荒井裕樹のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ「モヤ談義」に取り上げられていて、原著を読みたいと手に取った。
最近、ある知的障害のある知人で、本人と家族への相談なしに、支援学校から入所施設への転籍を決定された通知があった話を聞いた。
対象児の最善の利益を担当で検討した結果なのだろうが、本人(また同じく障害あると家族も)の意見を全く聞かずに支援計画が当然のように動くのはなぜだろう。
————-
この本は、
おかしい!と訴えたい 訴えていいよね、
という気持ちの渦にのまれたとき、
障害者をとりまく社会の歴史とともに考えをまとめやすくなる言葉がちりばめられていた。
「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我らの宿命である」横塚晃一
障害者の介護を身内が黙って引き受けることが美談であるような社会で、世間・他人様への遠慮は積もり積もって本人を追い詰める。
本人が背負っている重荷を、家族が態度次第で一層重くしてしまうとは。
障害も病気も特性も不登校も、
家族が他人に遠慮したり偏愛したりすると、蹴っ飛ばすような強さを培わねばやっていけないところまで追い詰めるということを覚えておかなければと思う。
「人が生きる意味」を人は誰しも簡潔に説明できない。自分が生きる意味を、思い悩み、大切な人と語り合うことはあっても、第三者から説明を求められる筋合いはない。
なぜ議論の行末に責任のない人たちが、ある特定の人たちの生きる意味について議論するのか。意味を求められるような社会問題にさらされるのか。
全くその通りだと思った。
そして、その章の終わりに、「それで、君はどうするの」という言葉がある。
私はどうするのか
を問う。
———
また、
「ある視点からすれはいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたい正常なのです」
という言葉は、
子育て中に鬱になったり家出したりと、自分を責める母親へ向けての言葉としても、覚えておきたいと感じた。 -
Posted by ブクログ
何が良くて何が悪いか。
立ち止まって考える時間をもらえないほど、
世の中に流されている感覚がある。
衝撃的なニュースに、群がる匿名の人たち。
みんなが言っていることなら言っていいんだっけ??
SNSのおかげで共感の文化が強くなりすぎていない?
一対一で面と向かって同じこと言えるのかな…?
言葉で救えることなんてないのかもしれないけれど、
「言葉を信じる」素通りしないエッセイに救われる時間。
答えがスッキリ出なくても、ぐるぐる考える時間。
同じようなことを「ん?」って思っている人がいると知る時間。
いわゆる「生きづらい人」「立場の弱い人」
と言われるけれど、どこを基準にしているのだろう?
実際に声を上げた人たちの話も組み込んであって
社会問題に疎い私でも大変わかりやすかったです。
「自分に関係ないから知らない」はすごく恥ずかしいことだと
最近やっと実感してきました
実際は「ここぞ!」というときに何も言えない。
どう言うのが適切? 相手を傷つけない?
と考えているうちに、
目の前から相手は消えていたりする。
自分がいい人に見られたいという思いがあるから言葉が出てこない。
自分や、家族に影響するとわかったら
たぶんサッと突き放してしまう。
言わなくて後悔した気持ちも、
言わなくてよかった場面もある。
何が正解かよくわからない。
だから考えることを放棄しないで、言葉を選んでいきたい -
Posted by ブクログ
これもまた、相模原事件を受けて書かれたものといえるだろう。最近、あの事件がどのようにとらえられていた/いるのかに興味があって関連する本を何冊か読んでいる。そんなことでこの本を読んだ。けれど、それ以前から著者の荒井さんの本は読みたい本リストにしばらくの間入っていたはず。
障害者に対する差別や偏見、社会の対応について、よどみなくときに厳しく明確に言葉を紡ぐことができる人として受け止めた。自分は一応、障害者じゃないほうでいながら障害者差別はいかんと思っているんだけど、ではなぜ障害者差別はいけないのかと問われたり、自分が矢面に立つような場面にもしなったら毅然とした態度をとる自信がいまいちない。それは自分が障害をもつ当事者ではないというところがひっかかっているんだと思う。そこを超える何かをつかまないといけないんだけど、この本や荒井さんにはそのための示唆が仕込まれているような気がした。
相模原事件を起こしたU氏などは障害者は生きる意味がないと思っているようだけど、では自分に生きる意味があるだろうか。少なくとも自分としては愛し合う人も支え合う人もいない自分って生きてる意味があるんだろうかって最近思っている。一方で、大好きな人がいる障害者はそれだけで生きてる意味があるんじゃないだろうか、なんてことをふと思ったり。 -
Posted by ブクログ
数年に一度に出会えるかどうか、と思えるほどの素晴らしい作品でした。
一貫して平易な文章に努めながら、かつ誘導や断定を注意深く避けながら通説でない北條民雄に迫り、しかも同時に現在社会の病理をさりげなく照らす。
そして、望外の収穫は、この作品を通じて、初めて文学研究という営みの価値を実感することができたことです。
また、「北條民雄に自分の影を見る」の一文は、長年わたし自身が社会に対して納得できないと思っていた違和感を明確に言葉にしてくださっていました。こうした視点を持つ先生だからこその、この作品の高み、とも言えるでしょう。
ひとりでも多くの人に、いま読んでほしい一冊です。 -
Posted by ブクログ
今、日本という国で少しずつ降り積もってしまっている、侮辱し、貶め、罵り、蔑み、差別する言葉の存在に気付くことを促し、その存在に警鐘を鳴らすことを試みた本。
著者は障害者やハンセン病患者たちと長年の交流を行ってきた。
その差別され抑圧されてきた当事者たちの「生(なま)」の言葉を多数引用し、その重みを示す。
戦争の歴史や優生保護法という差別を具現化した恐ろしい法律、ハンセン病患者隔離の事実、精神病を「治す」こと、ALS患者の体験、水俣病の背景など、事実を紹介することに留まらず、それに関する著者の経験の中にあった「言葉」に着目し、問題の正体と改善策を考えようとしている。
例えば、戦時中の障害者たちに向けられた『国の役に立たない「米食い虫」』という言葉は、現代社会に蔓延る「同調圧力」という言葉が表すものと比べ物にならないくらい、強烈な抑圧のニュアンスを内包していたに違いない。
「自己責任」、「遠慮」、「子どもの権利」、「期待」など、単なる言葉の意味ではなく、その言葉が社会に置かれたときに人々に捉えられるその言葉の感覚やリアルな温度感を、非常に細かく分析している。そしてそれは本当に的確だ。
著者自身のエピソードを絡めながら、ささやかな幸福や平凡な日々の暮らしの幸せを求め、声を上げ、社会と闘ってきた人々の姿を、著者の卓越した言葉を通して見ることができる。
将来の社会を冷たく尖ったものにしないために、「言葉を諦めない」ことを体現した本書及びその著者を、僕は心から尊敬する。
素晴らしい本です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレツイッター(現X)でおすすめされてたのをきっかけに読んだのだけど、とても面白かった。
障害者差別の話だから、青い芝の会の話はあるだろうなと思ってたら全部青い芝の会の話だった。
体を張ったすごい運動をしたことは知ってたけど、行動綱領や理念などはちゃんと知らなかった。障害者本人の視点から語られる差別、本当にまったくそんなこと考えもしなかった!みたいなことばかりだった。
例えば、障害児の子育てに疲弊した親が子供を殺してしまった時、その親にばかり同情が集まり、殺された障害児のことは置き去りにされてしまっているとか。車椅子でバスに乗るために介助者が必要な時、それはその場に居合わせたすべての健全者が介助者であるという視点とか。確かにそうだなと思ったし、障害者と介助者というものを自分とはまったく関係ないものとして捉えていたけど、健全者というのは須くすべて介助者なんだっていうのはガーンと響いた。一気に自分ごとになった。
どこか遠いところの、自分の知らない世界のこと、みたいに思ってたんだな。自分も。そして障害者差別というものをまるでわかってなかったんだな、と思い知らされた。正直一度読んだだけじゃそう思っただけで終わってしまって、全然身にならないなって感じる。
何度も何度も読み直して、噛み締めないといけない本だと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ〈筆者の立ち位置〉
・ぼくの仕事は「言葉そのものについての研究」というよりも、「この社会に存在する数々の問題について『言葉という視点』から考えること」といった方がしっくりくる。 p20
・ぼくの専門は「非抑圧者の自己表現活動」。こう書くとなんだか仰々しいけれど、簡単に言うと、この社会の中で、いじめられていたり、差別されていたり、不当に冷遇されていたりする人たちは、厳しい境遇にいる自分のことをどのように表現するのだろうかーーといった問題について研究している。p20
〈気に入った章やエピソード、言葉の一部〉
・のび太のママにひとこと言いたい p47
・「ダイバーシティ」ってなんだ? p62
・「生きる意味」は言葉になんてできない p92
・誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。特に、その「何か」が、漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ(「国家」「世界」「人類」などなど)。 p107
・初鴉「生きるに遠慮が要るものか」花田春兆句集『喜憂刻々』 p173
・「自己責任」の不気味さ p188
・「文学」とは何か
ぼくなりに「文学とは何か」を説明しておくと、詰まるところ、「くまのぬいぐるみ」みたいなものだろうと思う。それがなければ「生命」を維持することができないわけでもないし、「生活」が成り立たないというわけでもないけれど、つらかったり、苦しかったり、寂しかったりする時に、そっと「自分を支えてくれるもの」というのが、この世界にはあると思う。それが存在してくれているという事実があるだけで、救われるような思いを与えてくれるもの。そうしたものの存在を信じようとする心の働きのようなもの。それが「文学」だと思う。もう少し正確に言うと、ばくという一個人は、そうしたものを「文学」として捉えていて、そうしたものの力を解明したいと思っている。 p224
文章中に紹介されているいくつかの本(例えば『おんなとして、CPとして』)と筆者の他の本を読みたくなった。 -
Posted by ブクログ
苦しくてつらい状況に巻き込まれてしまった時、忙しすぎて心を失いそうになった時、不安で頭がいっぱいで何も手に付かない時、誰かの都合や機嫌を気遣いすぎて疲れた時、社会や世間に合わせるのがしんどくなった時・・・・・そうした時に、水面から顔を上げて、大きく息を吸うようにして、自分で自分を確かめたくなることがある。
自分はこういうことが好きだったんだとか、自分はこういうことに傷つくんだったとか、自分はこうしたことが嬉しいんだったとか、そうそう自分はこういう人間だったんだとか、自分は今日こういうことをしたんだとか、自分にはこうした思い出があったんだとかーこうした些細な再確認が、生きていると時々、必要になる。
その日その日の暮らしを積み重ねて、その瞬間その瞬間を何とか生きていると、こんな世細なことも忘れてしまったり、なくしてしまったり、奪われてしまったりする。
そうした時、言葉を綴ることが、小さな息継ぎになることがある。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ障害、病、公害、育児、ジェンダー、差別、社会、言葉。正直なところ大学生の自分には、この本で綴られた言葉を真に理解することはできなかった。それも当然なのかもしれないと思う。この本にある言葉はどれも、社会の中で我が身を燃して戦い、全身全霊を生きて、生きて、生き抜いた人々の言葉だ。
まさに、要約しようもない人生が詰まっていた。自分はこの社会で生きながら、こうした人たちを見ずに生きてきたのだと痛感する。ただ、遠くから眺めているだけの人間にすぎない。このままでは、いけない。もっと声を聞きたい、言葉を知りたい。
文中で紹介された、脳性マヒの男性が読んだ詩が心に残っている。
『母よ 不具の息子を背負い
幅の狭い急な階段を
あえぎながら這い上がる母よ
俺を憎め
あなたの疲れきった身に
涙しつつかじりついている
この俺を憎め』
この詩を忘れない人間でいたい。胸に留め人生を送りたい。
その人をその人のまま、私を私のまま、どうすれば何も取りこぼさずに関われるのだろう。誰も区切らないことの難しさ、しかしそれを目指し続けることの、言葉に出来ない力。
誰も要約せず、生きたい。そういう人でありたい。 -
Posted by ブクログ
【目次】
まえがき:「言葉の壊れ」を悔しがる
第一話 正常に「狂う」こと
第二話 励ますことを諦めない
第三話 「希待」という態度
第四話 「負の感情」の処理費用
第五話 「地域」で生きたいわけじゃない
第六話 「相模原事件」が壊したもの
第七話 「お国の役」に立たなかった人
第八話 責任には「層」がある
第九話 「ムード」に消される声
第一〇話 一線を守る言葉
第一一話 「心の病」の「そもそも論」
第一二話 「生きた心地」が削られる
第一三話 「生きるに遠慮が要るものか」
第一四話 「黙らせ合い」の連鎖を断つ
第一五話 「評価されようと思うなよ」
第一六話 「川の字に寝るって言うんだね」
第一七話 言葉が「文学」になるとき
終話 言葉に救われる,ということ
あとがき 「まとまらない」を愛おしむ -
Posted by ブクログ
ネタバレ”「言葉が壊されてきた」と思う。
(中略)日々の生活の場でも、その生活を作る政治の場でも、負の力に満ちた言葉というか、人の心を削る言葉というか、とにかく「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。”
”「言葉が壊される」というのは、ひとつには、人の尊厳を傷つけるような言葉が発せられること、そうした言葉が生活圏にまぎれ込んでいることへの怖れやためらいの感覚が薄くなってきた、ということだ。
(中略)
対話を一方的に打ち切ったり、説明を拒絶したり、責任をうやむやにしたり、対立をあおったりする言葉が、なんのためらいもなく発せられるようになってしまった。”
誰しも一つや二つは頭の中に思い浮かぶことがあるんじゃないでしょうか。SNSを流し見しても、ニュースを聞いても、特に最近は毎日そんなことばっかり。
”「壊されたもの」というのは、強いて言えば、言葉の「魂」というか、「尊さ」というか、「優しさ」というか、何か、こう、「言葉にまつわって存在する尊くてポジティブな力めいたもの」なのだけれど、…”
この本では、そんな言葉の力を考えさせられるような言葉がいくつか紹介されているんですが、少しでも著者の伝えたかったこと、「まとまらなかったけど大事なこと」を汲み取れているといいな、と思います。
言葉は「壊されてきた」かもしれないけれど、少なくともこの世界のどこかでは「尊くてポジティブな力めいたもの」を宿した言葉は生まれ続けているんだろうと思います。ただ、そういうものを鼻であしらう冷笑文化みたいなものが、特に言葉でのやり取りを中心とするネット上には根付いている感じがします。ネットの時代である今、そういった価値観はどんどん広まり、言葉のきちんとした受け取り手が十分に存在しなくなっているのかもしれません。そして何かを受け取ると同時に発信されるのはどんどん冷ややかな言葉になっていく。
”言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。”
きっと、言葉の扱いや扱う言葉に問題のある人間が増えたことで、言葉そのものに宿るものにも問題が増えている。そして人間は言葉を使ってものを考える生き物だから、そうした言葉で思考することによって、さらに言葉の扱い・扱う言葉に問題が生じていくんでしょう。
自分で使っている言葉はどうかと振り返ると、人に対しては結構気をつけているものの、自分に対しては降り積もらせたくない言葉を使ってしまっていることもあるなと思います。
せっかく降り積もるなら、生きるということを楽に、楽しくさせてくれる言葉がいいですよね、と自戒の念を込めて。
そしてこの本は、力のある優しい・勇気をくれるような言葉の紹介はもちろんなんですが、言葉の扱い方も教えてくれている気がします。
”田中美津さんの言葉(「いくらこの世が惨めであっても、だからといってこのあたしが惨めであっていいハズないと思うの。」)と、「なんでもかんでも責任転嫁」という言葉と、ふたつを並べてみた時、自分が生きていくためにはどちらの言葉が必要だろう。もう少し踏み込んで言おう。もしも自分が苦しい思いを強いられた時、「自分で自分を殺さないための言葉」はどちらだろう。”
そして、想像力の使い方。
”「誰か」を憎悪するのにためらいのない社会は、「私」を憎悪するのにもためらいがないはずです。”
”誰かの一線を軽んじる社会は、最終的に、誰の一線も守らないのだから。”
「誰か」には「私自身」や「家族」「友人」もなりうるという想像力を働かせれば、自ずと人に対する自らの態度・用いる言葉も変わっていくのかもしれません。