あらすじ
個人にも組織にも必要なこれからの仕事術。めまぐるしく社会の状況が変わるいまの時代は、今日の成功は明日の失敗へとすぐ変わる。失敗と真正面から向き合い、よりよい仕事をするための考え方を明快に説く。(講談社現代新書)
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失敗博物館かなりいいね。オランダに拷問博物館とか人体の不思議館みたいな特殊な博物館があって面白かったから日本に失敗博物館あったら行きたい。失敗博物館があることで、失敗は悪いことじゃないし、次の人の為に隠ぺいしない、失敗からどう変えていくことが大事かみたいな意識の改善にもなりそう。
畑村洋太郎
1941年東京生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工学院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授 を歴任。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主 宰。’02年にNPO法人「失敗学会」を、’07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げる(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『失敗学実践講義 文庫増補版』
失敗を生かす仕事術 (講談社現代新書)
by 畑村洋太郎
仮に一家の主が職を失った場合、生活を維持していくのに必要なお金を稼ぐのもなかなかたいへんです。日本における平均労働時間は、サービス残業と呼ばれるものを加えると年間でおよそ二千時間から二千二百時間程度に上ると考えられますが、仮に三百万円程度の年収を得るためには、時給で一千五百円程度の仕事に就く必要があることになります。 じつは、時給一千五百円の仕事はいまの日本にはあまりありません。手軽にできる仕事としては、女性ならばスーパーのレジ打ちなどがありますが、得られる時給は八百円から九百円程度です。主に男性が行うビルの管理人や工事現場の交通整理などの仕事でも一千五百円の時給を得ることはなかなか困難です。
世の中には、いまでも成功体験に学ぶ生き方を選択している人は少なくありません。過去にうまくいった方法を真似るやり方は、大きな失敗をする心配がないし、一番安全な道に見えるからです。
もし消費者の志向が変わったのが商売の不調の原因であれば、それを素直に認めて、自らのやり方も新しい欲求に合ったものに変えていくしか道はありません。つまり、自分を不安にしている原因は、本来中国やITなど環境変化の問題などではなく、まわりが変化しているのに自分のやり方を変えることのできない自分自身にあるのです。
私たちが生きていく上で本当に必要な知識は、表面的なものではない、より実践的な知識です。表面的な知識というのは、暗記中心の学校教育で教わるような知識で、一方の実践的な知識は、自分自身の体験やまわりの人たちの体験に学んだ生きた知識を指します。失敗に学んで身につける知識も当然後者に入ります。 後者が大事なのは、実際に社会の中で起こる現象のほとんどが、学校で教わる模範的な知識を前提とした形になることがないからです。とくに人々の要求が多様化しているいまの時代は、複雑な要素が絡み合って従来予期していなかったことも次々に起こります。これらにうまく対応しようと思ったら、より実践的な知識を行動の中で失敗を繰り返しながら取り入れていくしかないのです。
人が未知なものにチャレンジするとき、そこには必ず失敗が待っています。行動を起こせば、その結果はほとんどが失敗で、うまくいくことのほうが珍しいのです。 四十八ページに示した図は、失敗に学ぶことの大切さを端的に表したものです。まず人が行動すると、そこには必ず失敗が待っています。そして、そこで経験する痛みや悔しさが新しい知識を受け入れる素地をつくり、さまざまな知識を学び、考え、経験しながら、そこで得たものを普遍的な知識として吸収して、最終的に現象の真の理解が達成されるということが表されています。 その第一歩は、自ら行動することから始まりますが、その結果として経験せざるを得ない失敗は、本来、誰もが忌み嫌うような悪いものではありません。ここでの失敗は、本当の知識を得るために避けては通れない、ひとつのプロセスなのです。そして、人が新しいことを始めるときには、過去の成功や他人の成功に学んで失敗を避けるのではなく、そのような失敗と真正面から向き合う勇気を持つことがやはり大事なのです。
人は失敗すると必ず「痛み」「悔しさ」を感じます。じつはこれが非常に大切なことで、これによって人は新しい知識を受け入れる素地を自分の中につくることができるのです。また、「体感・実感」しながら身につけた知識は、暗記試験対策のために行う学校の勉強のようなものに比べれば、実際に使える場面もはるかに多く、実践的なものとして自分の中に根づくのです。
ビジネスの世界にかぎらず、スポーツでも学問でも突出した活躍を見せている人は、一様に失敗を経験して大きく成長しているというのはよく聞く話です。そのことを指して、「失敗をバネにしている」などといいますが、この「バネ」というのが受け入れの素地のことです。
時代が変わると、定式もまた変わります。人間の営みは結局、失敗から定式をつくって成功が得られる状態に導き、その定式が通じなくなったら再びチャレンジして失敗する。そして新しい定式をつくり出して成功に導いていくという繰り返しなのです。
EUから受けた警告を日本のお役所が黙殺した二〇〇一年六月の段階で、「これはたいへんなことが起こると私は感じた」と述べましたが、これは別にあてずっぽうでも 山勘 でもありません。自分が持っている失敗のシナリオにあてはめてシミュレーションを行った結果導かれたひとつの見方で、その三ヵ月後に日本中を震撼させた騒動が起こったのは単なる偶然ではなかったのです。 この問題に際して、最も初期の段階で私が参考にしたのは薬害エイズ事件です。EUの報告書によって感染の危険性が指摘されていたのに、牛肉を扱っている業者や生産農家などへの影響を配慮してこれを黙殺した農水省の態度が、薬害エイズ事件を引き起こした当時の厚生省の役人たちの判断とまったく同じに見えたからです。
自分の英語力がアップしたことが残念ながら錯覚であるのは、MITを出て街を歩いてみるとすぐにわかります。大学の中では、誰もがあれだけ理解してくれたはずの自分の英語が、一転してまったく通じないのです。 街に出て買い物をしようとしても、まったく理解してもらえずに何度も聞き返されることも珍しくありません。親切な人が助けてくれても結果は同じで、そのような経験をするたびにこちらの自信は揺らぎ、拙い英語を発する声が自信喪失によってさらに小さくなって、相手はさらに理解できなくなるという悪循環に陥ったりするのです。 拙い英語を理解できる人とそうでない人の差は、言葉を交わしているときに状況から推察する逆演算を日頃から行っているか否かのちがいにあるように思います。 逆演算能力を持っているか否かは、頭の中にいろいろなシナリオがきちんと入っているかどうかということに言いかえることができます。
MITにいる人たちは、現象を理解するために対象を徹底的に観察する習慣が、日頃の研究を通じて身についています。ある事象を見て、そこから課題そのものにさかのぼっていく思考にも慣れており、また、その過程で起こるさまざまな失敗についての仮想演習もきちんとできるので、断片的な言葉と状況判断から相手が言おうとしている中身を推し量ることも容易にできます。 日頃からいろんなものをきちんと観察し、シナリオが頭の中に入っている人というのは逆演算の能力にも優れ、対象の全体像を理解する能力も磨かれるのです。
新しい定式をつくるためには、自分の目の前で起こっている現象がどんな意味を持っているのかきちんと理解する必要があります。 そのためにはまず、対象を徹底的に観察する習慣を身につけることです。 たとえば街を歩いているだけでもいろいろなことがわかります。 何気ないように見える街の風景も、注意深く観察すれば、社会や時代の移り変わりを肌で感じさせてくれます。また、あるひとつのものを集中して観察することで、自分にとって未知だった世界の仕組みを全体的にとらえることも可能になります。 実際、同じ場所を歩いても朝と昼では人の流れも自動車の流れもちがうし、五年前、十年前の様子を思い出して比較してみれば、いろいろな変化に気づくはずです。街を歩いているときには、郵便局や宅配ピザの配達係になった気分で、どの経路で行くのが速いのかを考えるのも面白いかもしれません。
私は街でいろいろ発見するのが大好きです。個人的には最近、日本の食文化を変える革命を起こしているラーメン屋という商売に強い興味を覚えて熱心に見ています。ラーメン屋に注目している理由は、そこが店側の努力にお客さんの反応がダイレクトに返る場所になっているからです。「うまい店・いい店に人が集まる」という健全な市場原理が働き、どこのお店もお客を集めるためにいろんな工夫を凝らして、高いレベルで競い合いあっています。また、比較的小規模な店舗でも十分に営業が成り立っていくので新規参入もしやすいせいか、腕に自信のある人たちが次々と店をオープンし、不景気といわれるこの時代にあってラーメン屋業界は活況を呈しています。
評判のラーメン屋を見かけても、どうしても「おいしいラーメン屋が近所にできてよかった」くらいの感覚しか持てないかもしれませんが、それだけではもったいない話です。自分がラーメン屋を開業する前提で想像できなくても、たとえば人気ラーメン屋があることから派生する経済効果や人の動き方など、自分の仕事にも応用できるシミュレーションはいくらでもできるはずです。それが自分の仕事の能力を高めたり、ときにピンチから脱するための重要なヒントを与えてくれることもあるのです。
どんなに小さなことでも、徹底的に観察すると新たな知恵が得られる例をもうひとつあげたいと思います。
大学の研究室のOB六人と一緒に、西吾妻山という標高二千メートルほどの山の山頂を目指して山歩きに出かけたときの話です。登山の途中、ある参加者の登山靴の底が 踵 の部分から剝がれはじめ、この剝離が前方に進行して最後にはパックリ割れてしまうという事故がありました。右側の靴から剝がれ出したかと思ったら、やがて左側も剝がれはじめて、頂上に着いたときには両方の靴底が完全に取れてしまうという凄まじい状態です。 あまりのひどさに、登山の途中でこの人は「みんなに迷惑がかかるから帰る」と言い出しました。しかし、「どうせだったらみんなで一緒に知恵を出し合おうよ」と私が提案したところ、それを素直に受け入れてくれました。それからはすばらしい山間の景観もそっちのけで、私は山頂までの道すがらずっと彼の後ろを歩きながら踵の部分を徹底的に観察しました。 このとき、靴が壊れた原因が経年劣化と間欠使用にあることは、自分自身の経験からすぐにわかりました。十年ほど前、まったく同じようにゴルフ靴が壊れたことがあったからです。メーカーに抗議したところ、靴の踵の中に入り込んだ水分が拡散して加水分解したのが壊れた原因だという回答がありました。「ふだん使わずに置いていた靴には一般的に起こること」ということでした。 ここでのポイントは、「普段は大事に靴箱にしまっておいた」という部分で、この破壊は年に一、二度しか登山やスキーに使用…
私が長年職場としてきた大学という場所は、世間から隔離された、世の中の動きとまったくちがった方向の研究をやっていてもそれが許されてしまう怖いところです。せまい分野でたいした成果もあげられない研究を行っても、同じような研究者たちの間で互いに認め合うことでなんとなくやった気になってしまいます。現実には、そこから出てきた研究成果を、世間はまったく評価していないのですが、下手をするとそれすら気がつかないままで過ぎてしまいます。まさにタコツボの典型のような職場になりがちです。 私自身、東京大学機械科の教授だった時代をあらためて振り返ってみると、一九八五年に研究テーマを変更するまで、タコツボ的生き方にどっぷりつかっていました。鋳造や塑性加工などの分野における研究が世間では誰も使わない古いものになっていたのに、ずっとそれにしがみついていたのです。
当時の私は「いい研究を行えば世の中はそれを必ず使ってくれる」と心から信じ、自分が「いい研究」と思っていたものに世の中がまったく関心を示してくれないことを不満にさえ思っていました。自分が本当に世の中が必要としている研究を行っているかどうかを顧みずに、「使わない世の中がおかしい」と考えていたわけですから、いまから考えるとどうかしていました。
「千三つ」という言葉があります。新しいことを始めてそれがうまくいくのは千のうちのわずか三つで、その確率は一〇〇〇分の三程度の小さなものであるということを示した言葉です。 企業が行うプロジェクトでも、また、個人の活動でも、これはまったく同じです。新しい技術、新しいシステムを生み出すとき、人は誰もが必ず失敗を経験します。それも一度や二度という生やさしいものではなく、最終的な成功に到達するまではそれこそ失敗の繰り返しで、そもそも人間の進歩の歴史は失敗の結果もたらされたものだといっても過言ではありません。
ハインリッヒの法則は、失敗がある一定の法則で起こる確率現象であることを私たちに教えています。また、表面的には成功しているように見えるときでも、その裏で失敗の準備が着々と進んでいるという恐ろしい現実があることも伝えています。その中には、一度発生すると、再起不能の状態に追い込んでしまうような、致命的なダメージを与える危険な失敗が潜んでいることもあるかもしれません。 これに対して、日頃から三割の冷静さを持って行動し、「自分は失敗するかもしれない」「それによって、すべてを失ってしまうこともある」という危険性の検討をたえずしていれば、少なくとも致命的な失敗に遭遇することは避けられるはずです。また一歩進んで、大失敗の予兆として起こっている二十九件の軽度な失敗や、あるいは「ヤバイ」と思った三百件の些細な出来事を経験したときにこれを生かすことができれば、未来に待ち受けている失敗のほとんどを防ぐことができるでしょう。
「絶対に不正をしない」というものを何にするかは、その人の考え方もあるので自分自身で決めるといいでしょう。たとえば身近なことで思いつくのはゴルフがあります。「紳士のスポーツ」といわれるように、ゴルフは自分のスコアを自己申告するスポーツなので、不正をしようと思えば簡単にできます。でもどんなときでも「絶対に不正をしない」と自分で決めてそれを守れるような人は、大事な場面で誘惑に駆られて失敗することもないでしょう。
その意味では、いまの時代はうまくいった加点法の評価を取り入れていくのが組織運営上は大切です。また、それ以上に重要なのは、失敗した人のリターンマッチを許すことをシステムに取り入れることだと思います。 何度も繰り返し述べているように、新しいことにチャレンジすれば、まず最初は失敗に終わります。にもかかわらず、日本の会社では失敗そのものが大きなマイナスとして扱われ、ひどいときには失敗者の人格そのものまで否定されることもあります。その結果としてどこの組織でも起こっているのが、誰も新しいことにチャレンジしない組織の硬直化なのです。
じつは、失敗を生かそうとする文化を持つアメリカの会社でも、失敗を起こした人には厳しい評価が下されています。その点は日本とまったく変わらないように見えますが、その人が失敗から学び、それを次に生かせる状態にあると判断されれば必ずリターンマッチのチャンスを与えるところが決定的にちがっています。同じことをやらせる場合、失敗経験がない人よりも、失敗から多くのことを学んでいる失敗経験がある人を優先させる発想が、アメリカの会社にはあります。
実際、単純ミスや不注意などによって失敗を招いたというならまだしも、それが新しいことにチャレンジする中では避けて通れない失敗ならば、そのことで本人を責めるのは酷というものです。どんなケースでも例外なく「一度失敗したらその人はもう終わり」という運営では、それこそ組織としての活力は完全に失われかねません。
また、組織の中で起こっている失敗の被害をいたずらに広げないためには、失敗の「駆け込み寺」のようなものを組織のなかにシステムとして用意して問題解決にあたる発想も必要だと思います。失敗はだれもが無意識のうちに隠したがるものですが、それを放置することで被害を大きくしてしまうことは現実に多々あります。また、精神的に追い込まれた人が、その状態に耐えきれずに自殺したりということもあり得ることで、そうならないためにも、被害が大きくなる前に失敗者が自発的に失敗を告白できる環境やシステムを組織の失敗対策としてあらかじめつくっておくことも必要だと考えています。
そういった意味で私は、失敗の研究、失敗情報の収集や発信、失敗の体験などもできる「失敗博物館」をつくることが必要だと考えています。 失敗から学ぶ必要性を理解している人たちは失敗に関する多くの情報を求めていますが、まだまだ一般社会の風潮としては失敗を恥ずかしいものとして考え、これをなるべく隠しておこうとする傾向が強いので、必要な人が必要な情報を得られにくいのが現実です。
そもそもこの失敗の根にあるのは、成功偏重主義に陥っているいまの日本の文化としての問題です。これを変えて、失敗に学んだり、失敗を生かすことで新たな知恵を生み出す新しい文化を築いていかないかぎり、時代の変化にうまく対応できずに同じような大失敗を繰り返すことになるはずです。 そして、弊害の多いこうした風潮を変えていくには、一人ひとりが失敗への接し方を変えていくしかないように思います。その国の文化は、誰かが決めるものではなく、社会を構成する一人ひとりの考え方を反映して築かれていくものだからです。
Posted by ブクログ
視座の高い内容だった。
仕事に生かせるとすれば、失敗(うまく行かない)したときに、どれだけ早く上司とかに相談できるかとかだと思う。
以下、印象的なシーン
1. 会社から任されている仕事は一部のパートに過ぎないとしても、例えばその中でも狭い範囲ではなく全体を見ながら自分の仕事を学んでいくような視点があるとないとでは、仕事のプロセスも結果も全く違ってくる。
→その通りだと思う。展開を見据えた開発を進めていくのか、今着目している物事に特化した開発をするのかでは成果物は大きく異なると思う。
2. その人たちが思い切って開き直ることができて、このままでは必ず失敗してしまうからなんとか対策を打ってくださいと、もしも事前に一言言い得たならば、たったそれだけのことで結果はずいぶん違った方向に向かう。全ての責任を自分で被るようなスタンドアロンの状態には決してならず、組織が相手でも時に開き直る勇気を持つことは、厳しいプレッシャーに押しつぶされることなく自分を守り続けるためにも重要な心がけ。
→たぶん、うちの会社はこれが言いやすい場づくりはできていると思う。でも自分含めてなぜか言えないことが多い。うまく説明できずにあきらめがついてしまっているのか、そもそも言おうとしてないのか、結構自分の課題だったりする(そういうことを考える時期に突入している)
Posted by ブクログ
本書では、起こしてはいけない失敗(人命に関わるもの)をどう防ぐかを解説すると同時に、新しいチャレンジに付きまとう失敗を前向きに捕らえ、どう生かせばいいかを示唆。エンジニア諸氏に薦める。
Posted by ブクログ
本業と直結している失敗分析の畑村先生の本なので手に取りました。この本では「失敗の意味」「失敗を生かす仕事術」「失敗を生かす組織論」の3部構成でありますが、特に仕事術で述べられた「失敗から定式化/一般化(シナリオ化)」が肝だと思いました。失敗対策例などは良く作るのですが、日頃の業務に落とすまでもう一段下げる考え方を今後も気をつけていきたいなと。
・周囲の条件が変わっても旧式にしがみつくのは危険な生き方
・失敗する味わう痛みや悔しさのお陰で新しい知識を受け入れる素地を作ることができる
・MITの人は拙い英語でも話しの様子から頭の中で類推して正確に理解してくれる。
・事例集は使われない。失敗から得るべきものを整理されていないため(一般化)
・日本はとかく下からやることを大事にするが失敗対策はトップダウンにやらないと小手先の対策になる
Posted by ブクログ
失敗のケース、具体的な例、図式化されて分かりやすい説明など、すこぶる「失敗学」の理解が進んだ。
失敗に備えて「仮想演習」をやっておこうと思う。
Posted by ブクログ
人は誰でも失敗する。失敗を生かす組織の運営について。ただの事例集でない知識の一般化や仮想演習の話など。
上位概念に上ること、シナリオのことなど。
他、失敗を認める組織文化の話など。
一度失敗したら、2度と浮き上がれない日本の社会。
保身の弊害、都合の悪いことを見ない等の人間的な性質。
決まりきったことを可もなく不可もなくこなすだけが当たり前の社会ではだめ。
失敗したときの痛み、悔しさなどを実感しながら身に付けたことは忘れにくい。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
失敗をきちんと知識化することで、創造も生まれるし、大失敗も防げる。
失敗を避けられない時代に必須の新しいものの見方、考え方を説く。
[ 目次 ]
序章 失敗するということ
第1章 まず失敗する、そこからすべてが始まる
第2章 失敗を生かす仕事術
第3章 失敗を生かす組織運営
終章 失敗を見る文化
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
多くの情報は「知識化」しないと。
「ばれたら恥ずかしいことはやらない」
「日本人が書いた経済書で、欧米で売れているものは一冊もない」
など、警句が一杯。
実に面白い。
Posted by ブクログ
人は誰でも失敗するし、リカバリーが可能じゃなかったら酷い話だよ。物言えば唇寒しじゃないけども、新しいことをすれば十中八九が失敗なんだから、そこは失敗するしかないじゃない。
という風に読みました。
Posted by ブクログ
【失敗】失敗学シリーズ第3弾。今回は失敗学を踏まえた仕事術について。基本的には失敗をスタートにして仕事を組み立てていきなさいということと、失敗に対して寛容な態度で取り組む事の大切さなどが主なメッセージであることには変わらない。失敗学のすすめよりも行動としては具体的な内容にはなっているので、参考にはなると思う。ただ各々の失敗に対する意識を変えようとする意識が一番大事でその先にある行動については自分流におきかえるのが良いことは言うまでもない。
Posted by ブクログ
本文より・・・本当の意味で未来への不安に打ち勝つためには、やはり自分をおびやかしているものの正体をしっかり見極めることから始めなければなりません。正体がわかれば、対処の方法も生まれてくるはずです。・・・
私たちは、不安を感じながらも、不安の原因を直視することができない。試験の直前に部屋の片づけをはじめてしまうように、本当に対峙しなければならない問題を先送りし、些細な日常に埋没しようとする。そうすることで、不安の原因は積み重なって何処から手を付けたらよいか分からなくなってしまう。
確かに失敗を真摯に受け止め、活かしていくことは苦しい、しかし失敗の種を撒き、刈り取れない程伸びてしまうほど放置するように、問題を先送りする方が、もっと苦しいことは言うまでもない。