あらすじ
良い文章ってなんだろう?
生きづらさの表現と向き合ってきた文学者が
「書くこと」について綴ったエッセイ
【内容】
被抑圧者の表現を追って踏み入れた学問の世界。文学者で物書き、人権や差別といった問題についても発信しているから、何者か分からないと思われている節がある。
一貫して向き合ってきたのは言葉について。
良い文章ってなんだろう?
今まで漠然と考えていたことを、あらためて直視してみようと思う。
「良い文章を探すことは、喩えるなら、夜空を見上げて星座盤にない星を探すようなものかもしれない。確かに今、視線の先に星は見えない。でも、この視界の先に星があると信じることはできる。信じた方が、夜の暗さが怖くなくなる。そう感じられる人と、この本を分かち合いたい」――「はじめに」より。
文章を書く人・書きたい人に贈る、良い文章と出会うための25篇。
第15回わたくし、つまりNobody賞受賞以来、初のエッセイ集!
【推薦】
言葉には人の「生」が滲む。出会ってきた人の姿、誰かの声、沈黙、悔恨、よろこび、幸福――ささやかで大事なものが溶けこんだ海にペンの先を浸し、自分の文章を書き始める。揺らぎ、ためらい、一文字も書けなくても、海に身を浸してそれでも言葉を探すあなたの姿を、この本は見ていてくれる。
――安達茉莉子さん(作家・文筆家)
言葉で伝えるのは難しい。
その難しさを知っている人の言葉は、
こうしてゆっくりと届く。
――武田砂鉄さん(ライター)
【目次】
はじめに――とはいえ、を重ねながら綴る
急須のお茶を飲みきるまでに
何者かでありすぎて、自分以外ではない
押し込められた声を聞くことができるか
やさしい言葉
書いた気がしない本
憧れる言葉
羨ましい読まれ方
遠くの場所で言葉が重なる
伸ばせたかもしれない翼を語る
時々こうして言葉にしておく
感情の海を泳ぐ
生きられた世界に潜る
ずれた言葉の隙間を埋める
心の在処を表現する
世界を殴る
何かするとは、何かすること
自分がやるしかない証明作業
言葉にこまる日のこと
子どもと生きる
「仕方がない」が積もった場所で
「分かってもらえない」を分かち合いたい
下駄を履いて余力を削る
文章と晩ごはん
おわりに――綴ることは、息継ぎすること
【著者】
荒井裕樹 (アライユウキ) (著/文)
1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部教授。文筆家。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。
著書に『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』『凜として灯る』(現代書館)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房、のちにちくま文庫)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
苦しくてつらい状況に巻き込まれてしまった時、忙しすぎて心を失いそうになった時、不安で頭がいっぱいで何も手に付かない時、誰かの都合や機嫌を気遣いすぎて疲れた時、社会や世間に合わせるのがしんどくなった時・・・・・そうした時に、水面から顔を上げて、大きく息を吸うようにして、自分で自分を確かめたくなることがある。
自分はこういうことが好きだったんだとか、自分はこういうことに傷つくんだったとか、自分はこうしたことが嬉しいんだったとか、そうそう自分はこういう人間だったんだとか、自分は今日こういうことをしたんだとか、自分にはこうした思い出があったんだとかーこうした些細な再確認が、生きていると時々、必要になる。
その日その日の暮らしを積み重ねて、その瞬間その瞬間を何とか生きていると、こんな世細なことも忘れてしまったり、なくしてしまったり、奪われてしまったりする。
そうした時、言葉を綴ることが、小さな息継ぎになることがある。
Posted by ブクログ
障害を抱えている自分にとって、当事者的に読んだ。
「食べなよ」って言葉は確かにどんな事情を抱えた人でもそこまでは踏み込めて良いなと思ったけど、摂食障害などを抱えた人にとっては苦痛だと思った。考えて使いたい。
Posted by ブクログ
いい文章ってなんだろう、と思う。自分が物を書くことを生業としてなくとも、誰かに何かを伝えるためには語彙力が多かったり、伝え方が上手なのは良いに超したことはないのでと思い手に取ったもの。
Posted by ブクログ
学者肌でお堅い感じのする筆者が、『スキップとローファー』を愛読しているという点に驚いた。
私たちが見逃している日常の些細なことを少し違う角度から優しい目線で解釈するエッセイ集とでも言おうか。
とにかく言葉使いが丁寧で綺麗。だがそれに物足りない人もいるだろう。文章術としての側面は全くない。