野崎歓のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ミシェルウェルベック 「 素粒子 」
新しい人間学。形而上学(多数の人が共有する世界観)の変異から「人間とは何か」を考察している
ショッキングなエピローグ。素粒子レベルまで物質化した人間像。性別と死がない新人類。未来の新人種が三人称的に語る構成。
面白いけど 性描写がしつこい。
祖母の遺骸や恋人との再会のシーンは、人間とは何か 考えさせられた
人間とは何か
*心の内に〜善と愛を信じることをやめない
*生きることは 他人の眼差しがあって初めて可能になる〜遺骸となっても 生きていた頃を想像できる
*お互い敬意と憐みを抱くのが人間らしい関係
時代背景
近代科学が キリスト教道徳を一掃し、男女の違いが 個人主義、虚栄心、苦しみ、憎しみなど不幸の源となっている
アナベルとの再会。心地よさ、暖かさに包まれて〜世界の始まりにいた〜時間の根が生えてくる場所を見た〜あらゆるものの内に終末を見た
空間に関する新しい哲学原理
空間は自身が精神的に作り上げたもの〜その空間内で、人間は生き、死ぬことを学ぶ。精神的空間の中で別れ、遠さ、苦しみが作り出される
-
Posted by ブクログ
ネタバレウエルベック2冊目は、芸術家(美術家)を主人公としたこの『地図と領土』。
最初写真家として個展デビューし名声を博した後しばらく沈黙し、今度は古典的な油彩に戻って有名な職業家の肖像を手がける。すると2度目の個展で大ブレークする。
やはり、芸術家小説というものは、このように成功談がいい。努力をしても最初から最後まで誰にも認められずに淋しく死んでいく芸術家のストーリーは、リアル(世界中で大多数)ではあるが、話としては退屈だし悲しすぎるのだろう。
肖像画もまた止めて、主人公は晩年は動画作品を作るようになる。
急激に変転する技法を通して、芸術家の世界観が徐々に成長していくことは読み取れるから、全編が芸術家物語として、成功していると言って良いだろう。
この美術家ジェドが出会い、徐々に親しくなっていくのが、何と実名で登場する作家ミシェル・ウエルベック本人だ。そして、この小説の最大のスキャンダルは、そのウエルベックが何者かによって突如惨殺されるという小説内-出来事である。
しかも、その殺害現場が凄まじく、スプラッタ・ホラー顔負けのおどろおどろしさなのである。
芸術家小説としてのプロットはいきなりここで切断されるわけで、その効果は凄まじい。
なかなか興味深い構成であり、最後は再び芸術家ジェドの視点に戻って長いエピローグに至るから、突然襲撃してきたノイズがやがて静まって、人生の続きが再び再開されたかのような印象がある。
とにかく面白い小説で、やはりウエルベックはかなり実力の高い小説家なのだろう。
次は彼の作品から何を読むか、楽しみになってきている。 -
Posted by ブクログ
ネタバレミシェル・ウェルベック「地図と領土」
今何かと話題のミシェル・ウェルベック、ついに手に取ってみた。結論、猛烈に面白い。以下、微妙にネタバレを含む。
母親を自殺で亡くした内向的な青年が写真、さらには絵に打ち込む。その才能を見出すのは手練れの「芸術のプロフェッショナル」たち。ミシュランの広報という絵にかいたような業界エリートである美女との恋をきっかけに作品にはいつのまにかすさまじい高額がオファーされ、主人公は目もくらむような高みに導かれていく。
テーマはずばり「芸術に値段をつけられるか」。著者のビジネス視点がいかにも正確で、通俗的な「金儲け悪徳論」とは一線を画す。そしてそれ故になおさら個人の感性がマーケティングされていくことへの違和感も同時にあぶりだされる。文章のあちこちに「当然知っているよね」的な小ネタ(実在の芸術家やらフランスの有名なニュースキャスターやら)が飛び出す中、作者本人(「超有名作家のウェルベック氏」)が登場してきてからのミステリーも強烈。
「親の愛を知らない内向的な青年が精密で写実的なものに引かれ黙々と筆写するうちいつのまにかビジネスとして成功し、理想の女性と出会う。そして最後にもっと孤独になる」というプロットについて、村上春樹の「トニー滝谷」を思い出す人もいるだろう。
偶然なのか、作家の間で何らかのインスパイアがあったのか(発表は村上が先)、そもそもある種古典的なモチーフなのかは分からない。
割と寡作な作家だが、少なくとも数冊和訳が出版されている。ウェルベック、全部読むぞ確定。 -
ネタバレ
深い
ちいさな王子
星の王子さま をファンタジーになりすぎず親しみやすく愛情をこめてあえて違う訳し方をした題名の本。とにかく深い…。最初は意味がわからなかったけど考えてみると一つ一つに意味がある。まず登場人物がみんな一人きりで過ごしていること。一人でいると自分だけのことを考えてしまいがちだけど誰かのために行動できることが巡り巡って自分のためになるんじゃないかなって思った。
だって王様やビジネスマンより王子様や点灯を繰り返している人の方が楽しそうだもの。
これが一期一会みたいなものの大切さをあらわしてるような気もした。
出会ってなつかせること、これによって人は目には見えない絆を築くことができる。
絆を育むことで得るさよならは寂しいものだけれど絆を得たからこそ思い出の中で美しいと思えることが増えるのだと思った。
誰にとってもガラクタだと思えることが自分にとっては宝物ということ。
誰にも理解されなくても自分だけが見て幸せを感じられるものが増えるのって素敵なことだ。
それから王子が大切にしているもの。
小さな想像ひとつが物事を愉快にできる。
想像ひとつで世界がキラキラしてみえる。
でも大人になってからそーゆー想像なんて時間の無駄で、ないものを想像してワクワクすることなんて無くなっていたなって思った。
自分の一瞬をほんの少しの想像でワクワクさせることができる子供ってすごい。
それができなくなってしまうことが大人になるってことなのかな?
王子が死んでしまったお別れは飛行機が直ったことと引き換えで文明の利器に頼って自らだけで起こす力を信じられなくなってしまった現状を悲しく訴える本でもあった気がする。
自分の力を信じて、もしかしたらなんて想像で心を踊らせながら、目には見えない大切なものを意識して純粋な気持ちを大切にできる大人でありたい…。主人公の彼の絵を帽子だなんて言わずに理解できる大人に。 -
Posted by ブクログ
作者の掌の上できれいに転がされた感じがする。一本の小説の中で何回、不幸と一瞬届きそうになる幸福の間を行ったり来たりしただろうか。これでもかというくらい振り回され、同情を誘い、もはや「素粒子」というタイトルが匂わすSF的結末への期待をも忘れて、途方もなく哀愁漂うなけなしの性愛物語として十分満足だ、と観念しかけた頃、ついに結末がやってくる。そのカタルシスたるや、圧巻である。一切の苦悩から解放されたときのような浄福を自分は味わった。自由と進歩主義に対するにべもない唾棄には思わず笑ってしまったが、このとき、登場人物たちに対する自分の数々の共感と同情も一緒に笑い飛ばされてしまった。それがまた爽快。ウェルベックの最高傑作と呼ばれるのも納得。作者の思想に同意しない人でも楽しめると思う、というかそれを狙いに行ってるだろうな。
-
Posted by ブクログ
ネタバレアーティストのジェドの一生の話。世界そのものを表現するために「工業製品の写真」→「ミシュランの地図の拡大写真」→「職業人の肖像画」と表現が変遷していくが、ジェドその人は、単なる鏡としての人なのか、空虚で、情熱のようなものがあまり伺えないように見えた。晩年の圧倒的な諦念・孤独の中で制作された作品群にようやくエモーション、想いのようなものが感じられたような気がする。とかいって、すべて芸術作品を文章で読まされているわけですが。エビローグの、寂寞さがすごいのと、ウェルベックのテーマがてんこ盛りなのが、なんだか微笑ましい気持ちにさせられた。でも、自分の人生における交友関係も先細りだし、最後はこんな状態になるのかな、なんて思ったり。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ人間存在の孤独についての物語が、どこまでも個人的なエピソードを通じて、しかし普遍的な確信をもって語られる。
小説の主軸になるのはふたりの異父兄弟。兄は女にもてず、不惑を超えても性的な彷徨を続けている文学教師。弟は、相手が男であれ女であれ、他者と人間関係を築き難い天才科学者。
西欧文明の終焉を背景に、兄弟と彼らを取り巻く人間たちを透かして、孤独の絶対性が描かれる。
ラストで明かされる物語構造と人間存在への視点は超越的で、冷徹でありながら甘美だ。それはニーチェの超人思想を思い出させる。人間は生まれながらに重荷を背負ったものであり、人間の先に続いて現れるもの(があるとして)への架け橋でしかない、と。つまりは超人的な存在を仮定して初めて、人間は人間を肯定できるのかもしれない。
超人が存在せず、人間が人間でしかない現実においても、ひとは生きていくしかない。孤独と死とともに時間に押し流され、どこかにある愛を信じながら。
読後の呆然とした余韻の中で、そんなことを思わされた。 -
Posted by ブクログ
スタンダールは、大学時代に読んだ「パルムの僧院」以来で、初読というのが恥かしくなるほどのド古典だが、初読。
訳者の野崎歓が言う通り、1830年代当時よりも、自らを偽って生きることの多い(そして恋愛のゲーム化がますます進む)現代において、なお共感されるところの大きな小説と言えるだろう。現代的なエンターテイメント小説と比較すると、構成に荒削りなところは多いが、それでも「近代小説の嚆矢」と言われるスタンダールの面目躍如といった作品で、ほとんど一気読みだった。
野崎訳に対する批判は、すでにあちこちで論じられている通り、違和感のある文章がなかったと言えば嘘になる。しかし、そもそもこの問題は、翻訳自体に対する批判というよりも、改訳に対する編集部の姿勢を批判しているものと理解している。 -
Posted by ブクログ
19世紀フランス、主に復古王政期から七月王政期に活躍した作家スタンダール(1783-1842)の代表的長編小説、七月革命を挟んだ1830年に執筆・刊行。副題は当初は「一九世紀年代記」だったが、執筆中に七月革命が熾きたことから、作品とフランス社会史との同時代性をより強調するために「一八三〇年代記」と付け加えられたとされる。作家自身は、政治的である以上にロマン的であるが故に、共和主義者であったようだ。
フランス革命によって近代ブルジョア社会というものが本格的に立ち現れてしまった。如何な反動的な復古王政を以てしても、もはや旧体制へと時計の針を巻き戻すことはできない。人生は、個人のものとなった。それは支配階級/平民階級という身分=生まれによって決まってしまうのではなく、自己の才覚と行動次第によって階層間を上昇していくことができる社会だ。その象徴が一介の軍人から皇帝にまで上りつめたナポレオンだと云える。身分によって個人の生が固定されていた静的な社会から、能力によって階層移動が可能になった動的な社会へ。ロマン主義的な心性の持ち主であったスタンダールにとって、身分制によって惰眠が保証されているかの如き聖職者・貴族ら支配階級の俗物どもが跋扈する欺瞞と倦怠の裡に堕落した"社交界・サロン・上流社会"を軽蔑・嘲笑しながら自己の「立身出世」の踏み台にしていこうとする強かで情熱的なエネルギーを帯びた平民出の青年は、19世紀という新しい社会の英雄であったのだろう。作家は、そんな上昇への情熱と野心に憑かれた主人公ジュリヤン・ソレルを造形した。
然し、このジュリヤン・ソレルが志向したその上昇の先には何が在ったのか。彼は何処へ向かおうとしていたのか。それが物語を読んでいて全く判然としないのだ。彼の、現状からの脱却を目指す上昇志向には、現在の彼の生に対する彼自身が抱いている不全感があるのは間違いない。卑しい平民出身であることに対する強烈な劣等意識が貴族階級への憎悪となって、憑かれたように彼は上へ上へと走り続ける。上昇の為なら、信仰心など持ち合わせていなくても聖職者になろうとするのが彼である。まさに偽善者そのものと云っていい。彼はかのタルチュフを師と仰いでいる。目的達成の為には手段の道徳性を問わないマキャヴェリスト。初めから価値基準などというものを彼は持っていなかった。「利益」と「力」という即物的な無-価値観が、彼だけでなく、社会全体を支配するようになっていた、それが当時の時代状況である。ニヒリズムの到来だ。彼は「走る」。その行動それ自体に、スタンダールは英雄を視た。しかしジュリヤン・ソレルが上へ上へと向かうその「上」に終わりは無い、絶対的終結は無い、他者との比較に於いて相対的に位置が変位し続けるばかりだ。「上」の彼方のその無限遠にあるのは、虚無だ。何も無いところへ向かって彼は走っているのだ。内実無き上昇志向、即物的無思想。スタンダールとその時代は、幸いにもまだそのことに対する幻滅には到っていないであろうと、この作品からは読める。
19世紀という近代市民社会勃興期には時代を卓越する者で在り得たジュリヤン・ソレルこそ、新自由主義によって世界が覆い尽されてしまっている現代にあっては、最も凡庸な俗物だ。それが、21世紀に於けるこの物語のつまらなさとなるのであろう。何故なら、ニヒリズムの自覚と、その帰結としての即物への頽落が、現代という問題の始まりであるのだから。
□
「ヴェリエールの町ですべてを握る決定的文句はこれである――「利益をもたらす」」
「ぼくの役割が終わるそのときまで、世の中はこういうものなんだろう。まわりは本物の敵ばかり。それにしてもつねに装いつづけなくてはいけないとは、何と大変なことなんだ」
「ああ、いったい何という違いだろう! ここにあるのは何だ? ぎすぎすした、高慢な虚栄心、あらゆる色合いのうぬぼれ、それだけじゃないか」
「凡々たる人生の焼けつく砂漠を、苦労して横断する身としては、渇きをいやしてくれる清冽な泉に出会ったようなものだ! ・・・。人生というエゴイズムの砂漠では、だれだって自分が大事なんだ」
「そういう法律ができる以前には、自然なものといったらライオンの力か、それとも腹がへったり寒かったりする人間の欲求があるばかり。つまり一言でいって欲求だ・・・・・・」
「ぼくは真実を愛したはずだが……真実はどこにある?・・・・・・どこもかしこも偽善ばかり、そうでなければいかさまか。・・・。だめだ、人間には人間が信用できない」
「死の間際になって、自分相手に話している時でさえ、僕はあいかわらず偽善者のままなんだ・・・・・・。ああ、十九世紀よ!」 -
Posted by ブクログ
貧しく家族にも虐げられてきた青年が、その抜群の記憶力と美貌で、貴族社会に入り込み、社交界を足場に出世していく。その飛躍の鍵は、それぞれタイプの異なる2人の女性。下巻で登場するマチルドと主人公の青年ジュリアンの、プライドと激情が数行置きに交錯するあたりは、その内容にも長さにも正直うんざりするが、物語の結末のためには、そのうんざりした気分が必要なのかもしれない。主人公も2人の女も、自分や相手の激情に感動しつつ、それをいかに打算的にコントロールするかに、常に心を砕いている。それがうまくいけば、社会的には成功するがうんざりした日々が続き、失敗すれば一瞬の生の充実はあるが滅びるしかない。マチルドは、いいとこどりで生き残ったような気もするが、その後最も不幸な人生をおくるのかもしれない。
-
Posted by ブクログ
上巻であれだけ読むのに苦労したので、下巻はその分厚さに、読む前から尻込みしていた。
ところがである。面白い。下巻に入った途端、私のこの本への評価が一変してしまった。
舞台は、地方都市から大都会・パリの社交界へ。すると、それまでまどろっこしかったスタンダールの筆が、人が変わったように生き生きと感じられた。躍動感に溢れ、個性的で、したたか。フランスの歴史や当時の時代背景は全くわからないけれど、人間模様の面白さで惹きつけられる。
そして、侯爵令嬢マチルドとの、あまりに熾烈で、同時に凍りつくような恋。
主人公・ジュリヤンのあまりにも「感じやすい」激情と、マチルドの「高慢すぎる」退屈が、とんとん拍子に進むわけがない。駆け引きと打算、プライドと欲求、読んでいるこちらの方がひやひやする危なっかしさだ。
二人はお互いの中に恋を求めながらも、その中に自分しか見ていないのだと思う。だから恐ろしく計算的でありながら、同時に主観的だ。その相反する感情に引き裂かれながらも、ただただ自らの身を焼き尽くそうとするかのような二人の恋に、私はひどく同情してしまった。彼らを哀れだと思ったのである。
・・・というわけで、私はこの本は下巻の前半三分の二くらいをとても面白く読み、その評価を☆5にしたいくらいなのだが・・・
最後の最後の終わり方が意外にもあっさりしたものであったこと、レナール夫人の魅力がどうにも最後までしっくり来ず、いまいちその部分が納得できないこと、などを考えると、やっぱり☆4かなぁ、と思う。
けれど、前半であれほどげんなりしたのに下巻でこんなにスリリングな読書ができたので、途中で放り投げないでよかったなあ、とも思った。