奥野克巳のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
具体的な民族誌の事例を基に、我々の「当たり前」をひっくり返し、物事の「そもそも」を問い直す人類学の思考法を通して、学校教育、貧富の格差や権力、心の病や死、自然と人間との関係といった身近でありながら重大なトピックを「ひっくり返して」考え、生きづらさの「処方箋」を探る。
民族により「当たり前」は異なっており、フィールドワークにより紡ぎ出された民族誌の知見により、自分たちの社会の「当たり前」がひっくり返され、物事の根源に立ち戻った本質的な議論につなげることができるという人類学の魅力は、よく理解できた。
「教える」という概念がないヘヤー・インディアンやプナン、貧富の格差がないプナンやサン・ブッシュマン、カリスのサラババ(唇の過ち)、死者を忘却化するプナン、川に人格を認めるマオリなど、紹介されている民族誌の事例も、とても興味深かった。
ただ、それぞれの民族の前提条件等(紹介されている多くの民族は狩猟採集社会であるなど)を無視して、資本主義が発達した現代日本社会の参考とすることができるのかなど、全体を通して、いろいろ疑念や違和感も拭えず、ちょっとすっきりしない読後感だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレタイトルの通りの内容なので、「ルポルタージュ」ではないかも。何に分類したらいいのかわからない。エッセイでもないし。とにかくタイトルの通り、人類学者の著者が、プナンというボルネオ島に住む人々に密着して気づいたことを、ニーチェの哲学と織り交ぜて、そもそも人間とは、生きるとは何なのか、現代人の、文明的な生活が本来あるべき人間の姿なのか?と考察しながら書いている。
ちょっとニーチェの引用が難しすぎて読むのに時間がかかってしまったが全体的には面白かった。
プナンは定住することも、家や土地を所有することもなく、森のなかをうろつき、狩猟採集をして暮らす。子どもは学校に行かない。そもそも所有するという概念がなく、あるものはみんなで分かち合う。人よりも高い能力を獲得して優位に立つとか、豊かになりたいという欲求もない。
人間はいつからそのような欲求をもつようになったのか?
プナンの生き方が文明的でないとか、人間らしくないと言えるのか?
トイレで排泄するという習慣もない!
著者が何かを持って彼らのコミュニティーを訪問すれば、当然のようにそれをみんなのものとし、ありがとうもなく、壊してもごめんなさいもない。
とっても興味深いですな。
最後の方で、年に何度か訪問していたのにコロナで数年あいて再訪したとき、スマホとWi-Fiが導入されていたっていうくだりもかなり面白かった。
プナンはそんなものに興味をもたないかと思ったら、マレーシア政府の政策?で無料で配られたスマホとWi-Fiを駆使して、彼らはエロ動画を見ていた笑!文字の読み書きができないので、音声チャットで獲物がどこでとれるかという情報をやりとりしたり。
ニーチェは難しくても、知らない世界を覗き見られるという読書の楽しみを存分に与えてくれる一冊でした。 -
Posted by ブクログ
著者の奥野さんは伊藤さんとの共著「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」を読んで知ったので、別の著作も読んでみようと思い呼んだ。
この本はあとがきにあるようにいろんなところで発表した文章をひとまとめにした本のようで、いろいろと重複が多い。また誰がどういっているというような記述が頻出してきて著者も十分消化しきれていないようで、あるいは探求の過程がそのまま書かれているようで、面白くもあったが、よみにくくもあった。
マルチスピーシズ人類学やアニミズムなどがとりあげられ、人類学が人間中心では到達できない地平に人類から離れた俯瞰する視座を設定する。そうすると人そのものも決して確固たる基盤があるわけではなく、ほかの生物や物質とのやり取りの中でのダイナミズムの中でとらえようとしてる。
私は海洋生態学に長年かかわってきたので、生命や地球の活動が決して人間中心でないことは自明であるのだが、人類学はあくまで人類を中心に据えて発展してきたのだから、ようやく脱人間化できてきたのかというところである。
レヴィストロースが野生の思考で脱西洋に到達したことと比べようやく脱人間まできたという感じだ。
この本は人類は今後どのように世界とかかわっていくべきかについて深い問いを投げかけてくれる。 -
Posted by ブクログ
各章の最初にニーチェの言葉が引用されています。
それがとても良い。ニーチェの言葉は説得力あるし、元気出る!
パースペクティヴィズムという概念があることを初めて知りました。
自分が生き物をじっと観察する時にやりがちなこと。
今、私に見られている対象物(生き物)がその瞬間何を考えてどう感じているのか、見ている私との関係は今どんな風か。
これ、パースペクティヴィズムの端くれちゃうの?!ちょっと出来てた気がして嬉しくなった笑
自然の中で、ただ自然の声を聞き狩猟して食べ物を得て暮らすプナン。
個人の所有欲という人間の本能かもしれない部分を幼い時期に徹底的に潰し、共同体の一員として平等に分配して皆で利益を受けるシステム。簡単なようでこれを当たり前にすることが私たちにはどれほど難しいということがこの本を読むと痛感する。 -
Posted by ブクログ
社会学と社会人類学はかなりオーバーラップするところがあって、その違いってなんなんだろうと思い、手に取った。
どちらも常識の関節外しではあるんだけど、人類学分野はあまりにも遠回りというか、社会の前提というより、文字通り人類のそもそもを問う学問という感じがして気が遠くなる。
どこにでも順応出来て冒険が楽しい人にとってはたまらないんだろうけど。
逆カルチャーショックを得るまでの過程があまりにも長いと私は思ってしまった。
P.130
インドネシアの民族・プナンは日ごろ、居住地やキャンプから少しだけ離れた森の中の「糞場」で、人目につかないようにして用を足します。州政府が、衛生政策として作ったトイレには目もくれません。それらは、吹き矢やライフル銃だけでなく、木材伐採キャンプから拾ってきた廃材や洗濯ものなどの物置になっています。
プナンは、糞場を通り過ぎる時、これは、昨日食べ過ぎた誰某のものであるとか、腹を下している誰某のものであると意見を述べ合うことがあります。
そのようにして、居住空間の近くにまき散らされた糞便は、他の狩猟キャンプメンバーの目にさらされ、品評の対象となるのです。糞便のにおいや色つやは、メンバーの食と健康の指標なのです。
ところである時、プナンの父子を町に連れていき、一緒にホテルに泊まったことがありました。部屋には、水洗式のトイレとシャワーが一体化したレストルームがついていました。
十五歳の少年は最初、レストルームの扉を開けっぱなしにして小用を足しました。その後、トイレを流さないで出てきました。私が扉を閉めてするように言うと、しばらくすると不機嫌な顔でレストルームから出てきました。
その後、父親と二人きりになり、息子のトイレの利用の仕方に話が及んだ時、彼は、他の誰かがすでに使った、狭く薄暗い密閉された空間で用を足すのを、好ましく思っていないという趣旨のことを話しました。確かにプナンのやり方から見れば、場所はどこにでもあるのに、みなが同じ閉鎖空間で用を足すというのは理解しがたいのではないかと、私は感じました。定住地でもトイレ利用がなかなか進まないことにも、同時に納得がいきました。
糞便処理に関しては、赤ん坊に対するそれが印象深いです。赤ん坊は、固形物を口にするようになると、糞便をするようになります。オムツ・オシメのたぐいなどはありません。赤ん坊が便を垂れ流すと、母親が猟犬のうち狩猟のうまくない犬(通称アホ犬)を呼び寄せます。イヌに赤子の肛門をなめさせて綺麗にするのです。イヌが赤ん坊の肛門をぺろぺろなめると、赤ん坊は気持ちがいいのとこそばゆいのとで、きゃっきゃっと騒いで喜びます。
P.136
プナンの親子と町に出かけたときのことです。町には大きな道が三本平行に走っていました。私は彼らに「その真ん中の道筋のちょうど真ん中あたりにホテルがあるから、どこかに出かけて帰ろうとする場合には、そのことを思い出してほしい」と教えました。
すると、大人たちは「その説明ではいったいどこにホテルがあるのかさっぱりわからない」と言うのです。そのうち一人は、「川はどこに流れていて、どっちが上流でどっちが下流なのか」と聞き返してきました。それで、私たちはまず、町の端に流れている川の岸に行って、そのことを確かめました。プナンには、上空から眺めて位置取りをする地図の想像力は備わっていなかったのです。
ここで見たように、なじみの薄い土地に長期間とどまって、参与しながら観察を行う文化人類学者は、「ある」べきものがないという、逆立ちした不思議な経験をします。そのことは、自称や現象をその根源まで立ち返って考えてみることの手がかりとなります。
P.159
私たち現代の日本人は、学生も社会人も常に時間に追われています。しかし、狩猟採集民は時間に追われるということはまずありません。
しばしば勘違いされやすいのですが、人類は狩猟採集を行っている時期、常に食べ物の不足に怯え、あくせくと森に分け入り、獲物を探していたと思われるかもしれません。そして、農耕や牧畜が始まり、食べ物をストックするようになって、飢えに苦しむ心配はなくなったという「進化」的な歴史認識を持っているのではないでしょうか。
マーシャル・サーリンズというアメリカの人類学者が明らかにしたことですが、実は狩猟採集民が狩りや採集を行うのは、非常にごくわずかで、それ以外の時間は休んだり、ゆったりと過ごします。ところが、農耕や牧畜になると四六時中、作物や家畜の世話をしなければならなくなり、むしろ忙しいのです。
P.200
アフリカのアザンデの人々は、暑い日中、穀物小屋の下でよく休憩をしています。穀物小屋は、長年のうちに柱をシロアリに食われて崩れることがしばしばあります。小屋がシロアリのせいで崩れるということは、アザンデの人たちもよく知っていることです。それにもかかわらず、人が休憩している時に穀物小屋が崩れて、下敷きになりケガをしたり、場合によっては死んだりすることがあったなら、それは妖術のせいだとアザンデの人々は言うのです。
「シロアリに食われて小屋が倒れた」という説明は「どのようにして小屋が倒れたのか」の説明になっています。英語で言うならば、「How」です。しかし、その説明では、なぜ、自分たちが休憩している日この時間、この場所で小屋が倒れたのかは説明されていません。アザンデの人たちが、「妖術によって小屋が倒れた」と言うのは、どうして倒れたのかではなく、「なぜこの時、この瞬間に倒れたのか」、英語で言うならば「Why」に対する回答ということになります。
合理的・科学的な説明に慣れた私たちは、なぜ小屋が倒れたのかと聞かれれば、それは「How」、つまりどのようにして倒れたのかと聞かれたと思い、シロアリに食われたからだと説明するでしょう。なぜ、この瞬間に起きたのかと問われれば、「それはたまたまだ。偶然だよ」と言う他ありません。
しかし、アザンデの人たちはそれを偶然とは考えません。この災いがちょうどある人物が休んでいる瞬間に起きたのは妖術のせいなのだ、と説明するのです。そのようにして納得します。こう考えると、アザンデの人々の説明もまた非常に理に適っている、合理的な説明であると言えるでしょう。
このようなことは、例えば、病気の告知などについても言えるでしょう。がんになり余命宣告を受けた時、人は「なぜ俺が」「なぜ私が」と問うでしょう。しかし、医師が説明するのは、病気がどのように発生し、進行しているのかということばかりです。なぜこの時、この瞬間に自分ががんになったのか、他でもない自分なのかという問いには答えていません。
科学的な指向だけを合理的で真実だと考えてきた私たちは、アザンデの人々が妖術をつうじて説明する「もうひとつの合理性」を忘れかけているのではないでしょうか。 -
Posted by ブクログ
虚構で現実に疑問符を投げる手段は神話,宗教,御伽噺,伝説,SFといくらでもあるが,ある現実を相対化する別の現実を体験させてくれるのは文化人類学しかないのではないだろうか.
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アナキズム入門
アナキズム:”権力による強制なしに,人間が助け合って生きてゆくことを理想とする思想”
海外旅行・異文化との接触を通じ,今あるものがなぜそうあるのかと言う懐疑主義に
→ある社会や人類そのものを相対化し,根底にある前提に揺さぶりをかける学問.文化人類学の道へ
全ての生物ー>栄養を摂取し生命を維持
原始生物→人間:内臓に保持→体の外に保持→紙幣に保持
プナンの人たちは反省をしない.ー>なぜ現代人・現代社会は「反省を強いられるのか」という逆説的問い
貸し借りは財を所有するという概念が大前提
死への恐れ、打ち手が農耕→財の蓄積
プナンの長:ビッグマン
一番ものを持たない.誰よりも分け与える.だからこそ人々に支持される.独占を仄めかしたら人が離れる
倫理→自己消化的な恵みに対するお返し?精神と態度
動物の境界
野生犬→労役犬→ペット犬
労役とペットの境はなんだろ
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