カズオ・イシグロのレビュー一覧
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カズオイシグロのデビュー作。
娘が自殺した女性が、過去の長崎での日々を回想する物語。とても面白いのだが、ストーリー展開的な面白さというより、登場人物たちの会話や、主人公の感覚に違和感を感じて先が気になる、そんな読み方をしたように思う。
読み終えたときに、佐和子は自分自身で、万里子は景子を投影してるのかなと感じたのだが、解説があったことでよりわかりやすくなった。解説を踏まえてもう一度読みたくなった。
どうして今、自分はこの記憶を思い出すのか?そんな視点を持って読むと、わかりやすくなると思う。語られないストーリー、語られない思いが多くあるけれど、何を見るのか、読者に託された余白の部分がイメージとして鮮やかで、いい意味でもやもやの残る小説。
とりあえずは素直に全部読むことを勧めたい。何かを信じることの痛々しさを、噛み合わない会話で表現するカズオイシグロ節が効いていてとても良かった。 -
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ネタバレカズオイシグロの信頼できない語り手はデビュー作から健在だった。信頼できなさでいったら今まで読んだ中でもトップ。
結局彼女の回想やこの物語は何を言いたいのか、
全てはぼんやりとしか見えないのだが、言葉にできない印象にあふれている。
戦前の価値観を引きずる「緒方」、典型的な昭和の親父の「二郎」。彼らは悦子にとっていつのまにか足にからまる縄のような存在だったのだろうか。佐知子の行動は悦子のイギリス行きに影響したのだろうか。佐知子と万里子はその後どうなったのだろうか。悦子は日本を棄てたことを後悔しているのだろうか。
新しい時代への希望、家父長制への怒り、敗戦国の人間のプライド、女性の自立、殺人
事実どのようなことがあったのかを考えてみると
イギリスに住んでいる語り手=悦子なのかどうかも怪しい。特に最後の稲佐に遊びに行った時にすでに景子は生まれていたかのような発言。万里子=景子、語り手=佐知子という可能性も考えられる。あるいは自分の中の美しい記憶と景子を結びつけるもの悲しい嘘か。
長崎での少女殺人事件で、女の子が木に吊るされているというイメージは何を表すのか。回想の最後でどうやら悦子は縄を持っているらしい、それを見た万里子は怯えたように逃げ出す。
悦子の娘、景子はのちに首吊り自殺をする。悦子は自身の渡英という決断が景子に与えた影響について悔いている。そしてブランコにのる女の子の夢。紐で吊られたものがおそらく揺れているだろう、かなり不吉なイメージの繰り返し。
長崎を回想する→佐知子という子供をかえりみない、ある種自分本位に行動していた女性を思い出す→自分も佐知子と同じように日本を出て、その結果景子を失う。そのことへの罪悪感→首吊り自殺の光景とブランコの夢。悦子は自分が思ってるよりも景子の自殺を受け止めきれていないのではないだろうか。
ミステリばっか読んでるせいで、事実関係にばかり気を取られてしまう。この作品に真実など必要ないのに。 -
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『ミス・サイゴン』だと思った。戦後の痛みと、混乱のなか、世の中が「変化」していくことを嘆き、もがく旧世代の緒方さん(=悦子の義父)と、「停滞」する日本にいてはいけないと信じて、アメリカへ渡ろうとする佐知子。やがて同じように、離婚を経てイギリスに移民した、悦子。佐知子も悦子も、子どもを連れて越境する。本作において、ヒロインたちはとにかく自分を時代の前へ前へ、駒を進めようとする。子どもを巻き込んで。
ミス・サイゴンでは、ヒロインのキムは我が子に未来を切り拓くため、自分の命を犠牲にして、我が子をアメリカに渡らせた。
何が人を越境させるんだろう。海を渡った先に、約束された未来、少なくとも今よりもいい未来があると盲信させるものは何だろう。
この国の家族の形は随分変わった。特に、女性の生き方は。海を渡った悦子の次女・ニキの今も含めて、家族の形と女性の生き方を考えた。映画を観ているような読書時間だった。
文末にカズオ・イシグロの名訳者小野寺健氏、池澤夏樹氏、そして三宅香帆氏の三者三様の充実した解説がある新版が、とてもよかった。 -
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カズオ・イシグロを読むのは、「日の名残り」について2冊目。「日の名残り」が長編であったのに対して、本書は、「音楽と夕暮れをめぐる」5つの連作短編集である。いずれも、書下ろしとのこと。
5編の短編は、物語としてとても面白いものであった。
どれも面白いが、どれか1つを選べ、と言われれば、私であれば「老歌手」を選ぶ。老いた歌手は、まだ年老いたとは言えない妻に、ベネチアの運河でゴンドラに乗り、妻のいる運河沿いのコンドミニアムに向かって歌う。愛し合っていながら、別れを選択するという不思議な世界に生きる2人の、しみじみとした物語として、私は読んだ。 -
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カズオ・イシグロの4作目の長編。ブッカー賞を獲った「日の名残り」のあとにこれだったから、きっと面食らった人は多かったろうに。
世界的ピアニスト(と思われる)ライダーが「木曜の夕べ」なる催しで演奏をするために、欧米のとある街を訪れる。
ただしこの物語の舞台は不条理であり、筋が通っていない。悪夢的な世界の中で、とっ散らかりながら進行する。
悪夢的な世界なので、すべてが脈絡なく突然起こる。ライダー自身も「木曜の夕べ」で演奏する、ということのみ認識しており、それをやりきることが使命だということのみ理解している。そのイベントがどこで行われるのか、誰と行うのか、何もわからない。それを知ろうとすると突然誰かが現れ、見知らぬ場所に連れて行かれる。でも見知らぬ場所は言われてみるとよく知っている場所であり、そこで自分がどのように振る舞えばよいのかを思い出す。しかし、その場で適切な行動を取ろうとすると、取れない。動けなかったり声が出なかったり。まさに悪夢的。
なんというか、不条理が9割、常識が1割くらいの内田百閒的な悪夢であれば、それはもう幻想小説的な感覚で、スタートから一気に増大していくエントロピーを受け入れる(というか諦める)ことで楽しむことができる。一方でこの小説はカフカ的悪夢、不条理5、常識5くらいの配合で物語が進んでいくので、不条理な世界に入ってエントロピーが増大しかかったときに、こんどはその世界の中で道理が発生し、エントロピーが収束していく。理解可能な世界に連れ戻された気になった瞬間また不条理が発生する。この繰り返しが不気味であり一種の疲労感を生む。
その悪夢的展開が延々940ページにわたって続く。これは賛否あるのもむべなるかな。
カズオ・イシグロの数々の作品の根底に共通するものの一つに、「記憶の曖昧さ」というものがある。
この記憶の曖昧さが、彼が描く物語に大きな特徴を与えている。彼の作品の特徴である「信用ならない語り手」を作り出したり、奇妙なミスリードを我々にもたらして話を展開させるのもこの記憶の曖昧さを巧みに利用したものであると思っている。
そして今回の作品についても、単なる不条理小説なのではなく、今までであれば、たとえ曖昧であってもあくまで時系列という軸はぶれていなかった記憶を、悪夢的舞台という設定を利用して時系列すら無視して物語に組み込んだというふうに見ることができる。
時系列を無視というのが正しいのかはわからない。ある程度まで読むと、実はこの作品がある種の階層構造を持っており、そういう意味では時系列は正しいのかもしれないのであるが、それでも一読では完全に時系列を無視した記憶が出てくる。それでも、記憶のトリックをふんだんに散りばめていると考えると、いかにもカズオ・イシグロの作品らしいと言える。
彼が書いているものに、ぶれはない。そう思える。
940ページ、分量としてはだいぶあるのだが、ただ読みにくいわけではないから特にこのボリュームが苦痛ということはない。
ただ、先にも述べた通りこの不条理世界を体験したときの不安やイライラがこの長さ続くというところは、うーん、難しいな。
私はすごく面白いと思った。私はね。というところかな。 -
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引退した心穏やかな画家の、内面に潜む葛藤を深く鋭く描いている。
前作『遠い山なみの光』と同じく、地域や世代による認識の狭間で揺れる主人公だ。だがこの作品ではそれがより洗練されている。
これをさらにキレイに纏め、舞台をイギリスに移したものが次作の『日の名残り』と言えそうだ。
次の世代の方々との考え方の違いに、自分がどう上手に折り合いをつけていくかは、僕も常に向き合っている課題だ。
主人公はその答えを
『受け入れる柔軟性を持ちながらも、自己の本質的な考えは変えない』点に見出した。この回答は今後の僕に大きな示唆を与えてくれるだろう。
カズオ・イシグロ作品の多くに言えることだが、活字を追うこと自体に幸せを感じた。文中の単語一つ一つに込められた著者の深淵な思いとか、そういうものをあれこれ詮索しながら読むのが実に楽しいのである。 -
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勧められて!久しぶりにカズオ・イシグロ(といって他にたくさん読んでいるわけではないのだけれど)
以前『わたしを離さないで』を読んだ時にも受けた、どこか紗がかかっているような世界、全てが語られない物語感、少し邂逅してすれ違っていく個々人の人生(サラ~~)というものに、カズオ・イシグロ…ってなっていた笑。それからどうしてもクリストファー/アキラが著者本人が投影されるように感じてしまう~
どうして・何をクリストファーは解決しに上海に戻ったのかや、アキラが本当にアキラだったのか、そういったことは語られない。漠然としているだけ。
アガサ・クリスティーの小説をどこか読んでいるような、探偵ものなのは趣向が面白かった。
ぼくたち子どもは、あの木製の羽根板を留めつけている撚り糸のようなものなんだ、とアキラは言った。日本人の僧侶からかついてこう聞いたことがある、とアキラは言った。ぼくたちは気づかないことが多いけれど、家族だけではなく、全世界をしっかりとつなぎとめているのは、ぼくたち子どもなんだ、と。もしぼくたちが自分の役割をきちんと果たさなかったら、羽根板ははずれて床の上に散らばってしまう、と。(p.127-8)
到着したときからわたしが大きな衝撃を受けていたのは、ここにいる誰もが、自分たちがどれほどの非難に値する存在かを認めることを拒否しているということだった。…文明世界全体を巻き込もうとしている大混乱の中心であるここには、否認というお粗末な共同謀議が渦巻いているのだ。責任の否認、それはどんどん内向し、ひどくなっていっているのに、一種思い上がった自己保身の中で自らを誇示している人々にわたしは何度も遭遇した。(p.273)
孤児であり、探偵であるクリストファーが語ることは、単純に上からのお説教ではないように作られている。ものの、もう少し力強い感情として伝わってくるような文章・内容でもよかったのではないか、と思ってしまう。
「…あたくしにわかっているのは、あたくしが何かを探しながらここ何年も無駄にしてしまったってことだけ。もしあたくしがほんとうに、ほんとうにそれに値するだけのことをやった場合にもらえる、一種のトロフィーのようなものを探しているうちにね。でも、そんなものはもういらない。今は他のものが欲しいの。温かくてあたくしを包みこんでくれるようなもの、あたくしが何をやるとか、どんな人間になるとかに関係なく、戻っていけるものが。ただそこにあるもの、いつでもあるもの。ちょうど明日の空みたいに。そういうものが今は欲しいの。…」(p.358)
昔日に、「あたくしの愛情、エネルギー、知性ーといっても大したものじゃありませんけどーのすべてを、ゴルフかシティで再建を売ることに夢中になっているようなつまらない男性のために無駄に使いたくないの。結婚するとしたら、ほんとうに何かに貢献するような人でなくっちゃ。つまり、人類に、というか、よりよい世界に貢献するという意味でよ。すごい夢でしょ?」(p.84)と言っていたサラ…自分自身ではないのは時代設定が故か。
そうして最後に、「…今はお仕事をすべて終えられ、最近、わたくしが当たり前のことのように受け取っている幸せな生活や伴侶に、あなたも恵まれていらっしゃることを願うばかりです」(p.529)という手紙が最後になる感じは、たまらなく、好きだった。 -
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カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した際のスピーチ。彼の真面目で優しい性格がよくわかるが、内に秘める情熱も見え隠れする。
よく知られている通り、彼は5歳まで日本で暮らした後、日本人の両親と渡英し移民した。その後大人になるまで日本に行くことはなかったが、彼の心の中には常に(想像による)日本があったという。その「記憶」をとどめようと書いた小説が評価された。
日本への憧憬を持ちつつもイギリスをいかに愛しているかが綴られている。また、小説と全く関係のないことから、ハッとするアイデアが浮かび、それが自分のスタイルを決定的に変えたことも書いてあった。
彼の小説は胸がじんわりと痛むものも多いが好きだ。「日の名残り」がまた読みたくなった。 -
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全体的な曇り空がずっと続いているようなノスタルジックな雰囲気を纏っている短編集。本作はクスっと笑えるシーンも多くて、新鮮な気持ちになった。
個人的には「降っても晴れても」がお気に入り。
まず主人公があまりに不憫すぎる。やる事なす事想像の上をいってて面白かった。それと対比するように、出てくるジャズの選曲がどれも本当に最高で。この話を読んでジャズにハマった。ぜひサラ・ボーンの“April in Paris”を聴きながら読んでギャップを楽しんでほしい。
それにしても土屋さんの訳は何度読んでも素敵だなぁ。一節読むだけでカズオ・イシグロの世界にどっぷり浸かれる。さらに読みやすい。次作も期待したい! -
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カズオ・イシグロの第二作。戦後日本を舞台としていること、一人称の回想の語りによる作品であることは前作『遠い山なみの光』と同様。登場人物同士の視点や価値観のズレが読者に異和を感じさせながら展開していくことも共通しているが、大きく異なるのは『遠い山なみの光』におけるズレは未来に対する視点の違いにあったのに対して本作におけるズレは過去に対する認識のズレが描かれているところ。一人称の語りという構成上、語り手である小野の認識上の問題と事実との差分をどう捉えるか、そして語られることの背景で語られないことをどう推測するか、聞き手であり読み手である私たちの解釈の余地が素晴らしく表現された作品だなと感じる。