吉見俊哉のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ<1. 変容する日本人の意識>p80
Cf. 「日本人の意識」調査 by NHK放送文化研究所
「限界集落」の状況について。Cf. 国土交通省「過疎地域等における集落の状況に関するアンケート調査」、農村開発企画委員会「限界集落における集落機能の実態等に関する調査」p145
【企業移転から産業空洞化へ】p204 by 小林英夫『産業空洞化の克服』
3つのプロセス
①70年代から85年のプラザ合意までで、急激な円高により競争力を失いかけた産業が輸出市場を防衛するために海外展開を始めた段階。最初にアジア進出をしたのは、繊維や雑貨といった労働集約的産業であったが、やがて電機、化学、機械産業もアジアや欧米に工場を建設し始めた。
②プラザ合意から90年代前半までで、円高が一層進行するなかで輸出拠点作りの動きが広がっていく。この段階になると、家電や自動車などの分野で親会社の要請を受けて系列子会社が海外移転を始めるようになる。それでもこの段階までは、主力部門は国内に残しての海外展開であった。
③90年代後半になると様相が変わってくる。アジア諸国の技術力向上のなかで、日本企業は主力部門を海外に移し始めた。
今や日本の輸出総額に匹敵するほどの額が海外拠点で生産されるようになり、それらの拠点からの輸入も急増していく。国内に残されている生産現場は、主力というよりも残余の部隊となり、国内外の主客の関係が逆転してしまった。
【おわりに】p238
私たちが生きているのはグローバル化の時代だが、このグローバル化は一枚岩的なものではなく、異なる複数の未来に向けられている。試みにそれを、金融グローバリズムやアメリカとの同盟―依存関係を軸とする一極的な地平と、多数の市民的・国際的なエージェントが越境的に連携する多極的な地平に分けてみよう。この区別はもちろん理念型で、一方を「帝国」、他方を「マルチチュード」と呼ぶとしても、現実には両者は重なり、しばしば同じ人物や組織、活動に絡まり合っている。既存の国民国家は多くの場合、前者のグローバル化を支援しながら自らの足元を危うくしてきた。そしてその結果、どちらのグローバル化からも零れ落ちてしまう多くの人びとが生まれ、彼らの暮らしの足元は空洞化し、閉塞し、限界に達しつつある。
本書で述べてきたことからするならば、まさしくこの第三の地平「グローバル」という地平には包摂され得ない無数の人びとの声や心情が、一体化する世界といかに結びつき、新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、21世紀の歴史は賭けられているのだ。 -
Posted by ブクログ
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」10冊のうちの9冊目。10冊目は編集部による執筆なので,幕末から始まるシリーズの歴史的に一番新しいのが本書ということになる。4冊目の成田龍一『大正デモクラシー』に続いての読書。まあ,この2冊のチョイスは著者で選んでいるようなものです。とりあえず,目次を。
はじめに
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻影のなかへ
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 「失われた10年」のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
おわりに
本書の立場はわずか2ページのあとがきに集約されている。まずもって,社会科学の「空間論的転回」を主張する一人である著者だから,歴史社会学の立場からの現代史だが,歴史であると同時に空間の物語を紡ごうという意図が一つ。もう一つは「単一の「通史」は存在しない」(p.239)という立場。歴史の解釈は無数にあり,本書はその一つにすぎないという立場である。「だから本書は,通常よくある「ドル危機と石油ショック」「日中国交正常化」「高度成長から安定成長へ」「昭和から平成へ」「バブル経済と平成不況」「55年体制の崩壊」といった変化の時間的連続としては歴史を語らない」(p.240)と主張する。
この立場は私にとってはこのあとがきを読んではじめて「あ,そうなんだ」と理解し,この立場はいかにも吉見氏らしいと感じた。しかし,実際に読んでいる途中は「なんてつまらない平板な歴史既述なのか」と感じながら読み進めた。「まあ,岩波新書だから平易に誰でも知っている史実を軸に語っているのだろう」と私自身の常識獲得のために読んだようなものだ。しかし,あとがきを読んで,明らかに著者が覆そうとした常識をも私が持っていないことに気づかされる。私には本書がいかにも「通史」のように見えたのだ。
少し前に読んだ北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』でも強く感じたのだが,東京大学社会学,あるいは情報学環出身の研究者は何か強制観念にかられたかのように,1980年代以降の日本の状況を理解しようとしている。吉見氏もその出世作である『都市のドラマトゥウルギー』が東京の近代史であったように,北田氏も広告の近代が最初のテーマだった。それが徐々に現代を語るように,あるいは語らねばならないかのようになっていく。わたしたちの知らない近代期については彼らの大胆な歴史解釈がいかにも説得的に,魅力的にみえるわけだが,とかくわたしたちが同時代的に経験している時代の解釈となると,本当にそうなのか,メディアが報じていることを基礎としすぎているような気もしないでもない。
歴史社会学という学問自体がそういうものかもしれないが,同時代的に起こっていることはすべてなにか「見えざる手」によって,一定の方向に導かれているように語ってしまうのは,著者があとがきで否定しようとしている「通史」ではないのだろうか。複雑化しているはずのこの社会にある種の理解可能な明快さを求めることは正しいのだろうか。 -
Posted by ブクログ
本書は2つの読み手によって異なる印象を持つだろう。高等教育の入門の段階で読む場合は、「より抜いたポイントの集約」かなと。多少高等教育をかじってから読む場合は、「いつまで先行研究のレビューまで続くのか、と思っていたら終章になってしまった」と思うかもしれない。
新書1冊に日本大学史を総覧した価値はある。参考文献リストも学習者に役立つ。ただ、筆者の考える新しい主張が終章の一部くらしか見当たらないのは、少し寂しい。教育学を専攻としない情報学環の先生だからこそ、このような本が書けたのかとも思う。2時間で日本の大学の誕生から今日までをかけ抜けることができる意味は大きい。
印刷技術の発展に伴う書物の爆発的な出版、インターネットによる知の洪水という各メディアが大学に与えた影響に触れられている。メディア論としての大学論を今後期待したい。 -
Posted by ブクログ
研究とも関連して興味あるテーマなので面白く読んだ。
ヨーロッパにおける大学の成り立ち(1章)から国民国家と大学の再生(2章)、舞台を日本にうつして帝国における大学(3章)、戦後日本の大学改革(4章)という今までの、最後の章では「それでも、大学が必要だ」とのタイトルで今後の大学のあり方に関する提言が書かれている。
今後の日本に置ける大学の形を考える時、既存の大学概念の中で中世の都市ネットワークを基盤にしたポスト中世的大学モデルが参考になるのではないかと提言している。その理由として、1、世界で多数の大学が国境を越えて都市間で密接に結びついていること、2、高等教育のアメリカ化の中で
学術言語としての英語の世界化がおきており、北東アジアなどの近隣諸国の学生と知的交流をすすめるのにも英語でのコミュニケーション能力が必須であり、それを単純な英語支配と捉えず共通言語以上の可能性を持ったものとして認識することが重要であること、3、今後人類が取り組むべき課題はすでに国民国家の枠組みを越えており、ナショナルな認識の地平を超えて地球史的視座から人類的課題に取り組む専門人材を社会に提供することが大学に求められていること、などを挙げている。(pp.240-243)
面白いのだが、取り立てて目新しいものではない。
それよりも、未来の完全なインターネット社会で大学が生き残ることができるのか、との懸念をぶっこんでたことには、その懸念は理解できるもの、もう少し大学がキャンパスをもち、人と人との直接的な交流が生まれることの意義を聞きたかったなあと思う。最近のキャンパスの国際化や、地域連携などの点についても触れてほしかった。そして、すべての大学教員がマイケル・サンデルのような「白熱」議論ができるわけじゃない、という部分には素直に笑ってしまった。 -
Posted by ブクログ
ブラタモリ鑑賞のお供に最適!というコピーがぴったりな一冊。
文明開化後の上野の博覧会、明治の公演地整備事業で近代都市化をしつつ、江戸時代からの盛り場として地方出身者の受け皿の役割も担った浅草、震災後商業の街として急速に変貌する銀座、戦後の闇市から歌舞伎町のピンク街、浅草と同様に地方の若者の群れを吸収する新宿、パルコの進出で人の流れが変わった渋谷。
ブラタモリの元ネタに違いない。
「東京」の街の変遷を、膨大な資料の裏づけと<上演><演出><演じるもの=役者・観客>という視点で論じている。
過去の社会学者の資料や世界の人類学者の著作からの引用など、まったく知識のない私にとっては読みにくい部分もあった。
第一回内国博の彫刻部門で高村光雲が最高賞を受賞しているのだけど、そのときの光雲のコメントとしては「政府から役人が工芸家を戸別訪問して出品手続きを説明するけど、正直めんどくさい。後から呼出があって賞をやるから授与式に来いと言われたので行ったけど、その賞がいいのか悪いのかも判らない。翌日の読売新聞に「もらったのが一番よい賞だ」書いてあるのを読んでやっととわかった」というような感じで引用されていておもしろい。
また、江戸から明治に移る時、「賎民解放令」によって、興行の担い手が江戸時代に芸能を担った身分の人々を「解放」し、制度の内部に取り込んだ、という考察。
浅草は地方から「未来」を求めて流入した都市下層民の家郷の場、とも。
これは、東京に「被差別部落」がないひとつの理由なのかも。
でもね、これだけ情報テクノロジーと交通手段が発達した21世紀、もう地方人は「東京」だけを<未来>として憧れるのやめようよ。
<未来>は海の向こうの西側や南の方かもしれないよ。
それにしても、文明開化のとき、天皇自ら洋装って、やっぱりコスプレ好きなのね。ニッポン列島人。 -
Posted by ブクログ
学校行事といえば運動会は欠かせないものになっているんじゃないかな。運動会が終わった後で飲む打ち上げのビールのうまさときたら、職場でのギクシャクした人間関係も吹き飛んでしまうような一体感があっていいよねぇ。それだけ教師仲間の集団づくりにもなるんだから、子どもたちにとっても教育効果は絶大なんて思ってしまうよね。
それから運動会には家族そろって御弁当を食べたりして、親子の結びつきも深まるし、ご近所が集まるから地域の教育力も高まるなんて学校教育の生み出した最高の発明品だって思っている人もいるんじゃないのかな。
ところで運動会って何のためにしているんだろう。けっこうわかっているようでいてわかんないのが運動会(学芸会だって何のためにあるのかよくわかんないけど)ではないだろうか。この本は無自覚に運動会をやってきた人々に贈る知的アンソロジーだ。筆頭執筆者である吉見氏は朝日新聞の書評委員なんかもしている気鋭の研究者。五、六年前に『思想』って雑誌に「ネーションの儀礼としての運動会」という論文を発表して注目されたんだ。その論文を巻頭論文に持ってきて、その後白幡洋三郎、平田宗史、木村吉次、入江克己、紙邊雅子といった面々が運動会と近代日本についていろいろ書いている。そうそう平田宗史っていう人は福岡教育大学の先生だぜ。学生時代に習った人もいるんじゃないの。
この本のモチーフは吉見氏の巻頭論文にあるように「(近代において)普及していく運動会が、児童の身体とそれらを囲繞する学校に関するどのような国家レベルの思想と結びついていく運命にあったのか論じたい」というわかったようなことが書いてある。要は花見と戦争ごっこが国家的思想に取り込まれていったのだ、ということだな。
平田センセは「わが国の運動会の歴史」という章を書いている。日本の運動会の歴史が通観できてわかりやすい。白幡氏は福沢諭吉が考えていた運動会について検討し、木村氏は運動会が国家に取り込まれていく過程を政策史的に追い、入江氏は国体によく似た戦前の明治神宮競技大会の分析をして「ナショナルな集団や組織への帰属意識を強化するために」スポーツが利用されてきた歴史を批判的に検証している。中体連でやれ県大会へ行けだの全国大会を目指せだのちゅうことに無自覚に夢中になっているセンセたちは必読。紙邊氏は現代の幼稚園に運動会は無用だという論を展開している。
アンソロジーだから自分の関心のあるところをつまみ読みしてもいい。
★★★★ 運動会(体育祭)や部活に無条件夢中派の筋肉頭で活字は読めないかな