佐藤 文隆
1938年山形県生まれ.1960年京都大学理学部卒業.京都大学名誉教授.専攻は理論物理学,一般相対論.著書に『職業としての科学』『宇宙論への招待』『アインシュタインが考えたこと』(以上,岩波書店),『ある物理学者の回想』(青土社),艸場との共著編書に「潜入! 天才科学者の実験室1-4」(汐文社),ほか多数.
「われわれは、幾何学を数学の時間で習います。数学は理科とか物理というものとは、ぜんぜんちがうように思っている人も多いでしょう。しかし、よく考えてみると、実際の空間はいろいろな物質が存在している空間です。何もない空間があるのでしょうか。物質が存在している空間、ものがつまっている空間は、実際、物質の影響を受けて、空間の性質がかわらないのでしょうか。よく考えればそういう疑問が出てきます。相対論は、まさに幾何学の法則が物質の存在によって影響を受けるのだ、ということを明らかにしました。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「一九一九年三月は、戦争がすんだ翌年だったのですが、準備は前からしなければいけません。戦争中から準備がはじまっていました。イギリスのエディントンが観測隊の隊長としてこの計画を進めていたのです。その当時、一般相対論はたいへん難解な理論といわれていて、理解している人は世界に何人もいないというような段階で、エディントンは、一般相対論の真髄をいち早く理解した学者のひとりでした。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「 一九一九年、「太陽の近くを通過するときに、光が曲がる」という一般相対論の効果の発見を契機に、アインシュタインの名前が非常によく知られるようになったことはお話ししました。その熱狂ぶりはそうとうなもので、たとえば、その年に生まれた子どもには、アルベルト・アインシュタインの名前をとった、アルベルトという名前がたくさんいるそうです。一九一九年に生まれた自分の子に、こぞってアルベルトという名前をつけたようです。ベルリンではまたその同じ年に、「レラティビテート」(ドイツ語で相対論の意味)という商品名のたばこも売り出されたそうです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「アインシュタインのいるベルリン大学に、アインシュタインの話を聞きにくる人がふえ、観光客もアインシュタインの顔をひと目見ようと、大学へやってきたそうです。アインシュタインは、人に不快な感じを与えるのがきらいだったようで、たいへん要領よく、そういう人たちにはそれなりの扱いをしたようです。講義の前に簡単なことをしゃべって、いちおうそこで中断し、これからむずかしい話になるといって、ちょっと休み、顔を見るだけにきた人はそこで帰れるようにしたとのことです。そして、それから本格的な講義をはじめたという話が伝わっています。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「アインシュタインは一〇月七日にマルセイユを出発して、北野丸という日本の客船に乗って神戸に向けてやってきます。はじめてのアジアへの旅行で、日本という国にたいへん興味をもっていたということは確かです。途中、シンガポールに着くあたりで、電報が入って、一九二一年度のノーベル賞を授与されるということを知ります。このときはもう一九二二年ですが、一九二一年度のノーベル賞はまだきまっていなかったのです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「一九二二年度のノーベル賞は、原子の構造を明らかにしたボーアにきまって、そのボーアといっしょに、アインシュタインのノーベル賞受賞がきまったというのです。 そのあと上海に立ち寄ります。すこし上海市内を見物しています。それから一路、神戸に向かいます。 神戸でアインシュタインを出迎えた人は、改造社の社長の山本と物理学者では長岡半太郎、石原純、愛知敬一、桑木彧雄、といった人たちです。それから、改造社と非常に関係の深かった社会活動家、賀川豊彦もいました。 とくに石原純はアインシュタインの日本滞在中、いろいろお世話をするのです。一般的な講演をするときのアインシュタインの通訳をしたのも石原でした。石原は当時、相対論を研究していて、研究をちゃんと発表していた数少ない日本人のうちのひとりです。 愛知という物理学者、この人は残念ながらこのあとまもなく亡くなってしまうのですけれども、やはり新しい物理学をはじめていた人です。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「日本は、そのときはものすごいアインシュタインブームで、アインシュタインがくるというので、政治家とか、財界人とか、それから皇族とかが、長岡半太郎などを招いて、アインシュタインの相対論とはいったいどういうものかを講義させるというようなこともありました。 当時、あらゆる雑誌が「アインシュタインの相対論」特集というのを組んでいます。『中学世界』とか『女学世界』とかいう雑誌がありました。それらは「中学生にわかる相対論」というような特集を組んで、爆発的な売れ行きになったといわれています。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「また素粒子の間にはたらく力の研究では、イタリアのフェルミとか日本の湯川秀樹とかが登場して、素粒子物理学がはじまるのです。一九二九年に、当時まだ非常に若かったハイゼンベルクとディラックがいっしょに日本にきているのです。まだ学生であった湯川とか朝永振一郎とかに、たいへん大きな影響、刺激を与えて帰っていくのです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「いつの時代にも、新しい流れをつくる人は、それ以前の考え方の枠にとらわれない、既成の考え方にとらわれない青年たちだったのです。新しい物理の流れ、量子力学、原子物理学は、アインシュタインにつづく新しい人たちによって受けつがれたのです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「しかし、物理学の大きな流れにはなりませんでした。物理学の研究者のあいだでは、ほとんど孤立してこの研究をしました。第二次世界大戦後に、日本の矢野健太郎という数学者が、まだアインシュタインがプリンストンにいるときに、招かれていったことがあります。 一九三八年には、アインシュタインはインフェルトという弟子と協力して『物理学はいかに創られたか』(石原純訳、岩波新書)という物理学の一般書を書いています。この本は、アインシュタインの目から見た相対論、量子論までの物理学の流れを、非常に手ぎわよくまとめたもので、中学、高校生にも読める、たいへんいい本です。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「一〇歳になり小学校を終えると、ドイツではギムナジウムに入ります。それは、いまでいえば中学と高校をつづけたようなところです。そこに在学中、彼は数学に非常に興味をもちだします。彼の叔父さんは、電気の技師ですから、少し数学を知っていました。その叔父さんに代数だとか幾何だとかの簡単なことを、いろいろおもしろく教えてもらったということがあったようです。また、一二歳の少年アインシュタインは「ピタゴラスの定理」の証明に没頭し、自分でその証明を見出して、たいへん感銘を受けたということがあったようです。 数学がたいへん好きで、よくできたようです。一四、五歳のときには、学校の教科で習わない、ある程度の高等数学をも、ひとりで勉強していたようです。きらいなのは外国語と博物でした。博物とは、いまでいうと動物・植物・鉱物のようなもので、この博物がたいへんだめだったようです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著
「アインシュタインの一家はユダヤ人でした。ユダヤ人の慣習として、ユダヤ人の貧しい学生をときどき家に招いて、ご馳走をしてやるということがありました。アインシュタインの両親も、ときどきミュンヘンの大学にいる、ロシア出身のユダヤ人の学生を招いて、話をしながら家で食事をともにするということがあったようです。その学生が、当時の自然科学のおもしろい話などをアインシュタインにしたので、少年アインシュタインが、自然科学を解説した本を、その学生に刺激されて読んだということがあったようです。」
—『アインシュタインが考えたこと (岩波ジュニア新書)』佐藤 文隆著