奥野克巳のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
小中学生の頃に愛読していた「ポケットムー」シリーズの「世界謎の10大事件」という巻に、確か"秘境に消えたロックフェラー"というサブタイトルで収蔵されていたと記憶している。
以来、これまでにこの失踪事件を扱った記事や書籍は何度か読んだが、当時のオランダ政府やインドネシア政府にアメリカ政府、そしてもちろん現場となったパプアニューギニアの政治的関係や立場を分析し、さらにはロックフェラー家と美術品収集の因縁にまで踏み込んで詳細に報告したものに接するのは初めてだ。
マイケル・ロックフェラーが辿った命運については、本書の序盤でいきなり結論めいた描写が生々しく綴られるが、そのショッキングな推察がどうやら事実だったらしい、と読み進むごとに納得感が増してくるような。
我々にとって身近ないわゆる"文明社会"から遠いところで生活しているコミュニティに関するルポタージュを読むといつも、彼らにとって"個"の概念はひたすら薄く、また生と死の距離が極めて近いことに驚くわけだが、今回もまたその例外ではなかった。 -
Posted by ブクログ
マイケル・ロックフェラー失踪事件の事すら知らなかったが、未解決事件には興味がある。軽い気持ちで読んでみた。
著者がたどり着いた真相はいきなり冒頭で明かされる。それは丹念に当時の記録や関係者の証言を辿れば、「事実」としては浮かび上がる。しかし、この本の本質はそれが「なぜ」行われたかであり、そもそも我々が「プリミティブ」「未開」と呼ぶ人びとをどう捉えていたのか、分かろうとしていたのかという問いに繋がる。
殺人、ましてカニバリズムはこの現代社会、この文明に生まれた我々にとっては常識を超えた行為であり、犯罪である。しかし、その思考とは全く異なる思考、文化、文明で生きてきた人びとが確実に存在する。
そういう人びとを、西洋文明はある種「救おう」としてきた。同化させようとしてきた。「理解する」のではなく「同じ」にしようとしたのだと感じる。正しさ、誤り。今日のグローバル社会というものにおいてどのように「文化」が違う者と向き合うか、を考えさせられた。
失踪したマイケル・ロックフェラーは素晴らしい一面を持っていた。しかし、自分が求める「プリミティブ・アート」にある精神と向き合うことがなかった。
最終章に至り、アスマットと「暮らす」ことを選んだ著者の選択。おそらく「向き合う」ことの最終形である。相手と真に語らうには、相手と向き合うしかないのだ。それは別に相手が誰であれ同じ筈だ。しかしそれには困難さも伴う。理解する、の何と難しいことか...。 -
Posted by ブクログ
ネタバレはじめに、難しいと感じる一冊。基礎知識が必要であるからか、翻訳が文脈の流れを妨げているのか、理解が滑らかに進まず、集中して読み進めにくく感じた。
さて、ここでは、現代における人や人間社会の持続的なあり方を問うているのだろうと考える。そして、そのためには「これだ」と理解ができなかったためか、問いを考える視点として語っているためか、読み終わった疲労感と共に、静かにまた読み直してみようと感じるものであった。
最後に、気に留まった言葉を残しておこう。
◼︎「動物は性を物語として生きることができる。動物はこの性を生きることにおいて物語を語る。。。。しかし、動物にできないことは、生きることと語ることを区別し、自らの生を生きることの中に他の生の物語を織り込み、それらを共に多くの生からなる物語へと編み上げていくことである。この能力は確かに人間に特有のものである」
◼︎「先住民たちにとって。。。保全も開発もなんの保証もなく与えてはくれないのだ。むしろ、未来への約束は、先人たちがそうしたように、異なるたぐいの生き物たちが、それぞれの道を歩みつつ、お互いの性質に対して注意を払い、反応し続けること可能にする。。。」
◼︎「。。。性を進ませ続けるという概念の起源へと立ち返ってみることである。これは、人間以上の世界の中心に人間の存在を置くという、適切な意味における人間中心主義であり、そうした人間以上の世界の中心から、私たちは責任と気遣に基づいて、地球とそこに住まうものたちとの関係を再交渉することができる」
◼︎「現役世代にとって、老人と無知なものたちが共に未来を築くという考えは、馬鹿げたものかもしれません。しかし、知恵と好奇心を取り入れることは、生を再生させるために欠かせない。。。その希望を現実に変えるためにはまず、老人と若者がふたたび一緒になって、生産的で相互に変革的な共同を、公共の利益のための再生の力へと変えていかなければならないのだ。。。。」 -
Posted by ブクログ
ひっくり返す人類学 を読み進めながら、人類学が「当たり前」を揺さぶる学問であることを強く感じた。第一章では、ヘヤーの「誰々から教わるという概念がない」という話に違和感を覚えた。折り鶴を見て覚えるのも広い意味では「教わる」ではないかと思ったが、本書が問題にしているのは、学校的な「教師が説明し、生徒が知識を受け取る」という近代的教育観なのだと理解した。プナンの人々の学びは、説明よりも模倣や実践を通じた身体的な習得であり、「知識を伝達する」というより「環境の中で身につける」ものなのだろう。
また、マレーシア政府がプナンに学校教育を推進する背景には、国家統合や近代化の思想がある一方、プナン側から見ると森で生きるための知恵こそが重要であり、学校教育は必ずしも生活に結びついていないことも印象的だった。著者が問いかける「学校に行かなければならないのか」という問題提起には共感する部分が多かった。日本では学校文化が強く、学校外で力を身につける場が少ないため、なおさら難しい問題だと思う。
第一章終盤の「知識をぐらつかせる知恵」という表現も興味深かった。知識を蓄積すること自体が目的ではなく、それをどう使い、状況に応じて組み替えるかが重要なのだろう。ただ一方で、幅広い知識を持っていることで後から役立つことも多く、知識そのものを否定するのではなく、「知識を絶対視しないこと」が大事なのだと感じた。
プナン社会に格差が少ない理由や、社会主義国家との違いについて考えた。社会主義は制度として平等を目指したが、プナンの平等は小規模共同体の文化や生活様式に根ざしている点が大きく異なる。また、クン・サンの「獲物をけなす文化」は独特だったが、これは上下関係や誇示を抑えるための知恵なのだと知った。日本の「成功してもあまり自慢しない文化」にも少し似ている気がしたが、日本の場合は共同体維持というより「妬まれないため」の防衛的側面が強いように思う。SNS時代にはむしろ成功を拡散し承認を得る方向に変化しているが、自分を過度に大きく見せる姿にはどこか不安定さや自信のなさも感じる。
本書を読んでいると、「教育」「平等」「成功」といった普段当たり前だと思っている概念が、実はかなり文化依存で相対的なものなのだと実感する。人類学は異文化を知るだけでなく、自分たちの社会を逆照射する学問なのだと改めて感じた。 -
Posted by ブクログ
マレーシアのボルネオ島の熱帯雨林に住む プナン という民族の話
プナンは
物を所有するという感覚がない
あるものは みんなで分け合う
「ありがとう」も「ごめんなさい」もいわない
資本主義に取り込まれていない
お金や権力が特定の人に集中しない仕組みが生活に根付いている
たくさんのものを持っている私たちが幸せそうではなく、何も持っていないプナンが幸せに見えるのはなぜか、について書かれた本
彼らは下ネタが好き、ということで、下ネタについて多く語られていて、そこは苦手だった
でも、たまには自分の価値観と全く違う生き方をしている人の話を聞くと、自分自身についても新発見があるんじゃないかと思う
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