井上章一のレビュー一覧
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えーっと、
京都の人は洛中に生まれ育って住んでいるものが京都人で、
育ったのが洛外の嵯峨では、洛中人から「田舎者」とさげすまれるそうだ。
立派な町屋に住む名家の九代目当主が、嵯峨におい育った著者に
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
といけずを言われたという。
ええー、他地方から見れば嵯峨も京都のうちでしょうに
こういう狭い心の、いやらしいのが京都の「都人」だとこの本は言う。
洛中人は「とにかくみんな中華意識が強い。」
ま、そう書きながらこの書き手の方は京都賛美をしているようでもあり、アマノジャクでもあり
このエッセイストの口癖(この本に何度も出てくる)「かきっぷり」という言葉にあるように
個性を出して書いていらっしゃるのだろう。
ところで「かきっぷり」って本人がいうかなあ、
他人の書いたものに批評をするときに使う言葉じゃないかと思うが。
しかし、こういうことってよくあるのかも
「沽券にかかわる」ってのはわたしがよく思う気持ち。似たようなものか(笑 -
Posted by ブクログ
ネタバレ<目次>
第1章 大阪人はおもしろい?
第2章 阪神ファンがふえた訳
第3章 エロい街だとはやされて
第4章 美しい人は阪急神戸線の沿線に
第5章 音楽の都
第6章 「食いだおれ」と言われても
第7章 アメリカの影
第8章 歴史のなかの大阪像
第9章 大阪と大阪弁の物語
<内容>
産経新聞大阪版夕刊の連載を加筆してまとめたもの。第1~3章は、若干大阪人のひがみかな、とも読める。第5~8章は知らない話が多かった。まあ、8章の「弥生土器」や「古墳時代」の名称の是非はあまり気にならないが、「大阪」大坂」の違いについては、最近知ったことだがあまり区別する必要はなさそうだ。第9章の大阪弁については、現在の大阪弁は厳密に言えば「河内弁」(特に今東光の仕業らしい)に近いという話は面白かった。 -
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帯に「ベストセラー『京都ぎらい』の著者待望の新刊!」「井上センセ、またも京都人を敵にまわす」とあるので、京都の女性に対する世評への揶揄とか知られざる事実の本だと思うだろう。実際、第1章の前半はそういう話でないこともない。しかし、本書は著者独特の美人論の本である。そのことは、まえがきにも書かれており、著者自ら「『京女の嘘』という表題には、やや無理もあるが」と認めている。客観的に見ると「やや無理もある」どころではない。京都に本部を置くPHPが「京都しあわせ倶楽部」というシリーズ本を設けた中の一冊ということで、無理を承知でタイトルをつけ、このシリーズに入れたのではないかと思うが、いささか誠実さを欠くのではないだろうか。
それはさておき、内容自体は、若干軽すぎる感もあるものの、まずまず面白かった。著者の国内外における様々な経験や経験が生かされた愉快なエッセイという心積もりで読めば十分楽しめる。中でも、元ミス日本との対話や、イタリアと日本の美人コンテストの違いなどは、普段お目にかかる機会がないこともあり、愉快ですらあった。
というわけで、タイトルに惑わされずに読むべきという珍しい一冊だった。 -
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ネタバレ井上氏は建築史の専門家だそうですが、後書きでこれからは風俗史の専門家と名乗ろうかとのこと。確かに日本の女性がパンツをはく歴史の研究はそれに値する内容でしょう。良くもここまで調べたと思う執念で過去の新聞・雑誌・小説から探査しています。1933年の白木屋の火災まではノンズロで全て丸見えだったが、白木屋火災をきっかけとして日本女性がズロースを穿くようになったという言い伝えは一部が事実だとしても、恥ずかしくて飛び降りることが出来ずに死亡したのは俗説であると否定します。当時の風習から丸見えになることは度々あり、死ぬ危険を前にして決して恥ずかしがっていたわけではないのだそうです。それを繊維会社が宣伝目的で使ったことは事実であり、広まっていったとのことです。白木屋火災で死亡した8人の女性の死因を探求から本は始まります。白木屋以降もパンツがなかなか普及しなかった理由。そしてパンツが局部を隠すようになって安心感で、パンツが見えることを恥ずかっていたわけではないこと、それを恥ずかしいと思い出したのは1950年代になってからだということ。そして男性もパンツが見えることに喜びを見出したのは1950年代までであり、それまではむしろ「丸見えでなくなったことへの淋しさ」を訴える文章が多く見えること。そしてズロースからスキャンティ、そしてパンティの歴史なども詳細に調べています。よくもここまで、と一寸呆れてしまうような迫力です。そしてそのことへの言い訳ともいうべき後書きも面白いです。井上氏は「つくられた桂離宮神話」の研究においても恥ずかしい部分への探究の喜びを追求しているということなのです。