著者は、「雀鬼」の異名をとった麻雀打ちのプロ。超絶的な強さで、
無敗伝説を誇った勝負師だそうですが、現在は、麻雀を通して人間
を鍛えることを目的とした私塾「雀鬼会」を主宰しています。
勝負師とか登山家とか狩猟家とか、究極の場面を経験してきた人に
は、常人が辿り着けない境地に達した人が多いので、著者
...続きを読むもきっと
凄い世界を持っているに違いないと、ずっと興味を持ってきました。
最近、ひょんなきっかけから、彼の本を手にとってみたのですが、
これが実に面白い!やはりギリギリのところで生きてきた人は違い
ます。「プロ麻雀師」というと偏見がある方もいるでしょうが、極
めて真っ当な方で、その深い人間洞察、人間理解に基づく、本質的
な言葉の数々には、教えられることが多いです。
本書は、そんな著者のカラダ論。麻雀とカラダって結びつくの?と
思いましたが、真剣勝負の麻雀は、牌の打ち方一つで相手の出方や
心理が読めてしまう世界。いかに自然に牌を打てるか、いかに場全
体を読むことができるか、いかに変わり続ける流れに柔軟に対応で
きるかが、問われるのです。それは、自然の中で野性動物と対峙す
る狩猟の世界に似ています。ちょっとした変化の中に相手の気配を
読む。こちらは自然と同化し、相手に気配を覚られないようにする。
だから、思考を止め、力を抜き、感覚を頼りに、流れるようにカラ
ダを動かすのです。「麻雀に愛された」著者は、自らを追い込み、
真剣勝負を重ねる中で、自然とこの流れるような柔らかなカラダの
使い方を身につけてきたのでした。
これらのカラダの使い方を覚えると、常識では考えられない力を出
すことができるし、運やチャンスを逃すこともなくなる、と言いま
す。勿論、老化や怪我の予防にも役立ちます。
カラダから力を抜くための体操なども紹介されていますが、正直、
この本を読んだからと言って、カラダがうまく使えるようになると
は全く思いません。しかし、思考偏重、視力依存の普段の生活の間
違いに気づき、もっとカラダで感じることを大事にしようと改心す
るきっかけにはなることは請け合いです。
仕事に社交にと、何かと忙殺される師走ですが、こういう時こそ、
カラダの声に耳を傾けてあげたいですね。「体の癖は心の癖」と著
者も書いていますが、体を整え、心新たな良い年を迎えるためにも、
是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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力が入ると何事も嘘っぽくなる。力まず、そっと触れるという感覚。
力を入れる生き方から離れて、そっと触れる感覚を取り戻せば、ど
んなものごともスムーズに何かを成せることをカラダは素直に教え
てくれる。
カラダのおもしろさが一番わかっているのは、子どもだ。
生きるということは、次々起こる変化という流れに応じることであ
る。
変化に間に合うには大きな動作をしてはいけないのだ。勝負のよう
な場においてはそれは大きな命取りになる。
力を抜けば、力はゼロになるのでなく、核分裂反応を起こすような
エネルギーがそこから湧いてくるのである。
真に力を抜いた状態とは、もちろんカラダから単に脱力することで
はない。どこにも緊張を入れず柔らかな状態にカラダを置くことが、
「力を抜く」ことなのだ。
空気はつかむことができない。だが触れるような感覚は持てる。そ
れと同じで感覚もつかむことはできないが、触れることはできるの
だ。
目的主義に陥ると、「過程」というものがおろそかにされる。結果
さえ出せばいいという姿勢でやっている人は、ところどころでそれ
なりの結果を出せるかもしれないが、あまり、長続きはしない。
私は、自分のことを麻雀から愛された人間だと思っている。それゆ
えに牌から、人生の大事なことをたくさん教わることもできたと感
じている。
感覚を探るのは難しいが、違和感を覚える部分はいくらでもある。
違和感を覚えるということは、反対にいえばそうでない部分を探せ
る可能性があるということだ。つまり、違和感をとっかかりにすれ
ば、反対に自然な感覚を探しやすくなるということがいえる。
人間は柔らかく生まれて、硬くなって死んでいく。
カラダが硬くなると思考も硬くなる。
頭が柔らかいと変化に対応できる。柔らかいということは、いくら
でも変化していける可能性を孕んでいるということだ。そう考える
と、強いカラダとは、どういうふうに状況が変わろうとも臨機応変
に対応できるカラダといえる。
小指を意識して使うと、カラダの動作は柔らかくなる。
自然に生きるということは、すなわち変化に対応して生きることで
ある。
素直な人は癖が少ない。
素直とは「素」になることである。背伸びも飾りもない自分の基本
に戻ることである。人が素の状態でずっといることがもしできれば、
癖はできない。
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●[2]編集後記
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日曜日、町内の餅つきに参加してきました。町内総出で餅をついて、
ご高齢の方と子ども達に配る、というなかなか良いイベント。恥ず
かしながら、餅なんてまともについたことがなかったので、経験者
に教えて頂きながら、見よう見まねで何とかやってきました。
釜で炊いたお米を臼にあけ、二つの杵で力を合わせながらこねる。
このこねるところが大事で、いかに短時間に美味しい餅にするかは、
ここで決まるそうです。
でも、これが実に難しい。くいっくいっとヒネリを加えながら、二
つの杵でこねていくのですが、なかなかうまくいきません。手の力
でやろうとすると疲れるので、腰を使うのですが、もう全然ダメ。
二人の息を合わせるのも難しい。
その後は杵でつくのですが、これも手だけでやろうとするとすぐに
疲れてしまいます。それはわかっていて、腰と重力をうまく使うの
だと、自分に言い聞かせるのですが、思うようにいかず、すぐに疲
れてしまいます。
そうやって若い衆は皆すぐにヘロヘロになってしまうのに、70を過
ぎた老人達は淡々とつき続けるのです。疲れる気配ゼロ。見ている
と、全く動きに無駄がなく、腰をうまく使って、カラダ全体でつい
ている。ヤバいです。超カッコいい。参りました。そして、昔の人
達のカラダ使いの見事さに、心底尊敬の念がわいてきました。
つき終わって、餅を食べろと言われても、握力がなくなって、うま
く箸が使えない。その横で、淡々と飲み食いしているお爺ちゃん達。
ほんと脱帽でした。