880
安田浩一
1964 年生まれ。静岡県出身。「週刊宝石」などを経てフリーライターに。事件・社会問題を主なテーマに執筆活動を続ける。ヘイトスピーチの問題について警鐘を鳴らした『ネットと愛国』(講談社)で2012 年の講談社ノンフィクション賞を受賞。2015 年、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(「G2」vol.17)で第46 回大宅壮一ノンフィクション賞雑誌部門受賞。著書に『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『ヘイトスピーチ』(文春新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)、『学校では教えてくれない差別と排除の歴史』(皓星社)など多数。
「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)
by 安田浩一
「いまでは教育勅語を生徒に朗誦させるようなことはしていません。生活指導には力を入れていますが、かつてのような愛国教育と呼ばれるようなカリキュラムもありません」 当然、三島を「顕彰」する行事もないし、宮城遥拝もおこなわない。同校のホームページから伝わってくるのは、サッカーと野球に力を入れた学校、というイメージくらいのものである。つまり「普通の高校」になったということだ。
ワシントンハイツは比較的出入りが自由だったので、近所に住む日本人の少年たちが草野球を楽しむ場所としても利用された。そのなかから生まれた少年野球チームのひとつに「ジャニーズ」があった。監督として指導していたのは、やはり近所に住むジョン・ヒロム・キタガワという米国帰りの日本人で、後にジャニー喜多川を名乗り、少年野球チームから始まった「ジャニーズ」を日本有数の芸能事務所に育て上げることになる。
晩年、その鈴木は右派団体「日本を守る国民会議」に参加した。 81(昭和 56) 年に設立された「国民会議」は、我が国の改憲運動を牽引した。日本国憲法は米国の「押しつけ憲法」だとし、日本国憲法が、日本の堕落した「戦後」を作り出し、家族制度を崩壊させ、共産主義の脅威を招きこんだのだと訴えた。日本国憲法によって、日本が日本でなくなったという主張は、影山が一貫して訴えてきたことでもある。
「日本を守る国民会議」は 97(平成9) 年に、同じように改憲運動を続けていた右派宗教者による組織「日本を守る会」と統合し、さらなる右派大衆運動の拡大を目指して新組織を結成した。鈴木もそこに代表委員として加わった。 その新組織こそが──「日本会議」である。
「保守」とは思想ではなく、生き方の問題である。伝統を尊び、時代の流れに翻弄されることなく、地域や社会に尽くすことではないのか。日章旗を乱暴に振り回しながら街を練り歩くことで保守だ、愛国だと悦に入っている連中は、こうした地に足の着いた生活をどう感じるであろうか。
礼儀正しい担当の青年は、「いわゆる右翼として活動しているわけではない」と私に告げた。街宣車で街中を流すことなどしない。繁華街で声を張り上げることもない。あくまでも国学、歌道などを通じて日本の伝統精神護持、普及に努めているのだという。定期的に国学の講座や詩吟教室を開催し、道場ではフルコンタクトの空手教室も行っている。
〈日本の右翼は本質的に左翼に対抗して生まれたもの〉〈過去の国家主義者のなかゝら反米主義者が出現することは断じてないのである。むしろ、かつての国家主義者、すなわち、天皇と国家にあくまで忠実であった者のなかゝらこそ、真の親米派は生まれでることを自分は確信するものである〉
だが、多くの右翼はいとも簡単に「反米」から「親米」へと路線転換した。その逡巡や苦痛を表現したものは、ほとんど存在しない。これは戦後の右翼の軌跡を見るうえでは重要なことだ。民族主義、国粋主義の旗を振りながらも日米安保を肯定し、沖縄での米軍基地固定化に手を貸すのが、いまや右翼の大部分と言えるからだ。結局、右翼は常に権力の近場にいるしかなかった。
私はその話を三ヶ根山から遠く離れた熱海(静岡県) で聞いた。実は、三ヶ根山に眠る遺骨は、もともとは熱海の興亜観音に納められていたものが分骨されて、同地に届いた。その経緯を、私は興亜観音の住職・伊丹妙浄の説明で知った。 伊丹は私が熱海を訪ねた際、向こうから声をかけ、親切に案内に回ってくれた尼僧である。おそらく参拝客が訪ねるたびに、そうしているのだろう。 諳んじた歌を披露するかのような滑らかな口調で、伊丹は次のようにことの経緯を話してくれた。
なお、素顕が設立した「防共新聞社」を母体として、 55 年に誕生した右翼団体が「防共挺身隊」である。代表を務めたのは素顕の長男・進だ。彼は福田邦宏の叔父にあたる。 「行動右翼のパイオニア」とも呼ばれる「防共挺身隊」は、戦後右翼の象徴的な存在だった。現在、右翼と言えば黒塗りの街宣車と、大音量で流される軍歌といったイメージが強いが、そうした街宣スタイルを確立させたのが、まさに「防共挺身隊」だった。
しかし、昭和に入って転向。これは活動資金を地元財界に求めた事例を同志から批判されたことが原因だとされる。今も昔も社会主義者は、少なくとも建前上は「金に綺麗」であることが求められる(実際、アナーキストの中には、企業に金をせびっては、それを活動資金に回す者も少なくなかった)。赤尾とすれば、仮に「汚れた金」であっても、社会主義革命のために使うのであれば浄化されると考えたのであろう。
その後、赤尾は国家社会主義者の 高畠素之 などとともに、赤色メーデーに対抗する「建国祭」を開催し、反共の道を進む。赤尾が提唱した「建国祭」は、紀元節の日に国民が一斉に皇居の二重橋を目指し、皇居前広場で天皇陛下万歳を三唱するといったものである。
若き日の曺はマルキストであり、朝鮮独立運動の闘士でもあった。
「靖国の桜はソメイヨシノですな。私はソメイヨシノがあまり好きではないんです。なんというか、あまりに華美で、自己主張が強すぎるような気がするんです。人工的な感じもします。その点、山桜はいい。素朴で、ひっそりと、控えめに、昔からそこにいるかのように優しく咲いています。風景の中で浮き上がることなく、自然と調和している」
古い上着を脱ぎ棄てても、右翼の細胞は体内に生きている。右翼が心情に訴えかける思想であることは先に述べた。国と民族を守る──右翼思想の根底に流れるのはナショナリズムである。日本の場合はそこに天皇への崇敬の念を重ね合わせ、時代状況に応じて、看板が塗り替えられてきた。
右翼としての新しい門出を考えたとき、エネルギーとすべきは「反共」だった。戦には敗れても、社会主義革命によって日本が日本でなくなることは避けねばならなかったのだ。社会主義(あるいはその発展形の共産主義) は、天皇を否定する。伝統よりも進歩を重視する。革命歌の「インターナショナル」に象徴されるように、国際連帯が国益以上に重視される(そうした意味において、北朝鮮など、現存する共産主義国家は本来の意味の共産主義を実行していない)。右翼にとっては、国を守るためにも、社会主義・共産主義は断じて許容できるものではなかった。〝容共〟は国家の否定にもつながるのだ。
曺寧柱にしても、あるいは町井にしても、在日コリアンである彼らがなぜに日本の右翼となるのか理解に苦しむ向きもあるだろう。もちろん当時は「反共」なる大義名分を前に、むしろ日韓の裏社会が太いパイプで結ばれていたという時代背景もある。「反韓・嫌韓」を叫ぶことだけが愛国だと思い込んでいるネトウヨ世代には理解できないだろうが、右翼界隈にあって日韓は、「対北朝鮮」の同志でもあった。
そう話すのは、全日本愛国者団体会議(全愛会議) の顧問を務める三澤浩一( 58 歳) だ。前述したように、全愛会議は時対協と並ぶ右翼団体の全国組織である。学生時代から右翼の世界で生きてきた三澤が、〝親韓〟から〝嫌韓〟に変化した右翼の経緯について説明する。
いまやネトウヨと変わらぬ、剝き出しの排外主義とヘイトスピーチで反基地運動を貶める「日思会」だが、組織の創設に関わったのが「在日」であることを知っているメンバーはどれほどいるのだろうか。「朝鮮人出て行け」と連呼する彼らは、自らの組織の歴史を否定しているに等しい。
「日本学生新聞」創刊号には、三島由紀夫が激励文を寄稿している。 〈偏向なき学生組織は久しく待望されながら、今まで実現を見なかった。青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、真に青年の心をつかむことはできない。目的なき行動意慾は今、青年たちの鬱屈した心に漲ってゐる。新しい学生組織はそれへの天窓をあけるものであらう。日本の天日はそこに輝いてゐる。〉 三島の期待の大きさが伝わってくる。
「論争しました。そのたびに左翼の人はよく本も読んでいるし、勉強しているんだなあと感心しましたよ。もちろん、こちらも負けるわけにはいかないから必死で勉強する。左翼の存在は刺激にはなりましたね」 余談ではあるが、後に魚谷が京都市内で古書店を開業する際、古本などを提供してくれたのは、学生時代の論争相手である左翼連中だった。一貫して保守、右派の道を歩むことになる魚谷だが、元ブント、元赤軍といった左翼人脈が魚谷の開業を手助けしたのだ。
大会では評論家の福田恆存や京都大学教授の会田雄次が記念講演を行っているが、もっとも鈴木はこれらの保守系文化人を冷めた目で見ていたという。 「なにか、学生に迎合しているみたいで嫌な感じがしました。だいたい、保守を名乗ることにも抵抗を覚えていたんです。保守と保身は同じようなものだ、くらいの意識でいましたから。改革してこそ学生運動だろうと」
そもそも三島は「愛国心」を声高に叫ぶ者を信用していなかった。既存の右翼団体のことも毛嫌いしていた。三島の美学は、子どものように殴り合う学生たちの姿には重ならず、あるいは、街宣車でわめくだけの行動右翼にも向かわなかったのだ。
結成から2年後の 74 年に、その後の鈴木の人生を決定づける事件が起こる。北海道の陸上自衛隊千歳基地で隊員が基地内にストリッパーを呼び、ストリップショーを開いた事実が報じられた。一水会ではこれを問題とし、防衛庁に対する抗議街宣を行った。その際、鈴木と同志数名が制止する警察官を振り切り、正面門扉を乗り越えて庁内に侵入。全員があっけなく逮捕された。この一件により、鈴木は産経新聞社を 馘首 される。
巨大宗教組織・創価学会を支持基盤に持つ公明党は、その頃から「自公連立」を推し進めていた。公明党は確実に「権力」の側に居場所を求めてきた。数の力を背景に自民党にすり寄るかのような姿勢は、ほかの宗教団体の反発を招いただけでない。もともと天皇制護持や国家神道に距離を置いてきた創価学会は、右派から信頼されていない。そのためか、現在もなお、右派勢力にとって公明党は警戒すべき相手として認識されている。
「今回の検定を通った道徳教科書で目立つのは、古めかしい〝男女の役割分担〟や古典的な家族像です。非常に復古的な描かれ方がされている。たとえば、子どもと接するのは常に母親です。父親は職業人として描かれ、家で子育てするのは母親であることが当たり前のように描かれています。また、祖父母も、優しい祖母と伝統を守る祖父、といった役割分担がされている。祖父は戦前育ちとしかいいようのない価値観の持ち主で、時代を考えてもリアリティがありません」 そこに透けて見えるのは、やはり日本会議を始めとする復古勢力の存在だ。彼らは長きにわたり、日本古来の「家族像」を教科書に反映させるよう訴えてきた。
「本来、神社はイデオロギーとは無縁の場所にあるはず。神社本庁や神政連は結局、改憲運動などを通して権力による支配の道具に成り下がってしまったと思うのです。彼らの言う『伝統』にしても、要するに戦前回帰、大日本帝国のことですからね。伝統を口にするのであれば、神社を本来あるべき祈りの場に戻すべきです」 戦前、神社は一宗教というよりも国家機関の一部だった。神社界が改憲に躍起となるのは、国家と一体化した「戦前の神社」を神社本庁幹部らが夢見るからではないのか。だからこそ、戦後という時間は否定されなければならないのだ。
現代の右翼は「背広を着た右翼」だけが目立っているわけではない。これまで見てきたように、右翼は土台をそのままに装いのリニューアルを繰り返す。いま、日本社会で跳梁跋扈するのは、鼻歌交じりに「愛国」の旗を掲げるライト(light) なライト(right) だ。 ただし、重みはなくとも破壊力はある。社会に深刻な亀裂を持ち込む。笑いながら、軽やかにスキップしながら、人と地域を壊していく。従来の右翼観を塗り替えたという意味において、あるいは国際的な基準で言えば「極右」そのものである。
だが「宇予くん」のアカウントを管理していたのは、暇つぶしにヘイトスピーチを書き込むような単なるネトウヨではなかった。公益社団法人「日本青年会議所」(日本JC) ──地域の若手経営者などで組織される経営者団体が「宇予くん」を動かしていたのである。 「宇予くん」のプロフィール欄にも、ツイートの内容においても、JCのことはまったく触れられていない。だが、ネット上に「宇予くん」を用いた改憲戦略を示すJCの内部文書が流出したことで、両者の関係が明らかになった。
この文書によると、「宇予くん」はJCの憲法改正推進委員会によってつくられたキャラクターで、「憲法改正をはじめとする歴史や愛国心など保守的なことを面白くつぶやく」「対左翼を意識し、炎上による拡散も狙う」ことを目的としたネット戦略の一環であるという。「 19 歳」「浪人生」「右寄り」といったキャラクターイメージも設定され、ツイートする際には語尾を「~ど」「~だど」とするよう決められていた。 私が愕然としたのは、JCがかくも下劣なキャラクターを用いてまで改憲運動を推し進めようとしていたことだけではない。内部文書を読むかぎり、JCは「宇予くん」なる存在を本気で「対左翼」「改憲運動」に有効だと思っていること、さらには右翼にひもづけられる「 宇予」なる文言を用いることに、何の躊躇も見せていないことだった。 その後、「宇予くん」の〝中の人〟であったことがバレたJCは、アカウントを消した。ウェブサイト上で「不適切発言を繰り返しておりました」とのお詫びメッセージも掲載した。