あらすじ
人がパンチラを喜ぶようになったのは、たかだか50年前のこと。パンツをはいていない女店員が、陰部を見られるのを恥じて墜落死したという「白木屋ズロース伝説」は眉唾だ……。「パンツ」をめぐる感性の興亡をたどる、思索の結実。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
白木屋で下着をつけない和服の女性が恥ずかしいのでそのまま焼け死んだ、という話をなかば信じていた。この本で、男性も焼死していたことと、低層からの店員は女性もほぼ逃げられていたことで、フェイクであったことが明らかに示された。
米原万里の推薦本であった。とても面白いが、卒論の参考本にはなるまい。
Posted by ブクログ
女性の下着の歴史。戦前には下着なんて履いていなかったという所からの考察。そして、対比される男性の興味。下着はいつから煽情の的になったのか。ラッキーでパンチラが見えるなんていうのはレベルが低い。昔はラッキーで陰部が見えたのだという。羞恥心も今と昔では違う。確かに、外国では女性も下着を平気で人目につくところに干している。面白い!ただ、後々、延々に続くパンツ談義に胃もたれしてきます。
Posted by ブクログ
昔、上野千鶴子さんの「スカートの下の劇場」という本を読んだ記憶はあるのですが、内容はすっかり忘れていますw。1955年生まれの井上章一さんの「パンツが見える。」(羞恥心の現代史)、2002.5発行です。パンツが見えて喜ぶのは男性で、見られて恥じらうのは女性。でも50年ほど昔は、パンツはそれほど普及してなくて、チラリと見えるのはパンツではなかったと。百貨店の火災事故から、便所に男女の区別のない時代、女性の立ちション、7年目の浮気、見せる下着・・・、パンツをめぐる感性の興亡、著者10年の思索の結実だそうです!
Posted by ブクログ
とにかく奥が深い。
どんな分野であれ、論文や本を書きたいと思っている人は絶対に読むべき本。
この姿勢は必ず参考になる。
なぜ、パンチラが恥ずかしくなったかという歴史なんだけど、学問の奥深さを感じさせてくれる一冊。
★10個でも足りないくらい。
Posted by ブクログ
1910年代〜現代までの、女性の下着の文化風俗史。「時代が下るにつれ、女性は大胆で開放的、性的に放埒になった」という、あの俗耳になじんだ女性史を覆す洞見に満ちている。
1950年代以降、女性用下着はズロース(股引、猿股のような下着。詳しくはググってくれ)に代わって、現在のようなパンティが普及した。が、日本では、このカラー展開したオシャレなパンティが娼婦用、浮気用と見なされる度合いが高かったという。下着に「娼婦用」「浮気用」いった自閉的な幻想を抱くようになった女性が、それを見えるてしまうこと(パンチラ)を恥ずかしがる心性が、そこで初めて生まれた。とりもなおさず、このとき初めて、男性にもパンチラを喜ぶ心性が生まれたというわけだ。
まとめると、
①女自身が「派手で、娼婦的な”いけない”パンツをはいている」という過剰なナルシシズムを抱き、
②パンツが見えないようにする立ち振る舞い、脚さばきを編み出した。
③そうやって隠されたときに初めて、男性の「見たい」という好奇心が刺激され、
④「パンチラ」が性的な意味を帯びるようになったと。
こういう「順序の倒錯」を暴く手法は、鷲田清一の『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、1996)に似ている。井上章一さんは3冊目だけど、専門外の分野に徒手空拳、果敢に挑んでいく姿が素敵。
パンチラがありがたがられる今となっては信じがたいが、その昔の女性はパンツも猿股もはいてなかったし、着物が風にあおられて「モロ見え」してしまっても、あんがい平然としていたわけなのだ。「パンチラが多分に時代・文脈依存的だ」ということを暴きだす、井上氏の手並みの確かさに感嘆した次第。
Posted by ブクログ
長らく和装の生活を送ってきた女性たち。
急に洋装が取り入れられてもパンツがはかれるようになるまでは、
時間がかかった。「パンツ」普及に至るまでの時代の流れと、
感性の変化を多くの資料から考察し、語る。
1 白木屋ズロース伝説は、こうしてつくられた
2 パンツをはかなかったころの女たち
3 ズロースがきらわれたのは、どうしてか
4 「みだら」な女も、はいていた
5 パンチラをよろこぶ感情が、めばえるまで
6 ズロースからパンティへ
7 くろうと筋からの風俗史
8 一九五〇年代パンチラ革命説
主要参考文献有り。
白木屋ズロース伝説の真相の検証から始まる女性の「パンツ」考。
洋装が取り入れられても、多くがパンツをはかなかった理由。
当時の本、雑誌や新聞の記事等を検証、考察し、語りに語る。
考えてみれば、そもそも和装の歴史が長い日本では、
女性には下穿きが無く、アソコを隠さない日常があった。
その後、洋装が取り入れられるにつれ、
パンツ、ズロース、さるまた、ももひきをはく女性もいたが、
それは学業や職業のためで、依然多くははかなかった。
ズロースと、和装の美観維持の相反。
パンツは窮屈、はき心地が悪い。だが、
洋装の広がりと布地や縫製の向上もあって、20世紀半ばから
パンツが広まる。ミニスカートの登場はズロースからパンティーへ。
そして男性にパンチラを喜ぶ感情が、
女性にはパンツが見えるのに羞恥心が生まれたという・・・。
隠されたら見たくなるってことか~。
多少くどいけれど面白真面目で、楽しめました。
特に、多くの文芸作品や論評を取り上げ、検証し、
或いは反駁するのが小気味よくて、面白かったです。
Posted by ブクログ
「パンツ」をめぐる女性の羞恥心と男の感性の興亡を考証する著者渾身の一作だ。なぜ「パンチラ」に男は萌えるのか? またそれはいつからそうなったのか? 女性は女性で、いつから下着の露出を気にするようになったのか?
いいねぇ。このテーマにここまで真面目に取り組むこと自体が素晴らしい。
Posted by ブクログ
男が覗くから女が隠すのか、女が隠すから男が覗くのか? 「なぜ男はスカートの中を見ることに、これほど興奮するのだろうか」という下世話な謎は、「つい数十年前まで、和装の女性はパンツすら履いていなかったのに」(つまり、覗いたところにパンツがあるというのは、男にとって残念でありこそすれ、喜ぶことではなかったはずなのに)という本格的な疑問へと展開される。井上章一は、当時の京大生にとっては必読書だったものだが、おそらく『美人論』以来、20年振りくらいに読んだ。
有名な白木屋ズロース伝説(白木屋の火事で、和服を着ていた女性店員たちが、陰部が野次馬に晒されまいとするあまり、命綱を手放して転落死した)を断定的に否定するショッキングな幕開けに始まる本書は、まさに「知の探求は最高の娯楽」を地で行く面白さで、井上章一は本書によって、この問題における第一人者(一人中)としての立場を確立したと言える。
Posted by ブクログ
タイトルと表紙だけ見ると「引く」タイプの本ですが、非常に真面目に「パンツが見えることに対する女性たちの羞恥心」がいつ頃、どのように作られていったのかについて述べられています。著者が(多少のスケベ心は当然あるにしろ)真剣にこのテーマに取り組んでいるということは、本書で取り上げられている参考文献や新聞記事などが非常に多いことからも分かります。
女性が下着を日常的に身につけるようになったのは洋装が普及してから、という漠然とした知識はありましたが、その辺は服飾史とかを繙けば簡単に調べられるのでしょう。一方で、羞恥心などといった人の「感覚」に関する歴史は、調べようと思ってもなかなか難しいと思います。その点、注目されにくい(と言うか、特にこのテーマについては注目しても表に出そうと思わない人が恐らく大多数)と思われるテーマを引き合いに出して一冊の本にした著者の気力に脱帽です。
Posted by ブクログ
小説や新聞,漫画などに書かれているパンツがらみの文を丁寧に拾って,ノーパンからズロース,パンツ,そしてパンチラへと変遷する女性,男性の意識を論証していて,もうパンツは結構というぐらい読み応えあり.
Posted by ブクログ
●昔、女性はパンツを履いていなかった。それゆえパンツ(陰部)を覗かれることに対しての羞恥心もなかった。パンツをめぐる羞恥心や感性の変遷を考察した本。
Posted by ブクログ
井上氏は建築史の専門家だそうですが、後書きでこれからは風俗史の専門家と名乗ろうかとのこと。確かに日本の女性がパンツをはく歴史の研究はそれに値する内容でしょう。良くもここまで調べたと思う執念で過去の新聞・雑誌・小説から探査しています。1933年の白木屋の火災まではノンズロで全て丸見えだったが、白木屋火災をきっかけとして日本女性がズロースを穿くようになったという言い伝えは一部が事実だとしても、恥ずかしくて飛び降りることが出来ずに死亡したのは俗説であると否定します。当時の風習から丸見えになることは度々あり、死ぬ危険を前にして決して恥ずかしがっていたわけではないのだそうです。それを繊維会社が宣伝目的で使ったことは事実であり、広まっていったとのことです。白木屋火災で死亡した8人の女性の死因を探求から本は始まります。白木屋以降もパンツがなかなか普及しなかった理由。そしてパンツが局部を隠すようになって安心感で、パンツが見えることを恥ずかっていたわけではないこと、それを恥ずかしいと思い出したのは1950年代になってからだということ。そして男性もパンツが見えることに喜びを見出したのは1950年代までであり、それまではむしろ「丸見えでなくなったことへの淋しさ」を訴える文章が多く見えること。そしてズロースからスキャンティ、そしてパンティの歴史なども詳細に調べています。よくもここまで、と一寸呆れてしまうような迫力です。そしてそのことへの言い訳ともいうべき後書きも面白いです。井上氏は「つくられた桂離宮神話」の研究においても恥ずかしい部分への探究の喜びを追求しているということなのです。