金井真弓のレビュー一覧

  • ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

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     集まって話し合いをするときや、何かを共同で行うとき、自由に耳を傾ける能力を「ブロック」 しているかすかな恐怖心や喜びを、一人ひとりが自覚できるだろうか? こうした自覚がなければ、話されたことすべてに耳を傾けろと命令したところで、何の意味もないだろう。しかし、コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払い、適切な態度で、 コミュニケートされている内容に参加すれば、何か新しいものを人々の間に創造できるかもしれない。個人や社会において、現在のところ未解決の問題に光明をもたらす、非常に意味あるものを作り出せるかもしれないのだ。


     この「ダイアローグ」を「ディスカッション(discussion)」という言葉と比較してみよう。「ディスカッション」は「打楽器(percussion)」や「脳震盪(concussion)」と語源が同じだ。これには、 物事を壊す、という意味がある。ディスカッションは分析という考え方を重視する。そこにはさまざまな視点が存在し、誰もが異なった視点を提供している――つまり分析し、解体しているのである。それに価値がないわけではないが、限界があるし、多様な視点が存在する段階からさほど先へは進めないだろう。ディスカッションはピンポンのようなもので、人々は考えをあちこちに打っている状態だ。そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。 他人のアイデアを取り入れて役立てる、といったこともあるだろう―――誰かの意見に賛成したり、反対したりすることもあるかもしれない――だが、基本となる点は、ゲームに勝つことだ。それがディスカッションで最もよく見られる状況である。
     しかし、対話では勝利を得ようとする者はいない。もし、誰かが勝てば、誰もが勝つことになる。対話にはディスカッションと異なった精神がある。対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。これは、お互いに満足のいくゲーム、と呼ばれる状況だ。一方、対話以外のゲームには、勝者と敗者が存在する――私が勝てば、あなたが負けるというように。しかし、対話には、ともに参加するという以上の意味があり、人々は互いに戦うのではなく、「ともに」戦っている。つまり、誰もが勝者なのである。
     いわゆる「対話」と呼ばれているものの多くは、私がこの言葉を使う場合の性質を備えていないことがはっきりしている。たとえば、国連では頻繁に対話らしき行動がとられるが、非常に貧弱なものだ。人々が行っているのは、対話というよりはむしろディスカッションである。または、 取引とか交渉と呼んだほうがいいだろう。話し合いに参加している人々が、自分たちの根本的な想定を問題にすることなど実際にはない。彼らはさほど重要でない点について、取引しているだけである。たとえば、核兵器の保有を増やすか減らすか、という交渉のように。しかし、体制が異なる二つの国の全体的な問題について、真剣に議論されるといった場合はない。そんなことは話せないのが当然だと見なされている――話したところで、何も変わらないだろう、と。その結果、国連でのディスカッションは、真の意味で重大であるとは言えなくなる。いわゆる「ディスカッション」と呼ばれるものの大半が、さほど真剣なものではない。交渉の余地がないとか、触れられない、または口に出すことさえ望まれないといった、あらゆる事情があるからだ。そうした点が問題の一部なのである。
     では、なぜ対話は必要なのか? 小規模のグループ内でさえ、人々がコミュニケーションをとるのは難しい。まして三十人か四十人、もしくはそれ以上の人がいるグループでは、目的が設定されるか、グループを率いる人がいない限り、コミュニケーションが困難だと思う人は多いだろう。これはなぜか? 一つには、誰もが異なった想定や意見を持っているからだ。そうした想定や意見は、単なる表面的なものではなく、根本的なものである。たとえば、人生の意味について、 あるいは自己の利益や国家の利益、宗教上の関心についてなど、人が本当に重要だと考えるものに関する想定なのだ。
     こうした想定は挑戦を受けたとき、守りの姿勢に入ろうとする。人は自分の想定を正当化せずにいられない場合が多く、感情的に相手を攻撃することで、それを守ろうとしがちである。詳しくはのちほど論じるが、ここでは一つの例をあげておこう。数年前、イスラエルである対話集会が開かれたことがあった。政治について討論していたとき、話のついでにこう言った男性がいた。 「ユダヤ人とアラブ人の関係を改善する上では、ユダヤ主義がかなりの問題となっている。それが第一の障害だよ」。彼の語り方はとても穏やかなものだった。だが、そのとき突然、ある男性が自分を抑えられずに立ち上がった。ひどく感情的になっており、血圧は上がって、目が飛び出しそうだった。彼は言った。「ユダヤ主義がなければ、この国はめちゃくちゃになってしまうんだ!」
     この男性には根本的な想定があったし、もう一人の男性にはまた別の想定があった。この二つの想定は真っ向から対立するものだった。となると、「どうすればいいのか?」という問題が生まれてくる。こうした想定によって、あらゆる政治的な問題が世界中で起きている。私がここで述べたケースは、政治上で対処せねばならない想定のいくつかに比べれば、比較的簡単なほうである。大事なのは、誰もがさまざまな種類の想定を持っている、ということだ。それは政治や経済、宗教の問題にとどまらない。人が何をすべきか、人生とは何かといった問題などにまで及ぶのである。
     こうした想定を「意見」と呼ぶこともできるだろう。意見とは、つまり想定なのだ。「意見」という言葉は多様な意味で使われている。たとえばある医師が意見を提示したならば、それは患者の症状から判断して、彼には最も考えられる想定を意味する。医師はこんなふうに言うだろう。 「そうですね、確信は持てません。ですから、別の医師の診断(セカンド・オピニオン)を求めましょう」。その場合、彼が優れた医師なら、自分の想定を守ろうとする行動はとらないはずだ。セカンド・ オピニオンが自分の診断と違えば、その医師はユダヤ主義について質問されて感情的になった、 先に登場した男性のような行動はとらず、このように言うだろう。「どうしてそう判断できるのですか?」。この医師の意見は、理にかなった意見の一例である。しかし、そうした振る舞いができない人は多い――大半の人は強い反発を示して、自分の意見を守ろうとするものだ。別の言い方をすれば、人は自分自身と、自分の意見とを同一視する。人の意見は、自己の利益への投資に縛られているのである。
     要するに、想定の裏にあるあらゆる圧力を、対話は検討しなければならない。想定そのものだけでなく、その陰に存在する思考プロセスまで調べる必要があるのだ。


     さて、社会における我々の通常の思考は、「一貫性のない」ものと呼んでもいいだろう。それは対立し合ったり、互いに打ち消したりする思考とともに、あらゆる方向に向かっている。しかし、人々が「一貫性のある」方法でともに考えるようになれば、驚異的な力が生まれるだろう。それが私の提案である。対話できる状況――かなり長い間、対話に取り組んでおり、人々が互いに懇意になっているグループなど――であれば、思考やコミュニケーションはコヒーレントな動きができる。それは人が認識しているレベルにおいてだけでなく、暗黙のレベル、つまり漠然としか感じていないレベルでもコヒーレントなものだろう。その点がより重要である。
    「暗黙」という意味は、言葉に出されないとか、表現が不可能だとかいうことだ――自転車に乗るために必要な知識のように。それは事実上の知識であり、コヒーレントなものかもしれないし、 違うかもしれない。思考とは実のところ、鋭敏な暗黙のプロセスのことを指すと、私は提案したい。考えることの具体的なプロセスは非常に暗黙的なものである。基本的に、その意味は言葉に表されない。そして明確に言い表せるものは、意味のごく一部にすぎないのである。このような暗黙の知識によって大半の行動をとっていることに、誰もが気づいていると思う。思考は暗黙の領域から生まれてくる。そして、思考におけるあらゆる根本的な変化が、暗黙の領域から現れるだろう。そのため、暗黙のレベルでコミュニケーションを行っているとしたら、思考は変化しつつあるかもしれない。
     暗黙のプロセスは人に共通である。それは共有するものだ。この共有とは、単に明確なコミュニケーションや、ボディランゲージなどを指すのではない。確かにそうしたものも一部だが、人に共通の、もっと深い意味での暗黙的なプロセスが存在するのである。百万年の間、全人類がこの点を知っていたと私は思っている。その後の五千年にわたる文明の中で、我々は暗黙的なプロセスを失っていった。そのようなプロセスを行うには、社会が大きくなりすぎたからである。だが、コミュニケーションをとることが急を要するようになった今、もう一度それを始めなければならない。必要なことを賢明に実行するには、意識を共有し、ともに考えねばならないのだ。対話グループで繰り広げられることに取り組み始めれば、社会全体における現象の、核心めいたものをつかめるようになるだろう。自分一人ではそうした核心をかなり見落としかねない。一対一の対話をした場合でさえ、正確にはつかめないものである。


     実を言えば、我々が論じてきた問題はどれも基本的に、この自己受容感覚の欠如が原因である。想定を保留状態にする目的は、自己受容感覚を可能にするのを助けるためだ。自分の思考の結果を見ることができる、一種の鏡を作り出そうというのである。人は自分の中にも鏡を持っている。 人の体はいわば鏡として働いており、体内に緊張が生じた場合、それを見ることができるからだ。 他人もまた、鏡としての役割を果たしている。グループも同様である。人は自分の意図に気づかねばならない。それができれば、何かを言いたい衝動に駆られたのとほぼ同時に、言った場合の結果がわかる。
     もし、誰もが注意を払い続けているなら、人々の間に、もしくは個人の中にすら、自己受容感覚を備えた新しい種類の思考が生まれるだろう。そして、思考がたいてい陥りがちな混乱に陥ることはない。つまり、自己受容感覚のない状態にはならないのである。人類の問題はすべて、思考に自己受容感覚がない事実が原因だと言っていいほどだ。思考は絶えず問題を生み出し、それを解決しようとしている。しかし、問題を解決しようとして、さらに悪化させてしまう。というのも、問題を作り出しているのが思考そのものだと気づいていないからだ。そこで、考えれば考えるほど、さらに問題が発生する――思考が自分の行動に対して、自己受容感覚を働かせていないせいである。もし、体がそんな状態なら、たちまち厄介なことになり、長くはもたないはずだ。 仮に、我々の文化が同様の状態なら、文明もやはり長続きしないだろう。このように、違う種類の意識を集団が生み出すのにも、対話は役に立つのである。


    対話では、人を納得させることや説得することは要求されない。「納得させる(convince)」いう言葉は、勝つことを意味している。「説得する(persuade)」という語も同様である。それは 「口当たりのいい(suave)」や「甘い (sweet)」と語源が同じだ。時として、人は甘い言葉を用いて説得しようとしたり、強い言葉を使って相手を納得させようとしたりする。だが、どちらも同じことであり、両方とも適切とは言えない。相手を説得したり、納得させたりすることには何の意味もないのだ。そうした行動はコヒーレントなものでも、筋の通ったものでもない。もし、何かが正しいのであれば、それについて説得する必要はないだろう。もし、誰かがあなたを説得せねばならないとしたら、おそらくその人間はなんらかの疑念を抱いているはずである。
     誰もが意味を共有できるならば、それはともに参加していることになる。共通の意味を分かち合うわけである――食物を分かち合うのと同じように。我々は関わりを持ち、コミュニケーションをとり、共通の意味を作り出す。それが参加するということであり、「ともにする」とか「加わる」という意味でもある。こうして参加することによって、共通の考え方が生まれるが、これは個人を排除することにはならない。個人はそれぞれ別の意見を持っていて、そうした意見が徐々にグループの一部にもなっていく。
     要するに、誰もがかなり自由な存在である。意味の共有という考え方は、集合意識に支配されている暴徒のものとは違う――まったく異なっているのだ。それは個人と集団との間に存在するものであり、そこを動き回ることができる。そして個人と集団との調和を取っている。その中ではすべてがコヒーレントに絶え間なく動いている。つまり、集合意識と個人意識という、二つの意識が存在し、その両者の間をあたかも川の流れのように意味が流れているのだ。したがって、 意見というものはあまり重要ではない。最終的に、すべての意見からどれかを選択することになるかもしれないが。やがて、我々はそうした意見を超えて、別の方向へ、つまり創造的な新しい方向へと動き始めるのである。


     鋭敏さとは、何かが起きていることを感じ取る能力だ。自分の反応の仕方や他人の反応の仕方を察知し、ごくわずかな相違点や類似点に気づくことである。こうした点をすべて感じ取るのが認識の基本なのだ。この感覚があれば情報は得られるが、そのためには細心の注意を払わなければならない。たとえば、とてもよく知っている人と通りですれ違った場合、あなたは「彼に会った」と言うだろう。しかし、その人がどんな服を着ていたかと尋ねられれば、答えられないかもしれない。というのも、本当の意味では見ていなかったからである。あなたはその知人に会ったことに対して、敏感ではなかったのだ。思考というスクリーンを通して相手を見ていたからである。そうした態度は鋭敏と言えない。
     つまり、鋭敏さにはさまざまな感覚と、それ以上の能力とが求められている。感覚とは自分が反応する事柄に敏感であることだが、それだけでは充分でない。感覚は何が起きているかについて教えてくれるだろう。それから意識は、起きている事物を一つにつなげるために、なんらかの形を作るか、ある種の意味を作り出さねばならないのだ。したがって、意味とは、起きていることの一部なのである。あなたは意味に敏感かもしれないし、意味が見落としたものに敏感かもしれない。そう表現したければ、意味の認識と呼んでもいい。別の言い方をすると、意味とは、より繊細な認識のことである。起きている事柄を一つにつなげることなのだ。私が前に言ったように、それは「セメント」である。意味は静的なものではなく、流れている。もし、共有された意味があるなら、それは我々の間を流れ、グループを一つに結びつけるだろう。そのうち、自分の心の中で起きていることに対してだけでなく、グループに行き渡っているあらゆる微妙な意味合いに、誰もが敏感になる。そこから、意味の共有が形作られる。そうすれば我々は、コヒーレントに話したり、ともに考えたりできる。だが、総じて人は自分の想定にしがみついているため、 ともに考えることができない。一人ひとりが勝手に思考しているのだ。
     鋭敏さの障害となっているものは、自分の想定や意見を守ろうとする行為である。しかし、あなたが自分の意見を正当化しているとしたら、自分を批判して、「正当化すべきではない」などと言わないだろう。むしろ想定や意見を守っていると、それについて――その中にあるあらゆる感情や、すべての細かい意味合いについて――敏感でいなければならないと思うのが事実のはずだ。我々は、人を非難したり、批判したりするようなグループ作りを目標としているわけではない。そうした行動が障害になることは、誰でも理解できる。そこで対話グループでは、人を非難したり、批判したりしないことを目指している。あらゆる意見や想定を考え、それを表に出すだけである。そうすれば、そこになんらかの変化が起きるのではないかと私は思っている。
    「存在すること」は何かと関係することだと、クリシュナムルティは言った。だが、関係とは、 非常に痛みを伴うものになりうる。クリシュナムルティはこう述べた。あなたはあらゆる心理過程を考え、探り、そして克服せねばならない。そうすれば、何か他のものへ通じる道が開かれる、と。そのような事態が対話グループにも起こりうると私は思う。いくぶん苦しむ者もいるだろうが、すべてをうまくやり遂げなければならないのだ。
     かつて、スウェーデンで対話集会を行ったとき、グループが二つの派閥に分かれたように見えたことがあった。「ニューエイジ」の人々が大勢おり、最初から、愛の美徳やら、この地には愛があふれているといったことやら、あらゆるところに愛があるといった話をし始めた。グループの残りの者たちはしばらく黙っていたが、次の一時間は口をききだした。彼らは、愛の話などすべて感傷的なナンセンスで、何の意味もないとほのめかした。あまりにも感情を高ぶらせて自制できなくなり、部屋から出ていった男性もいた。やがて彼が戻ってくると、ようやく全員がまた揃った。グループは真っ二つに分かれていたが、それは珍しくもない問題だった。二派に分かれていることに気づいたある人が、多少のユーモアを込めてこう言った。「ここには二つのグループがありますね。愛のグループと憎しみのグループとが」。その言葉で緊張状態は少し緩み、二つのグループの者たちはまともに話し始めた。必ずしも相手を説得することにはならなかったが、 彼らは互いの見解の意味がわかるようになった。そして、この両極に分かれていたグループが話し合うことが可能になったのである。
     さて、彼らが互いを説得したかどうかよりも、話し合えたことのほうが重要だ。何か違うものを生み出すためには、それぞれの見解を捨てなければならないと、気づいたのかもしれない。愛を好む人がいれば憎しみを好む人もいたとか、疑り深くて慎重でいささか皮肉屋であることを好む人もいたとかいった事実は重要ではない。実のところ、一皮むけば、誰もがみな同じだったのである。どちらの側も頑なに自分の見解にしがみついていたからだ。したがって、その見解に妥協の余地を見いだすことが、鍵となる変化だった。
     概して、自分の意見を正当化している人は、深刻になっていないと言っていい。自分にとって不愉快な何かをひそかに避けようとする場合も、同様である。人生の大半は深刻なものと言えない。人は社会からそう学んでいる。あまり深刻になるべきではない、と――インコヒーレントな物事はいろいろとあるが、それについて打つ手は何もないため、深刻になって動揺しても仕方ないということを。
     だが、対話では深刻にならねばならない。さもなければ対話ではない――私がこの言葉を使っている意味での対話とは言えないのだ。フロイトが口蓋の癌に侵されたときの話をしよう。フロイトのもとへやってきて、心理学におけるある点について話したがった人がいた。その人はこう言った。「たぶん、話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。 「この癌は命にかかわるかもしれないが、深刻ではないよ」。言うまでもなく、フロイトにとっては単に多数の細胞が増殖しているだけのことだったのだ。社会の中で起きていることの大半はこんな表現で言い表せるだろう―――それは命にかかわるかもしれないが、深刻なものではない、と。


     とはいえ、個人や社会の生活に秩序を作ろうとするあらゆる活動をもうやめるべきだとか、一般的な難題を終わらせることを妨害する、心の中の無秩序に目を向けるべきだとか、言っているわけではない。むしろ、人の内部における活動と、外部的な活動とは協力して進んでいくだろう。 だが、この点は心に留めておかねばならない。つまり、何世紀にもわたった習慣や条件づけがあるため、人は一般に「基本的に、私たちは正しい」といった態度をとるということだ。そして通常の場合、我々が抱えている困難は外部に原因があると考えられ、それは「問題」と見なされている、ということも。自らの内面に秩序が存在しないとわかったときでさえ、何が間違っていて、 何が自分に欠けているかをかなり正確に指摘できる、と人は考えがちである。まるでそうした間違いや不足は、誤りを正すという「問題」を形作る思考活動とは異なったものか、別個のものだと言わんばかりに。
     しかし、ここまで見てきたように、人が自分の「問題」であるとか、社会的な「問題」であるとか考える思考プロセスそのものが、考えた内容によって条件づけられ、コントロールされているのだ。だから一般的に、こうした思考は自由ではなく、実際には正直なものですらないと思われる。そのため、求められているのは深遠で真剣な覚識である。それは想像を上回るものであり、 混乱した思考プロセスを知的に分析し、また、混乱が生まれる原因となった、矛盾する前提や心の状態を見抜く能力を備えたものだ。そのようなアウェアネスがあれば、バラドックスの多くを理解する用意はできたことになる。こうしたパラドックスは日常生活や、もっと規模の大きい社会的関係において姿を現し、やがては一人ひとりの「最も深い部分にある自己」を構成していると思われる、思考や感情の中にも現れるだろう。
     したがって、日常生活を申し分なく、完全に続けていくことは必要だが、次の事実には真剣かつ注意深く関心を払い続けてほしい。すなわち、何世紀にもわたって条件づけられてきた心の大部分が、パラドックスにとらえられる傾向があり、結果的に現れた難題を「問題」として考える間違いを犯しがちだということである。

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    2025年10月04日
  • 美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる

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    韓国の美容に対する意識がよくわかる本。
    12-16歳の娘がいる韓国の母親の4人に1人が娘に美容整形をすすめたことがある、らしい。
    韓国の女性が美しくあることは「must」なのだろう。生きづらそうである。
    上記のように具体的な数字が出てきてへぇ〜となる。韓国は多くの人が日焼け止めをしっかり塗るので皮膚がんが滅多にいないため、皮膚科医はアメリカに勉強しにいく」みたいな記載もへぇ〜とは思った。(ただ、ネットで軽く調べると20年で7倍くらい増えているらしい)

    上記のように韓国の美容についてはすごくよくわかるのだが、ちょいちょい挟んでくる著者自身のプライベートの記載の時系列がぐちゃぐちゃで少し読みづらかった(娘の年齢が上下したり、離婚したあとに3人目の妊娠について書いたり)
    また、全体的に、この韓国の現状について批判する訳ではなく、賞賛するわけでもなく、で進むのも読みづらい原因だと思う。MeToo運動の話題では、やはり過激な美の強要に対して否定的な意見が強かったものの、著者の意見は曖昧である。
    ジャーナリストとして書いているから、どちらの意見でもないのはわかるのだけど、であれば著者のプライベートは書かなくてもよかったのでは?と思う。

    個人的には、この本を読んだことで逆に美意識は上がったように感じる。日焼け止めをいっぱい塗ることで皮膚がんを減らせるならその方がいいし、美容に気を配ることで自分自身が幸せを感じられるのはよいこと。ただ、韓国女性のように美容に金をかけると非難され、金をかけないとさらに非難されるような環境自体はよくないと思う。美意識は、強要されるものではない。


    あと最後に原文のタイトルからどうやったらこのタイトルになるんだろう…?
    興味をひかれるけど、著者がシートマスクを信じているかどうかの記載はなかった。

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    2025年09月07日
  • 人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

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    支援を人間関係の側面から再定義し、支援とは何かという問いに向き合う本。支援を大きく、①クライアントが必要としている具体的な知識や具体的なサービスという形で支援を与える専門家、②クライアントの状態を診断し、処方箋や専門的なサービスを与える医師、③実際に必要なものを判断するため、共同で調べることによってクライアントを参加させ、情報をすべて打ち明けてもらえるほどの信頼関係を築くプロセス・コンサルタント、に大別しており、状況に応じたこれらの使い分けが肝要としている。
    最後に並べられているプロセスコンサルタントの10原則は定期的に見返したいキラーフレーズに満ちている。特に「問題と解決に向き合うのはあくまぇクライアント」というのはハッとさせられる。問題とその解決によって結果がどのようであるにせよ、それをしっかり受け止めるのは、クライアントなのだ、という主旨であり、クライアントと同調していてはいけないということを再認識させられる。あくまでクライアントとは立場が異なり、違う視座を持ち続けないといけない。

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    2025年06月17日
  • 美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる

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    とにかく重かったが、韓国は異次元なのだな。儒教の教えで髪を切ることすら憚られていたのに、現在は両親が生計をプレゼントする時代。顔や体型を整えることがマナーになりつつある…と。

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    2025年06月10日
  • 新装版 幸せがずっと続く12の行動習慣 「人はどうしたら幸せになるか」を科学的に研究してわかったこと

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    人は「幸せ」にさえも慣れてしまう生き物だから、幸福度は「日々の意図的な行動」が大切という内容。

    読み終えてから、
    自分のことを、不運だなと思うことはあっても、不幸だなと思ったことってないなと思った。
    だから、それなりに幸せなのだと思う。どうしたら幸せになるかというよりも、今ある幸せに気付くことと、その幸せが続いて感じられるようにするために、今できる自分の行動はどういうものがあるのかっていうことを教えてくれる本でした。

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    2025年03月16日
  • 愛されすぎたぬいぐるみたち

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    愛されすぎたぬいぐるみたちの勇姿をみよ。

    手も足も目もなくなり、原形がわからないほど、抱きしめられ、キスされ、なめられ、かじられ、投げられ、いくつもの打ち明け話を聴いてきたぬいぐるみたち。

    大量生産品として生まれ、買われ、いつしか、誰かのたったひとりだけの存在になれた彼ら彼女らは、とても誇らしげな顔をしている。

    子どもがぬいぐるみに夢中になる理由は、愛する母親以外に「自分のもの」となる存在をつくる第一歩とするため。(“移行対象”と言うらしい)

    どんなに乱暴に扱おうとも、受け入れてくれるぬいぐるみに、安心感を得ながら、他者への適度な愛着を自分なりに調整していくのかもしれない。

    ぬいぐるみの写真についたコメントは主に持ち主さんが書いている場合が多いので、臨場感がある。

    わたしのぬいぐるみは今三体かな。
    フリマで買って元の持ち主に「大事にしてください」と云われたエリマキトカゲ。
    あみぐるみキットを買って手こずっていたら、母がひょひょいと編み上げたくま。
    愛猫が亡くなって数年後、どうしても猫のようなものが撫でたくなって、ネットでポチしてしまったねこ。(の、ぬいぐるみ)

    どれも棚に飾ってあるだけだけど、たまに視線を感じる…ような気がする。



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    2025年03月04日
  • 美人までの階段1000段あってもう潰れそうだけどこのシートマスクを信じてる

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    ソウルに駐在した女性記者が語る韓国の整形事情。
    韓国の小説を何冊か読んでいる人にとっては、そんなに目新しいことはないと思うが、小説の背景となっている事件や社会通念を知ることはできる。

    何年も前、韓国旅行中に街中で赤ちゃんの整形広告を見てゾッとしたが、最近は日本でも小学生の整形に関するニュースを見かける。
    価値判断の最上位に「見た目」がセットされた子どもたちは、これから成長してどんな世界をつくっていくのだろう。

    本書のまとめ部分で紹介されている、ドクター・リンジィ・カイトの言葉に”「すべての女性が美しい、欠点も何もかも含めて!」というメッセージは「本当にすばらしいですが、問題の解決にはなりません」”とあるが、本当にそのとおり!!
    自分のマインドがどうあろうと、周囲の人が美に価値を置く限り、見た目で判断されることは続くし、今後もその価値基準がなくなることはないだろう。
    ただ、これから先は基準が分散されていくような気がするので、今のような画一的な基準からは解放されるのかな…

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    2025年02月25日
  • 欲望の錬金術―伝説の広告人が明かす不合理のマーケティング

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    ◾️人間の行動は背景が全て
     人間という存在はかなり矛盾している。自分がいる状況や場所によって認識や判断はすっかり変わってしまうかもしれない。…
     人間にとって、世界の認識は背景に影響されている。だから、人の行動に対する普遍的で背景に影響されない法則を作ろうとする合理的な試みは、ひどく絶望的なのかもしれない。


     そんなわけで、もう一度尋ねよう――どうして人は列車で立たされることを嫌がるのか?だまされたように感じるせいか?なんといっても、列車の座席のために料金を払ったのだし、鉄道会社は金を取ったのに座席を提供してくれないわけだ。そうじゃないか?だとしたら、短距離の列車や地下鉄では座席なしの客車を提供するというのはどうだろう?その客車の利用者は料金の一部を払い戻してもらえるか、ためると無料で列車に乗れるポイントをもらえる。それなら人々は満足するのか?試してみることはできる。
     あるいは、列車で立っているのが嫌なのは疲れるからだろうか?ただ立つだけでなく、バランスを取り続けなければならないのだ。まっすぐ立つために手すりをつかんだら、もうスマートフォンを使えないし、本や新聞を読んだりコーヒーを飲んだりできないから、列車に乗っている間は退屈になるせいだろうか。それが理由なら、尻を載せられる台をいくつかつけたら役に立つかもしれない。もしかしたら人々は荷物を置く場所がないとか、バックパックから物を盗まれると妄想しているせいで、列車で立つのを嫌がるのかもしれない。あるいは、もっと重要なステータスの問題ということもあり得る。座席についた乗客は視界がよく、個人的なスペースを確保でき、荷物を置く場所もある――一方、立っている乗客には何もない。この窮状をより有利な状態だと自分に言い聞かせられるものはないだろう。しかし、ここで明深い疑問が生まれてくる。立っていることに何か利点があるとしたら、どうだろう?言い換えると、ここに錬金術の果たす役割はあるだろうか?
     想像してほしい。車両の真ん中だけに座席があり、窓に沿った両側は立っている乗客向けにデザインされた通勤電車を。座った人の席にはカップホルダーが設置されているが、ほかには何もない。立っている人は窓の外の景色を眺められ、体を預けるクッション入りの台があり、かばんやノートパソコンを置く台とUSBを充電する差込口が2つある。こうなると、立っている乗客のほうが座っている乗客よりも得なのは明らかだろう。立つことが妥協ではなく、択だと思われる――まわりの人からも、自分でも――はずだ。
     このような計画は、偏見にとらわれずに愚かな質問をしたときしか生まれてこない。通勤する人は立つことが嫌だとわかっていても、理由はよくわかっていない。その人に尋ねれば、もっと座席を増やせと要求するだろうが、それには巨額の費用をかけてさらに列車の本数を増やすしかない。我々が基本的な質問をしない理由は、いったん脳がロジカルな答えを出したら、もっといい答えを探すことをやめてしまうからだ。ちょっとした錬金術を用いれば、よりよい答えは見つかるはずである。


     行動経済学や進化心理学のような科学が提供する新しい双眼鏡のレンズはどれも完璧とは言えないが、少なくとも、より広い視界を与えてくれる。どんな発展にも当て推量が伴うが、さらに広い範囲で推測することは役に立つのだ。新しいレンズのおかげで、もっと心理ロジック的な視点から問題を見られる(そして解決できる)単純な例を以下にあげよう。オグルヴィ・チェンジのクライアントの1つである大手のエネルギー供給企業では、セントラル・ヒーティングのボイラーの修理やサービスの日程を顧客と修理工との間で調整している。午前か午後かということは予約できる――これ以上の正確な予定を決めるのは難しい。各訪問先でどれくらい時間がかかるかは予測が困難だからだ。顧客はこの点に不平を言っていて、こんな不満がもっともよく聞かれる。「私はまる1日、仕事ができなくなる」こういう顧客たちの本音は1時間単位で予約を取りたいということだ。しかし、彼らの要求をそのまま受け入れてそこまで正確な予約方法にしようとすれば、膨大なコストがかかるし、修理工が約束どおりの時間に行かれなくなった場合は必ず失望感が生まれるリスクがある。もっと鋭い人なら、1時間単位の予約では「まる1日、仕事ができない」という問題が必ずしも解決しないことにも気づくだろう―――たとえば、予約した時間が午後1時から2時の間なら、職場が家から近くないかぎり、在宅するためにはやはり仕事をまる1日休まなければならない。
     我々がまずクライアントに勧めたのは顧客の話を聞くことだった。だが、”文字どおりに”ではなく、“横方向に”聞くようにと。予約の時間帯が長いことに人々が何らかのいらだちを示したのは明らかだが、もしかするとそれは時間帯の長さよりも、修理工がちゃんと来るのかどうかという不確実性のせいかもしれなかった。家で5時間も修理工を待ったことのある人なら誰でも、それが苦痛だと知っている。なんだか自宅に監禁されている気分だと。トイレに行くとか、1パイントの牛乳を買うためにちょっと外出するといったことができない。そんな行動をとったとたん、修理工がやってくるのではと不安だからだ。そこで、やきもきしながら半日を過ごすことになる。そもそも修理工が現れないのではないかと心配しながら。もしも修理工が訪問先に着く30分前に携帯にメールを送ってくれることになったら、そのような気持ちはどれほど変わるだろうか?突然、顧客は1日がほぼ休みになったかのように自由に過ごせるだろう。やるべきなのは携帯電話に目を光らせていることだけだ。これは試すことを我々が提案している解決策の1つだ。この方法は1時間単位で予約する方法と同じくらいよいのではないだろうか?完全なものではないが、感情や知覚を90%は向上させるかもしれない。しかも費用は1%増える程度で。古い双眼鏡で見ていてはこんな方法は生まれないだろう。顧客の不満を文字どおりに受け取ってしまうからだ。


     合理的なものはあまりにもすぐに承認されてしまう。直感に反したアイデアはしばしば疑念を持って扱われるのに。業績が悪化した製品の値下げを提案してみるといい。うんざりするほど合理的な提案は何の疑問も持たれずに承認されるだろう。だが、その製品の名前を変えて売ることを提案すれば、あなたは骨の折れるパワーポイントでのプレゼンテーションだの、リサーチグループだの、多変量解析(訳注複数の変数に関するデータをもとに、変数間の相互関連を分析する統計的技法」だの、ほかにも何やかんやをやる羽目になる――それもこれも、あなたのアイデアが従来型のロジカルなものでないからだ。しかし、もっとも貴重な発見は最初、筋の通らないものなのである。筋の通ったものなら、ほかの人間がとっくに発見していただろう。そして人々から嫌われるアイデアは、好かれるアイデアよりも強力かもしれない。人気があって明らかなアイデアはどれもすでに試されているのだ。
     直感に反したものを試みるべきだ誰もそうしようとしないからである。


     企業や政府は毎日のように、人々が関心を持つものについて、とても単純で間違った想定をしている。アメリカの2つの大手小売業者、JCペニーとメイシーズは割引クーポンや特売を頼みにするのをやめて、単純に通常価格を引き下げることにしたときにそんな失敗を犯した。どちらの場合も、取った戦略は商業的な災厄だった。人々は低価格を求めていたのではなかったーー求めていたのは具体的な節約感だったのだ。この事態について考えられる説明の1つは、人間が心理的に張り合いたがることである。人は他人よりもよい取引をしていると感じることを好む。誰もが安い金額しか払わなくてもいいなら、ほかの人に勝ったというスリルは消えてしまう。定量化できる節約をすると自分が賢い気にさせられる一方、みんなと同じ安い金頼を払う行為は自分がケチだという気持ちにさせられるだけである。もう1つの考えられる説明は、低価格は値引きと違って、買い物というイベントの後に人々が購入品について喜びを込めた描写をする余地がないことだ――「私は33ポンド節約した」のほうが「私は45ポンド使った」よりもいいのである。


     注意というものは、人が気づいているよりもはるかに多くの影響を思考や行動に与えている。ダニエル・カーネマンはエイモス・トベルスキーとともに行動経済学の父親と言うべき存在の1人である。彼が「フォーカシング・イリュージョン」と呼んでいるのは、注意を引かれるものの意味を人間が過大評価してしまうことだ。カーネマンがこう説明しているように。「そのことについて考えている間は、自分が考えているそのことがもっとも重要だ。マーケターはこのフォーカシング・イリュージョンを利用している。あるものを『手に入れなければならない』と信じ込まされたとき、人はそれによって変わるかもしれない人生の質の違いを過度に誇張する。フォーカシング・イリュージョンの大きさはものによってまちまちで、それに人の注意が引きつけられている時間の長さによる。オーディオブックよりも車のレザーシートに対するほうが、フォーカシング・イリュージョンは大きくなりやすい」
     マーケティングでは、消費者をだますために対照表を利用できる。もし、車が故障したときのサービスに焦点を当てた対照表を作成する人が客観的であろうとすれば、すべての会社が提供しているサービスにおそらく50個は利点を追加できるだろう。しかし、対照表の作成者は、これらのあらゆる利点のうち、宣伝しようとしているブランドが独自に提供する小さな部分に、消費者の焦点を合わさせようとするのだ。昔の広告業界の信条だった「独自の売り(USP)」を持つことも、フォーカシング・イリュージョンを引き出す。他社にない1つの特質を提供するだけで商品はより売りやすくなる。たとえこの特徴がやや根拠に欠けるものでも、独自の特質を強調することによって、競合する別の製品を買った場合に買い手が感じそうな喪失感を増大させられるのだ。キャンプ用品はフォーカシング・イリュージョンにとらわれている間に買うにはもっとも危険なものだ。店にいるときは、完璧な気象条件で製品を使う自分を想像するだろうが、そういった天候は実際にはめったにない。第二に、購入時にこの上なく魅力的に思えた製品の特質は、実を言えば、それを使うときには不都合かもしれないのだ。たとえば、売られているときは、入りそうにないほど小さな袋にどの寝袋もきちんと収められている。しかし、長期にわたって見れば、新しくてきちんとまとめられていたときは魅力的だったかもしれないが、使用後の寝袋を袋にまた詰めることなどほぼ不可能なのだ。


     私が前に述べたように、人間の脳はある程度までは無意識に、どんな決定にも交換条件があると推測してしまうものだ。もし、ある車がより安価であれば、性能はより悪いだろうと推測される。ある粉洗剤が環境により優しいものなら、より洗浄効果が低いだろうと推測されてしまうのだ。だから、「地球に優しい」として製品を宣伝するのはリスクを伴う―――地球を救おうとあまり言わないほうが、地球を救うことにつながるのではないか?私に言わせれば、環境保護運動の失敗は、人々は正しい行動をすべきだというだけでなく、正しい理由のためにそうすべきだと決めつけるせいだろう。私自身の見解はもっとひねくれていて実際的だ。人々が環境にいい行動をとるなら、その動機など一切気にしなくていいということである。
     正しい行動をとれと求めたうえに、正しい理由のためにそうしろと求めるのは基準が高すぎる。英国の家庭での廃棄物リサイクリングの回収率を高めるようにという依頼があったとき、埋め立て地の増加やホッキョクグマの減少などに関する家庭の考えといった議論をすべて棚上げしようとオグルヴィは提案した。リサイクルをする気にさせる行動の原理は、考え方よりも周囲の環境に関係があると指摘したのだ。単刀直入に言うと、キッチンにゴミ箱が2つあれば、リサイクル可能なゴミを分けられてかなりのリサイクルをすることになるが、1つしかゴミ箱がなければ、たぶんそんな行動はとらないということである。「ゴミ箱1つはゴミ」というスローガンのもとで、我々はこのキャンペーンに専念した。家庭にゴミ箱を2つ以上置くことを勧めて回ったのだ――どうやって人々を環境保護運動の正会員にさせるかといった話題は避けながら。
     我々はこのキャンペーンがどうせ失敗だろうと思っていたわけではないし、人々にもっと環境を意識させることをあきらめていたわけでもない――逆から考えて問題を解決していただけだ。人間の意思決定に関する従来の常識は、考え方が行動を駆り立てるというものだが、たいていの場合、プロセスが逆に働く証拠が多くあがっている。自分がとる行動が考え方を形作るのだ。ゴミを廃棄物とリサイクル可能なものとに分別する人間はそんな行動をとった結果、環境をもっと意識するようになるだろう。テスラを運転する人がその車を買ったそもそもの理由に関係なく、自分の車が環境にいいと熱心に話すのと同様に。
     行動が先。考え方はそれを持続させるために変化する。

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    2024年08月24日
  • 新装版 幸せがずっと続く12の行動習慣 「人はどうしたら幸せになるか」を科学的に研究してわかったこと

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    自分は幸福だと実感する機会が多いと感じていたが、自然にできていたことが多くて納得・安心した。また読み返したい。

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    2024年04月24日
  • ボーイフレンド演じます

    mu

    購入済み

    後半から

    半分と少しくらいまでは読み進めるのが苦痛だった。
    わかりにくい文章と、皮肉屋だからか主人公の魅力が全くわからず理解に苦しんだ。いろいろつらい目にあってこうなってしまった、という説明が最初にもう少し欲しかったかな。
    後半あたりから比較的読みやすくなってキャラクターの魅力もわかってきて面白かった。
    あれだけ優しくされて主人公がオリヴァーにメロメロになるのはわかるけど、オリヴァーが彼のどこに惚れたのかよくわからなかったな。性格やライフスタイルからしたら無しのような。彼の前だと頑張りすぎなくてよくて自然体でいられるところなのかな。

    #じれったい

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    2023年12月12日
  • 嘘つき村長はわれらの味方

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    タイトルと装丁が気になり購入。
    ただ、少し読みづらかった。

    すんなり読み込めなくて時間がかかってしまった。
    日本語訳というものが苦手なのかなと感じてしまった。

    内容は全く難しくなく、タイトル通りの内容。
    もっと読みやすかったらいいのに、、と思う一点。

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    2023年09月17日
  • 人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

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     「問いかける技術ー確かな人間関係と優れた組織をつくる」からの流れ、本著者の著作は2冊目だ。
     なるほど、著者は「プロセス・コンサルテーション」を開発・実践してきた組織心理学の第一人者だ。
     クライアントは一段低い位置(ワン・ダウン)にいて、支援者は一段高い位置(ワン・アップ)にいる。この力の不均衡がクライアントと支援者の双方の関係をうまくいかなくする。支援者は常にワン・ダウンすることを意識し、クラアントと対等な立場でクライアントに依存、信頼してもいいのだという安心感を与えることが望まれると。
     そこで意識するといいのが「控えめな問いかけ」、クライアントに主導権をとってもらいながら能動的に解決する立場を取り戻し、自信を持たせ、そして支援者と協力できる状態にすることだ。クライアントに力の不均衡を感じさせない関係がさらに良い支援につながるということだ。

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    2023年08月31日
  • 欲望の錬金術―伝説の広告人が明かす不合理のマーケティング

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    ネタバレ

    効率は大事だが効果的かどうかはもっと大事。

    ロジカルな方法をとると、「自分は問題を解決している」という気分にひたることができる。だがロジカルな部分から漏れてしまったもの、すなわち本能や創造性、幸運が、より優れた解決策となる可能性もある。これまでと異なる方法をとれば、幸運な偶然を享受できるかもしれない。

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    2021年08月13日
  • ボーイフレンド演じます

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    ストーリーは面白かったと思う。主人公がその生い立ちからかひねくれてしまった男の子で,以前会って第一印象が良くない堅物の弁護士に,あるイベントのためにお互いの利点が重なって,臨時の恋人になってもらうストーリー。

    二人の性格の違いもよく描かれていてそれがおもしろいジョークや嫌味がうまく絡まっていたし。しっかり盛り上がりの山場もあって,二人がうまくいったとき時は嬉しかったし,うまくいかないと涙が出てしまったし。それぞれのしがらみは人種関係なく一人一人の人間としてと共感できた。主人公のルシアンが根本的には変わらないけど成長していくのは見ていてとても嬉しかった。友人たちとの関係も最初は変な奴らにしか思えなかったけど最後は友情に熱い奴らで大満足。

    ただ…最初の方は特に英文をそのまま訳したような感じで,読みにくかった。なかなか入ってこなかった。だんだんとそれっぽくなっていったけど,もう少し訳者さん的に砕けた言い回しの方が読みやすいし,セリフにしてもみんな固くて登場人物たちのことが身近に感じられなくて残念だった。

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    2021年08月07日
  • 人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

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    ネタバレ

    支援という観点で、組織・人間関係を絡め科学した良書だ。
    支援に必要な心構えや技術が明確に書かれており、支援者にとって必要な情報を提供できているように感じる。

    ただ、少し読みにくいのが難点だ。これは私の無知の問題もあるがアメフトなどを例に記載されている情報は、例えでわかりやすく書いているものが私のアメフト知識のなさから理解に時間がかかるものになっていた点が、個人的に評価を下げてしまった。

    人を支援する時に見返りを求めるのは違うよねとか、支援の前に持ち合わせるマインドはとても為になり、これを実践することで自信が支援側に立った時の感情コントロールに役立つように感じた。

    一読して、必要箇所を読み返してマインドを取り戻すのに今後この書籍を使いたいと思う。

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    2020年12月30日
  • 愛されすぎたぬいぐるみたち

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    思い入れのある大切な友だち。
    うちの子どもは、ぬいぐるみよりプープー音の出るバスタオルだった。小学校卒業のとき、あまりにボロボロにちぎれていて処分したが、残しておけばよかったと少し後悔。

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    2020年01月05日
  • 人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

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    支援する=Helping
    支援する方と支援される方の相互作用
    7つの原則
    支援を与える側も受ける側も用意ができている
    支援関係が公平なものと見なされるとき
    支援者が適切な支援の役割を果たすとき
    言動の全てが人間関係の将来を決定づける介入
    効果的な支援は純粋な問いかけと共に始まる=無知の知
    問題を抱えている当事者は支援を受ける側
    全ての答えを得ることはできない

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    2019年07月31日
  • ウォーキング・ディザスター(下)

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    「ビューティフル・ディザスター」を読んでいたときはトラヴィスの行動が少し理解できなかったりしたけど、いざトラヴィス目線で見ていくと今度はアビーの行動がたまにわからなくなるから不思議 共依存に近い関係かもしれないけど、それでもここまで愛してるって言い切れる相手に出会えることって少し羨ましい

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    2019年06月05日
  • ウォーキング・ディザスター(上)

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    「ビューティフル・ディザスター」のトラヴィス目線のストーリー 全く同じ物語でも違う登場人物の目線から見ていくと少しずつ見え方が違ってくるので面白い

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    2019年06月05日
  • 愛されすぎたぬいぐるみたち

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    絵本の「こんとあき」や映画「トイ・ストーリー」を思い出さずにいられない…。
    そしてウチの娘の20年来の友、オカピのぬいぐるみも。
    ボロボロになってクタクタになって、ゴミにしか見えないコもいるけど、それが愛されてきた証拠だと思うとこんなに幸せなぬいぐるみたちはいないだろう。
    解説も載ってるけれど、写真だけでもこの子たちの歴史は胸にジンとくる。
    たかがぬいぐるみ、されど。
    ボロボロになった分、持ち主の子の心を果てしなく豊かに育ててくれたであろう功労者(^^)。
    眺めるだけでなんだかうるっとしてしまう。

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    2019年04月19日