畑村洋太郎のレビュー一覧

  • やらかした時にどうするか

    Posted by ブクログ

    最近大きなミスをやらかしてどん底に落ち込んでたので「失敗を苦にして衝動的に死を選ばないようにする」というひと言がずんと響いた。
    心に大きなダメージが残っている間は「自分のせいだ」「自分はなんて駄目な人間なのだろう」と責めに責めてより傷が深くなるため、とにかく責任転嫁に徹する。
    周りに無理やりでも否を見出だし、失敗により溢れ出る自責の衝動を落ち着かせる。

    さらに、ある程度の失敗であれば、しないよりもしたほうが良い。
    今後起こり得るミスを減らせるのはもちろんだし、周りの失敗にも寛容になるため、何事も自分事として捉えられるようになり、情報の吸収性が上がる。

    失敗に対する耐性のつけ方を学べるありがたい本でした。

    0
    2026年05月01日
  • 失敗学のすすめ

    Posted by ブクログ


    本書では、失敗とは何か・失敗から何を学べるか・失敗を創造に生かすにはどうすれば良いのかという観点から、その基本的な考えや現在の日本の課題などについて解説している。
    特に参考になったのは「失敗の経験から創造を生む思考プロセス」と「成熟した産業における失敗の危険性」に関する分析である。
    失敗の経験から想像を生む思考プロセスに関しては、失敗の経験が如何に創造的思考に影響するかという説明を通じて、失敗といかに向き合うべきかについて述べられている。
    また、成熟した産業における失敗の危険性に関して、市場が成熟しマニュアル化されることで、全体像を把握することができなくなり、その結果致命的な失敗が起こってしまうというプロセスに関する筆者の分析は、非常に納得がいくものである。
    「失敗」に関する知識を体系化している本として本書は非常に優れていると感じる。今後仕事をする際に、本書を参考に、失敗と向き合う組織づくりが出来るようにしたい。

    0
    2025年12月03日
  • 失敗学のすすめ

    Posted by ブクログ

    ご本人の経験も含め、失敗に対してどのように向き合うのか、わかりやすい文章で書かれている。社会の進展とともに、合理化、効率化が求められ、各自は個々のパートが割り当てられ、全体のことを考えなくなり、人材育成ができてなかったことに気付く。

    0
    2025年07月05日
  • 失敗学のすすめ

    Posted by ブクログ

     人は失敗を恐れる。失敗を学びの機会と捉える重要性を説く。成功ばかりを重視する風潮が同じ過ちを繰り返す原因になると指摘する。
     失敗には必ず理由がありそれを分析し理解することで次の成功への糧となる。畑村氏は自身の体験や具体例を交え失敗を直視しそこから学ぶ姿勢を持つべきだと主張する。
     とはいえ、失敗を受け入れるのは容易ではない。失敗を責める社会の風潮や自尊心の傷つきが妨げとなる。失敗を隠すことでさらなる誤りを招くことを畑村氏は警告する。
     失敗は恥ではなく成長への扉だ。失敗を恐れず、冷静に分析し次に活かすことで、人はより強く賢くなる。予測に反したことから学びノーベル賞を得たこともこの例となる。畑村氏の教えは挑戦を続ける勇気を与えてくれる。

    0
    2025年03月19日
  • 技術大国幻想の終わり これが日本の生きる道

    Posted by ブクログ

    350

    153P

    畑村洋太郎(はたむら ようたろう)
    1941年生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工学院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授を歴任。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主宰。02年にNPO法人「失敗学会」、07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げ。日本航空安全アドバイザリーグループ委員、JR西日本安全有識者会議委員、リコールの原因調査・分析検討委員会委員長などを務め、2011年6月より東京電力福島第一原発事故・事故調査・検証委員会委員長。
    著者に『失敗学のすすめ』『創造学のすすめ』『みる わかる 伝える』『危険不可視社会』(以上講談社)、『直観でわかる数学』『技術の創造と設計』(以上岩波書店)、『数に強くなる』(岩波新書)、『畑村式「わかる」技術』『回復力』『未曾有と想定外』(以上講談社現代新書)など多数。

    技術大国幻想の終わり これが日本の生きる道 (講談社現代新書)
    by 畑村洋太郎
     また、火力発電が増えれば当然二酸化炭素の排出量も増えますが、不思議なことにだれもそのことには触れません。「原子力反対!」を叫ぶ人が多いので言われなくなったということでしょうが、少し前まで二酸化炭素の排出量増加の問題が声高に叫ばれていたことを考えると、おかしな話だと思います。

     一方、その時点で原発そのものが絶対的に安全なものとは考えていませんでした。それは技術としてまだ未熟な部分があると見ていたからです。そもそも原発は、産み出す熱の三割程度しか発電に使うことができない効率の悪いものです。ちなみに石炭などによる火力発電では産み出す熱の四割以上を発電に使うことができますが、これはまさしくそれまでの経験のちがいで、技術の成熟度の差なのです。これは技術の歴史を振り返ればある意味当然です。というのはどんな分野の技術でも、十分な失敗経験を積んで技術が成熟するには、だいたい二〇〇年かかるからです。

     原子力がその時点で本当に安全なものなら、石炭火力と同じレベルのエネルギー効率になっていたはずです。それができなかったのは、技術がまだ発展途上だったからにほかなりません。ちなみに発電のメカニズムは、原子力も火力も同じで、蒸気でタービンを動かします。しかし火力のほうがはるかに高温高圧の蒸気を使い、タービンを回しているのです。

     そのこと自体は、おかしなことでもなんでもありません。発展途上の技術の扱いを慎重に行うのは当然のことです。 何より問題だったのは、発展途上の技術を「 絶対安全だ」 といって使っていたこと です。そういわないとまわりが納得しなかったのかもしれませんが、そのような運用をしつつ大事故を起こしてしまったことが致命的な失敗につながりました。

     アメリカでスリーマイル島原子力発電所事故が起こったのは、一九七九年のことです。それ以降もアメリカでは一〇〇基を超える原発が動いていますが、あの事故後に新設されたものは一つもありませんでした。またドイツは一九八六年のソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故以降、原発の利用に否定的でした。近年は両国とも原発の利用を前向きにとらえていましたが、福島第一原発の事故で再び国民の否定的な意見にさらされて、エネルギー政策に大きな影響が出ています。

     その周期はだいたい三〇年くらいだと思われます。というのも人間というのは、基本的に自分の経験でしかものを考えられないからです。すると三〇年くらい経つと、社会の中で人間の入れ替わりが進み、経験していない人が多数派になることで、風潮も変化します。これは津波や地震など、大災害に対する反応でも明らかです。この理屈で考えると、日本でもおそらくこれから三〇年くらいは、原発を積極利用しようという話にはならないでしょう。もちろんその間に、他国であろうと原発がらみの重大事故が起こったら、さらに遠のくことになるでしょう。日本の原発利用は、あの事故によってそれくらい大きな制約を受けることになっていると考えなければなりません。

    これから日本が進むべき方向としては、やむを得ず原発を使うという道もあれば、それでも原発には依存しないという道もあります。後者は決して不可能ではなく、新たな方法でエネルギーを産み出すという解もあるし、技術のイノベーションによってこれまでと同じことをより少ないエネルギーで実現するという解もあるでしょう。大切なのは、どちらに進むにしても制約条件をちゃんと把握して、その中でもがき苦しみながら最善の答えを導き出すことなのではないでしょうか。

    実際に移民を早くから受け入れてきた西ヨーロッパでも、まだまださまざまな課題があります。戦後積極的に移民を受け入れ、いまや人口の五分の一が移民出身者で占められるドイツでは、移民出身者の教育問題、失業問題などをどう解決していくか、いまなお模索が続いています。私は一九八〇年代のはじめにドイツに留学していたことがありますが、そのとき知り合った日本人医師が勤めていた病院は、ドイツの中でも貧しい人たちが住んでいる地域にありました。そこでは移民も多く、偏見をもとにしたさまざまなトラブルが起こっていたと聞かされました。文化が異なる外国人を入れる移民政策には、必ずそういった影の部分があります。

    また、二〇一五年一月のフランス紙襲撃テロ事件では、フランスのイスラム教徒が全国民の七%を占めていることが話題になりました。移民の問題と事件を軽々に結びつけることはできませんが、事件の背景に近年フランス国内で高まっているイスラムコミュニティ排除の問題が指摘されています。

    日本の中に外国人を入れるのが悪いことだとは思いませんが、そのときに何が起こるかはあらかじめ考えて慎重に判断する必要があります。

    私は外国人を入れる前に考えるべきは、やはり高齢者と女性の雇用だと思います。

    その一方で、経営や企画が本当にできる人は、いまでも高い価値があると認められています。これは人ごとに収入が全部違うので一概には言えませんが、大ざっぱに見ると、経営ができる人で年収三〇〇〇万円、本当の企画ができる人で年収一〇〇〇万円程度という感じでしょうか。

    たとえば、かつて日本メーカーが市場を席巻していた半導体の世界では、高品質の日本製の歩留まりが九〇%台後半だったのに対し、後進の韓国・サムスン製は当初六〇~七〇%台だったそうです。それを聞いた日本企業の関係者は、「やはり韓国製は粗悪品だな」とバカにしていたそうです。  しかしその分、サムスンは価格の安さと数で勝負しました。半導体の世界は規模が勝負を決める装置産業の要素が非常に強く、また日進月歩で技術が進歩していくことに特徴があります。日本が品質にこだわっているうちに、サムスンは、どんどん数をつくって、そこでできた資金でどんどん設備を新しくして市場を奪っていったといいます。そして歩留まりも次第にあがって八〇%台に。もっともそれでも日本製とは一〇%以上の開きがありました。しかしそれでも市場を取ったのはサムスンだったのです。おそらく歩留まりを八〇%台から九〇%台後半にするのは、非常にたいへんだと思います。サムスンはそこで歩留まりを上げるより、新たな設備を導入し、規模を拡大するほうを選んだのです。どちらが正しかったのかは、その後のシェアが証明しています。

    ノウハウ(know/how) ばかりにこだわっていると、社員や作業者は自ら考えることを放棄するようになります。これではせっかくの技術が弱体化していくだけです。技術をより強くするのはノウハウを守ることではなく、ノウホワイ(know/why)、つまりその技術の理由や動機を知ることが重要になります。さらにはノウワット(know/what) という目的意識をしっかり持って技術を扱うことが大事なのに、日本の技術運営はそこが抜け落ちているのです。

    日本はいままで「価値」というものを突き詰めて考えてこなかったと思います。いや、昔は考えられていたのかもしれません。茶器、襖絵、浮世絵といったものは、価値を認める人々がいなければ、現在日本文化を代表するものとして残っていなかったでしょう。日本各地に残る祭りもそうです。それぞれの地域で価値を認める人たちがいたからこそ、これだけ多様な祭りが残っているのでしょう。そう考えると、日本人が価値について考えなくなったのは戦後のことかもしれません。そして、価値について考えてこなかったのは、日本人が戦後、経済的に豊かになることだけを考え、自分たちの生き方について真剣に考えてこなかったことと等しいのかもしれません。

    「日本の企業はたしかにどうやってつくるかという構造を考えるのはうまい。でもその土地や土地に住んでいる人々が大切にしている文化のことはあまり考えていません。これは日本企業が価値について真剣に考えてこなかったからではないですか」  わたしはハッとしました。たしかにいままで漠然と考えていた文化の違いというのは「価値」という言葉で見てみるとスッキリします。また、日本企業がグローバル競争で苦戦しているのは、価値ということを真剣に考えてこなかったからだというのは、まさにその通りでした。

    たとえば、サムスンの地域専門家制度は、吉川さんなどの元関係者の紹介もあり、最近では日本でも知る人が多くなりましたが、これはたんなるマーケティングとは似て非なるものです。数字やレポートで出てくる情報を頼りにしていたら、しょせんはよそがすぐに真似できるものしかつくれません。

    アップル製品はその代表例でしょう。電化製品では、やはりアップル製品のブランド力が頭抜けていますが、それはおそらくスティーブ・ジョブズのものづくりに対するこだわりに共感する人が多かったからだと思います。  ジョブズは、いままで機能を中心に考えられていた電化製品の見た目の格好良さ、肌触りといった五感のイメージに徹底的にこだわった人です(おそらく一世を 風靡 したソニー製品にも以前はそうしたこだわりはありました)。だからこそ以前からアップル製品を熱狂的に支持するユーザーがいたのです。

    しかし場合によっては、技術の変化によって市場の様子がまったく変わってしまうことがあります。たとえばフィルム事業がそうでした。デジタルカメラが普及するにつれてフィルムの需要は急速に減少し、いまでは一部のマニアとフィルムならではの価値を認めるプロが使う製品になってしまいました。

    この急速な変化に対応したのが富士フイルムです。かつてフィルム事業を主要としていた同社は、いままでのコアビジネスが成立しなくなったときに事業の転換をはかりました。フィルムで培った技術をベースとして、いまでは化学や化粧品などのファインケミカルなども含めて複数の事業を展開するようになっています。一方で、同じフィルム分野の企業で、切り替えられなかったのがコダックです。需要が少なくなったとき、この世界最大のフィルム会社は経営破綻に追い込まれました。時代の要請に合わせてコア事業を切り替えられなければ、企業の発展がないことはコダックと富士フイルムとの比較から明らかです。

    この第3部では、すでに進められているそうした戦術を、企業の実例もあげながら検討していきます。ここで取り上げられていることがすべてではありませんが、今後、どのような方向に進めばいいのかを考える上で大きなヒントになるでしょう。

    かつて日本の消費者も同じ道を辿ってきましたが、初めて製品を使う人には、基本的な機能があれば十分です。自動車は走ればいいし、洗濯機は洗って絞ることができればいいのです。便利な機能が必要になるのは、製品にある程度慣れてからで、最初は便利さよりも手頃な価格で入手できることのほうが喜ばれます。そうした製品は、すでに部品から完成品までをすべて新興国でつくれるようになったので、日本から輸出する必要はありません。つまり工業製品もいまは、地域で生産して地域で消費する「地産地消」が世界の趨勢になっているわけです。  そこで必要となってくるのは、機能を充実させることよりも、その国の文化を知り、その国の文化にあった製品をつくることで、その国の消費者の圧倒的な支持を集めることなのです。

     たとえば自動車産業で考えてみると、インドの国内自動車生産台数は二〇一〇年が三五〇万台だったのが一二年は四〇〇万台といったように年々増加傾向にあります。インドは国全体で見ると、産業発展期の入り口ですが、それでも自動車の生産量はすでに四〇〇万台を超えて、しかもそれをすべて国内で使っています。二〇二〇年には一〇〇〇万台という予測もありますが、これは現在の日本の国内生産量と同じです。これが日本の人口の約一〇倍の一二億人の市場の力なのです。

     一方、インド以上の巨大市場を有している中国の自動車生産量は、二〇一〇年が約一八〇〇万台、一二年が約一九〇〇万台、一四年が約二四〇〇万台で、すでに日本の二倍を超えています。世界の総自動車生産量はだいたい八〇〇〇万台強なので、世界で新しく生産される自動車の四分の一以上が中国製なのです。

     さらに最近、中国の自動車生産能力はすでに年間五〇〇〇万台まであがっており、完全に供給過剰の状況になっているようです(日本経済新聞二〇一五年五月六日)。当然その過剰分は海外への進出という形であらわれます。私は当初、中国製のほとんどは、自国内で消費されていると思っていましたが、二〇一四年に南米のペルーを訪れたとき、中国車が入ってきていると聞いてたいへん驚きました。ペルーでは、日本車の価格を 10 だとすると、中国車は半分の5くらいということです。経済的にそれほど豊かでない新興国では、低価格を武器に中国車が存在感を発揮する可能性は十分あります。

     日本の企業が数多く進出している中国には、反日デモなどの危険要素もあります。これまで市民の間で反日感情が盛り上がったときには、日本系のお店や飲食店などが一部の過激な市民の攻撃対象とされました。また新興国の中には、政治の体制が不安定なところもあります。こういう国では、ある日突然政権が崩壊して国内のルールが変わってしまう危険もあるわけです。

     こういうこともまた、現地のことを知らないとわかりません。日本の感覚で製品開発を行っていたら、求めている機能がないものになってしまいます。インドだけではなく多くの新興国では、日本より韓国の家電メーカーのほうが広く支持を集めていますが、それは韓国メーカーがその国ごと、地域ごとの文化や生活環境などを取り込んで、どのように使われるかまで考えて製品開発を行っているからです。そこは謙虚に見習うべき点です。

     実際に、私が新興国を回ってみた印象では、日本が売りたい原発や新幹線などハイテクを利用したインフラは必ずしも相手が欲しているものでないように思いました。たとえば移動手段でいったら、高速鉄道よりふつうの鉄道のほうが必要だし、需要でいったら高速道路のほうがあるのではないかと思いました。そのほうが物流にも使えて便利だからです。

    そもそも新幹線のようなハイテクのインフラが使えるのは、日本のように電気が安定的に供給されている場所にかぎられます。そういう視点で新興国のことを考えると、高速鉄道を導入するまでに乗り越えなければならない壁はかなり高いように感じます。むしろ新興国の都市で深刻化している渋滞緩和のための都市交通の解決策として鉄道が使えるのではないでしょうか。

     職場のリーダーがメンバーの出産計画にまで立ち入るというのは、日本では考えられないことです。それが当たり前のように行われているのは社会主義国ということなのか、それとも土地柄なのか、いずれにせよベトナムだから可能なシステムなのでしょう。海外で生産活動を行うときには、このように地域とのつながりやその社会がどのような文化を持っているのかといったことを考慮する必要があります。

     その企業が必要としている多くの人手は、いくら中国でもその場で簡単に集めることはできません。地方から人手を募っているということで、集められていたのはその地域とはつながりもない遠方からやってきた人々です。そのため孤独感を感じやすいのか、自殺する人がいたそうです。  さらに、自殺者が出たとき、会社が遺族に弔慰金を払ったところ、「自殺はお金になる」と考える人が出てきたそうです。そして故郷の親族のために弔慰金を残すべく飛び降り自殺をするようなケースが出てきたので、自殺防止のための対応策に取り組まざるを得なかったようです。

     働いている会社からお金をもらうために自殺をするというのは、やはり日本では考えられないことです。そうしたことが起こるのは、無理な人集めをしていることに原因があるように思いました。地域や文化と関係なく、お金を中心にすべてを動かしているのが中国流の経営です。働く側もお金にシビアで、少しでも賃金がいい働き口が見つかるとすぐに転職してしまうようです。それが中国の文化ということなのかもしれません。

     この人に求められるのは、ものづくりにかかわるすべてのことについてマクロの現象・ミクロの現象やそのメカニズムを理解していることです。さらにどこがその技術を持っているとか、それを使うにはいくらかかるかといった費用などのことまですべて把握していると、本当の意味で技術を武器にした商売ができます。

     先ほどのスティーブ・ジョブズは、トップでありながらこういうことができる人だったと思われます。もしくは、自分の希望していることをまわりや協力企業の人たちに正確に伝える技に長けていたということなのかもしれません。  日本の企業にこのような人材がいるかというと、いまはおそらくいないだろうとしかいえません。だから日本の企業は本当の企画ができないというのが、いまのところの私の結論です。

      幸福でいられるのは当たり前で、努力すれば報われるのが当然という社会は、そういう社会をつくる私たち一人ひとりの努力の上に成り立っています。それなのに大多数の人が、「自分には関係ない」とか「だれかがそういう状態をつくってくれればいい」と考えて行動していたらどうなるでしょうか。その結果、求めている幸福感が得にくくなっているのがいまの日本の状況なのではないでしょうか。

    しかし一方で、効率化がはたしてすべて良いことかということも考えていく必要があります。日本は近年、効率は善、安売りは善、便利なことはいいことだということで社会が進んできました。しかし、その結果、街からは小売り店が消え、スーパーや量販店、コンビニエンスストアだけが残るようになりました。しかしそのことで私たちの生活

    が豊かになって便利になったかというと、どうもそうとはいえないと実感しています。

    たとえば街から八百屋や魚屋、豆腐屋や肉屋が消えたことで、食卓に並ぶ食材が貧しくなったと感じたことはないでしょうか。近所に街の電器店があれば、なにか困ったときもすぐに助けてもらえるのにと思うことはないでしょうか。街の電器店は、たしかに量販店(最近はネット販売店) に比べると、割高になるかもしれませんが、それも困ったときに助けてもらうための代金を含んでいると思えば納得できる気がします。これはいわば新興国へ鉄道車両だけを売りっぱなしにする商売と、鉄道の運用・保守の指導込みの商売とどちらが良いかというのと近いものを感じます。

     日本に必要なのは、このように自分自身で状況を把握し、自分なりの考えをつくることができる人材です。そのようにして導き出した答えには、当初は明確な正解はないかもしれません。しかし自分なりの考え(仮説) をつくることができれば、とにもかくにも信じる方向へ動き出すことはできます。そして自らの仮説に基づいて実践することで、自分の立てた仮説が正しいかどうか実証するのです。それが正しければそのまま進み、間違っているとわかれば、その原因を検証し、別の仮説を立てます。

     いまの日本には、明らかにこういう人材が不足しています。理由は単純で、やはり教育カリキュラムがそのようになっていないからです。日本が生きていくためには、こういうタイプの人を意識的に育成することが急務になっています。そしてこのようなタイプの人たちが社会の核となるところで活躍するようになったら、日本は変化に強い、世界の中で大活躍する国へと再び生まれ変わることができるのではないでしょうか。

    0
    2024年07月02日
  • 失敗を生かす仕事術

    Posted by ブクログ

    737

    224P


    失敗博物館かなりいいね。オランダに拷問博物館とか人体の不思議館みたいな特殊な博物館があって面白かったから日本に失敗博物館あったら行きたい。失敗博物館があることで、失敗は悪いことじゃないし、次の人の為に隠ぺいしない、失敗からどう変えていくことが大事かみたいな意識の改善にもなりそう。

    畑村洋太郎
    1941年東京生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工学院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授 を歴任。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主 宰。’02年にNPO法人「失敗学会」を、’07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げる(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『失敗学実践講義 文庫増補版』

    失敗を生かす仕事術 (講談社現代新書)
    by 畑村洋太郎
     仮に一家の主が職を失った場合、生活を維持していくのに必要なお金を稼ぐのもなかなかたいへんです。日本における平均労働時間は、サービス残業と呼ばれるものを加えると年間でおよそ二千時間から二千二百時間程度に上ると考えられますが、仮に三百万円程度の年収を得るためには、時給で一千五百円程度の仕事に就く必要があることになります。  じつは、時給一千五百円の仕事はいまの日本にはあまりありません。手軽にできる仕事としては、女性ならばスーパーのレジ打ちなどがありますが、得られる時給は八百円から九百円程度です。主に男性が行うビルの管理人や工事現場の交通整理などの仕事でも一千五百円の時給を得ることはなかなか困難です。

    世の中には、いまでも成功体験に学ぶ生き方を選択している人は少なくありません。過去にうまくいった方法を真似るやり方は、大きな失敗をする心配がないし、一番安全な道に見えるからです。

    もし消費者の志向が変わったのが商売の不調の原因であれば、それを素直に認めて、自らのやり方も新しい欲求に合ったものに変えていくしか道はありません。つまり、自分を不安にしている原因は、本来中国やITなど環境変化の問題などではなく、まわりが変化しているのに自分のやり方を変えることのできない自分自身にあるのです。

     私たちが生きていく上で本当に必要な知識は、表面的なものではない、より実践的な知識です。表面的な知識というのは、暗記中心の学校教育で教わるような知識で、一方の実践的な知識は、自分自身の体験やまわりの人たちの体験に学んだ生きた知識を指します。失敗に学んで身につける知識も当然後者に入ります。  後者が大事なのは、実際に社会の中で起こる現象のほとんどが、学校で教わる模範的な知識を前提とした形になることがないからです。とくに人々の要求が多様化しているいまの時代は、複雑な要素が絡み合って従来予期していなかったことも次々に起こります。これらにうまく対応しようと思ったら、より実践的な知識を行動の中で失敗を繰り返しながら取り入れていくしかないのです。

     人が未知なものにチャレンジするとき、そこには必ず失敗が待っています。行動を起こせば、その結果はほとんどが失敗で、うまくいくことのほうが珍しいのです。  四十八ページに示した図は、失敗に学ぶことの大切さを端的に表したものです。まず人が行動すると、そこには必ず失敗が待っています。そして、そこで経験する痛みや悔しさが新しい知識を受け入れる素地をつくり、さまざまな知識を学び、考え、経験しながら、そこで得たものを普遍的な知識として吸収して、最終的に現象の真の理解が達成されるということが表されています。  その第一歩は、自ら行動することから始まりますが、その結果として経験せざるを得ない失敗は、本来、誰もが忌み嫌うような悪いものではありません。ここでの失敗は、本当の知識を得るために避けては通れない、ひとつのプロセスなのです。そして、人が新しいことを始めるときには、過去の成功や他人の成功に学んで失敗を避けるのではなく、そのような失敗と真正面から向き合う勇気を持つことがやはり大事なのです。

     人は失敗すると必ず「痛み」「悔しさ」を感じます。じつはこれが非常に大切なことで、これによって人は新しい知識を受け入れる素地を自分の中につくることができるのです。また、「体感・実感」しながら身につけた知識は、暗記試験対策のために行う学校の勉強のようなものに比べれば、実際に使える場面もはるかに多く、実践的なものとして自分の中に根づくのです。

     ビジネスの世界にかぎらず、スポーツでも学問でも突出した活躍を見せている人は、一様に失敗を経験して大きく成長しているというのはよく聞く話です。そのことを指して、「失敗をバネにしている」などといいますが、この「バネ」というのが受け入れの素地のことです。

     時代が変わると、定式もまた変わります。人間の営みは結局、失敗から定式をつくって成功が得られる状態に導き、その定式が通じなくなったら再びチャレンジして失敗する。そして新しい定式をつくり出して成功に導いていくという繰り返しなのです。

     EUから受けた警告を日本のお役所が黙殺した二〇〇一年六月の段階で、「これはたいへんなことが起こると私は感じた」と述べましたが、これは別にあてずっぽうでも 山勘 でもありません。自分が持っている失敗のシナリオにあてはめてシミュレーションを行った結果導かれたひとつの見方で、その三ヵ月後に日本中を震撼させた騒動が起こったのは単なる偶然ではなかったのです。  この問題に際して、最も初期の段階で私が参考にしたのは薬害エイズ事件です。EUの報告書によって感染の危険性が指摘されていたのに、牛肉を扱っている業者や生産農家などへの影響を配慮してこれを黙殺した農水省の態度が、薬害エイズ事件を引き起こした当時の厚生省の役人たちの判断とまったく同じに見えたからです。

     自分の英語力がアップしたことが残念ながら錯覚であるのは、MITを出て街を歩いてみるとすぐにわかります。大学の中では、誰もがあれだけ理解してくれたはずの自分の英語が、一転してまったく通じないのです。  街に出て買い物をしようとしても、まったく理解してもらえずに何度も聞き返されることも珍しくありません。親切な人が助けてくれても結果は同じで、そのような経験をするたびにこちらの自信は揺らぎ、拙い英語を発する声が自信喪失によってさらに小さくなって、相手はさらに理解できなくなるという悪循環に陥ったりするのです。  拙い英語を理解できる人とそうでない人の差は、言葉を交わしているときに状況から推察する逆演算を日頃から行っているか否かのちがいにあるように思います。  逆演算能力を持っているか否かは、頭の中にいろいろなシナリオがきちんと入っているかどうかということに言いかえることができます。

     MITにいる人たちは、現象を理解するために対象を徹底的に観察する習慣が、日頃の研究を通じて身についています。ある事象を見て、そこから課題そのものにさかのぼっていく思考にも慣れており、また、その過程で起こるさまざまな失敗についての仮想演習もきちんとできるので、断片的な言葉と状況判断から相手が言おうとしている中身を推し量ることも容易にできます。  日頃からいろんなものをきちんと観察し、シナリオが頭の中に入っている人というのは逆演算の能力にも優れ、対象の全体像を理解する能力も磨かれるのです。

     新しい定式をつくるためには、自分の目の前で起こっている現象がどんな意味を持っているのかきちんと理解する必要があります。  そのためにはまず、対象を徹底的に観察する習慣を身につけることです。  たとえば街を歩いているだけでもいろいろなことがわかります。  何気ないように見える街の風景も、注意深く観察すれば、社会や時代の移り変わりを肌で感じさせてくれます。また、あるひとつのものを集中して観察することで、自分にとって未知だった世界の仕組みを全体的にとらえることも可能になります。  実際、同じ場所を歩いても朝と昼では人の流れも自動車の流れもちがうし、五年前、十年前の様子を思い出して比較してみれば、いろいろな変化に気づくはずです。街を歩いているときには、郵便局や宅配ピザの配達係になった気分で、どの経路で行くのが速いのかを考えるのも面白いかもしれません。

     私は街でいろいろ発見するのが大好きです。個人的には最近、日本の食文化を変える革命を起こしているラーメン屋という商売に強い興味を覚えて熱心に見ています。ラーメン屋に注目している理由は、そこが店側の努力にお客さんの反応がダイレクトに返る場所になっているからです。「うまい店・いい店に人が集まる」という健全な市場原理が働き、どこのお店もお客を集めるためにいろんな工夫を凝らして、高いレベルで競い合いあっています。また、比較的小規模な店舗でも十分に営業が成り立っていくので新規参入もしやすいせいか、腕に自信のある人たちが次々と店をオープンし、不景気といわれるこの時代にあってラーメン屋業界は活況を呈しています。

    評判のラーメン屋を見かけても、どうしても「おいしいラーメン屋が近所にできてよかった」くらいの感覚しか持てないかもしれませんが、それだけではもったいない話です。自分がラーメン屋を開業する前提で想像できなくても、たとえば人気ラーメン屋があることから派生する経済効果や人の動き方など、自分の仕事にも応用できるシミュレーションはいくらでもできるはずです。それが自分の仕事の能力を高めたり、ときにピンチから脱するための重要なヒントを与えてくれることもあるのです。

     どんなに小さなことでも、徹底的に観察すると新たな知恵が得られる例をもうひとつあげたいと思います。

     大学の研究室のOB六人と一緒に、西吾妻山という標高二千メートルほどの山の山頂を目指して山歩きに出かけたときの話です。登山の途中、ある参加者の登山靴の底が 踵 の部分から剝がれはじめ、この剝離が前方に進行して最後にはパックリ割れてしまうという事故がありました。右側の靴から剝がれ出したかと思ったら、やがて左側も剝がれはじめて、頂上に着いたときには両方の靴底が完全に取れてしまうという凄まじい状態です。  あまりのひどさに、登山の途中でこの人は「みんなに迷惑がかかるから帰る」と言い出しました。しかし、「どうせだったらみんなで一緒に知恵を出し合おうよ」と私が提案したところ、それを素直に受け入れてくれました。それからはすばらしい山間の景観もそっちのけで、私は山頂までの道すがらずっと彼の後ろを歩きながら踵の部分を徹底的に観察しました。  このとき、靴が壊れた原因が経年劣化と間欠使用にあることは、自分自身の経験からすぐにわかりました。十年ほど前、まったく同じようにゴルフ靴が壊れたことがあったからです。メーカーに抗議したところ、靴の踵の中に入り込んだ水分が拡散して加水分解したのが壊れた原因だという回答がありました。「ふだん使わずに置いていた靴には一般的に起こること」ということでした。  ここでのポイントは、「普段は大事に靴箱にしまっておいた」という部分で、この破壊は年に一、二度しか登山やスキーに使用…

     私が長年職場としてきた大学という場所は、世間から隔離された、世の中の動きとまったくちがった方向の研究をやっていてもそれが許されてしまう怖いところです。せまい分野でたいした成果もあげられない研究を行っても、同じような研究者たちの間で互いに認め合うことでなんとなくやった気になってしまいます。現実には、そこから出てきた研究成果を、世間はまったく評価していないのですが、下手をするとそれすら気がつかないままで過ぎてしまいます。まさにタコツボの典型のような職場になりがちです。  私自身、東京大学機械科の教授だった時代をあらためて振り返ってみると、一九八五年に研究テーマを変更するまで、タコツボ的生き方にどっぷりつかっていました。鋳造や塑性加工などの分野における研究が世間では誰も使わない古いものになっていたのに、ずっとそれにしがみついていたのです。

     当時の私は「いい研究を行えば世の中はそれを必ず使ってくれる」と心から信じ、自分が「いい研究」と思っていたものに世の中がまったく関心を示してくれないことを不満にさえ思っていました。自分が本当に世の中が必要としている研究を行っているかどうかを顧みずに、「使わない世の中がおかしい」と考えていたわけですから、いまから考えるとどうかしていました。

    「千三つ」という言葉があります。新しいことを始めてそれがうまくいくのは千のうちのわずか三つで、その確率は一〇〇〇分の三程度の小さなものであるということを示した言葉です。  企業が行うプロジェクトでも、また、個人の活動でも、これはまったく同じです。新しい技術、新しいシステムを生み出すとき、人は誰もが必ず失敗を経験します。それも一度や二度という生やさしいものではなく、最終的な成功に到達するまではそれこそ失敗の繰り返しで、そもそも人間の進歩の歴史は失敗の結果もたらされたものだといっても過言ではありません。

     ハインリッヒの法則は、失敗がある一定の法則で起こる確率現象であることを私たちに教えています。また、表面的には成功しているように見えるときでも、その裏で失敗の準備が着々と進んでいるという恐ろしい現実があることも伝えています。その中には、一度発生すると、再起不能の状態に追い込んでしまうような、致命的なダメージを与える危険な失敗が潜んでいることもあるかもしれません。  これに対して、日頃から三割の冷静さを持って行動し、「自分は失敗するかもしれない」「それによって、すべてを失ってしまうこともある」という危険性の検討をたえずしていれば、少なくとも致命的な失敗に遭遇することは避けられるはずです。また一歩進んで、大失敗の予兆として起こっている二十九件の軽度な失敗や、あるいは「ヤバイ」と思った三百件の些細な出来事を経験したときにこれを生かすことができれば、未来に待ち受けている失敗のほとんどを防ぐことができるでしょう。

    「絶対に不正をしない」というものを何にするかは、その人の考え方もあるので自分自身で決めるといいでしょう。たとえば身近なことで思いつくのはゴルフがあります。「紳士のスポーツ」といわれるように、ゴルフは自分のスコアを自己申告するスポーツなので、不正をしようと思えば簡単にできます。でもどんなときでも「絶対に不正をしない」と自分で決めてそれを守れるような人は、大事な場面で誘惑に駆られて失敗することもないでしょう。

     その意味では、いまの時代はうまくいった加点法の評価を取り入れていくのが組織運営上は大切です。また、それ以上に重要なのは、失敗した人のリターンマッチを許すことをシステムに取り入れることだと思います。  何度も繰り返し述べているように、新しいことにチャレンジすれば、まず最初は失敗に終わります。にもかかわらず、日本の会社では失敗そのものが大きなマイナスとして扱われ、ひどいときには失敗者の人格そのものまで否定されることもあります。その結果としてどこの組織でも起こっているのが、誰も新しいことにチャレンジしない組織の硬直化なのです。

    じつは、失敗を生かそうとする文化を持つアメリカの会社でも、失敗を起こした人には厳しい評価が下されています。その点は日本とまったく変わらないように見えますが、その人が失敗から学び、それを次に生かせる状態にあると判断されれば必ずリターンマッチのチャンスを与えるところが決定的にちがっています。同じことをやらせる場合、失敗経験がない人よりも、失敗から多くのことを学んでいる失敗経験がある人を優先させる発想が、アメリカの会社にはあります。

     実際、単純ミスや不注意などによって失敗を招いたというならまだしも、それが新しいことにチャレンジする中では避けて通れない失敗ならば、そのことで本人を責めるのは酷というものです。どんなケースでも例外なく「一度失敗したらその人はもう終わり」という運営では、それこそ組織としての活力は完全に失われかねません。

    また、組織の中で起こっている失敗の被害をいたずらに広げないためには、失敗の「駆け込み寺」のようなものを組織のなかにシステムとして用意して問題解決にあたる発想も必要だと思います。失敗はだれもが無意識のうちに隠したがるものですが、それを放置することで被害を大きくしてしまうことは現実に多々あります。また、精神的に追い込まれた人が、その状態に耐えきれずに自殺したりということもあり得ることで、そうならないためにも、被害が大きくなる前に失敗者が自発的に失敗を告白できる環境やシステムを組織の失敗対策としてあらかじめつくっておくことも必要だと考えています。

     そういった意味で私は、失敗の研究、失敗情報の収集や発信、失敗の体験などもできる「失敗博物館」をつくることが必要だと考えています。  失敗から学ぶ必要性を理解している人たちは失敗に関する多くの情報を求めていますが、まだまだ一般社会の風潮としては失敗を恥ずかしいものとして考え、これをなるべく隠しておこうとする傾向が強いので、必要な人が必要な情報を得られにくいのが現実です。

     そもそもこの失敗の根にあるのは、成功偏重主義に陥っているいまの日本の文化としての問題です。これを変えて、失敗に学んだり、失敗を生かすことで新たな知恵を生み出す新しい文化を築いていかないかぎり、時代の変化にうまく対応できずに同じような大失敗を繰り返すことになるはずです。  そして、弊害の多いこうした風潮を変えていくには、一人ひとりが失敗への接し方を変えていくしかないように思います。その国の文化は、誰かが決めるものではなく、社会を構成する一人ひとりの考え方を反映して築かれていくものだからです。

    0
    2024年06月24日
  • 組織を強くする 技術の伝え方

    Posted by ブクログ

    770

    畑村 洋太郎
    1941年東京生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工学院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授 を歴任。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主 宰。’02年にNPO法人「失敗学会」を、’07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げる(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『失敗学実践講義 文庫増補版』

    組織を強くする 技術の伝え方 (講談社現代新書)
    by 畑村洋太郎
    ところが、正しい伝達が行われなかった場合はこんなふうにはいきません。A世代の人々が自分たちの技術をきちんと伝えなかった場合は、次世代の人はまた一から学ばなければなりません。するとA世代の人々と同じだけの労力と時間をかけ同じ技術を習得することになります。このことを示したのが図の B' です。そこには技術の新しい進歩は見られません。さらに B' 世代からも技術の伝達がなされない場合は、次の C' 世代になってもその組織における技術レベルはA世代と変わらないということになります。

    たとえば学校教育で算数や数学を教える場合、多くの先生は公式は正しいからといってそのまま教えようとします。これは別に誤りではありません。余計な情報を一切 削ぎ落とす効率のよい方法だともいえます。だから教える先生たちは、最も大切な部分だけを教えるのだから「いいこと」だと考えています。ところが、生徒にとっては、自分の身近な具体的な世界の知識を使うことができないので、「こんな勉強にどんな意味があるの」と興味も持てないし、疑問に思ってしまうのが現実です。学校教育の現場では、それが結果として勉強嫌いを増やす原因になっています。

    私はこれまでいろいろな企業のマニュアルを見てきましたが、不必要な部分を捨てないケースでは、だいたい当初厚さ五センチのものが三十年後には三十センチくらいにまでなっています。一見するとマニュアルが厚くなるのは正しいことのように思えますが、詳細を検討して不要な部分を切り捨てるという作業を怠った結果でもあるわけです。

    ちょっと抽象的な話になりますが、知識というのは関連する要素の組み合わせによってつくられたある一つの構造になっています。そのことを頭に入れてこの図をもう一度見てください。知識が正しく伝えられるかどうかは、伝えられる人が頭の中にどのような構造を持っているかで決まります。そして、きちんと伝わった状態というのは、伝えたい人が頭の中に持っている知識の構造が伝えられる人の持っている構造と一致したことをいうのです。

    伝えられる人が頭の中にもともと持っている知識の構造とは、「理解のためのテンプレート(型紙)」のようなものです。これと相手が示した知識の構造が完全に一致したとき、「理解できた」となるのは間違いありません。しかし、仮に完全に一致するテンプレートを持っていなくても、似たようなテンプレートさえ持っていれば、その場で新しい理解のためのテンプレートをつくっていくことが可能なのです。

    以上のことを念頭に置いて、技術を正しく伝えるためにはどうすればいいか、あらためて私なりの考えを簡単に整理しておきたいと思います。正しく伝えるためのポイントは次の五つです。   1 まず体験させろ   2 はじめに全体を見せろ   3 やらせたことの結果を必ず確認しろ   4 一度に全部を伝える必要はない   5 個はそれぞれ違うことを認めろ

    一つめは、「まず体験させろ」です。うまくいくコツ、方法を教える前に、まずやらせてみるのです。  たとえば習字だったら筆を持たせて書かせてみる。スキーだったら板を履いて滑らせてみる。設計だったら機械に触らせてみる。仕事でも(もちろん外部に迷惑がかからない範囲で)やらせてみる。当然最初はよくわからないわけですからうまくいきません。しかしそうしたことによって、もっと知りたい、できるようになりたいと、受け手の頭の中に受け入れの素地ができれば、その後の伝達ははるかにスムーズに進むでしょう。

    二つめのポイントは「はじめに全体を見せろ」ということです。  もちろん全体を見せるというのは、最初からすべてを理解させるという意味ではありません。たとえば仕事の全体像をいきなり見せても、最初は何のことかわからないでしょう。  しかし最初に全体を見せることで、自分がこれから学ぶことが全体の中でどのような役割を果たしているのか意識することができます。「自分が何のために学ぶのか」を知ることによってモチベーションもあがるので、これもまた「受け入れの素地」をつくることに役立ちます。  また全体を見る経験をしておくと、あるひとつのことがらが全体の中でどのような役割を果たしているかにまで考えが及…

    三つめが「やらせたことの結果を必ず確認しろ」です。これは前章でも触れましたが、多くの場合、伝える側は何かの方法で技術を伝達したら「これで自分の役割は終わった」と思い込んでいます。自分は正しい方法できちんと伝達したので、理解できないのは相手の責任と考えているのです。しかし、前述したように伝わったかどうかは相手が伝えた内容と同じ行動を取れているか、その結果でしか判断できません。だからきちんと結果を確認することは伝える側の大切な役割なのです。  その結果がよければきちんと褒めること。そして結果が悪ければ、なぜ伝…

    四つめのポイントは、「一度に全部を伝える必要はない」です。ポイントの二つめで「はじめに全体を見せろ」という話をしていますが、全体を見せるからといってすべてを最初から伝える必要はありません。習い事では必ず初心者、初級、中級、上級といったクラス分けがあり、それに応じた教則本などがありますが、仕事でも同じことです。最初からすべて伝えようとしても、初心者がその技術に関するすべての知識を吸収できるはずはありません。  このことは次章で詳しく解説しますが、知識には階層性があります。これは伝達も同じで、その人のレベルによって吸収できる技術の幅や深さは変…

     そして最後は「個はそれぞれ違うことを認めろ」です。これは意外に伝える側に意識されていないことであり、難しいことでもあります。  しかし理解の方法や度合いは人によって異なります。そのことを無視して伝える側の論理だけで伝達を行っているかぎり、知識が正しく伝わることはありません。  技術を正しく伝えるには、伝える相手の側に立って教育制度や教材などの伝達方法を考える必要があります。スポーツが苦手でまったく興味を持てない人に、サッカーをたとえに使って伝えようとしてもチンプンカンプンなのは当然です。  そして、…

    よく「人は自分で見たいものを見て、聞きたいことを聞く」などと言われますが、いちばん自分の頭の中に入る知識は、自分で行動して自分でつくり上げたものです。

    そのためにはまず、伝えたい相手が知識を自ら学びたいと思う場所、むしり取れる場所をつくらなければなりません。これには宮大工やたたら製鉄など、伝統技術に携わっている技術者が後継者を育てるために行っている方法が参考になります。

    私は技術の伝達の実態を調べるために、伊勢神宮の遷宮において総棟梁をされた経験を持つ宮間熊男さんやたたら製鉄の現場の総責任者( 村 下 という)の木原明さんを何度も訪ねました。そこで感じたのは、これらの場所は技能取得のための環境としては、理想の場ではないかということでした。

    ふたつの場所で共通していたのは、ともに尊敬する先輩と一緒に作業をしながら技術を自らが学べ、むしり取れる場になっているということです。

    宮大工やたたら製鉄といった場所には、一般企業のように技術の中身について詳細なことを文章化したマニュアルや作業標準書のようなものは用意されていません。一方で、尊敬する先輩と共に作業を行う環境が整っています。未来の後継者たちは、技術を取得しなければ仕事ができません。しかしだからといって先輩たちから親切に手取り足取り教えてもらえるわけではありません。向上心を持っている人は、その中で技術の取得を渇望しながら、先輩の一挙手一投足を観察しているわけです。

    たとえば、 意図して伝えたり強制してでも伝えるべきものには、「知」「技」「行動」があります。これらは正確に伝えておかないと、組織が行っている活動ができなくなってしまうものです。

    ここでいう「知」は組織の人間なら誰もが共有すべき生産活動に必要な知識のことです。この知を伝えなければ組織の中で動くこともできません。 「技」は本書でいう技術よりも技能に近いニュアンスのもので、それぞれの作業に必然的について回る行動や判断のことです。これもまた正確に伝えなければ確実な生産活動はできません。  次の「行動」は技とも呼べない「ごく当たり前」の行動のことで、たとえば安全のための行動がこれに当たります。

    また、 とくに伝達することを意識していないものの、すべての活動を通じて自然に伝わったり、伝わってほしいものもあります。それは「価値観」や「信頼感」「責任感」といった「企業文化」「気」 です。

     もちろん、最初から高度な判断まで任せることはできませんが、そのようなものはそもそも新人に期待する役割ではないので一向に問題ありません。高度な判断を必要とすることは、高度な知識を獲得した熟練者がやればいいことです。初心者には初心者に合ったことをさせ、慣れるに従って徐々により高度な技術を獲得させればいいのです。  それよりもここで大切なのは、前章でも説明したように、レベルは低くても低いなりの仕事を与え、経験をさせるということです。

    世の中の多くの人は、主観的であることは何となく悪いというイメージを持っています。それは誰かになにかを 真面目 に伝えるときには、まわりの誰もが認めている事実しか話してはいけないと思っているからです。  しかし、実際はそうではありません。 客観というのは実際には「外から見る」という程度の意味しかありません。ある技術に対する見方は十人十色なので、フィルターが違えば違うものに見えるのは当然です。それでいてこれらはどれも事実なのですから、逃げを打たず、遠慮をせずに自分にとっての事実である主観をそのまま語ればいいのです。そしてその方が相手の興味を引くことができるわけです。

    どこの世界、どこの分野にも共通することですが、表面には出てこない(明示されてはいない)ものの、その世界にいる人だったら「当たり前のこと」として知られている知識があります。これが「暗黙知」です。暗黙知をどう扱うかというのは、技術を伝える側にとり、これから非常に重要なことになりますので、本章の最後にこのことについて触れておきたいと思います。  暗黙知は最初はだれももっていません。しかし現場で技術に携わっている人だったら、誰でも自然に覚える(はずの)知識です。  ですから、熟達した技術者は当たり前のこととして認識しているせいで、伝達する必要性さえ感じていません。そのため非常に大切な知識であるにもかかわらず、言葉や文字で表出することさえされていないケースが多々あるのです。

    しかし実際は現在、 きちんと暗黙知を表出しないと、その大切な知識が断絶してしまう状況に多くの企業は追い込まれています。

    逆に言うと、そうした人たちは、 自分たちはきちんと形通りに伝えたのだから、あとは伝わらない相手の方が悪いと思いがちですが、これは大きな間違い です。  たとえばほとんどの教科書は「きちんと形通り伝えよう」とのみ考えてつくられているわけですから、おもしろくないのは当たり前です。  だから教師という伝達のプロの腕が問われるのです。教科書をそのまま教える教師がつまらないのは当たり前です。一方で教え上手な教師とは、生徒の状態や求めているものを見極め、生徒の関心のありそうな話題をたとえにもってくるなど、臨機応変に教え方を変えることができる人をいいます。

     私は長年、大学で機械設計を教えてきました。そこでいつも疑問に思っていたことがあります。それは自分で設計をしたことのない、実務経験がまったくない教師が、設計のやり方を教えていることです。

    私は別に大学の先生の悪口を言いたくてこんな話をしたわけではありません。私がここで言いたいのは、 知識を伝えるだけでは相手に技術を習得させることはできないということです。伝えたいことをうまく伝えるには、相手にイメージを伝えるのが効果的 です。しかしこのイメージは、実際の経験を通じないと得られないものなのです。それはつまり、実体験の中で得られた適切なイメージを使うことができれば、技術の伝達はそれだけスムーズになるということです。

    ちなみに、この作業がうまくできるのは、ふだんから物事をよく観察している人です。こういう人は対象の特徴に常に注目しているので、特徴を際立たせて絵に表現することができるのです。逆にいうと、絵を描かせることは対象をしっかり観察することにつながります。それがまた対象に対する深い理解につながるのです。

     しかし、高い能力を持つ人たちを集めても、それだけではダメです。これは野球やサッカーなどの集団スポーツを見るとよくわかるでしょう。日本でも世界でもキラ星のごとくスターを集めているチームが、必ずしも勝てるわけではないのは、よくご存じのことと思います。  これは、 個々の能力が高くてもそれぞれが孤立している状態では、大きな力にならない ことを表しています。それよりも一人ひとりが多少小粒でもまとまりがあったり、戦術への理解が徹底されているチームの方が、組織としての強さが発揮されることはしばしばあるのです。

     もちろん、なかには例外もありますが、ふつうはひとつの技術の習得に一生をかけるようなことをしていたら進歩はほとんど期待できません。ましてあらゆるものが大きく変化することを考えると、長時間かけてひとつの技術を習得することはむしろ退化につながるかもしれません。  情報化が進んだ昨今は、とくに昔に比べて変化のスピードが違います。その中で新しい技術の獲得を経験と慣れだけに頼っていたら、あっという間に取り残されてしまうことになるでしょう。  では、そうならないために個人としてなにをすべきでしょうか。

    もし初心者だったらやはりまずは焦る気持ちを抑えて、手本として示されている作法や型を真似る努力を愚直に続けることです。そして、これと並行して、技術をむしり取れる環境を自分自身でつくることを心がけるといいでしょう。価値が認められないものに対して人間は積極的に動けませんが、その反対に価値があるとわかっていることや人から求められている環境があると、意気に感じて必死に頑張ることができます。この心理を技術の獲得にうまく利用するのです。

    0
    2024年05月16日
  • 新 失敗学 正解をつくる技術

    Posted by ブクログ

    Audibleにて。買お。買った。

    VUCA時代とは、
    「先行きが不透明で将来の予測が困難な状態」を意味する言葉です。 予測困難なこの時代を企業が生き抜くには情報収集能力、思考力、行動力のスキルは必須であり、それをビジネスに活かすためにはOODAループなどのフレームワークの活用が有効。
    v:volatility変動性
    u:uncertainty不確実性
    c:complexity複雑性
    a:Ambiguity曖昧性

    本質安全という概念は、
    機械類が故障しても人間が間違えても、危害が人間に及ぶのを防 ぐことに関連した安全確保の考え方の一つである。 本質安全とは、素朴に考えれば、人間に危害を及ぼす危険の源(危険源と呼ぶ)をはじ めからなくしてしまうという考え方である。

    経験上の失敗とそれに基づく対策(変化させたあとの結果)は、文章化されず暗黙知であることが多い。ミスの背後に暗黙知あり。

    「求める価値を見失った30年。国を上げての列強国に追いつけという価値は終りを迎えた」→理想化対象の不在につながった30年だな。

    「ある時代、地域において自明なことは明文化されない。それがそのまま伝わってしまうことがある」→アメリカの竜巻対策が日本の津波対策で仇になった話は核心を得ている。

    安心と安全は違う。
    →一時の感情(安心)に基づいてのみ行動を決定すると、結果的にデメリットのほうが大きくなってしまうことがある。

    シリコンバレー式の投資が実践されない=千三の考え方が理解されない。
    →「男たちへ」第49章あなたはパトロンなれますか?に書いてあったことと同じか。
    「あなたはすばらしい、という一言を言っただけで、あとは定期的にしろ一時にどんとくれるにしろ、お金をくれるだけなのが、ほんとうをいうと、最も理想的なパトロン像なのである。なにしろ、お金を与えるということ自体が、立派な賭なのだから。となると、お金の与え方が問題になってくるが…」p376

    *危険マップの作成*
    「コンセプト、実現手段、ビジネスモデル」:この順序が崩れる場合、考えきれていない場合、必ず失敗する。
    → これをやろう。該当ページに図あり。

    メンターの役割
    失敗・成功体験を伝えて思考を促すこと。
    →体験談には力がある。自助グループのそれと一緒。他者の体験談に触発されて新たな発想(対処法)を思いつくような脳の機構を我々人間は持っているのではないか?

    0
    2024年04月27日
  • 老いの失敗学 80歳からの人生をそれなりに楽しむ

    Posted by ブクログ

    老害の話があった。歳を取ると寂しい。かまって欲しい、そして、話を聞いて欲しい、そして、合意して欲しい。そのようなことを歳からくる力で、自然と強制するから老害とされるのだろう。

    0
    2024年02月26日
  • 老いの失敗学 80歳からの人生をそれなりに楽しむ

    Posted by ブクログ

    老年になると、こんなことが難しくなるんだなぁ、ということが自分の経験として臨場感を持って、それでいてきちんと客観的にも書かれていてわかりやすい。実際、年をとってみないとわからないことは多いし、こういった知識はもっと広く知られた方がいいと思う。
    また、"失敗学"の観点を網羅して、その"老い"の経験を取り上げて対応を考えていく構成になっているので、失敗学を知る入門書としてもいい。

    0
    2024年02月13日
  • 畑村式「わかる」技術

    Posted by ブクログ

    論理的に書いてあるので、とても読みやすい。わかるということについての考察によって、理解すること、理解してもらうためにどうすればよいか、という思考が深まった。
    問いを自ら立てれる人は、未知な問題を理解することが得意であるが、そもそもわかろうとする意欲のない人は思考停止となるため、わかるはずもない。

    0
    2023年12月10日
  • 失敗学のすすめ

    Posted by ブクログ

    仕事柄ヒヤリハットや事故異常報告など共有し再発防止に努めているが、作成してやった気になって、結果に繋がってないことから読んでみた本です
    事故災害を減らすためまだまだやれることはあると感じられた

    0
    2023年11月18日
  • 考える力をつける本

    Posted by ブクログ

    715

    畑村 洋太郎
    1941年生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主宰。02年にNPO法人「失敗学会」、07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げる。日本航空安全アドバイザリーグループ委員、JR西日本安全有識者会議委員、国土交通省リコールの原因調査・分析検討委員会委員長、11年6月より東京電力福島第一原子力発電所における事故調査・検証委員会委員長などを務める。著者に『失敗学のすすめ』『創造学のすすめ』『みる わかる 伝える』『危険不可視社会』(以上講談社)、『直観でわかる数学』『技術の創造と設計』(以上岩波書店)、『数に強くなる』(岩波新書)、『畑村式「わかる」技術』『回復力』『未曾有と想定外』『技術大国幻想の終わり』(以上、講談社現代新書)など多数。
    「はじめに」で「考える力」とは「まわりの状況を自分なりに分析して、進むべき方向を自分の頭で考え、自分で決めるための力」であると述べました。  つまり本書でいう「考える」とは、「まわりの状況を自分なりに分析して、進むべき方向を自分の頭で考え、自分で決めること」です。

     そこでもう少し突っ込んで言うと、仮に自分が実現したいことがあっても、漠然と頭の中だけで思っていたり、心の中に秘めているだけでは、いつまで経っても実現しません。こうした思いを表に出して、全体像を検討しながら最終的に実現の道筋までつくること、これが本書における「考える」ということの意味です。ここで重要なのは、 考えたことを実際に表に出す ということです。

    つまり考えるという行為は、自分の頭の中のものを表に出して実行する──「仮説→立証」を含む行為 ということになります。そしてうまくいかなければ、やり方を変えてまた実行し、どんどん自分の考えをブラッシュアップしていくのです。

     私は「考え」というものを、世の中のほとんどのものと同じように、「 さまざまな要素が結びついてある働き(機能) をする構造を持ったもの」と捉えています。  では、「さまざまな要素が結びついてある働き(機能) をする構造を持ったもの」とはどういうもののことでしょうか。

    このように 世の中のすべての事柄や現象は、いくつかの要素が結びつく形で、ある働きをする構造をつくり、それらがまとまる形で全体構造をつくっている のです。

    そしてこれは「考え」もまったく同じです。「考え」もまた、さまざまな要素が結びついて全体の構造をつくっているのです。

     しかしさらに重要なのは、知識やデータを整理して構造化することです。知識やデータだけたくさん持っていても、それを整理して構造化できなければ、その人はたんなる「もの知り」で終わってしまいます。実際に評論家タイプの人をはじめ、世の中にはこうした人がたくさんいます。彼らはたくさんの知識は持っていますが、新しく考えをつくり出すことはできないのです。

    私が自分でも実践して、人にもよくすすめているのは、「三現」を大切にするということです。  三現というのは「 現地」「 現物」「 現人」のことで、三つの言葉の頭にある「現」からこのように呼んでいます。

     たとえば、私は大きな事故現場に調査のために出向くことも多いのですが、そこでしばしば感じるのは、メディアを通じて見聞きしていたことと、実際に三現で知ることがまったく違うということです。

    同じ事象を見聞していても、視点が違うと「違う事実」を見ていることになります。 こうしたことは現場に行って、現物に触れたり、現場の人から直接話を聞かないとけっしてわかりません。

    もちろん地理的、時間的に遠く離れているとか、直接アクセスすることができる人が限定されているなどの制約条件があるので、世の中のすべての事象に関して三現を行うのは不可能です。実際にはメディアの発信する情報をタネとして利用しなければならないことも多いでしょう。そういう場合でも受け身にならず、自分からタネを引き出す意識で情報に接することが大切です。

     それはちょうどビッグデータのようなものです。ビッグデータは、それ自体は人々の営みを記録した膨大なデータの山にすぎず、まったく使えません。しかし性別や年齢、あるいは利用時間などといった視点を持って分析すると、マーケティングにも使える貴重な情報をもたらしてくれるのです。だから重要なのは視点を持つことなのです。  また一つの視点を持っていろいろなものを見ることで、それぞれの事象がどのくらい違うのか、その差異を測ることができます。こうやって見ていくことで、自分の中にたしかな基準ができていくのです。

    大根の火の通り具合の確認なら一方向から竹串を刺すこと、すなわち一つの視点でこと足りますが、世の中のほとんどの事象は一つの視点で全体が把握できるほど単純ではありません。同じ事象を観察しているのに、視点を変えるだけでまったく違うものに見えることはよくあります。そういう対象を正確に把握するには、多角的なものの見方が必要になり

    逆演算の見方には、結果から遡って見ていくことで、物事の脈絡やこれまで見えていなかった原因を探ることができるメリットがあります。この観察方法はとくに未来に起こり得ることを予測する手段として有効です。たとえば建物の火災や爆発など最悪な事態を想定して、その事故が起こり得るシナリオを逆方向から考えます。そうすることでどのようにすれば最悪の事態を防ぐことができるかが見えてくるので、安全対策の完成度を高めることができるのです。

    また、ものの見方には個人差があります。同じものを観察しているのに、人によって見えるものが異なることはよくあります。この違いは多くの場合、それぞれの人の興味の方向性が大きく影響しています。

    自分に不都合なこと、不利益なことを見るのは不愉快なことでもありますが、あえて見るように心がけるのです。そのとき観察対象から得られるのは、心に感じる痛みの分だけ広がりのある豊かなものになっています。

    そのためには、頭の中に考えのタネになる知識やデータを入れることも重要です。タネになりそうなものがたくさんあったほうが、考えをつくりやすくなります。

    考えをつくるためには、やはり最低限の基礎的な知識も必要になってきます。この「最低限」というのは、どのようなことに関して考えをつくるかで変わってきます。一般論で言うと、高校の教科書レベルで教わることを押さえておくと、かなりの事象を理解したりその事象に関する考えをつくることができます。  たとえば、いまビジネスマンの間では、高校の歴史の教科書を読み直すことがはやっているようですが、社会の動きを見るのに、高校教科書レベルの歴史知識を押さえておくのは非常に有効です。また実際に起こっている物理的な現象を理解するためには、ニュートンの運動の法則、力学的エネルギー保存の法則などといった高校教科書レベルの物理学の知識は、やはり押さえておきたいところです。

     インターネットはたしかにたいへん便利です。私たちはパソコンやスマートフォンを使って、必要なときに必要な情報にいつでもアクセスすることができるようになりました。そんな便利な世の中なのだから、苦労してわざわざ頭の中に知識を入れる必要はないと考えている人もいるでしょう。事象を理解するときの知識も考えをつくるときのベースになるタネも、必要なときに必要なものを外から持ってくるという発想です。  こうしたやり方は、一見するといかにも効率がよさそうに見えます。しかし実際にやってみればわかりますが、そのような付け焼き刃的なやり方では対象を深く理解できないし、よい考えをつくることはできません。仮につくることができたとしても、一応形になっているだけで、何かに役立てたりはできないことが多いのです。  これは一つにはそうして手に入れたものには、よいタネと悪いタネが 玉石混淆 していることがあげられます。

    以前別の本でも紹介したことがありますが、私は四三歳のときにアメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学したことがあります。

    知識というのは分野こそ違っていても、最低限押さえておくべき基礎的な知識から、より深い応用、枝葉の知識、最新の情報まで、だいたい体系が似ています。応用に入っていくためには、基本的な知識をベースに、より高度な知識を身につけなくてはいけません。高度な知識になればなるほど、より要素も多く、構造も複雑になります。

    ですから私は、知識は広く浅く何でも身につけるよりも、どれか一つでもよいので、一度深掘りしてみることをおすすめしているのです。

    最近は、「この勉強をすることは、自分にとってどんな役に立つのか」と教員に訊いてくる学生もいると聞きます。  多くの大人たちが目先の損得で行動を決める風潮が強い昨今ですから、若い世代がそう言うのもわからないではないですが、とてももったいない話だと思います。たしかに直接的にはその勉強が自分の将来に役立つかどうかはだれにもわかりません。しかし知識を身につけることで損をすることはないですし、身につけるなら必死で学んで深掘りしてほしい。知識の内容よりも思い切り深掘りして学んだ経験そのものが将来の役に立つのです。

    学ぶ動機は目先の損得勘定よりも、興味のあるなしや、自分にとって必要に思えるかどうかというもっと単純な動機で動くのがいいと思います。それは考えてみれば当たり前の話で、目先の損得勘定で学ぼうとすると、苦労して深掘りしようなどと思わなくなるからです。

    幕末から明治維新に活躍した人の伝記などを読むと、必死になって勉強した話がよく出てきます。たとえば福沢諭吉は晩年に記した『福翁自伝』の中で、二〇歳からの三年間、大阪・船場 にあった 緒方洪庵 の適塾にいたときのすさまじい蘭学修業のことを書いています。諭吉はあるとき、熱病で伏せったときがあり、そのときに、布団の上でちゃんと寝るのは一年ぶりということに気づいたと言います。

    また勝海舟も、若い頃は蘭和辞書を一年かけて筆写するなど、蘭学修業に没頭していたという話を残しています。

    私がロシア語を学んだのは、代々木の日ソ学院というところです。授業は週二回行われ、最初は五〇人ほどが参加していました。しかしそこからどんどん減っていって、三ヵ月を過ぎた頃には半分くらいになり、結局最後は私一人になっていました。

    フェルミ推定の試験対策が目的ではありませんが、これを上手に行えるようにすることはそのまま考える力の向上につながります。そのためにおすすめしたいのは、ふだんから自分なりの尺度を持ってまわりのものを量的につかむことです。  自分なりの尺度を持っていると、はじめて見る観察対象でも、ある程度理解できます。また自分の尺度があると、必要なときに自分の中の知識を総動員して、つくりたい考えのベースになる必要なタネをつくりやすくなるので、考えをつくるときに大いに役立ちます。  だれでもそうですが、はじめて目にする未知の事象を理解するのはなかなかたいへんなことです。これはそのものを理解するための知識が頭の中になかったり、あったとしても少ないからです。そういうときに役立つのはやはり数字です。定量化をして数字で把握すると、その途端にこれまでちんぷんかんぷんだったものでもウソのようにわかりやすくなります。だから考える力を高めるためには、いつでもどこでも使える、対象を数字で把握する自分なりの尺度を持つことが重要になるのです。

    新国立競技場の総工費が二五〇〇億円を超えることが「高すぎる」と話題になり、結局コンペのやり直しになりましたが、たとえば東京スカイツリーの総工費が約四〇〇億円、大阪のテーマパークUSJのハリー・ポッターエリアの工費が約四五〇億円といった自分がよく知っている施設の建設費や、サッカーファンだったら、世界的な人気チーム、バルセロナの資産価値が約四〇〇〇億円などという数字を知っていると、二五〇〇億円の意味が実感を伴って理解できるようになります。

    参考までに私が持っている基準を以下にいくつか紹介しておきます。たとえば食糧問題を考えるときには、一人一年一石というお米の量を基準にしています。一石というのは一〇〇升でだいたい一五〇キロです。日本の人口は約一億三〇〇〇万人なので、お米だけで生きていくとすると年間およそ二〇〇〇万トンが必要です。しかし日本の米の生産量は年間八〇〇万トン程度なので、お米によるカロリー自給率は四〇パーセントくらいしかありません。足りない分は小麦やそばなど他の穀物で補っていますが、ほとんどが国内でまかなうことはできないので外国からの輸入に大きく依存しているのが実情です。

    私は二〇〇〇年に『失敗学のすすめ』(講談社刊) という本を書き、その本の出版が契機となり、〇二年に失敗学会を立ち上げました。そのため世間からは、失敗の専門家だと見られていることも多いのですが、もともとの専門は機械工学です。

    失敗学は、機械工学について学生たちに教えているとき、知識の受け入れの素地をつくるために、まず行動することが大切だということを伝える中で生まれたものです。だれでもはじめてのことはたいてい失敗します。最初からうまくいくことはめったにありません。失敗した瞬間、その人の心の中に「しまった」とか「痛い」「つらい」「悔しい」という気持ちが芽生えます。この瞬間、その人はいままで自分が深く考えていなかったことを強く自覚することになり、ここで新たな知識を求める素地がその人に生まれるのです。つまり失敗は考えを進めるドライブ力になるので、たんに忌み嫌うのではなくもっと前向きに扱うべきというのが失敗学の主旨です。

    社会に出て仕事をしていると、学生時代には勉強してもなかなか覚えられなかったことが、するすると頭の中に入ってくるという経験をしたことがある人は多いでしょう。これも仕事をする中でどうしても学ぶ必要に迫られて、頭の中に受け入れの素地がつくられたということです。  このように受け入れの素地がつくられて獲得した知識というのは、考えをつくるときに大いに役立ちます。心から求めて獲得しているので、頭の中にしっかりと定着しているし、理解の深さも違うからです。   知識は、自分から取りに行くときに身につく性質がある のです。

    頭の中に知識がないと考えることができません。でも頭の中に知識が入っている だけでは足りません。それは前述のように、要素を組み合わせて構造化する、すなわち「つくる」という作業が必要だからです。

     しかし、「はじめに」で述べたように、現代はどんどん「わからない」ことが増えている時代、テンプレートにないことが増えている時代です。つまりテンプレートをいくら覚えても、テンプレートとは違う事象がどんどん目の前に現れてくる時代になっています。そういう時代に求められるのは、テンプレートをたくさん持っているよりも、自分の頭でテンプレートをつくれる人なのです。  ではテンプレートをつくれる人というのは、どういう人のことでしょうか。  じつはここまで説明している理解のためのテンプレートは、本書で「考え」と言っているものとほとんど同じものです。テンプレートもまた、要素が集まってある構造をつくり、さらにその構造がいくつか集まる形で全体の構造ができています。ですからテンプレートをつくる作業は、考えをつくる作業とまったく同じなのです。  目の前の事象を見て、まずそれがどんな要素でできているか分析し、さらにその要素がどうやって結びついてどのような構造を形づくっているかを見る。こうして自分なりに新しいテンプレートをつくっていきます。このテンプレートは言い換えると、仮説のことです。

    水平法を使うと、だれの手も借りずに新しいアイデアを生み出すことができます。多くの場合、考えの構造が同じで分野ごとに異なった様相(外見) で現れているので、それらを異なる分野に水平に移動しただけで新しい着想が得られることが多いからです。このときのコツは少しでも類似性を見つけることができたら、とりあえず当てはめてみることです。この段階ではそうしてできたアイデアが実際に使えるかどうかまで気にすることはありません。それはあとからじっくり検討すればいいことです。まずはとにかくやってみることが大切なのです。

    次の「四則」は四つの演算を利用した発想法です。ここで言う四つの演算は、算数の足し算(加算)、引き算(減算)、かけ算(乗算)、割り算(除算) を指しています。  加算演算を利用した発想法は、複数あるものを一体化したらどうかを考えながら、新しいアイデアを導き出します。たとえば二つの店を一つにするとどうなるか、電話にカメラをつけたらどうなるか、というようにいろいろと仮想演習してみるのです。このときには、単純に二つを足してよしとするのではなく、二つを足すことで新しい機能が出てくるのかどうかということを意識します。  減算演算は加算演算のときとは反対に、複数の要素で構成されている状態からある要素を引くことで新しい効果を得る発想法です。たとえば日本の電化製品は、どれも多くの機能を有しているのが特徴ですが、最近では、機能を絞ることで値段を下げたり、使い勝手をよくしたりして人気を得ている製品もあります。機能を増やしていくことが、必ずしもよいこととはかぎりません。これは減算演算の思考の典型例です。  乗算演算は加算演算と似ています。ただ、AとBという二つの要素を利用する点は同じですが、二つを足すことで生まれる新しい機能ではなく、二つの作用を同時に加えることで起こる相乗効果に注目しています。たとえば最近の花火大会は、音楽と合わせる演出がよく見られます。それによって花火の迫力がより増したり、幻想的な雰囲気を感じさせたりしてくれます。  除算演算はいまの乗算演算の逆です。あるものに二つの作用が及ぼされているとき、一方の作用を取り除いたらどうなるかを考えることで新しいアイデアを得る方法です。二つの作用が同時に加えられている状況は、かけ算によって相乗効果が起こっているようなものです。だからそのうちの一方を取り除くことは、減算…

    アイデアの引き出し方の三つめは「鏡像」です。これは名前の通り、対象の前に鏡を置くことを仮定して、そこからアイデアを引き出す方法です。世の中には右利きと左利きの両方の人がいますが、日本では多数派である右利きを優先してさまざまな製品がつくられています。そのため右利き用が当たり前のように考えられていますが、鏡像を使うと左利き用の世界が見えてくるので発想がより豊かになります。  もちろん鏡を置く場所は、形のあるものの前とはかぎりません。たとえば人や社会、あるいは時間の流れの前に鏡を置いてもいいでしょう。ほとんどの人が右に行く中で左に行ったらどうなるか、上に行く中で下に行ったらどうなるかを考えてみるのです。あるいはまわりの動きと反対に時間を遡って動く姿を想像するのもおもしろいと思います。そうしたさまざまなシミュレーションからアイデアのヒントを得るのです。

    「縮小・拡大」という法則も名前の通りで、観察対象を小さくしたり逆に大きくしたり想像する中で、新しいアイデアを得るものです。同じものを一〇分の一にしてみたり、逆に一〇倍にしても本質的には何も変わらないように思えるかもしれません。しかし量的な変化は必ず質的な変化を伴います。縮小や拡大のポイントはまさにそこで、スケールダウン、スケールアップしたときに出てくる質的な変化に注目するというものです。

    私は子どもの頃から、いろいろなものを自分でつくるのが大好きでした。本箱なども自分で設計図を描き、自分で必要な材料を金物屋や材木屋で揃えてつくっていました。  両親はそうしたことに理解があったので、必要なお金は出してくれました。また父に家具がどのようにつくられているか知りたいと相談したときも、知り合いのツテを頼って家具屋を紹介してくれました。そこに弟子入りをさせてもらって一時期、学校が終わってから毎日のように通っていたこともあります。そこではニスの塗り方などを教えてもらいました。

    上位概念というのは、ある事象に関する概念から具体的な属性を 削ぎ落として、一般化した概念のこと です。たとえば人はそれぞれ、年齢、性別、国籍、住所、職業、肩書など、さまざまな属性を持っていますが、そうした属性を削ぎ落とすと、「日本国籍の男性」「四〇代の東京在住の女性」というように、もっと一般化できます。  ある具体的な世界の知識なり知見は、そのままではその世界でしか使うことができません。しかし具体的な属性を落として一般化すると、他の世界でも使えるようになります。これが上位概念に上ることの意味です。  たとえばある人が電車について学んだとします。そこで得た知識は当然、そのままの状態では電車という狭い分野の中でしか使うことができません。しかし上位概念に上って、電車のことを「水平に動く乗り物」として理解すると、その知識は同じように水平に動く乗り物の自動車にも使うことができるし、さらに上位概念に上って、「動力で動く乗り物」として理解すると、垂直に動くエレベーターや斜めに動くエスカレーターにも使うことができるようになります( 図3─1)。

    この段階まで作業を進めると、考えが整理されてさまざまなことが明らかになります。解決すべき課題が明らかになり、そのためにいま何をなすべきかの検討がスムーズにできるのです。これが思考展開法を利用して考えを整理することの大きなメリットの一つです。

    従来の学校教育で主流だったパッシブ学習だと、パターン認識の力を磨くことができます。その場合、与えられる問題と答えが一対一対応をしています。そこではパターン認識によって素早く唯一解を導き出すことを学びます。そのための勉強は、疑問を追究し対象の本質を理解するよりも、より多くのパターンを覚えるための丸暗記で、考えることが求められるものでも「広く浅く」が基本になっています。そうしてできるのはマッチングを主体としたパッシブ型の思考回路です。  私は昔からこういう勉強がたいへん苦手でした。本質がわからないものは頭の中に入っていきにくいのです。私が好きだったのは、興味があることに没頭できる勉強です。たとえば数学に興味を持って、高校一年生のときに高校で教わる数学をすべて自力で勉強していました。そのため、自分では数学がよくできると思っていたのです。  しかしパターン認識の勉強をしていなかったこともあり、受験では大失敗しました。なまじ数学ができたのが 仇 になって、自分では「勉強なんかしなくても東大くらいは軽く入学できる」と 高 を括っていたのです。その結果、現役のときの受験では見事に失敗しました。パターン認識型の勉強をしていなかったので、問題を解くのに時間がかかりすぎたのです。そこで、浪人時代には問題解決を自力でやり通す勉強に励みました。

    繰り返しになりますが、社会に出ると、パターン認識の能力だけでは限界があることがわかってきます。社会に出てからぶつかる問題は、必ずしも正解が一つとはかぎらないことが多いからです。ときには何をすればいいかがよくわからず、だれも教えてくれないので自分自身で課題を見つけなければならないこともあります。そういうときに役立つのは、やはり自分で考えをつくれるアクティブ型の思考回路なのです。

    ただ言われたことをこなすことだけをしてきた人と、自分なりにいろいろと悩みながら考えて学んできた人とでは、その後の人生は大きく変わります。言われたことをこなすことだけをしている人は、形が決まっている定型の仕事はできますが、新しく価値をつくっていく仕事はできないので、これからの時代、活躍するチャンスは減っていくでしょう。一方自分なりに考えながら学んできた人は、仕事のチャンスはどんどん広がります。たまたま無能な上司にあたり、評価されないときがあったとしても、見ている人は必ずいます。  大切なのは、どんなことであれ自分自身の頭で考えることです。最初は時間がかかっても、それを習慣にして繰り返しているうちに、必要なときに必要な考えを自分自身でつくれるようになるのです。

    0
    2023年11月17日
  • 畑村式「わかる」技術

    Posted by ブクログ

    わかるとは何か、ピンとくるとは何かについて理解できる。またわかる=理解する際の具体的な手法についても記載がある。

    0
    2023年10月19日
  • 新 失敗学 正解をつくる技術

    購入済み

    自分の足でふみしめる

    私はとにかく初めての事は大きな失敗をするので購入してみた。いまの世界が「正解のない時代」ということにも共感できるが、何よりも筆者が失敗とどのように向き合い、良い方向に変えてゆく方法が素晴らしい!幸いにも人の真似はしても自身のやり方で失敗してきたことを少し誇らしく思えてきた。これからは、失敗を減らす思考を学び自分の足でふみしめながら物事に取り組んでゆこう。

    0
    2023年06月05日
  • 直観でわかる数学

    Posted by ブクログ

    高校数学の教科書では書かれていない背景

    いきなり「そういうものだ」的に教科書に載ってることを、それをどういうことか解説してくれている。
    巻末の付録・語録がまた凄い。これが頭が良くなるヒントだと思う

    0
    2022年11月05日
  • 新 失敗学 正解をつくる技術

    Posted by ブクログ

    前提ー失敗はよい事
    失敗とは?自身で考え動き振り返り改善する事
    注意ー悪い事という刷り込み教育をされてるし
    自身で考え動いてない事は失敗の範囲にすら届いてない。

    ▼所感
    失敗を恐れ時間を失う事の方が罪。

    0
    2022年09月04日
  • 新 失敗学 正解をつくる技術

    Posted by ブクログ

    失敗学の総括本 コロナの契機 失われた30年の総括
    日本は社会の仕組み・価値観を変えるのが不得意

    学びの2タイプ(36)
    ①優等生タイプ
    知識を座学で学ぶ 「正解」がある 優等生の選抜 パターン認識 同質 内向き
    ②本質を突き詰めるタイプ
     体験的に学ぶ 五感をフル 三現 リアル →重要性高まる 経験による成長
    都会の秀才より、田舎のガキ大将
    日本の教育は①重視 明治以降西欧文明 遣隋使以降中国・朝鮮文明

    社内ベンチャー・外部からM&A(228)
    シリコンバレー 失敗確率 VC メンター起業経験者 ⇔日本は官僚・学者
    企業文化vsベンチャー 相容れない

    設計情報(230)
    ①コンセプト 価値の領域 顧客の求める価値 デザイン思考
    ②実現手段  モノ・サービスの領域 技術を使って製品・サービスを提供
    ③ビジネスモデル 採算=持続可能性 価格と原価 流通 差異化

    0
    2022年06月26日
  • 新 失敗学 正解をつくる技術

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    失敗とは何なんだろう?と最近ふと思ったタイミングでこの本に出会いました。
    時代が変わり失敗への捉え方も変えていく必要があることを納得がいくように書かれていました。特に今の日本と現状は過去の成功体験に囚われてしまい、1つの正解にただひたすら向かう(高度経済成長期〜バブルまでの目指せ欧米思考習慣が抜けきれていないと実感出来ました。ある程度社会が成熟し、モノに溢れる時代では正解がたくさんあるということで、まずは仮説を立てて色んなことを実行していくトライアル&エラーが重要だが、まだ日本にはその「エラー」を許容する文化がないのは悲しいです。
    失われた30年は決して政治だけのせいではなく、日本全体のチャレンジしない保守的な思考、失敗を悪とする思考これらが大きく起因していると本を通して感じました。
    総括…大変良書です。

    0
    2022年06月14日
  • 畑村式「わかる」技術

    Posted by ブクログ

    わかるということについて構造的に整理してくれており、大変腹落ちした。
    やはり、課題•問題に直面したとき、取り組むときに全体像を把握することがいかに大切かわかった。
    そのために、要素分解を行い構造を捉える、要素を紡ぎ合わせ抽象化して捉える(上位概念から見下ろすイメージ)これこそが重要な頭の使い方のベースであると理解した。ただ目の前のタスクをこなすだけの毎日にするのではなく、その課題をどうとらえ、関連づけ、対処するのか、それによって頭の良さ(知識、技術の定着)は段違いになるであろう。

    0
    2021年07月31日