吉見俊哉のレビュー一覧
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欧州的ユニバーシティと奈良時代から官僚育成のために作られた日本的「大学」はイコールではない。中世旅する知識人のネットワークとして始まった学会。旅する知識人の集積場所、つまり多様性、独立独歩のユニバーシティ。
その違いがよくわかりました。
その分析を基に、21世紀ポストコロナの大学こそ、中世ユニバーシティをベンチマークにするべきではないか?と言う問いかけにとても共感しました。
校舎がなく、4年間半年毎に学生全員が世界を移動しながら学び続けるミネルバ大学。
経済に国境が無くなった社会を反映するには、大学も移動し続けるのは理にかなっていると思います。高城剛さんが「アイデアの質と量は歩いた距離に比例する」と言ってました。また誰か忘れましたが「旅をしないと本は書けない」と言う言葉もみたことがあります。
やはり、芭蕉のように漂泊してこそ、新しい知識が生まれるのではないかと思いました。 -
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平成の30年をひとくくりにすると「失敗の時代」という著者の結論は否定できないだけに、笑えない結果である。企業経営、国民経済、そして政治的にも。4つの失敗が➀バブル崩壊、②阪神大震災、③2001年のNYテロ事件、④東日本大震災と福島原発事故がこの時代「日本が壊れていく時代」を象徴する言葉であることは間違いない。そして社会的にも幼女連続殺人の宮崎勤、オウム真理教、酒鬼薔薇聖斗事件なども失敗の時代を増幅するような出来事として書かれており、失敗の一環とのがりを感じざるを得ない。なお企業経営の失敗の中で、山一證券、東芝、シャープなどの事例にはあまりにも衝撃的だった。アルゴリズムによるフィルターバブルの時代がますます断絶の時代を深めていることは救いのない暗澹たる気持ちにさせられた。
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2020年のコロナ禍が一挙にオンライン授業を進展させ、大学は大きく変革させられたことから始まる。実は海外に比べて遅れていた日本の教育の現状が著者によって深刻な実態として心に迫ってくる。日本の失われた20年というのは経済、政治以上に教育において進んでおり、これは長く続く未来への深刻な影響が心配される。日本学生の海外留学者が減る一方で米国の大学へは中国、インド、韓国、台湾の学生たちが激増しているとは何と恐ろしい実態だろうか。それは若者たち自身の問題ではなく、日本の教育システムに問題があるという著者の深刻な問題告発である。日本の大学問題は入試改革ばかりに注目が集まるということは異常な姿なのだろう。そして大学の改革についての今後の方向性を著者が真剣な姿勢から可能性を示唆してくれている。
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あとがきで著者は書く。「日本の「大学」は、実は大学=ユニバーシティではなかったのだ! 」。つまりそういうことである。明治維新、戦後の学制改革を経て、そして現在も永遠と続く「大学改革」は結局日本の「大学」を大学=ユニバーシティとして機能させることにはならなかった。むしろ大学=ユニバーシティから遠ざけることになった。その歴史を辿る。
オンラインを最大限に生かしたミネルヴァ大学のあり方も、日本の大学が多分今後も強化していくであろうオンライン化と似て非なるものである。現在もそうだが、日本の大学のオンライン化は学生をアパートの個室に閉じ込め、時間も空間も個別化するものであり、ネミルヴァ大学のキャンパスはないが全寮制である・・・とは全く異なるものである。
著者は言う、「第三世代の大学の使命とは、世界哲学や世界人文学、様々なリベラルアーツ的な知を通じて自由な地球市民を育てていくことだ」と。多分その通りである。
そして、そのために日本の大学は何をしなければならないか。著者はいくつかの方向性を出すが・・・・おそらく著者自身はそれができるかとどうかについて懐疑的であるように私には思える。
日本の社会のこれまでと今を見る限り、それを知れば知るほど絶望的になる。「世界哲学や世界人文学、様々なリベラルアーツ的な知」を失ったかのように見える為政者にこの変革は可能なんだろうか? -
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ネタバレ<目次>
はじめに 「モモ」と歩く東京~時間論としての街歩き
第1日 都電荒川線に乗って東京を旅する
第2日 秋葉原-上野ー浅草間に路面電車を復活させる
第3日 動物園を開放し、公園を夜のミュージアムパークに
第4日 都市にメリハリをつけながら、古い街並みを守る
第5日 都心北部で大学街としての東京を再生させる
第6日 武蔵野台地東端で世界の多様な宗教が連帯する
第7日 未来都市東京を江戸にする
<内容>
最初はちょっと小難しいが、東京の再生プランを歴史軸を作りながら観ていこう、という本。今の東京は無機質に発展している。それも西の新宿・渋谷・六本木など。さらにウォーターフロント。しかしそこには思想がない。とっちらかしただけだ。著者は、東京は北部武蔵野台地東端に面白さがあり、その面白さは江戸時代に(場合にはよってはもっと昔に)作られ、近代化が進んでも痕跡が残されている。21世紀にはいり、発展が止まった日本の再生として、その面白さをうまく引き出すような都市づくりをしよう、という。7日間の旅をぜひ読んでほしい。いろいろと面白い視点が掲げられる。それはその辺にあるガイドブックとは一線を画したものだ。 -
ネタバレ 購入済み
多角的評論で読ませる
平成という最早元号で区切ることに、象徴以外での意図がなくなった初めての時代をあえて区切り、変化を評論する一冊。
正直必ず出てくると思っていたジャンルであり、様々な形でこれからも出てくるだろうが、本書は結論ありきな部分はありながらも、筋道を立てつつ難解なこの時代に名前をつけようとしてくれている。
平成時代を低迷や失敗が誰の目にも明らかとし、その原因に戦後形成された成功モデルが破綻し次策を構築できない経済や政治、官僚システムを挙げている。昭和後期からの兆候など納得できる点も多いが、あの時代だからこそ成功した特殊モデルであることは強調して欲しかった。無論著者たちは分かっているのだろうが、現在の失敗を注視するあまり対比となる「戦後昭和の成功」が書かれすぎているように感じる。
また複数の学者から広く集めている故か、一部の学者の評論からは平成時代のグローバリズムの混沌さの上昇と対比するように、昭和時代の秩序ぶりを書いているがそんなことはないと思う。例えば6章のメディア論からは昭和の新聞は討議を重ねる場があったとするが、当時だって話題性優先の報道はあっただろうし、ネット上だからこその世代身分を問わない議論の価値はあるはずだ。
もちろん多角的著者の視点は良いところもあり、訳に個人的に7章の文は面白かった。評論というと違うかも知れないが、漠然と物事を一元化してはいけない考える姿勢の重要性が伝わる。
総じて良い部分、悪い部分を自分で考えられる評論集。世代を問わず平成の日本を生きた方は一読しても良いと思う。 -
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・読み終わって感じたこと
中世と現代が似ている点について、人の動きやグローバル化の視点から考えるることは面白く感じた。浅い感想になってしまうが、少しずつ変わりながらも大きな流れとしては歴史が繰り返されているように思えた。
様々な国・時代で理想とした教育や国家像があったことを知ることができた。
人類的普遍性への意志、というものが、大学を始めとする学問の本質だと理解した。
・面白かった点
大学という機関を軸に、中世から近代、近代から現代にかけてのヨーロッパやアメリカ、日本の歴史を知ることができ、歴史物としても面白かった。
学生運動により、学生が真面目になったという話も面白く感じた。
・好きな文章
大学再生の原点に位置するカントは、〜神学部、法学部、医学部の三つを上級学部、哲学部を下級学部と名付け、〜その両者の間にある緊張感ある対抗関係が存在しなくてはならず〜
今後数十年、それどころか数百年にわたり人類が取り組むべき重要課題は、すでにどれも国境を越えてしまっている。〜地球史的視座からこれらの人類的課題に取り組む有効な専門的方法論を見つけ出すことや、それを実行できる専門人材を社会に提供することが、ますます大学には求められていくであろう
次世代の専門知に求められているのは、まったく新しい発見・開発をしていくという以上に、すでに飽和しかけている知識の矛盾する諸要素を調停し、望ましき秩序に向けて総合化するマネジメントの知である。
・おすすめする人
文系や理系というくくりにもやもやを感じている人
日本の大学に疑問を持っている人 -
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ネタバレ「○○はもう死んでいる」。北斗の拳で聞いたような台詞だが、本書で主に取り上げられているのは、オックスフォード、ハーバード、そして東大。決して死んでるような大学ではない。
「(昨今の)日本の大学改革論の不幸なところは、コンセンサスを得ようとしたときに座標軸(大学は何を目指すのか、何がクリティカルかという軸)を設定する人がいなくなってしまい、どこで自分たちが対立していて、どこで折り合いがつかないのか見えなくなってしまっている」(p.37)。その背景には「経済ナショナリズム」(p.40)と国家予算の削減。これが現場の混乱をもたらしているのではないか。
アメリカやイギリスの大学組織で見習うべき点は、教員・学生ともに複数の組織に所属しているということ。例えば、オックスフォードの苅谷剛彦先生の所属は3つ、「ニッサン現代研究所(地域研究)研究員」、「(ユニバーシティの)社会学科教授」、「セント・アントニーズ・カレッジ(学寮)フェロー」だ。一方学生は、メジャーとマイナー(あるいはダブルメジャー)そしてカレッジ(学寮)に所属する。つまり「多様性と流動性」が大学組織の中に組み込まれているのだ。
日本の場合は、学部の上に大学院があることが多く、教員も学生も単一の組織の中で生活を送る。特に大学教員は、(グローバルな)横社会というより(多様性と流動性が乏しい)縦社会である。教員が求めるのは「安定したポスト」。実質的に教員が実権を握る日本の大学では、組織は一元的で、閉じてしまう。
一方、学生にとって大切なのは「多様性と流動性」。この状況を補っていたのがクラブ活動や寮生活であろうが、その(実質的な)加入率、入寮率は極めて低い。だから日本では、単一の閉じた組織になる。これに拍車をかけるのが国際性の欠如と世代的同質性というわけだ。
学問が、理系・文系に分かれたのは、産業革命(18世紀半ばから19世紀)以降。しかし、もともと大学のカリキュラムであった「リベラルアーツ」は、言語系の3学と数学系の4科。これらを同時に学ぶことで、当たり前だと思っていることを疑う「Critical Thinking」が可能になる。だから、少ない科目であっても(履修科目を絞ってでも)、文理複眼思考で「客観的な知識を分析的に獲得し、論理的に組立て、説得力ある意見をわかりやすく述べる」力の養成が必要となるはずだ。これが大学の学びの根幹(オックスフォードがチュートリアルの目的そのもの)ということだろう。
最後に、「大学のキャンパスは(自由の根幹という意味で)遊び場でなければならない」(p.279)という理想。その一方でアカデミックキャピタリズムの担い手と位置づけられた大学の厳しい現実。イギリスとは異なり「大学とは何かということが社会の中で定義(共有)されていない日本」。そもそも「大学」って何なんだろう? -
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吉見さんの本をもう一冊読んでみたいと思ったら、なんと苅谷剛彦さんとの対談が出たところ。
二人から醸し出される意識高い系感(まあ、そもそも副題がトップユニバーシティーからの問題提起だもんね)に、若干たじろぐ。
今の大学改革というよか、次の高校改革に向けて、持っておきたい視点が幾つかあった。
例えば、深い学びについて。
学びを深めるためには、教員一人あたりに受け持つ生徒が多過ぎてはいけないということ。
でも、生徒一人の取り組む授業数が多過ぎてもいけないということが書いてある。
それは知識網羅主義とも関わってくるわけで、より多くの知識を受け取ろうとすれば、そうなる。
高校でも、もうすぐカリキュラムが変わるけど、沢山の科目を設定するのか、一つの科目に単位を多く設定するのかって大きい部分なのかも。
もちろん単位を多く配置することは、教員の技量も問われるし、落とすことのリスクも生まれる。
ただ、週二回の授業でやれることに限りはあって、深い学びを方針として打ち出すなら、その部分をスルーしてはいけないように思う。
二つ目は、教科横断の可能性について。
これも政府のパンフレットなんかで目にはするけど、具体的にどんな取り組みを言いたいのかはよく分からずにいる。
この本では、文理融合から文理複眼へという章があって、以前読んだ吉見さんの本に書かれていた文系知と理系知の違いが書かれている。
いやいや、文系とか理系とか、ないから!
という意見も、勿論あるし、人に落とし込むからそうなるのかなと思っていた。
けれど、それぞれの研究手法、アプローチの違いをちゃんと把握することで、教科横断の可能性が広がるように思う。
そのためには扱う側も、横断的な考えがないといけないとは思うけど……。
そして三つ目。
ただ単に留学することの危険性について。
これはグローバル人材の章にあたる。
一週間やそこら、わらわらと学生連れて行って修学旅行の延長線上みたいなことしたって、自分の中の価値観の揺らぎなんてあるわけないでしょ!
ってか、日本という国のこともよく知らずに海外に浸り過ぎても、根無し草になりますよ!
というご意見。
周り見ても、この留学制度って思ったよりお金かかっていて、そして自分の時にはアイツもコイツも留学してます、なんて状況はなかった。
だから、確かに何かは動いているんだけど。
果たして何のために動いているのかが分からない。
語学研修と自分探しがごっちゃになったような。
結局、日本に比べて◯◯国は違う!え、何が?自由だった!自由って何?みたいな中身ない感に終わってしまう人もいるように思う。
勝手に目的意識持って勝手に行くやつは良いのだ。
でも、システムとして、行事として、それを若い子に与えるのなら、与える側の考えをもっと盛り込んでいく時期が来たと言える。
いや、それはお国のために視察してきなさいってことじゃないからね……あしからず。
最後に、大学のレファレンスが便利になりすぎて、自動で本が出てくるのは悪だという話に笑う。
辞書と同じだなと思った。
偶然の出会いによって自分の知は思いがけず進む。
こういうのも、セレンディピティっていうんですかね。便利って、怖いわ。
そして一言。
なんぼほど長いレビューやねん!(星4で!)
お粗末様でした。 -
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「文系は役に立たないが価値はある」という言葉に対し「役に立つ」と言い切り、ずんずん進んでゆく本書を読んでいると、学ぶことへの勇気が湧いてくる。
理系の知を、確立した価値体系の中で問題提起(目標)と解決を短期的に達成することを目指したものとおき、文系はそれに対して価値そのものを見つめる(「価値とは何か?」という問いを有する)とおく。
確かに50年後、100年後の社会が現在と同じ価値基準で動いているとは思えない。(50年前と今がそうであるように)
そしてまた、自身の50年後(生きていれば)を考える上でも、この意味をよく分かっておかなければならないように思う。
筆者も言及しているように、今後、日本社会は超高齢化社会を迎える。
子どもが少ない中で日本はどのような「成長」を遂げるべきなのかではなく、中年~老人がいかに生きるべきなのかを考える時代がやってくると思う。
この本では大学の成り立ちや、では何故、理系が優遇され文系が淘汰されてきたのかというパワーバランスについても触れられていて面白い。
神という価値、国という価値を経て、今はやはり学ぶ者自身が価値の取捨選択のしやすい時代になったと思う。
(教養は国としての価値を体現したもので、国境を越えることが難しいという言葉が印象的だった。確かに。)
そして今後、大学で学ぶ者の年齢幅を大きく増やした時、やはり筆者の言う文系的な知にまた戻って来ざるを得ないような気がする。
AI台頭と英語の実用化が巷を賑わせている中、プログラミングや英語四技能が青年教育の中核を担っていくようだ。
とすれば、そうした社会の「価値」の次には一体何がやってくるのだろう。
三年ほど前に出版された本なので、続いて最新作も読んでみたいと思う。 -
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ネタバレ2015年の文科省通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」が出て、「文科省は文系学部廃止を企んでいる」という解釈が瞬く間に広がった。2013年の国立大学改革プランで示された文言の焼き直しに過ぎなかったにも拘らず、である。
この原因は、この「通知」の文脈的な理解ができずに文章の字面だけで記事を書いて平気なマスコミ記者たち、あるいは関連資料に当たることも記事を系統的に検証することもなく、マスコミ情報を前提に議論を始める一部の大学人やメディア言論人の劣化に一因がある。もう一つ「文系は役に立たない」という認識が広まっていたことも大きい。
「文系は役に立つ」が本書の主眼である。
この点では広田照幸氏の発言が印象的である。「哲学なんかこそ、実は新しいアイディアの宝庫なんです。現象の本質を抽象的な概念で論理的に考える訳ですから。長い目で見れば、そうした思索こそが、あたらしいアイディアを生み出す。そういう意味では、『経済効果』から見ても、ちゃんと意味はある」。つまり、目的遂行的には理系的な知が役立つが、「価値創造的」には、文系の知こそが、長く広い未来のために役立つといのが、著者の主張である。
ただ、昨今の新自由主義的経済の中では、結果がすぐに、しかも成果を数値化して示すことが求められるなかで、文系的な知の重要性が評価されにくいのは事実かもしれない。さらに、数ある大学の中・下位校、特に多数を占める文系の学部教育のお粗末さが、「文系不要論」に拍車をかけているように思われるのである。
この著書では、大学人やマスコミなどが混同(誤解)している用語を整理していることも重要だ。人文社会系、教養、一般教育、リベラルアーツの定義がされないために、大学教育改革の論点が定まらないことが多いからだ。
○リベラルアーツ(Liberal Arts):
11、12世紀に誕生した中世の大学教育における言語系の三学(文法学、修辞学、論理学)と数学系四科(代数学、幾何学、天文学、音楽)を指す(著者は「音楽」を芸術系に分類しているが、ここでの音楽は現在でいう物理学と解すべきである)。リベラルアーツは、リベラルに思考する技法、つまり、私利・私欲、因習、社会通念、偏見、迷信、先入観、そして功利性から解放された(liberal)、普遍妥当性のある価値や概念(真理)を見出し、理性的で論理的な思考でもって正しい問題解決策を導く技法(arts)を身につけるための科目群と考えるべきであろう。
○教養(Culture):19世紀以降の「国民国家」の形成(ナショナリズム高揚)が背景。近代産業文明のなかで、国民の人格の陶冶・涵養をするために過去の伝統との結びつきを強調。「文化=教養」を通じた国民主体と国家の一致という考え方がある(p.83)。
○一般教育(General Education):大学教育のユニバーサル化とともに、一般大衆に向けて機能する基礎教育の必要性とともに登場。異なる専門分野を総合する力を身につけ、未来的な課題に立ち向かう能動的な知性を具えた市民の育成を目指す。アメリカにおける大学院の発展が背景。
○共通教育:1990年代以降の大学改革の流れの中で登場。従来の一般教育に加えて、スキル科目(コンピュータ・リテラシーや実践的英語能力)が含まれる。グローバル化社会や情報社会を生き抜くスキルを身につけることを目的とする。
第四章「人生で3回、大学に入る」では、あまりにも理想的すぎるはと思われる記述が散見された。大学で学ぶ費用が高くなっている中で、その費用を投資しても、少なくとも2回目、3回目の入学では回収できる期待がほとんどない。そもそも今の日本の社会では、大学入学のため退職しようものなら、再就職のときにより良い条件で雇用される可能性は低い。単に趣味で学びたいという人もいるかもしれないが、あまりにもコストがかかる趣味である。知識を得るのであれば、書物や学会、インターネットでも十分可能である。そもそも、大学のレベルでは一方的な講義形式が主流であるし、数少ないゼミでも、中身の深い議論が期待できないからだ。
東京大学の教授の著書だけに、中身が濃く読み読み応えがある章(1~3章)と少し現実離れしているのではないか思われる章(4章)が併存している、そんな印象であった。 -
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農村が保守的で都市が進歩的、ということはない。都市の中にも固定した生活の枠がある
以前はいかに入りやすい店を作るか、というポイントが重視されていたが、今はいかに入りにくくするかというポイントが重視されてきている。客を選別するような店のあり方へ。
都市に人々が踊らされているのか、踊る人々が都市を作るのか(例:パルコが渋谷を作ったのか、渋谷がパルコを作ったのか)
都市で「役」を「演じる」人びと(演じる、演じられる、という事の主体がどちらにあるのか、という事よりも、役と人との間の関係性、に注目する)
「遊ぶ」事は単なる往復運動から「超越する」という側面を持っている
盛り場の変化
浅草→銀座
新宿→渋谷
新宿:地方から状況してきた若い単身者が主役、出来事がそこに集う人々に共有される幻想の共同性に基づいて紡ぎ出される(触れる・群れる という身体感覚)、集団的・家郷的・場所的(浅草と新宿の共通点)
渋谷:山手・郊外に住む家庭の子ども達が主役、移動メディア(小田急・東急etc)・情報メディア(インターネットetc)の変化→距離の問題は関係なくなるという時代の変化を反映、個別的・未来的・非場所的
備忘録:
スピード、効率は工業化前には価値基準として存在しなかった?
ディズニーランドは現代の盛り場? -
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2015年6月の文科省による「国立大学法人等の組織・業務全般の見直し」通知から始まったメディア報道の騒動から解き明かし、「理系」偏重と「文系」軽視の傾向がこの時に始まったものでないことを分かり易くひも解いてくれる。遠く岸内閣時代の松田文部大臣の説明にさえ、そのことがでてくるという。文系は大学にとってはお金がかからず、学生を集められるということから私学がそれを歓迎していたというおまけには、苦笑いまでしてしまう。つまり大学とは何かそのものが問われるテーマであるとの説明。「文系は役に立たないが、価値がある」という議論ではなく、「文系は必ず役に立つ。それは今後の経済成長に貢献するという手段的な有用性に限定しない。価値の軸の変化を予見したり、先導したりする価値創造を可能にし、長く役立つ教育」をアピールする。長期的には理系以上に役立つ、ことの主張である。しかし、国立大学の教員人数の8割を理系が占め、その結果、学長も理系が多いとの現状はお寒い次第である。もう一度、大学は「国家や企業社会に奉仕するのではなく、人類的な価値に奉仕する」ことを確認し直す必要があるだろう。12世紀から始まる中世の大学に始まる「リベラルアーツ」と19世紀の欧州の国民国家から始まる「教養教育」、20世紀の半ばからの米国の大学のユニバーサル化に淵源がある「一般教育」の3つの比較は分かり易い。
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確実に歴史の変曲点にいるという感覚のある今、「大予言」という力強い書名に惹かれて読みました。しかし、未来はこうなるという未来像を提示する本ではなく、大きな歴史の中で変化の循環を分析して(分析してきた先人たちの理論を紹介して)大きく世界史を俯瞰してこれから起こる、いやもう始まっている変化の流れを伝えようとする「大変化」とでもいうべき内容です。25年、50年、そして500年をいうびっくりするようなモノサシには正しい、正しくないという次元を超えた新鮮な驚きと納得があります。以前、水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」で「長い16世紀」という言葉に出会った感じを思い出していたら、本書もその本からの引用かなりありました。今から10年前に読んだとしてこの感覚が持てるかどうかはわからなく、世界が今までと違う論法で進んでいる、そして著者と同世代の自分だからの納得なのかな?と思いつつ、きっとしばらく本書に影響受けるだろうな。なにしろ巨人たちの理論を学ぶブックガイドとしても役に立ちました。