あらすじ
バブルの発生と崩壊,深まる政治不信,そして高まる社会不安.列島が酔いしれた高度成長の夢のあと,何が待ち受けていたのか.崩れゆく冷戦構造のなかで,この国は次第に周回遅れのランナーとなっていったのではないか…….60年代半ばから現在まで.政治・経済・社会・家族……すべてが変容し崩壊していく過程をたどる.
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Posted by ブクログ
昨年度、東大を退官した吉見俊哉が2009年に出版した岩波新書です。なんで15年前の本を手にしたのか…はい、古本屋さんでめちゃ安かったからです。それが大当たり!シリーズ日本近現代史⑨と書かれていますが、この一冊、今の自分にとっては社会を見るためのコンパクトな俯瞰図になりました。年齢を重ねることのいいことは、あの時の出来事が歴史の中での意味が理解出来るようになることだと思っています。点が線になる感じ…本書によって視点をドローンのように上げて、さらに線が面になる感覚を得ました。自分の個人史が社会史とか経済史とか産業史とかに重なる感じです。この本が書かれた後に、東日本大震災を始めとする大地震に見舞われ、福島原発のメルトダウンが起こり、特定機密情報保護法案が成立し、線状降雨帯による集中豪雨が多発し、社会がDXを騒ぎ始め、オリンピックパラリンピックが一年遅れ無観客で開催され、働き方改革関連法案が施行され、宗教二世が元首相を暗殺し、中国とアメリカの対立が激しくなり、ウクライナとロシアの戦争が起こり、AIがすべての仕事に絡んで来て、ガサ地区が爆発し、あと…まだまだあるけど…とにかくどこに行くんだ日本社会って感じの現在もこの新書の提示した地図の中で起こっているようにも思えます。「失われた10年」は「失われた20年」に、そして「失われた30年」になっています。たぶんポスト戦後社会はポスト・ポスト戦後社会に入っているのだと思いますが、それはどんな社会になっていくのだろう?…みたいなことを考える時に有用なポケット古地図でした。
Posted by ブクログ
「東日本大震災」という大きな出来事が起こる前の著作ではあるが、90年代までの日本現代史を概観するのにうってつけの一冊ではないだろうか。
いわゆる編年体の書物ではなく、社会学的な視点から日本(人)の歩みを記している。10年前の著作であるため、最終章のJカルチャー輸出の記述はやや古くなっている。
Posted by ブクログ
「あとがき」まで読んで、優れた一書であることを痛感。戦後の事件やイベントを巡る解釈や視点じたいが大変、興味深い。しかし、最後の方になって、だからそれがなに?という疑問がふつふつと沸いてきた中で、あとがきで、ガツンと気合いを入れられた感じがした。歴史の脱構築である。
・べへいれんのシングルイシュー主義。
・<未来>を準拠点にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値意識。これがなくなりつつある。『現代日本人の意識構造」から
・この30年間で地方農村でも社会関係が「都市化」され、全人格的なつきあいは厭われるようになっていった。
・石原慎太郎による環境行政の後退。
・六ヶ所村は満州、樺太からの開拓移民が移住した。
・87年から10年で日本の国土の16%がリゾート開発。
・神戸の震災は「都市経営」という考え方そのものへの反省を迫っている。収益性の重視、住民福祉の軽視。
・右傾化と親米の親目。
・歴史とは、時間的である以前に空間的。単一の通史は存在しない。
Posted by ブクログ
すごく面白かった!!
歴史を知ること、社会を知ることってのは、それだけで終わっちゃだめだね。その連続性の延長に、あるいは空間的な社会の形成過程に自分の存在を見なきゃいけない。
メディアの報道では遠隔地の出来事の「同時性」がむしろそれを画面の中のイベントのように見せるけれども、本当に大事なのは、その出来事のどこに自分がいるかを考えることなんだと思うんだよね。
そしてそれは歴史も一緒ですな。この本を読んで、この国、この社会の成り立ちと自分との連続性を少し見れた気がするんですよ。とても勉強になりました。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
バブルとその後の長期不況、深まる政治不信、そして高まる社会不安。
列島が酔いしれた高度成長の夢のあと、何が待ち受けていたのか。
崩れゆく冷戦構造のなかで、この国は次第に周回遅れのランナーとなっていったのではないか。
六〇年代半ばから現在まで、政治・経済・社会・家族…すべてが変容し崩壊していく過程をたどる。
[ 目次 ]
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻影のなかへ
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 「失われた一〇年」のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
力あんな、この人。
というのが最初の感想かな。
タイトルは歴史ですが、社会学といってもよい。筆者は社会学者。社会を如何に見ていくかを含めた歴史ですね。
このシリーズは良書に始まりました。シリーズの最後は良書で終わるんでしょうか。期待です。
Posted by ブクログ
1970年代後半以降のポスト戦後社会は、それまでに構築されてきた日本近現代の「時間」や「主体」が、自壊していくプロセスだったと言える。
高度成長期からの開発によって日本列島の自然は深刻なダメージを受け、産業の空洞化も進んだ。
また郊外化や核家族化の中で、日本人は内的自我を空洞化させていった。
新自由主義は、豊かさの幻想を打ち砕き、格差社会をまじまじと我々に見せつける。
これらをさらに促進する効果を持ったのが、グローバリゼーションである。
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日本の深刻な有り様から目を逸らすのではなく、それと向き合いながら悲観に陥ることなく希望や展望について思索していきたい。
Posted by ブクログ
しばしば見田、大澤などの論を無批判に受け入れ、抽象的な議論を展開しているのは気になるが、同時代を書こうと思えばある程度そうした踏み込みは必要なのかもしれない。基本的には良質な現代史。
Posted by ブクログ
'70s以降をポスト戦後と位置づけ、そこに表面化している諸々の問題を敷衍しながら、日本というネイションとしての共同体の解体の進行を仄めかす。
個別に、入れ替わり立ち替わり俎上に上がってくるような直近の社会的問題、例えば公害や凶悪犯罪、開発の失敗等々を、一冊のうちに見取り図的にまとめたという点では良書。また、「昭和を知らない」平成生まれ世代が昭和後期を知るための格好の一冊とも言える。とかく、われわれ平成生まれ≒ゆとり世代は「常識知らず」と言われるが、それは昭和のあらゆる重大事を体験していない以上、昭和の「常識」を共有していないのは当たり前なのだ。ゆえにこの本を読んで知っておくのもいいかもしれない。
付け加えれば、この本はまだリーマンショックや9.11、政権交代など21世紀の大事件ににほとんど触れていないし、無論3.11に触れていない。ゆえに、この先はこの本から得られるものと共通しつつもまた大きく違った未来が展望されることだろう。昭和を体験せず、20世紀を忘れつつある我々は、それらをもう一度棚卸しし吟味しなくてはなるまい。いわばこの書はポスト戦後といいつつも、最も新しい歴史への入門書である。
Posted by ブクログ
▼戦後は1945年に始まり、1989年は冷戦の終わりだった。確かにそれも一つの歴史認識である。
▼しかし、いわゆる「失われた時代」は1990年の幕開けとともに始まったのだろうか。答えは否である。少なくともそのきっかけはそれよりも前にあったハズである。それが、本書で言うところのポスト戦後社会、つまり1970年代(後半)に遡るというわけだ。
▼ちなみに現在GDP世界第2位となった中国だが、その生活水準はと言えば、平均的には70年代の日本程度らしい。この事実をもって「日本もまだまだ」と、傷口を舐めあおうとするのではない。原発、反原発、そしてその補填(ほてん)という議論は盛んにされるが、誰がその分の電力が本当に必要かどうか提起したろうか(つまり、現在の「豊かさ」を捨て「十分に暮らせる」1970年代の生活水準に戻ってもいいのではないかという発想)。
▼もしかすると、私たち自身が必死に守ろうとしているものは虚構でしかなく、その「始まり」と「終わり」を見つけるためには、歴史を顧みることが一番の良薬なのでなかろうか。たとえそれがどんなに苦くとも。
Posted by ブクログ
東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉(社会学)による岩波日本近現代史シリーズの第9巻。
【構成】
はじめに
第1章 左翼の終わり
1 あさま山荘事件と1970年代
2 「運動」する大衆の終わり
3 ベ平連とウーマンリブ、反復帰論
第2章 豊かさの幻影のなかへ
1 高度経済成長の頂点で
2 消費社会と都市の若者たち
3 重厚長大から軽薄短小へ
第3章 家族は溶解したか
1 変容する日本人の意識
2 郊外化と核家族の閉塞
3 虚構の世界へ
第4章 地域開発が遺したもの
1 反公害から環境保護へ
2 地域開発とリゾート開発の結末
3 農村崩壊と地域自治への模索
第5章 「失われた10年」のなかで
1 震災・オウム・バブル崩壊
2 国鉄民営化から郵政民営化へ
3 拡大する格差
第6章 アジアからのポスト戦後史
1 企業の海外進出と産業空洞化
2 「海外」の経験・「日本」の消費
3 「戦後」の問い返しと日米関係
おわりに
岩波の日本近現代史シリーズの第9巻は「ポスト戦後社会」がテーマである。ここまでくると既に歴史学の範疇からは外れ、完全に社会学的アプローチになっている。
実証的な歴史学の手法からすれば、本書のような個別具体的な各論をもって時代の象徴的な事件・現象と位置づけるのは暴論と言っても過言ではない。
本書で抽出される現象が、本当にその時代の表象であり、時流を具象化したものなのかということはかなり疑問であるが、そうでもしなければ分裂症の現代社会を論じることは不可能なのかもしれない。本書の中でとても首肯しがたい言説は数多くあるが、それが社会的潮流であると論じられると、明確に否定しがたい指摘も数多くあるのも事実である。
歴史学の手法からは大きく外れてはいるが、本書の存在そのものが従来の歴史学・政治学的的手法に対する問題提起であるということも受け止めねばならない。本書の末尾において著者は以下のように語っている。
「近代のいずれかの段階で、国民国家や帝国、植民地、資本主義と、諸々の巨大なシス
テムが地響きを立てて蠢いていくなかで、たとえば日本史という、連続的な時間性と
しての歴史が浮上してきたのだと思う。だから日本史は、その存立の根底にあるある
種の虚構性というか、抽象を抱え込んでいる。日本史を語る者は、その抽象の危うさ
に敏感でなければならない。
本書がテーマにしてきたのは、そうして構築されてきた日本近現代の時間や主体が
自壊していく過程である。」
Posted by ブクログ
吉見先生による現代史。1972年あさま山荘事件を日本における(自己反省的な)「左翼運動の終わり」と位置付け、その後の高度成長時代、グローバル金融の波に対応できなかった角栄の列島改造とバブル崩壊、グローバル化と新自由主義への傾倒あたりを「ポスト戦後」と称して記述する。
現在の民主党政権が押し進めている節操なきグローバル化も、個人レベル、地域レベル、国家レベルで進む「日本」という主体の解体も、現代史を通してみると歴史の必然のような気がしてくるから不思議だ。
いままで現代史を勉強する機会がまったくなかったので、非常に面白く読んだ。まだ歴史の評価が定まっていない部分もあるので、歴史というよりは評論に近いのだが、しかし、本来歴史とはそういうものだろう。吉見先生もあとがきで「日本史とは抽象である」と喝破している。この「シリーズ日本近現代史」は、もう1、2冊読んでみよっと。
Posted by ブクログ
<1. 変容する日本人の意識>p80
Cf. 「日本人の意識」調査 by NHK放送文化研究所
「限界集落」の状況について。Cf. 国土交通省「過疎地域等における集落の状況に関するアンケート調査」、農村開発企画委員会「限界集落における集落機能の実態等に関する調査」p145
【企業移転から産業空洞化へ】p204 by 小林英夫『産業空洞化の克服』
3つのプロセス
①70年代から85年のプラザ合意までで、急激な円高により競争力を失いかけた産業が輸出市場を防衛するために海外展開を始めた段階。最初にアジア進出をしたのは、繊維や雑貨といった労働集約的産業であったが、やがて電機、化学、機械産業もアジアや欧米に工場を建設し始めた。
②プラザ合意から90年代前半までで、円高が一層進行するなかで輸出拠点作りの動きが広がっていく。この段階になると、家電や自動車などの分野で親会社の要請を受けて系列子会社が海外移転を始めるようになる。それでもこの段階までは、主力部門は国内に残しての海外展開であった。
③90年代後半になると様相が変わってくる。アジア諸国の技術力向上のなかで、日本企業は主力部門を海外に移し始めた。
今や日本の輸出総額に匹敵するほどの額が海外拠点で生産されるようになり、それらの拠点からの輸入も急増していく。国内に残されている生産現場は、主力というよりも残余の部隊となり、国内外の主客の関係が逆転してしまった。
【おわりに】p238
私たちが生きているのはグローバル化の時代だが、このグローバル化は一枚岩的なものではなく、異なる複数の未来に向けられている。試みにそれを、金融グローバリズムやアメリカとの同盟―依存関係を軸とする一極的な地平と、多数の市民的・国際的なエージェントが越境的に連携する多極的な地平に分けてみよう。この区別はもちろん理念型で、一方を「帝国」、他方を「マルチチュード」と呼ぶとしても、現実には両者は重なり、しばしば同じ人物や組織、活動に絡まり合っている。既存の国民国家は多くの場合、前者のグローバル化を支援しながら自らの足元を危うくしてきた。そしてその結果、どちらのグローバル化からも零れ落ちてしまう多くの人びとが生まれ、彼らの暮らしの足元は空洞化し、閉塞し、限界に達しつつある。
本書で述べてきたことからするならば、まさしくこの第三の地平「グローバル」という地平には包摂され得ない無数の人びとの声や心情が、一体化する世界といかに結びつき、新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、21世紀の歴史は賭けられているのだ。
Posted by ブクログ
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」10冊のうちの9冊目。10冊目は編集部による執筆なので,幕末から始まるシリーズの歴史的に一番新しいのが本書ということになる。4冊目の成田龍一『大正デモクラシー』に続いての読書。まあ,この2冊のチョイスは著者で選んでいるようなものです。とりあえず,目次を。
はじめに
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻影のなかへ
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 「失われた10年」のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
おわりに
本書の立場はわずか2ページのあとがきに集約されている。まずもって,社会科学の「空間論的転回」を主張する一人である著者だから,歴史社会学の立場からの現代史だが,歴史であると同時に空間の物語を紡ごうという意図が一つ。もう一つは「単一の「通史」は存在しない」(p.239)という立場。歴史の解釈は無数にあり,本書はその一つにすぎないという立場である。「だから本書は,通常よくある「ドル危機と石油ショック」「日中国交正常化」「高度成長から安定成長へ」「昭和から平成へ」「バブル経済と平成不況」「55年体制の崩壊」といった変化の時間的連続としては歴史を語らない」(p.240)と主張する。
この立場は私にとってはこのあとがきを読んではじめて「あ,そうなんだ」と理解し,この立場はいかにも吉見氏らしいと感じた。しかし,実際に読んでいる途中は「なんてつまらない平板な歴史既述なのか」と感じながら読み進めた。「まあ,岩波新書だから平易に誰でも知っている史実を軸に語っているのだろう」と私自身の常識獲得のために読んだようなものだ。しかし,あとがきを読んで,明らかに著者が覆そうとした常識をも私が持っていないことに気づかされる。私には本書がいかにも「通史」のように見えたのだ。
少し前に読んだ北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』でも強く感じたのだが,東京大学社会学,あるいは情報学環出身の研究者は何か強制観念にかられたかのように,1980年代以降の日本の状況を理解しようとしている。吉見氏もその出世作である『都市のドラマトゥウルギー』が東京の近代史であったように,北田氏も広告の近代が最初のテーマだった。それが徐々に現代を語るように,あるいは語らねばならないかのようになっていく。わたしたちの知らない近代期については彼らの大胆な歴史解釈がいかにも説得的に,魅力的にみえるわけだが,とかくわたしたちが同時代的に経験している時代の解釈となると,本当にそうなのか,メディアが報じていることを基礎としすぎているような気もしないでもない。
歴史社会学という学問自体がそういうものかもしれないが,同時代的に起こっていることはすべてなにか「見えざる手」によって,一定の方向に導かれているように語ってしまうのは,著者があとがきで否定しようとしている「通史」ではないのだろうか。複雑化しているはずのこの社会にある種の理解可能な明快さを求めることは正しいのだろうか。
Posted by ブクログ
2010.10.02 60年代以降の日本についてとてもよくまとめられておりわかりやすい。ただもう少し、日本のポスト戦後とは、なんで、それは未来に向けてどう位置付けられるのか?などなど、解説があると良かった。そのようなことを語るべくシリーズではないのかもしれないが。
Posted by ブクログ
時系列によって単調に区切らず、テーマごとに幅を持たせて書かれているので、非常に読みやすくおもしろい。各テーマもそれぞれが孤立しているという感じはなく、適度に内容がリンクしていて、歴史の曖昧なうねりを動的に感じ取れるのではないかと思います。