p.3 日々の生活の場でも、その生活を作る政治の場でも、負の力に満ち満ちた言葉というか、人の心を削る言葉というか、とにかく「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。
p.8 こうした議論の打ち切り方は「議論の際は根拠を示して丁寧に説明すること」と教室で叫び続けているぼく
からすれば「学生に見せられない議論」そのもので、教育に関わる者の一人として耐えがたいものがあった。
更にいえば、「〇〇と言ったことはない」といった発言や、いわゆる「ご飯論法」といった議論の仕方も、恩師から「学者の発言に時効はないからな」と教わってきたぼくにとっては「!」で頭がパンクするくらいに衝撃的だった。
日本語には「影質を取る」という慣用表現がある。あまり耳慣れないけど「言葉質」という表現もある。この「質」は「人質」の「質」。言葉は本来「質」になりえるくらい大事なもので、発言者自身の言動をも縛ってしまうほど重いということだ。
人と人が議論できたり、交渉できたりするのは、言葉そのものに「質」としての重みがあるからだ。でも、いまは言葉の一貫性や肩頼性よりも、その場その場でマウントを取ることの方が重要らしい。とりあえず、それさえできれば賢そうにも強そうにも見えるのだろう。でも、「言質」にもならない言葉で国や社会や組織が運営されているのって、考えてみれば怖くて仕方がない。
p.12 短い言葉では説明しにくい言葉の力」だ。
言葉には、疲れたときにそっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに背中をさすってくれたり、狭まった視野を広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを休ませてくれたり•••・・そんな役割や働きがあるように思う。
pp.26-27 冒頭でぼくが書いた「危機感」というのは、実はここに関わってくる。「言うのは簡単」だけど、「言えば言うほど息苦しくなる言葉」が社会に溢れて、こうした「生きづらさを抱えた人」を黙らせようとする圧力が急速に高まってきているように思うのだ。
言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。
「心ない言葉」なんて昔からあるけど、ソーシャル・メディアの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が爆発的に加速度を増してきた。しかもその爆発を、誰もが仕掛けられるようになってきた。
それが怖い。
「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」も確実に高まっていくだろう。
Aさんが直面した「心の病」も、「弱い」「甘えてる」「怠けてるだけ」なんて言われることが多い。本人も「心の病」で休職した同僚のことをそう言っていた。でも、そうした言葉が積もり積もって、本人がその「圧力」に潰されそうになってしまった。
忙しくて疲れていれば、「こっちだって大変なんだけど」と愚痴のひとつもこぼしたくなる。毒づきたいときだってある。ぼくだって、そんな感情と無縁で生きてるわけじゃな
い。
でも、「生きづらさ」の重さ比べをしても決して楽にはならない。むしろ、結果的に「黙らせる圧力」を高めてしまうだけだ。
こんな「圧力」を高めてはいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。
「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。
こうした圧力は、「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。
pp.48-49 アニメでは『ドラえもん』が大好きで、金曜日(いまは土曜日)の放送前は、わざわざトイレを済ませてからテレビの前に座った
ただ、この不粉の名作にも苦手なキャラがいた。のび太のママと学校の先生だ。どうしてこの二人が苦手なのか、当時のぼくにはわからなかったけど、たぶん、勉強も運動もできないのび太と自分を重ね合わせて、二人を無意識のうちに敵認定していたのだと思う。
大人になった現在、『ドラえもん』を見直してみても、やはり、この二人の言動には疑問が湧いてくる。
なぜ、玉子さん(のび太のママ=野比玉子)は、まだ小学生の息子にあんなにお使いやら留守番やらを命じるのだろう。
なぜ、「勉強しなさい」「宿題やりなさい」と言うばかりで、わからないところを教えてあげようとしないのだろう。
なぜ、怒るか怒らないかの基準がのび太の個々の行動の是非にあるのではなく、その時の自分の気分にあるのだろう。
なぜ、自分のテンションで唐突にご馳走を作っておきながら、息子の反応がイマイチだと機嫌を損ねるのだろう。
学校の先生は先生で、どうしてのび太の0点の答案をクラスメイトに晒すのだろう。
どうして、のび太が0点を取るたびにのび太のことを怒るのだろう。
どうして、自分の教え方が悪いのかもしれないと立ち止まって考えないのだろう。
どうして、授業の組み立てや教材の選定を再考しないのだろう。
と、疑問を書き出すととまらない。
でも、きっと玉子さんは玉子さんで、野比家の中で多くのことを背負わされているにちがいない。父親の存在感が希薄な家庭の中で、ときどき玉子さんが奇声を上げながら家計簿を付けている様子が描写されたりすると、なんだか普通の家庭に潜む深刻な闇めいたものを感じてしまう。
先生は先生で、「権威」といったもので子どもにマウントをとらないと、「先生」としての立場を守れないと嫌なに肩じているのだろう。あるいは、大人が子どもにマウントをとることを「教育」だと肩じて疑っていないタイプなのかもしれない。だとしたら、彼は彼で悲しい人生を歩んでいる。
でも、少し考えてみてほしい。
p.107 誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。
特に、その「何か」が、漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ(「国家」「世界」「人類」などなど)。第六話で触れた相模原事件の実行犯にも、同じような問題が見て取れる。
「誰かの役に立つこと」が、「役に立たない人を見つけて吊るし上げること」だとしたら、ぼくは断然、何の役にも立ちたくない。
p.125 とりあえず入試に関して言うと、「差別」は不当に「されるもの」であり、「区別」は不利益が生じないように「してもらうもの」(例えば「拡大鏡の使用」など)。
「不利益の生じる区別」は「差別」だし、そもそも属性を理由に「不利益」を押しつけることは許されない。
「差別と区別は違う」というフレーズは、「それは差別だ!」と批判された側が思わずロ走るというパターンが多かったように思う。でも、SNSなんかを見ていると、この問題に直接関係ない人まで野次馬的に使っているようなところがあって、なんだかここでもモヤモヤが収まらなかった。
そもそも、「男社会」が作ったムードに女性の人生が左右されるのは差別だと思うのだ
けれど・・・・・.。
p.154 心の病」に関して言うと、「治す」という表現には慎重になった方がいい。
「治す」という言葉には、「悪い部分を取り除く」というニュアンスがある。外科手術の対象になる病気や、抗生物質や抗ウイルス薬が処方されるような症状の場合、「治す」というのはわかりやすい。病気の原因になった「悪いもの」を取り除いて症状をなくすこと
だ。
では、「心の病」の場合はどうだろう?
「心」は自分の根幹に関わる大切なもの。でも、とてもあやふやなもの。だから「心の病を治す」となると、「自分の心には悪い部分があって、それを取り除いたり、精したりしなければならない」ということになり、少なからず自己否定の要素が入ってしまう。
つまり、「心の病は治さねばならない」と考えすぎると、「治らない自分はダメなんじゃないか」と、更なる自己否定のきっかけをつくってしまいかねないのだ。
それから、「心の病」について突き詰めて考えていくと、「そもそも病んでいるものは何か?」といら問題に行き当たる。
例えば、無茶苦茶な職場でハラスメント被害にあっている人がいたとする。学校でいじめられて苦しんでいる子どもがいたとする。家族の歪んだ関係(虐待やネグレクトなど)に悩んでいる人がいたとする。
そうした人が、心身に不調をきたして精神科を受診したとする。医師に診察してもらって、入院したり、療養したり、服薬したりしたとする。その成果もあって、それまで苦しんでいた症状(職鬱感など)が軽くなったとする。
でも、その人を苦しめていた職場や学校や家族が、以前のままの状態だったとしたら?
その人は引き続き、そこで生きていかなければならないとしたら?
それは「治った」と言ってしまっていいのだろうか?
そもそも、「心を病む」って、その人の「心」が問題なのだろうか?
むしろ、その人を取り巻く「環境」が問題なんじゃないのか?
その人を取り巻く人間関係とか環境が病んでいて、それが立場の弱い人を通して噴出している、ということもあるんじゃないのか?
でも、それは個人の力じゃどうにもならないんじゃないのか?
それなのに「心を病んだ人」は、「弱い」とか「だらしない」とか言われなきゃいけないのか?
そもそも、「誰かにとって望ましくないような心の在り方」を指して、「心の病」と呼ん
でいるってことはないだろうか?
これらもろもろをひっくるめて、「心の病」って何なのだろう?
それが「治る」って何なのだろう?
p.156 癒し」は、昨今の「癒レブーム」の影響で、「ちょっと心地よいこと」という意味で使われているけど、(造形教室)の「癒し」はそれとはぜんぜん違う。
例えば、自分の力ではどうにもならないような苦しい境遇に置かれた人がいたとする。
もう「生きること」を諦めたくなるほど、つらかったとする。
でも、自分で自分を支えながら、誰かに支えられながら、何かに支えられながら、なんとか、どうにか、それでも、今日という日を一日、生きていられたとする。
「癒す」というのは、ぼくなりの言葉で翻訳すれば、この「なんとか」「どうにか」「それでも」とつぶやくときの、そのつぶやきにこもった祈りに近い感覚だ。
<造形教室)には、そんな思いをアートに込めた人たちが集まって、日々、絵筆を握っている。とても不思議で、とても素敵な空間だ。
そもそも、ぼくらは「病気から回復すること」を指し示す言葉として、「治る」以外の言葉を持ってない。でも、「治る」という言葉には「社会が求める標準体=健常者に戻ること」というニュアンスが混じっていて、そこがどうしても気になってしまう(そもそも、治らなかったら社会参加しちゃいけないのか?)。
「病気」には、人それぞれのドラマがある。同じように、「回復」にも人それぞれのドラマがある。いろんな種類の「回復」がある。
「症状もきれいさっぱり消えてパーフェクト」という回復もあれば、「症状はなくならないけど、以前よりは良い」とか、「なんとかやっていける」といった回復もある。
「身体は動かなくなってしまったけど、新たな人間関係に恵まれたから、まあ悪くないかな」と言う回復もあるだろうし、「最悪だった頃に比べれば、まあまあかな」といった回復もあるだろう。これら以外の回復のあり方だって、色々と存在するはずだ。だとしたら、「回復」を意味する言葉も、もっとバリエーションとかグラデーションがあればいいのに、なんて思う。こうした言葉がもっと豊かになれば、この社会も、もう少し緩やかに、優しくなるような気がする。
p.225 も、それでも「文学」が軽んじられるのは寝覚めが悪いから、ぼくなりに「文学とは何か」を説明しておくと、詰まるところ、「くまのぬいぐるみ」みたいなものなのだろう
と思う。
それがなければ「生命」を維持することができないというわけではないし、「生活」が成り立たないというわけでもないけれど、つらかったり、苦しかったり、寂しかったりする時に、そっと「自分を支えてくれるもの」というのが、この世界にはあると思う。
それが存在してくれているという事実があるだけで、救われるような思いを与えてくれるもの。そうしたものの存在を肩じようとする心の働きのようなもの。それが「文学」だと思う。
もう少し正確に言うと、ぼくという一個人は、そうしたものを「文学」として捉えていて、そうしたものの力を解明したいと思っている。
p.231 きっと、人には、人の体温でしか温められないものがある。その体温を、単なる「温度」として捉えるのか、それ以上の何かとして捉えるのか。この何かとして受け止めようとする力が「文学」なんじゃないか。
p.244 もともと、ぼくは自己肯定感(この言葉も「?」という感じだけれど)が低くて、「正しく立派で役立つ存在でありたい」という願望が強い。でも「~でありたい」という願望は、同じ歯車で「未完成の自分」という引け目や焦燥感をかき立てて、「~であらねばならぬ」と我が身にムチを打ってくる。
でも、その「正しい」「立派」「役に立つ」といった価値観自体、誰が作ったものなんだろう。これを追い求めて、本当に幸せになれるのだろうか。障害者運動家たちから、そうした「疑う感覚」を学んだように思う。
「正しく立派で役に立つ自分であらねばならぬ」という出所のよくわからないプレッシャーは、いまもぼくの中で消滅はしていないけれど、確実に楽にはなった。「そもそも『正しい』とか『立派』とか『役に立つ』って何だよ」と、舌打ちくらいはできるようになった。
そうした舌打ちができるようになるにつれて(舌打ちすることを自分に許せるようになるにつれて)、他人に対する要求水準もゆるやかになってきた気がする。
それまでのぼくは自罰感情と他罰感情が正比例するような生き方をしていて(簡単に言えば「俺はこんなにがんばってるんだから、みんなこれくらいして当たり前」「俺はこれくらいできるから、みんなもこれくらいできて当然」という感じ)、あのまま妄層的に突っ走っていたら最強にマッチョな自己責任論者になっていただろう。そして何かの眠きをきっかけにして、我が身を焼き尽くしていたんじゃないかと言う気がする。
p.245 言葉を諦めないために
ぼくの凝り固まった価値観をほぐし、肺の奥まで呼吸しやすくしてくれたのが、この本で紹介した運動家たちとの出会いであり、言葉との出会いだった(本当はもっとたくさんあるけど、もうこれ以上、紹介する余力も能力もいまのぼくにはない)。
変な言い方だけれど、ぼくは自分が経験したことを、それほど「珍しい悩み」だとは思っていない。むしろ、この社会でマジョリティとして生きる人は、多かれ少なかれ、この種の苦しみを抱えているんだと思う。ただ、それを素直に「つらい」「しんどい」と認めるのは意外にむずかしい。
素直に「しんどい」と認められない強張りを、優しくさすって温めてくれたり、時にはガツンと叩いてひびを入れたりしてくれたのが、これらの言葉だった。無意識のうちに自分で自分をムチ打っていることに気づかせてくれた、という感じだろうか。