小田島雄志のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ今年はシェイクスピア劇を観る機会に恵まれました。吉田鋼太郎さんや文学座の本格的なお芝居に。
そしてうん十年ぶりに読み返す楽しさ!
デズデモーナはムーア人の勇敢な将軍オセロと恋に落ち、元老院議員である父の反対を押し切って結婚する。
しかしオセロの忠実な部下イアーゴは、オセロへの嫉妬から、彼を欺き美しきデズデモーナと引き離そうと、彼女が不義(浮気)をはたらいていると思い込ませようと画策する。
このイアーゴの話術によって、愛する唯一の妻デズデモーナを信じられなくなってしまうオセロは
自ら破滅への道へ…
このオセロの破滅を 悲劇というのかしら?
は?!デズデモーナの悲劇じゃん!というのが私の感想。
しかし舞台を観ると、
女たちがとても美しくピュアに描かれていて、シェイクスピアってフェミニストだったのかしらと嬉しくなりました。逆に男たちは滑稽極まりない。
デズデモーナの身の回りの世話をしていた、裏切り者イアーゴの妻エミリアがとっても人間味があって素敵なのです。
シェイクスピアの人間観察眼、ほんとにすごいものがあったんだなぁ。
なんて鮮やかに可笑しく悲しく人の心を描くのか!
残りの人生、シェイクスピア観劇を趣味として生きていきたいと思うほどでした
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Posted by ブクログ
古代ローマ時代を舞台にしたシェイクスピアの作品を最近は読んでいる。ローマ劇というらしい。全部で何作あるんだろう?考えてみると、シェイクスピアの作品数も知らない。
最初は古代ローマのいつの時代の劇かわからなくてなかなか読み進められなかった。
ローマの最後の王を追放した頃の話らしい。
最初はコリオレーナスはものすごく内向的な人かと思ったけれど、ただ単にあまりにも融通の利かない、頑なな性格なだけかもしれない。
「しょせん人間の美点はそれぞれの時代の解釈次第だ、権力の座はいかにもすわり心地よく見えるものだが、功績をたたえてその座につかせてくれた演壇が、やがては墓場となることを覚悟せねばなるまい。」p.207 -
Posted by ブクログ
古代ローマ帝国興亡史でシーザーが死んだので、この本を読んでみた。最後に読んだのはずいぶん前で、細かいところは忘れてしまっていたので、新鮮に楽しめた。
アントニーとクレオパトラも読みたい。
2024年5月
この戯曲にはクレオパトラの影も形もないけれど、シーザーはこのとき、ローマの別宅にクレオパトラを住まわせて、子どもも二、三人いたんだよな…と思うと、前からひどいセリフだと思っていた、第一幕のシーザーのキャリパーニアに対する「石女」云々の台詞がより一層ひどく感じた。
ポーシャとブルータスのシーンで、ポーシャの太ももの傷が謎だったのでググってみた。
このセリフはポーシャの愛と強さの証明というのが伝統的な解釈だったけれど、自傷をする不安定な女性という現代的な解釈で演じられることもあるらしい。
キャルパーニアのシーザーに対する「あなたの分別は自信の強さに飲み込まれておいでです」というセリフが、自宅で暗殺の相談をする直前のブルータスの、シーザーといえども権力の座につくと人間が変わってしまうだろう、という内容のセリフを裏打ちしているように感じた。
「」p.47
第三幕第一場の「男も女も子供も、目をむき、声をあげ、駆け回りまるで最後の審判だ」というセリフで、当時の古代ローマで最後の審判が信じられていたのかが気になった。
第一回三頭政治が始まったのが紀元前60年。シーザーがブルートゥスら共和制支持者に暗殺されたのが紀元前44年だった。まだキリストも生まれていない頃だ。ユダヤ教徒はとっくにローマ帝国の一部だったけれど。
最後の審判の起源はゾロアスター教にあると言われているけれど、ゾロアスター教が成立するのは紀元前1200年から前700年ごろと言われている。
ユダヤ教成立は紀元前13世紀ごろと言われている。ユダヤ教の方がゾロアスター教より成立が早かったのか。
ゾロアスター教的な民間信仰はずっとあったけれど、ゾロアスターが誕生してゾロアスター教ができるのはユダヤ教成立より後だったということなのかな。
シーザーの時代のローマ人が「最後の審判の日」という言い回しを使ったかはわからないけれど、シェイクスピアの時代のイギリス人ならすぐに理解できただろうというのはわかる。
シーザーの市民への遺産の75ドラクマは、当時としてはどれくらいの価値があったんだろう?
シーザーやアントニーはポピュリズムの政治家だったのかな。でもどうして死後まで人気取りのようなことをしようとしたんだろう?クレオパトラとの間に生まれた子供が、王としてローマ人に受け入れられやすくするため?
王政だったころのローマすら、王は選挙で選んでいたのに、シーザーは自分の王朝を作ることを望んでいたのか?謎だ。
もしシーザーが暗殺されずにいたら、オクタヴィアヌスはどうなっていたんだろう。クレオパトラの子と権力争いの内乱を起こしてそう。
少なくともパックス・ロマーナも無かっただろうし、その後の世界の歴史が全く違ったものになっていただろうな。想像もつかない。
シーザーが独裁者の地位を望んでいたのか疑問だったけれど、シーザーは本当にローマとエジプトを統べる王朝を立てたかったのかもな。 -
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「幸福と愛を混同するのは間違いだ」英文学史に名を刻む恋愛小説の最高傑作とはいえそこに甘さはない。妻と恋人と神との4角関係を描くキリスト教哲学小説の名作。西アフリカの植民地の警察副署長スコービーは南アフリカに移住したいと言う気まぐれな妻のためにシリア人の悪党に金を借りる。妻が発った後、海難事故で夫を失った若い女ヘレンと出会う。
グリーンの凄さは無駄のない人物描写にある。何かの役割を持って過剰に語ったり作者すら気持を理解できない人形のような人はいない。登場人物はごく自然に登場しその一挙手一投足が適確なジャブのように後々確実に効いてくる。そうそうと言ってるうちに迷路に迷い込み、それでも進むうちに一気に視界が広がりすべて計算されていたことに気づく。戻ってきた妻と理解ある恋人がいる中でスコービーはある決断をする。心の中は永遠に他人にはわからない。ときめきこそが人生の花でありときめきの数だけ罠がある(≧∀≦)しかし果たしてそれは罠なのか。恋人への愛、家族への愛、友への愛、人類への愛、神の愛、違うものなのになぜすべて愛という言葉で表現するのか、それが人類の明日の課題。魂が震える傑作 -
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シェイクスピアで最も有名な戯曲。学生時代に読んで以来、久し振りに読み返してみた。
ハムレットのストーリーはよく知られていて、映画やオペラにもなっており、この戯曲について書かれた本も多い。初めて読んだ時は新鮮で面白かったが、改めて読んでみると話の展開にスピード感がなくて、イライラするような独白や会話が延々と続く感じがした。おそらくストーリーが判っているので、そう感じたのかもしれない。ハムレットは優柔不断で悩み多き王子で、様々な言葉でその時の気持ちを表現する。それが多くの箴言となり、欧米人がよく引用する。最も知られた”To be, or not to be, that is the question."という独白の言葉だが、これは学生の頃、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と習った記憶がある。小田島訳では、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」となっている。確かに文脈から読むと、そのほうが自然でわかりやすいと思う。ちなみに以前読んだ彼のエッセイに、この一文の過去の翻訳が記載されていた。過去に遡ると、
昭和46年 木下順二訳「生き続ける、生き続けない、それが難しいところだ」
昭和43年 小津次郎訳「やる、やらぬ、それが問題だ」
昭和35年 三神勲訳 「生きる、死ぬ、それが問題だ」
昭和24年 市川三喜訳「生きるか、死ぬか、そこが問題なのだ」
昭和10年 坪内逍遥訳「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」
明治27年 岩野泡鳴訳「死のか、死のまいか、一思案」
明治7年 イエロー・ヨコハマ・パンチ 「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」
ハムレットの言葉は易しいが、訳すのが難しい。翻訳家の先人達の苦労が偲ばれる。ハムレットを読むと、少し自分が賢くなったような気がする。(気のせい?) -
Posted by ブクログ
シェイクスピアの4大悲劇の一つであり、多数の名台詞があるとされる『ハムレット』。戯曲ということもあり、非常にすらすらと読めますが、その真意はなかなか掴みづらい印象を受けました。
ハムレットの復讐は最終場面において成就しますが、それ以前にも殺せる機会があったにも関わらず、何故ずるずると自らの死を迎えるまで実行しなかったのでしょうか。「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。」というように、ハムレットの心には不決断が渦巻いていて殆どの行動は極めて中途半端に終わっているように思えます。また、母である王妃に対する姿勢も曖昧模糊としており、ハムレットの本心が謎というベールに包まれていると感じました。
だからこそ、ハムレットやその他登場人物の心情を理解したくなるし、理解出来れば人間とは何かというテーゼの答えを知ることができるという点で評価が高く、是非実際に劇を見てみたい作品です。