところもあって、にやりとさせられる。
次の「ドルチェ」はドイツ軍が宿泊する田舎町の複数の家の様子が描かれる。
巻末には著者の創作ノートと書簡を所収。 -
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ネタバレ心の内を分かち合う相手のいない人びとが孤立したまま宇宙にちらばり、あるいは砂漠を彷徨っている。
可愛らしい王子さまの冒険だけど孤独なお話。
だからこそ、なついた薔薇やきつねは特別な存在。
だらかにとっての特別ってだれかにとってのなんでもない存在。
ボアが猛獣をのみこもうとしている絵。
ボアが象を消化している絵。
想像力って生きるうえで糧になるなぁ。
大切なことは目に見えない。
有名すぎる本の光文社古典新訳ちいさな王子。
知ってるようで知らない忘れてるおはなし。
人生に大切なことがつまってる。
わたしたち大人は、赤ら顔さんというおじさんだなぁ。いつもやってるのは足し算ばっかり。目の前のことばっかりで反省。
今読んだきっかけは、この作品を題材にした哲学対話に参加するためです。発言はむずかしいけど世界観には浸れれば嬉しいなぁ。 -
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ネタバレ芸術と資本主義とアーティストの描くきれいな世界の終わりの話。人間と機械と芸術。
自分を自分が描く小説の中に描き出して自分を殺して、自分の死を誰かの(自分の描き出した架空の人間を)世界の終わりの思想の礎に仕立て上げたたストーリーが素晴らしかった。現実の世界と、現実の著者、そして架空の人間の架空の芸術、架空の芸術が評価されていく中に現実の著者が存在し、そしてその著者により影響を受けた芸術がまた成長してひとつの形になっていく。現実の中に架空の美があって、ページをめくり読み進めていくうちに、架空の美が本当に存在するもののような気持ちになっていく。
文中にはものすごい量の固有名詞が登場する。この小説は「ンフィクション」だと言っても違和感がない。
そしてそのための技術がすごいというか、流れが本当に「あったこと」のようにリアリティのある描き方をしているのがすごい。自分が生み出した架空の芸術家が本当に成功するための、そして本当にそういう思想に至るための成功体験や郷愁を描く中に自分(ウェルベック自身)が意味を持って存在している。ジェドというアーティストが存在し、ジェドというアーティストの人生があり、ジェドがどのようなアートをどんな意図で描いたのか、わたしはジェドが描いた最後の作品をこの目で見たいと心底思った。
ウェルベックの他の作品同様、作品の根底にあるのはこの世界への悲しみである、人の悲しみ、朽ちていくものへ寂れていくものへの悲しみをまっすぐにみつめるまなざしである。しかし、悲しみと対極にある生への固執のようなかたちで「セックス」があまり出てこない。淡々と悲しんで美しいものを見つめているというような印象があった。あんまりひねくれていないのでウェルベックの他の作品より読みやすいような気がする。
人と人の関わりが、美しい。主人公のジェドは生涯を通して大した数の人間と関わるわけではないが、その会話の一つ一つが素晴らしかった。ウェルベック、うつくしい女性オルガ、父、そして人生の後半で、警察と。
「…愛というのは、<めったにない>ものですよ。知らなかったんですか?だれもそう教えてくれなかった?」
p.136
「格好がつくでしょう。いかにもフランス人という感じで。それに人生では何かに興味をもたなくては。生きていく助けになる」
p.152
父は最後に一度だけ、彼の人生の物語を織りなした希望と挫折をよみがえらせたのだ。概して、ひとの一生とは取るに足らないものだ。それはいくつかの限られた出来事に要約することができる。
p.241
彼にとっての人生は、この見事な完成度のアウディ・オールロードA6の車内と同様、穏やかではあるが喜びのない、完全にニュートラルなものとなるだろう。
p.286
特に高齢の父と主人公がクリスマスの晩にディナーを食べながら話し合う場面がすごく良かった。
人生は取るに足らない。一晩も語れば十分だ。そしてその一番の語らいに人生のすべての意味がある。
ところで、ウェルベックは本当にかっこいいなと思ったのは自分の殺害現場を自分の小説で「できの悪いポロックの絵画のよう」なんて書けること。自分の死を、自分の描く最高に完璧で最高に完成された人間の人生に大きな意味を与えた上で、その人間に「世界は凡庸なものです」「そしてこの殺人を犯した者は、世界の凡庸さをいっそう増大させたのです」と言わせる。かっこいい。かっこいいなあ。
全体を通して、すごい本だなっていう思い。ある島の物語と闘争領域の拡大は粗いなって印象があったけど、地図と領土はすごい。すごいけどめっちゃ長かった、すごい時間かかった。だけど長さを感じなかった。 -
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ネタバレ野崎歓による『星の王子さま』(原題『Le Petit Prince』)の新訳。『ちいさな王子』と直訳されたタイトルが示すように、原著に忠実な訳文であるよう。
内藤訳との大きな違いは、本文が敬体(ですます調)でなく、常体(だ・である調)で訳されていること。理由として訳者が、あとがきにて「『できるならぼくは、この話を、おとぎ話みたいにはじめてみたかった』と、語り手自身が述べているではないか。つまり、実際には彼はそういう語り方を採らなかったのである」と指摘しているのは説得力がある。
(その他はたとえば、主人公から王子への呼びかけが、「坊っちゃん」や「あんた」から、「坊や」「きみ」とされていたり、「けんのん」「寄せ算」「かんじん」といった言葉は「とってもあぶない」「足し算」「大切」といった現代風の言葉に置き換えられている)
内藤訳に慣れていると読み始めは戸惑うけれど、淡々とした野崎訳だからこそ、本書の端々に溢れる純粋さが際立って感じられる。内藤訳は名文だけれど、野崎訳もまた違った味わいがあって良い。 -
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1820年代のフランスを舞台に、立身出世を目指す貧しい木こりの子(この文庫本では、彼はそれなりに裕福な木材商の子弟とされている)・ジュリアンの野望と転落を描いた、スタンダールの小説。世界史の歴史に載るほど有名なのに、今まで読む機会がなかった。安倍政権発足以来、日ごとに高まる「反知性主義」に対抗するためには古典を読むのが一番だと思いながら書店内を散策していて、たまたま目に入ったのがこの本である。
主人公ジュリアンは実家を出て、地元有力者・レナール家の家庭教師になる。ほどなくして主人の妻・ルイーズと恋愛関係になり一線を越えた関係になるが、主人は二人の関係に疑念を持ち、レナール家に気まずい空気が流れてしまう。主人公の立場をおもんぱかったルイーズは、彼を神学校に入学させることにする。ジュリアンはレナール家の一員になって以降、上流階級の持つ欺瞞性を嫌悪していたが、神学校入学後はその思いを強めていく。彼は自らの知性と美貌を武器に「上流階級」に一泡吹かせようという野心を抱くようになる。
階級間の格差が広がりつつある現在、ジュリアンと同じ野望を抱く人間は増えていることだろう。問題はその野望が「世間をよくしよう」という方向ではなく、自己顕示欲に向かう人が多くなるのでは?ということである。1820年代のフランスに流れる空気が、現代日本にも漂っているのだろうか? -
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19世紀フランスの小説家・スタンダールの代表作の後半である。パリを代表する大貴族の知遇を得ることに成功し、社交界でそれなりに名前を知られるようになり、さらにはその大貴族の娘に求婚され、立身出世の会談を順調に歩んでいたジュリアン。ところがそんなある日、以前愛し合っていた夫人から届いた手紙がきっかけで、彼の運命は大きく狂い始める…。
この巻の読みどころは、ジュリアンに執拗に求婚する大貴族の娘である。ジュリアン相手に繰り広げられる恋愛の駆け引きは、ハラハラドキドキの展開でほほえましい。だがジュリアンが事件を起こして投獄されてからの彼女の動きは、はっきり言って狂気じみている。こんな行動をとられては、ジュリアンでなくてもひいてしまうだろう。最後の場面は、明らかに「サロメ」からヒントを得たに違いない。彼女は狂っているのか?イヤ、本当に狂ったのかも知れない。 -
Posted by ブクログ
詩的な表現を多く含んだ小説なのか、と思ったがこれは違う。
うたかたの日々は、一文一文を真に受け、作中世界の在り方に没入していかなければならないタイプの小説で、伏線や隠喩を解き明かすといった読書をする人にはこの作品の良さが分からないだろう。
我々が生きている世界では、肺に睡蓮は生えない。ハツカネズミは踊らない。わりとちゃんと働く。
だからこの小説はレアリスムではない。が、その反面、圧倒的にレアリスムだ。
世界が綿密に描かれ、作品固有の運動していく。
それを真に受けて読んだ我々がこの本を閉じる時、今読んだものがファンタジックな世界だとは微塵も感じることはないだろう。
そこには圧倒的なリアリティがある。
リアリティとは現実に即していることではない、我々がさも現実であるかのように感じてしまうということだ、作品が世界に向かって開かれているということだ。
うたかたの日々はだから、レアリスムだと言っても良い、かもしれない。
それから、パルトルとボヴァール公爵夫人だけではなく、実存主義的なシーンはかなり沢山出てくる。
他者の死はゲームで倒された雑魚キャラのような扱いを受ける。それが社会のルールであって、主人公の一人であるクロエでさえもあり得ないほど適当に葬られる。
「醜いものは要らん」ということがまえがきに書いてあるが、この作品は生を美しく描き、死んだものには興味が無いという立場を貫いている。
俯瞰的な読み方をするなら、まず一番に浮かぶのは、生きていることの美しさと死んだ者の醜さやそれに対する社会の無情さのコントラストだと思う。