ヘルマン・ヘッセのレビュー一覧
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タイトルが「共同体の中で友愛関係を失い追放された異人である人狼」を連想させ、ぱらぱらっとめくったページに書いてあった、
「今夜4時から魔術劇場
――入場は狂人だけ――
入場料として知性を払うこと。
だれでもの入場はお断り。ヘルミーネは地獄にいる。」
「ハリーの死刑執行」
などに心惹かれたので読んだ。
序盤のハリーの心理描写などがよかったが、途中退屈して読むのを中断していた。
2006年の秋頃の精神的につらい時に読んで90ページくらいで中断し、また今年の9月に入ってから読んでいたが、退屈するところは同じなようで、90ページ目くらいで数日放置し、その後、1日30〜40ページくらいのペースで読み、今 -
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読むのに非常に時間がかかった。話が現実と幻想を行き来しているし、第一人称で描かれているし、構造がムヅカシかった。もちろん読みごたえ十分。この作品は世界へむけて描かれたものなのかな。主人公は既読の「デミアン」「シッダールタ」「知と愛」と同じく、現実世界の背後の永遠の世界を求める、というようなヘッセ自身の投影なのだろうけど、悟るのではなく現実社会に打ち砕かれる、というところがこの作品の特徴。近代世界への強烈な揶揄というか。
最後の狂気じみた劇場での幻想の場面の、言葉の使い方が美しい!!これは翻訳の高橋さんの手柄なのかな。やっぱりドイツ語で読んでみたい。 -
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ネタバレ市民的なものを嫌う隠者が、わざわざ最も市民的で規則に囚われた生活をしているものの提供する家に住む。
狼(本能的と厭世的)とハリー(市民的で俗物的)の2面性の板挟みになり、どちらも身を投じて楽しむことの出来ないハリー。前半では「狂人しか立ち入り禁止!」という自分と通ずる張り紙を見つけて、入る方法を模索するが、ついぞ入れることは無かった。
ある日飲食店に行った帰りに、墓に立ち寄ったら(この辺うろ覚え)狂人しか立ち入り禁止!を掲げていた男が葬式の参列者として参加していた。話しかけてみるが、なんのことか分からないとしらを切られてしまう。その帰りにハリーはオオカミに内心笑われつつ、旧友である教授にで -
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10歳の少年シンクレールが、明るく正しい父母の世界と、漠然と憧れていた暗い悪の世界、この明暗2つの世界を揺れ動きながら、年長の友人デミアンとの出会いにより自我を求めていく成長過程を描いた小説でした。
正直なところ、翻訳された文章に手こずり、私には少々難解な小説となってしまいました。結局ストーリーを追うばかりで、シンクレールやデミアンの心の動きをつぶさに感じとることが出来ませんでした。明暗2つの世界、自我の確立など、哲学的な内容であったにも関わらず、翻訳が原文の直訳なのか原文に書かれているであろう比喩的表現の翻訳が読み難く、内容が十分に伝わってこないのは残念でした。テーマは誰もが成長期に経験す -
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中学生のころに読んだはずであるが、いまいち内容を覚えておらずあらためて読むことにした。
著者のヘルマン・ヘッセは1946年のノーベル文学賞受賞者で、車輪の下は1905年の発表作品だ。
ヘッセの自伝的な作品とされるが、内容は結構ぐさりとくるものであった。
神学校入学からのその後の寮生活は暗澹たるシーンが続き、生々しい心理描写が綴られていいく。
自分は一気に読めず、数日に分けてこのあたりを読み進めた。
主人公の少年の置かれた環境は、逃げ場がなく、空気があるのに窒息してしまうようなものであったと思う。
そして、周囲の大人たちこそが、この作品のもう一つのキーになってくる。
架空の主人公な -
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ネタバレ高校の時に、「俺本読むわ、でも何から始めていいかわからんし」って言った時に母が買ってきてくれた本がこれ。積み本にしてそのまま捨てて、買ってくれた母は今は亡き。
思い出して大いに猛省し、再度読む機会を得た。
これはヘルマンヘッセの自伝でもあるという事だったけど、ええ!?主人公最後....オイ
これは今でいう鬱になっちゃった時期があったんだろうか、神学校から戻ってきてからの話がぶっとぎ過ぎて学生時代こんなむつかしい本理解できんやろうって思いながらも、でもやっぱりこれは学生時代に読んでおきたかったなぁとつくづく思った。
タイトルの車輪の下って意味が文中に登場し、ああ、そういうことなんだぁって納得した -
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主人公のクヌルプは、とても魅力的な青年に感じました。
作中に出てくる登場人物たちも、彼を慕っていて、彼が来ると食事やお酒を与え、寝床まで提供します。
しかし、彼はどこにも定住しません。人生に悩んでいるのです。
なぜ、彼にこんなに魅力を感じるのかは、理屈ではなかなか説明できませんが、最後の神様との対話で、その理由が少しわかった気がします。
それは彼が自分の生き様に対して、本気で悩む人だったからです。
最初の頃は、どちらかというと、物事を斜めから見るような印象が強いクヌルプですが、それは彼なりの物事に対する「真摯な態度」の表れだったのかもしれません。