荒井裕樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ簡単にまとめられない言葉や感情、どうやっても伝えることができない、理解してもらえないだろうと思うことがままあります。
本書は言葉について注意深く繊細に語ろうと努力した本というふうに感じました。理解を求めるというよりかは、著者自身が出会って考えさせられたり、人生が変わっていくきっかけになったり、お守りになったりしたような言葉について書き留めている印象がありました。
p13何かをきれいにまとめようとすると、そこからスルリと落ちるものがある。(略)「伝えられることの総和」が目減りする。
p27「生きづらさ」の重さ比べをしても決して楽にならない。むしろ、結果的に「黙らせる圧力」を高めてしまうだけだ。(略)「黙らせる圧力」は黙っていても弱くはならない。これに抵抗するためには、ぼくたちは何か言葉を積み重ねていかなければならない。
p28ある視点からすればいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたいが正常なのです。
p198「理不尽に抗う方法」をしらなければ、「理不尽な目にあう」ことに慣れてしまい、ゆくゆくは「自分がいま理不尽な目にあっている」ことにさえ気づけなくなる。
書き留めておきたい言葉が目白押しで、何か折れそうになったり、理不尽な目に遭ったときには思い起こしたい言葉ばかりでした。
このところ読んできた本とリンクするような内容で自分はそういう言葉を求めていたのかなと感じました。
第5章の「地域」と「隣近所」については、身内をグループホームへ入れたばかりの身として考えさせられました。
グループホームが街中にあれば「地域生活」になるのか。⋯確かにそういうことではないですね。
共生、交流、住み分け。この視点はないものでした。この視点を身内としては忘れないで見守らなくては、と思いました。
「希待」「生きた心地」「言葉の壊れ」考えるキーワードがてんこ盛り。
自分はあまり一度読んだ本を読み返さないですが、これは手元において時折読み返したい一冊です。 -
Posted by ブクログ
率直にいえば、簡単に読んでいいような本ではないと感じた。そして、感想を書くのがとても難しかった。
私は、本書は『短い言葉や伝わりやすい言葉が重視されがちな現代において、短くできない言葉が存在しないものとされることや、本来の意味が理解されず言葉が軽く扱われていることに対して警鐘を鳴らすもの』だと理解した。
著者は「被抑圧者の自己表現」を専門としていることもあり、各エピソードは障がい者に関する内容も多くなっている。
特に第七話『「お国の役」に立たなかった人』を読んでいて、現在も同様の状況になっているのではと恐怖を感じた。
この章では、戦時中、”お国の役に立た”ず迫害の対象となった障がい者たちがさらなる迫害を受けないためにどういった言動をとればよいか考えた末、自発的に戦争を賛美するという行動をとった(そう表明することでその瞬間だけは世間からいじめられなかった)とある。
誰だって迫害されたくない。そういう心理を利用して、自発的に考え方を変えさせるようになっていくと、それはもう強権的な社会となってしまう。
同調圧力が強い日本では、特に誰か同じ立場の人が主張している内容に賛同してしまう人も少なくない。私も100パーセント他人の意見に左右されないとは言い切れない。それってとても危険なことで、自分の意見を持つこと、そしてそれを恐れずに発信していくことの重要性を改めて痛感した。とはいえ、言葉にするのは簡単で、痛感した内容をどう行動にしていけばいいのかはまだわからない…。
そして終話『言葉に救われる、ということ』にある『ものすごく言葉にしにくいことだが、相模原事件に関して、事件を起こした人物が行ったことに理解も共感も納得もできないとした一方で、自分と「地続き」のところを生きているという実感がある(できる限り内容を崩さないように記載)』と記載した著者は自分の深いところまで見つめている。それはとても難しいことで、(簡単な言葉で申し訳ないが)それができる著者はすごい人だと改めて感じた。そして自身が障がい者と関わり、自分の凝り固まったイメージをほぐしている、ということは自分の弱い部分を見つめなおすことで、相当苦しい思いをされたのでは、と勝手に想像した。
会議内容や本を要約するなど、”タイパ”を重視する人が多い世の中になってきたと思う。スピード感が重視され、回答は”早いこと=いいこと”になりつつあることにも危機感を感じる。もちろん恩恵は私も受けている。しかし、それは本当に正しい回答なのか、乱暴に言葉をつぎはぎしただけではないか。常に考えながら過ごしていきたい。 -
Posted by ブクログ
p.3 日々の生活の場でも、その生活を作る政治の場でも、負の力に満ち満ちた言葉というか、人の心を削る言葉というか、とにかく「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。
p.8 こうした議論の打ち切り方は「議論の際は根拠を示して丁寧に説明すること」と教室で叫び続けているぼく
からすれば「学生に見せられない議論」そのもので、教育に関わる者の一人として耐えがたいものがあった。
更にいえば、「〇〇と言ったことはない」といった発言や、いわゆる「ご飯論法」といった議論の仕方も、恩師から「学者の発言に時効はないからな」と教わってきたぼくにとっては「!」で頭がパンクするくらいに衝撃的だった。
日本語には「影質を取る」という慣用表現がある。あまり耳慣れないけど「言葉質」という表現もある。この「質」は「人質」の「質」。言葉は本来「質」になりえるくらい大事なもので、発言者自身の言動をも縛ってしまうほど重いということだ。
人と人が議論できたり、交渉できたりするのは、言葉そのものに「質」としての重みがあるからだ。でも、いまは言葉の一貫性や肩頼性よりも、その場その場でマウントを取ることの方が重要らしい。とりあえず、それさえできれば賢そうにも強そうにも見えるのだろう。でも、「言質」にもならない言葉で国や社会や組織が運営されているのって、考えてみれば怖くて仕方がない。
p.12 短い言葉では説明しにくい言葉の力」だ。
言葉には、疲れたときにそっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに背中をさすってくれたり、狭まった視野を広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを休ませてくれたり•••・・そんな役割や働きがあるように思う。
pp.26-27 冒頭でぼくが書いた「危機感」というのは、実はここに関わってくる。「言うのは簡単」だけど、「言えば言うほど息苦しくなる言葉」が社会に溢れて、こうした「生きづらさを抱えた人」を黙らせようとする圧力が急速に高まってきているように思うのだ。
言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。
「心ない言葉」なんて昔からあるけど、ソーシャル・メディアの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が爆発的に加速度を増してきた。しかもその爆発を、誰もが仕掛けられるようになってきた。
それが怖い。
「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」も確実に高まっていくだろう。
Aさんが直面した「心の病」も、「弱い」「甘えてる」「怠けてるだけ」なんて言われることが多い。本人も「心の病」で休職した同僚のことをそう言っていた。でも、そうした言葉が積もり積もって、本人がその「圧力」に潰されそうになってしまった。
忙しくて疲れていれば、「こっちだって大変なんだけど」と愚痴のひとつもこぼしたくなる。毒づきたいときだってある。ぼくだって、そんな感情と無縁で生きてるわけじゃな
い。
でも、「生きづらさ」の重さ比べをしても決して楽にはならない。むしろ、結果的に「黙らせる圧力」を高めてしまうだけだ。
こんな「圧力」を高めてはいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。
「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。
こうした圧力は、「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。
pp.48-49 アニメでは『ドラえもん』が大好きで、金曜日(いまは土曜日)の放送前は、わざわざトイレを済ませてからテレビの前に座った
ただ、この不粉の名作にも苦手なキャラがいた。のび太のママと学校の先生だ。どうしてこの二人が苦手なのか、当時のぼくにはわからなかったけど、たぶん、勉強も運動もできないのび太と自分を重ね合わせて、二人を無意識のうちに敵認定していたのだと思う。
大人になった現在、『ドラえもん』を見直してみても、やはり、この二人の言動には疑問が湧いてくる。
なぜ、玉子さん(のび太のママ=野比玉子)は、まだ小学生の息子にあんなにお使いやら留守番やらを命じるのだろう。
なぜ、「勉強しなさい」「宿題やりなさい」と言うばかりで、わからないところを教えてあげようとしないのだろう。
なぜ、怒るか怒らないかの基準がのび太の個々の行動の是非にあるのではなく、その時の自分の気分にあるのだろう。
なぜ、自分のテンションで唐突にご馳走を作っておきながら、息子の反応がイマイチだと機嫌を損ねるのだろう。
学校の先生は先生で、どうしてのび太の0点の答案をクラスメイトに晒すのだろう。
どうして、のび太が0点を取るたびにのび太のことを怒るのだろう。
どうして、自分の教え方が悪いのかもしれないと立ち止まって考えないのだろう。
どうして、授業の組み立てや教材の選定を再考しないのだろう。
と、疑問を書き出すととまらない。
でも、きっと玉子さんは玉子さんで、野比家の中で多くのことを背負わされているにちがいない。父親の存在感が希薄な家庭の中で、ときどき玉子さんが奇声を上げながら家計簿を付けている様子が描写されたりすると、なんだか普通の家庭に潜む深刻な闇めいたものを感じてしまう。
先生は先生で、「権威」といったもので子どもにマウントをとらないと、「先生」としての立場を守れないと嫌なに肩じているのだろう。あるいは、大人が子どもにマウントをとることを「教育」だと肩じて疑っていないタイプなのかもしれない。だとしたら、彼は彼で悲しい人生を歩んでいる。
でも、少し考えてみてほしい。
p.107 誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。
特に、その「何か」が、漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ(「国家」「世界」「人類」などなど)。第六話で触れた相模原事件の実行犯にも、同じような問題が見て取れる。
「誰かの役に立つこと」が、「役に立たない人を見つけて吊るし上げること」だとしたら、ぼくは断然、何の役にも立ちたくない。
p.125 とりあえず入試に関して言うと、「差別」は不当に「されるもの」であり、「区別」は不利益が生じないように「してもらうもの」(例えば「拡大鏡の使用」など)。
「不利益の生じる区別」は「差別」だし、そもそも属性を理由に「不利益」を押しつけることは許されない。
「差別と区別は違う」というフレーズは、「それは差別だ!」と批判された側が思わずロ走るというパターンが多かったように思う。でも、SNSなんかを見ていると、この問題に直接関係ない人まで野次馬的に使っているようなところがあって、なんだかここでもモヤモヤが収まらなかった。
そもそも、「男社会」が作ったムードに女性の人生が左右されるのは差別だと思うのだ
けれど・・・・・.。
p.154 心の病」に関して言うと、「治す」という表現には慎重になった方がいい。
「治す」という言葉には、「悪い部分を取り除く」というニュアンスがある。外科手術の対象になる病気や、抗生物質や抗ウイルス薬が処方されるような症状の場合、「治す」というのはわかりやすい。病気の原因になった「悪いもの」を取り除いて症状をなくすこと
だ。
では、「心の病」の場合はどうだろう?
「心」は自分の根幹に関わる大切なもの。でも、とてもあやふやなもの。だから「心の病を治す」となると、「自分の心には悪い部分があって、それを取り除いたり、精したりしなければならない」ということになり、少なからず自己否定の要素が入ってしまう。
つまり、「心の病は治さねばならない」と考えすぎると、「治らない自分はダメなんじゃないか」と、更なる自己否定のきっかけをつくってしまいかねないのだ。
それから、「心の病」について突き詰めて考えていくと、「そもそも病んでいるものは何か?」といら問題に行き当たる。
例えば、無茶苦茶な職場でハラスメント被害にあっている人がいたとする。学校でいじめられて苦しんでいる子どもがいたとする。家族の歪んだ関係(虐待やネグレクトなど)に悩んでいる人がいたとする。
そうした人が、心身に不調をきたして精神科を受診したとする。医師に診察してもらって、入院したり、療養したり、服薬したりしたとする。その成果もあって、それまで苦しんでいた症状(職鬱感など)が軽くなったとする。
でも、その人を苦しめていた職場や学校や家族が、以前のままの状態だったとしたら?
その人は引き続き、そこで生きていかなければならないとしたら?
それは「治った」と言ってしまっていいのだろうか?
そもそも、「心を病む」って、その人の「心」が問題なのだろうか?
むしろ、その人を取り巻く「環境」が問題なんじゃないのか?
その人を取り巻く人間関係とか環境が病んでいて、それが立場の弱い人を通して噴出している、ということもあるんじゃないのか?
でも、それは個人の力じゃどうにもならないんじゃないのか?
それなのに「心を病んだ人」は、「弱い」とか「だらしない」とか言われなきゃいけないのか?
そもそも、「誰かにとって望ましくないような心の在り方」を指して、「心の病」と呼ん
でいるってことはないだろうか?
これらもろもろをひっくるめて、「心の病」って何なのだろう?
それが「治る」って何なのだろう?
p.156 癒し」は、昨今の「癒レブーム」の影響で、「ちょっと心地よいこと」という意味で使われているけど、(造形教室)の「癒し」はそれとはぜんぜん違う。
例えば、自分の力ではどうにもならないような苦しい境遇に置かれた人がいたとする。
もう「生きること」を諦めたくなるほど、つらかったとする。
でも、自分で自分を支えながら、誰かに支えられながら、何かに支えられながら、なんとか、どうにか、それでも、今日という日を一日、生きていられたとする。
「癒す」というのは、ぼくなりの言葉で翻訳すれば、この「なんとか」「どうにか」「それでも」とつぶやくときの、そのつぶやきにこもった祈りに近い感覚だ。
<造形教室)には、そんな思いをアートに込めた人たちが集まって、日々、絵筆を握っている。とても不思議で、とても素敵な空間だ。
そもそも、ぼくらは「病気から回復すること」を指し示す言葉として、「治る」以外の言葉を持ってない。でも、「治る」という言葉には「社会が求める標準体=健常者に戻ること」というニュアンスが混じっていて、そこがどうしても気になってしまう(そもそも、治らなかったら社会参加しちゃいけないのか?)。
「病気」には、人それぞれのドラマがある。同じように、「回復」にも人それぞれのドラマがある。いろんな種類の「回復」がある。
「症状もきれいさっぱり消えてパーフェクト」という回復もあれば、「症状はなくならないけど、以前よりは良い」とか、「なんとかやっていける」といった回復もある。
「身体は動かなくなってしまったけど、新たな人間関係に恵まれたから、まあ悪くないかな」と言う回復もあるだろうし、「最悪だった頃に比べれば、まあまあかな」といった回復もあるだろう。これら以外の回復のあり方だって、色々と存在するはずだ。だとしたら、「回復」を意味する言葉も、もっとバリエーションとかグラデーションがあればいいのに、なんて思う。こうした言葉がもっと豊かになれば、この社会も、もう少し緩やかに、優しくなるような気がする。
p.225 も、それでも「文学」が軽んじられるのは寝覚めが悪いから、ぼくなりに「文学とは何か」を説明しておくと、詰まるところ、「くまのぬいぐるみ」みたいなものなのだろう
と思う。
それがなければ「生命」を維持することができないというわけではないし、「生活」が成り立たないというわけでもないけれど、つらかったり、苦しかったり、寂しかったりする時に、そっと「自分を支えてくれるもの」というのが、この世界にはあると思う。
それが存在してくれているという事実があるだけで、救われるような思いを与えてくれるもの。そうしたものの存在を肩じようとする心の働きのようなもの。それが「文学」だと思う。
もう少し正確に言うと、ぼくという一個人は、そうしたものを「文学」として捉えていて、そうしたものの力を解明したいと思っている。
p.231 きっと、人には、人の体温でしか温められないものがある。その体温を、単なる「温度」として捉えるのか、それ以上の何かとして捉えるのか。この何かとして受け止めようとする力が「文学」なんじゃないか。
p.244 もともと、ぼくは自己肯定感(この言葉も「?」という感じだけれど)が低くて、「正しく立派で役立つ存在でありたい」という願望が強い。でも「~でありたい」という願望は、同じ歯車で「未完成の自分」という引け目や焦燥感をかき立てて、「~であらねばならぬ」と我が身にムチを打ってくる。
でも、その「正しい」「立派」「役に立つ」といった価値観自体、誰が作ったものなんだろう。これを追い求めて、本当に幸せになれるのだろうか。障害者運動家たちから、そうした「疑う感覚」を学んだように思う。
「正しく立派で役に立つ自分であらねばならぬ」という出所のよくわからないプレッシャーは、いまもぼくの中で消滅はしていないけれど、確実に楽にはなった。「そもそも『正しい』とか『立派』とか『役に立つ』って何だよ」と、舌打ちくらいはできるようになった。
そうした舌打ちができるようになるにつれて(舌打ちすることを自分に許せるようになるにつれて)、他人に対する要求水準もゆるやかになってきた気がする。
それまでのぼくは自罰感情と他罰感情が正比例するような生き方をしていて(簡単に言えば「俺はこんなにがんばってるんだから、みんなこれくらいして当たり前」「俺はこれくらいできるから、みんなもこれくらいできて当然」という感じ)、あのまま妄層的に突っ走っていたら最強にマッチョな自己責任論者になっていただろう。そして何かの眠きをきっかけにして、我が身を焼き尽くしていたんじゃないかと言う気がする。
p.245 言葉を諦めないために
ぼくの凝り固まった価値観をほぐし、肺の奥まで呼吸しやすくしてくれたのが、この本で紹介した運動家たちとの出会いであり、言葉との出会いだった(本当はもっとたくさんあるけど、もうこれ以上、紹介する余力も能力もいまのぼくにはない)。
変な言い方だけれど、ぼくは自分が経験したことを、それほど「珍しい悩み」だとは思っていない。むしろ、この社会でマジョリティとして生きる人は、多かれ少なかれ、この種の苦しみを抱えているんだと思う。ただ、それを素直に「つらい」「しんどい」と認めるのは意外にむずかしい。
素直に「しんどい」と認められない強張りを、優しくさすって温めてくれたり、時にはガツンと叩いてひびを入れたりしてくれたのが、これらの言葉だった。無意識のうちに自分で自分をムチ打っていることに気づかせてくれた、という感じだろうか。
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Posted by ブクログ
感想さえもまとまらない
終話がとてもいい
荒井さんの「自分の言葉」がいちばんいい
まとまらない日々が愛おしくなる
生きるのに遠慮はいらないんだ
自分以外の誰かに対して硬直した像を押し付けることと、自分自身を堅苦しい像に閉じ込めることは表裏一体
そもそもその像って正しいの?
「自己責任」と言い捨てることで、他人の痛みへの想像力を削いでいく
速く慌ただしくなった社会で、膨大な出来事はどこか遠くで起きたことになる
人間の在り方とかを考える時間も取れてない
流れてしまう毎日
黙ることで逃げる
近くの人も思いやる余裕のある余裕がない
うわべだけの言葉
本当に大切なことは何か?
大切な人を思いやること、思って思って、不器用でいいから、言葉と行動で励ませる人になりたい -
Posted by ブクログ
障害者とは何か? 障害者差別とは何か? ということを考える本。こうした問いに対して、「答え」を出すのではなく、これから差別に出会った時に、一つひとつの問題を考えるための「考え方」を書こうとする筆者の立場が素敵だった。
この本では、第一部で「障害とは何か?」「障害者とは誰か?」について、法律と制度、理論と理屈、社会的イメージの三つの点から考える。しかし、まさに「考える」のであって、最初にも言った通り、その結果、何かしらの答えが出るわけではない。
「歩く」という例では、全く立ち上がることもできない人から、車イスから普通のイスに座るくらいなら自分で歩ける人。杖があって、人混みでなければ歩ける人。膝でにじり歩くことはできる人。そういった具体例を考える中で、「できる」と「できない」の間の、グラデーションを考える。
このように、この本の中では、「歩く」ことに障害のある人は、こういう人で、こういう支援が有効だ、とかいった話は一切ない。むしろ、そんな分かりやすい答えから遠ざかって、その境界線を考えることの大切さ伝えて、考えるためのきっかけとヒントを与えてくれる。
本の最後に述べられている「差別のない社会」を目指すのではなく、差別は起こりうるということ認めた上で、「差別に対して怒れる社会」を目指そう、というメッセージが印象的だ。
障害者や差別について語るとき、確かに、自分だけはされる側にはならないと思い込んでいることに気がつく。
自分自身が、マジョリティでありながら、マイノリティについて語るとき、差別を受けることへの恐怖心、怒り、そうした気持ちをどれだけ当事者性をもって受け止められるか。そのためには、常に障害があること、ないことの境界線の上で考え続けることが大切なのだという。
それを確かめさせられる本だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ一言で言うとめちゃめちゃ考えさせられる本です。
健常者の意見を聞いたあとに反発した障がい者の意見を聞くと納得する反面、頭がぐちゃぐちゃになります。
あとがきで作者が述べていましたが、この本に障がい者差別にどう対応していくべきなのか答えは無いので結局自分で考えなければならない問題になります。
正直しんどいです。3日くらいこの問題について考えふけってしまいそう。
このような障がい者差別等の問題は様々な視点からの意見があり、一概に自分の個人的な意見や感想をこの場で安易に発言することはできないので興味ある人は是非ご自身で読んで欲しいと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ世の中のことにとても疎いので読んでよかった。
印象に残ったワード「全体主義」「差別」「ファシズム」「水道法改正」「種苗法改定」「カジノ」「歴史修正主義」
コロナ禍だからこそ伝えたい「自由」と「権利」と「多様性」
p19「自由や多様性を守る」ということは、(コロナ禍で)マスクをしない人も、バーベキューをする人も、同じ社会で暮らす仲間として尊重するということ…せめて糾弾したり排除したりしないということ…自分たちの安全のためにどうしても行動を変えてもらう必要があるならば、その人の人権や生活が損なわれないよう、民主的な手続きを守りながら、理性的にお願いするということ
p17〜18 社会を民主的に保ちたいのであれば、…個人の自由や権利に制約を課すことには、極めて抑制的でなければならない。同時に、私たちは制約を課したり課されたりすることに、常に抵抗感と違和感を保たなければならないのであって、絶対に慣れてしまってはいけない。…多くの権利者にとって、市民の人権を容易に制限できる状況は、とても都合がよいものだから
p21 民主社会の強みの一つは、多様な背景を持つ多様な人々が存在するがゆえに、大きな社会問題が生じた際にも多方面から無数の解決法が自由に試みられることにある。そうした解決法には、優れたものも、ダメなものもあるだろうが、ダメなものは次第に淘汰され、優れたものが採用されていく。それがイノベーションの基本的な力学だ。
映画作家 想田和弘
集団行動が生み出す独特の高揚感は、集団を統率する権威と結びついたとき、ファシズムへと変貌する
p267 権威に従属することによって人は行動に伴う責任から解放され、社会的な制約から「自由」に行動できるようになる…こうした治外法権的な状況がいったん成立すると、これを維持・強化しようとする動きが服従者の側から自発的に出てくる。それは人びとが自分の行動の責任を指導者にゆだね、その命令を遂行することにのみ責任を感じはじめるという、状況的義務への拘束が生じるためである。
甲南大学教授 田野大輔
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Posted by ブクログ
被抑圧者の自己表現。
もっと癒やされる『言葉』の話かと思って読み始めたら、最近の世にはびこる強い言葉(誰かの生きる気力を削ってしまうような)について考えるエッセイが詰まっていて、重たい読み口で驚いた。今、言葉がどんどん壊れてきている、ということをいろんなエピソードで伝えてくれる。障害者運動や差別、戦時中の話などもたくさん出てきて、他者を抑圧する圧力の話が続く。政治色も強め。
世の中と闘った運動家の方々の『言葉』はパワフルですごいんだけど、そちらはそちらで別の強さがあって当てられてしまうというか…(運動家の方々の言葉やエピソードがたくさん出てきます)。
言葉、めちゃくちゃパワー持ってるくせにすべての感情を伝えられるわけではないし、発した人と受け取る人で思いがすれ違うこともあるし、もう喋るの怖いんだけど!??と思っちゃった。
もう喋るのがつらい……となってたけど、終章で著者の過去を読んですこし気が軽くなった。人は変われる。要約できない毎日を大切に、これまでよりも言葉の力を考えながら言葉を発していくしかないなと思った。