上野千鶴子のレビュー一覧
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「毒婦」をテーマに上野千鶴子、信田さよ子、北原みのりが鼎談している。
「毒婦」って何だろう。男性版のそういう言葉ってない(と思う)からそもそも「婦」にだけ「毒」がつくっていうのが上野さんあたりが突っ込むべきところじゃないかと思うけどそういう話は出てこない。勝手に女性に聖性を求めてそれと違う女性には「毒」をつけて侮蔑したり揶揄したりという構造だと思う。
ここで双璧に論じられているのが東電OLと木嶋佳苗。木嶋佳苗は一時期ブログなど愛読しその非凡さはそれとなく知っていた。一方東電OLについてはこの本を読んで初めて知った逸話もあった。どこか正気でない淫らなひとという印象だったんだけど、それ以上に既存の会社社会=男社会への悲しい反逆だったのかなと思うところがあった。
いずれにしてもお二方とも見事な生き方。その枠に納まらない見事さが世間というまだまだまだまだ男目線の人々をして「毒婦」と言わしめるのだろう。だからやっぱりこの本が「毒婦」を銘打つのには大いに違和感。
鼎談もちょっとバランス悪い印象。北原みのりが思いだけで突っ走ってる感じがしてしまう。対して上野千鶴子には蓄積を感じる一方で、総論的な話にはしりすぎな感じも。信田さよ子は両者からわざと一歩引いてる感じ。 -
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「情報生産者になる」を読んで本棚から1992年のカッパサイエンス版を引っ張り出しました。上野千鶴子が自ら処女喪失作という著作であり、彼女の良きにつけ悪しきにつけ名刺がわりの一冊でした。女性学という目新しい立場や現在でもまったく不変の挑発的物言いにイロモノイメージがあったような気がしますが、その後の四半世紀の研究と教育の立場で社会学を鍛え上げる、という仕事には尊敬です。「情報生産者になる」はその集大成であり、「セクシィ・ギャルの大研究」はそのスタートラインだったのかもしれません。使われる広告サンプルはとても古めかしく時代を感じさせますが、その後の時の流れは社会における女性の位置付けを変えたのか、変えなかったのか?人によって意見は違うかもしれません。例えば東京医科大学の入試の女性差別問題とか、何も変わってないじゃないか、ということになると思います。だけど著者の学問におけるポジションは周辺から中心に移行しているのだ、と最新作を読んで感じました。それにしても最初の一冊から炸裂している上野節(もののいいよう)は全く変わらないのは、彼女が受け止める人ではなく、仕掛ける人だから、なのだと想像しました。
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上野千鶴子の初めての著書という価値から岩波現代文庫に収められたのだろう。もともとはカッパブックスとして世に出たもの。広告類を中心に実例を挙げて社会の男の見せ方、女の見方を紹介し、多様性のないステレオタイプが蔓延していることを訴える。こういうのって、同性への視点と異性への視点とかあると思うけど、上野さんが書いていたように男は女を観賞物や性的対象としての目線で見るのに対して、女もまた女を見るときは男目線になっているというのはなるほど。もっといかがわしい広告とかも対象にしていれば、現代との違いが感じられたかもしれないけど、化粧品の広告とかメジャー雑誌の記事とかマスものではあまりそういう感じもしない。書中でもコピーがとんがってるわりにビジュアルが旧態依然というようなことが何度か出てくるけど、80年代初めも今もそのあたりはそんなに変わってない気がする。逆に言えば、そのくらい目で見ることのありようの大切さというか旧弊さというか、そういうものを感じる。
紹介されている広告や記事類が意外と今でも同じ文脈で読めてしまうのに対して、文調や書きぶりは隔世の感あり。軽~くナンチャッテ風に書くのは80年代の軽佻浮薄な社会のノリなんだろうし、短めの文章でつないでいくのはカッパブックスのスタイルなのかな。できるだけ軽くつくろうという感じがするんだけど、それだけにテーマのまじめさも伝わってくるような気がする。これって世の中全体の知性というか本を読む人率が高かったからじゃないだろうか。今の本のほうが大したもの感を出しながら内容は陳腐ってものが多い気がする。そんななかにあって光文社新書にわりと面白いテーマ、切り口のものが多いのもカッパブックスの頃からの伝統があるからなのかなと思ったりした。 -
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3人の人となり思想がとりあえずは分かりやすい本なので作家達に興味がある人は手っ取り早いです。上野千鶴子の本だけ読んだことがなかったのですが想像通りの人でした。
読書後ネットで、お顔を拝見しましたが、これまた想像通りの人でした。現在は悠々自適?世間一般以上に裕福な暮らしをされていると思いますが庶民、平等、フェミニズムなどのイデオロギーを振りかざす感じですね。
あとがきで北原みのりが上野千鶴子に対して皮肉めいた事を書いていますが直接いっていただきたかったです。コワィのかな?言ったところで平行線になるだろうしね。
ウーマンリブなど、さまざまな時代を経てきたことや勿論、正論なのだろうけど、思春期や女としての特権や幸せを十分には感じてこないで年齢を更に重ねて頭でっかちに偏った見方の人が全女性の代表みたいに発言される姿勢には抵抗を感じました。 -
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話題になった『おひとりさまの老後』に続き、男性に焦点を当てた本作。自分もまさにこの道に足を踏み入れているしと思って読んでみた。書いてあることに目からウロコというようなことは特になし。足を踏み入れている自分としては、実行まではしていないもののそうなる覚悟はしていることばかりという印象。
それもそのはず。「男おひとりさま」と一口にいっても上野さんによれば、①死別シングル、②離別シングル、③非婚シングルの3類型があるとか。それぞれ傾向と対策は違うし、個別性もあるだろうから、この本もマニュアルとしてまったく信じてしまってはいけない。あくまで参考程度に。いろいろ書いてあるけど、自分としては「覚悟だよね」と思う。気持ちが決まっていれば、この本ですすめているように友達がいなくたって、料理ができなくたってかまわない。自分で落とし前つけるつもりでいれば、どうにでも生きられるしおひとりさまの最期も迎えられると思ってる。
しかし、タイトルにもあるようにわざわざ「道」とつけ、求道のような要素で引きつけるところが男性向けっぽい。それを脱却したところに、しなやかなおひとりさまの姿があると思うんだけど。
それと、家族は夫らしさ、妻らしさ、子どもらしさといった具合に「らしく」振る舞えばかたちになる。それに対して、友達には「らしさ」がないというのは、なるほどと思った。だから、友達はいろんなかたちがあるよね。それを友達には許すのに、家族になるとらしさを求めてしまいそうになるのはなぜだろう。恋愛関係でもそういうのってあるよね。なぜだろう。 -
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ネタバレ自著解題より
セックス音ハードルはたしかに下がった。女性に性欲があることは当然視されるようになったし、女性が快楽を求めることにもスティグマはなくなった。女性があからさまにセックスやマスターベーションを口にすることへのタブーも、なくなりはしないが、確実に少なくなった。結婚の前にも後にも外にも、女性がセックスを求めることに社会的な制裁はいちじるしく減少した。そうでなかった時代のことを思うと、隔世の感がある。だが、それはほんとうに女性にとって「性解放」だったのだろうか?
その反面、ジェンダーの非対称性がおどろくほど変わっていないことにも驚く。避妊の知識と技術が普及したのに、無知からではなく遠慮からパートナーに避妊を言い出せない女。「今どこに誰といる?」と恋人に訊かれてしょっちゅう写メを証拠写真としておくらなければならない拘束を、愛情ととりちがえる女。…(中略)…
性解放は女の性の自立と自律を求めるもののはずだった。だが結局、いくらハダカで向き合っても「ベッドの中」だけが解放区になるはずもない。ベッドの中には、ありとあらゆくる社会的・経済的・政治的な非対称性が持ち込まれるだけにすぎないことが、あれから四〇年経ってみれば、あらためてよくわかる。フェミニズムの標語、「個人的なことは政治的である」は今でも有効なのだ。