あらすじ
・誰もが高くてまずいと思うレッドブルはなぜ人気なのか?
・ホテルのドアマンをクビにしてはいけない理由とは?
・なぜ広告キャンペーンにアヒルを使うべきなのか?
・商品名を変えるだけでなぜ売れ行きが変わるのか?
人は客観的な品質(味や価格、量)ではなく、シグナル(小さな青い缶)によって、意思決定をしている。
製品ではなく、私たちの見方を変えることで、「錬金術」は人々の心の中に価値を生み出すのだ。
ロジックやスプレッドシートが成功をもたらすことはないのである。
世界的な広告代理店であるオグルヴィの英国支店の副会長で、アメリカン・エクスプレスやマイクロソフトなど、さまざまな企業と30年以上にわたり仕事をしてきた著者が、最新の科学や多くのケーススタディ、心理学の知見をもとに、不可思議な人間の行動を読み解く!
広告やマーケティングの鍵となる、「心理(サイコ)ロジック」、「コストリー・シグナリング」、「焦点錯覚(フォーカシング・イリュージョン」、「アフォーダンス」「自己プラシーボ」「心理物理学」などの、重要な概念も余すところなく伝授!
ロジックのみではヒット商品は生み出せない。
ヒットを生むには、心理学や行動学を応用した錬金術(マジック)が必要である。
巧みなブランディングは商品のヒットにつながるだけではなく、様々な社会政策の推進にも役立つ。
人生やビジネスにおける多くの局面で参考になる、ものの見方を教えてくれる一冊だ。
現代社会において重きを置かれているロジカルシンキングやエンジニアリングとは別の視点を与えてくれる、マーケターだけではなく、仕事のアイデアを求めている全てのビジネスパーソン必読の書。
「ページをめくるごとにすばらしい知恵が得られる。必読の書だ」――ロバート・B・チャルディーニ(『影響力の武器』『影響力の正体』の著者)
「行動経済学に関わる何百人もの人に会ってきたが、夕食で会話をしたいと思うのはローリー・サザーランドだ」――ナシーム・ニコラス・タレブ(『ブラック・スワン』『反脆弱性』『まぐれ』の著者)
「必読書。とても気に入っている本だ。すばらしい洞察に満ちている」――マット・リドレー(『繁栄』『進化は万能である』『赤の女王』『やわらかな遺伝子』の著者)
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
ロジカルではない解決案 サイコロジック
ビッグデータは過去から出ている →意思決定の数学的モデルへの過度の依存
人類は現代と異なった状態で進化してきた 行動に一貫性がない
合理的だが間違っていることがある
心理学では 良いアイデアの逆が とても良いアイデアということが可能
現実よりも認識の発展 「真の理由」
問題は 待ち時間そのものよりも待っている時間の不確実性
平均のためではなく異常値に注目する
水=何の味もしない=合理性の追求 →無味無臭なものばかりに
人間の能力は漠然とした正しさの中に存在する
脳は「広い状況」の問題を解決できるように進化した。
問題が起こるのは「狭い」考えを用いて「広い」問題を解決するとき。
実際にあるもの=物理法則 と
我々が知覚しているもの=心理学的法則 とは非常に異なっている。
価格と価値 低価格ではなく、節約感
低脂肪=おいしくない 環境にやさしい=効果減 沈黙を続けた後に発表する
イケア効果 ひと手間加えることによる知覚価値 行動を与えることで理由は自分で
人は 明確な交換条件を好む
選択肢があることを好む
命令はない自分の行動を好む
良識的なものを好む
Posted by ブクログ
この本を読めば、なぜこの本が無駄に分厚い本なのか理解できるのではないか。
行動経済学系の本を読んでいる人であれば、知っている内容も多いかもしれないが、著者の本業である広告ビジネスの事例が多くある事で納得感の強い本だと思う。
Posted by ブクログ
面白かった!人は1/4インチの穴が欲しいの"ではなく"、カッコいいドリルを買いたい。それから穴を空ける場所を探す。理だけでなく情でビジネスが動くことを経験則で皆知っているのに、なぜ意思決定においては理ばかりで判断されるのか。
AIが(当分の間)人間を超えられないのはなぜか。ヒントが随所に散りばめられている。
Posted by ブクログ
この本のここがお気に入り
「「犬が人を噛む」のはニュースではないが、「人が犬を噛む」のはニュースだというものである。意外だとか非論理的なものによって、意味は不釣り合いなほど多く伝えられる。一方、ロジカルで狭義の物事は何の情報も伝えない」
Posted by ブクログ
世界的広告会社オグルヴィUKの副会長を務め、マーケティングとP&Rの最前線で人気を博してきた著者による本。「なぜ人は不合理な選択をしてしまうのか」を説明することが主題となっている。
本書は「心理学」「行動経済学」「心理物理学」をミックスさせたジャンルレスな本だと言える。それによって消費者がとる、アンロジカルな(サイコロジカルな)行動の原因を追求する。
この分野の本はこれまでに割と読んできたのでかなり知識はある方だと思っているが、知らない概念や用語も幾つかあった。
とはいえ、アカデミックに振り切っているというわけではなく、実際のケースや著者自身の経験に基づくエピソードも多く紹介されるので読みやすくて面白い。
ただし典型的な洋書らしく冗長なところもあるので興味のある部分だけを拾い読みするのが良いと思う。
特に興味深いと感じたところを数箇所まとめる。
・単に航空便の「遅延」を知らされるか、「70分の遅延」を知らされるかでは、感じる苛立ちの感情を区別できない。無力感と、時間厳守でないことへのいらだちを区別できない。
・明確な交換条件は好感を持たれる
「これは高いですが、間もなくそれだけの価値があることがわかります」というセールストークは、悪い面をひた隠しにするよりも強力な殺し文句となる。
・税金の大きな問題のひとつは、それがどのように使われているかを教えてくれないことだ。古代ローマでは、富裕税を払った人の名前は寄付した金の具体的な使い道とともに記念碑に書かれたので、裕福な人たちは喜んで支払った。
余分に税金を払った事実を示すために車に貼るステッカーを配布することにしたら、さらに多くの人がそうするはずだ。
人は必ずしも自分の気分や感情をロジカルにコントロールできるわけではない、多くの場合それを左右するのは不合理な仕組みである。
我々はそれを直すことを求められているのではない。それは不可能だ。しかし数%でもそれを自覚することで変わることもある。
Posted by ブクログ
日本のインターネット広告費がテレビの広告費を抜いたのが2019年。アメリカでは2017年に抜き去っています。デジタル、デジタルと草木もなびく流れの中での本書です。著者はオグルヴィUKの副会長、出版されたのが2019年なので、最初はなんとなくレガシー系広告会社の「あがきの叫び」かな?と思ったのですが、一貫してクリエイティビティについての主張でした。それは「非合理のススメ」。もちろん,その中でデジタルマーケティングにも英国っぽい皮肉をカマしてしますが。たとえばP480「テレビコマーシャルをバナー広告と異なるものにしているものは何か?私には次の3点が考えられる。1.テレビコマーシャルの製作は高額で、放送枠の購入にも費用がかかることが知られている。2.テレビコマーシャルは大勢の人に向けて放送され、自分が見ているコマーシャルを他の多くの人も見ていることをみんなが理解している。3.自分のメッセージを見る相手を広告主がほぼ管理できないことが知られているー言い換えると、広告主は自分が約束する相手を選べない。もし、広告という活動が、ここにあげた3つのメカニズムを通して誰かを説得しているのならば、デジタル広告が効果的に見えるのに、現実には驚くほど効果がないことも、もっともだと思える。」しかし、著者はメディアの話をしているのではなく、論理的思考というものがいかに創造性を阻害しているのか!という主張です。人の心は、そして行動は決して理屈通りではない、と繰り返し事例を挙げつつ(その事例がまた面白い!)語ります。そのためのキーワードが「心理(サイコ)ロジック」。なので心理学とか行動経済学がばんばん援用されます。リチャード・セイラーやダン・アリエリーがどんどん出てきます。効率という呪文に苦しめられている今だからこそ、0→1の創造性の価値が上がっているのでしょう。それが、科学に滅ぼされた錬金術のにの前になるかどうかは、本書には触れられていないデータサイエンスという新しい科学との対峙の仕方によるのだと思います。テーマがテーマだけに、ロジカルな論考というより情熱的プレゼンテーションとして楽しみました。
Posted by ブクログ
欧米企業の課題解決マーケティング事例を知りたい若者向けの書。昔だったらノードストロームとかサウスウエスト航空とか。欧米のベストプラクティスを読みながら、「流石だなぁ」なんて思ったものです。本書はその2020年版でしょうか。
行動経済学が、人間は合理的行動を取らないってことを証明し始めました。そのことを、広告、マーケティングに長年携わり多くの事例を見てきた著者は、「錬金術」と呼び、ロジカルな思考からの解放を問うてます。
ちょっと前に読んだ編集工学のアフォーダンスや、アナロジカルな考えと似てます。一緒に読むと自分ごととして、実践できる気がします。
Posted by ブクログ
◾️人間の行動は背景が全て
人間という存在はかなり矛盾している。自分がいる状況や場所によって認識や判断はすっかり変わってしまうかもしれない。…
人間にとって、世界の認識は背景に影響されている。だから、人の行動に対する普遍的で背景に影響されない法則を作ろうとする合理的な試みは、ひどく絶望的なのかもしれない。
そんなわけで、もう一度尋ねよう――どうして人は列車で立たされることを嫌がるのか?だまされたように感じるせいか?なんといっても、列車の座席のために料金を払ったのだし、鉄道会社は金を取ったのに座席を提供してくれないわけだ。そうじゃないか?だとしたら、短距離の列車や地下鉄では座席なしの客車を提供するというのはどうだろう?その客車の利用者は料金の一部を払い戻してもらえるか、ためると無料で列車に乗れるポイントをもらえる。それなら人々は満足するのか?試してみることはできる。
あるいは、列車で立っているのが嫌なのは疲れるからだろうか?ただ立つだけでなく、バランスを取り続けなければならないのだ。まっすぐ立つために手すりをつかんだら、もうスマートフォンを使えないし、本や新聞を読んだりコーヒーを飲んだりできないから、列車に乗っている間は退屈になるせいだろうか。それが理由なら、尻を載せられる台をいくつかつけたら役に立つかもしれない。もしかしたら人々は荷物を置く場所がないとか、バックパックから物を盗まれると妄想しているせいで、列車で立つのを嫌がるのかもしれない。あるいは、もっと重要なステータスの問題ということもあり得る。座席についた乗客は視界がよく、個人的なスペースを確保でき、荷物を置く場所もある――一方、立っている乗客には何もない。この窮状をより有利な状態だと自分に言い聞かせられるものはないだろう。しかし、ここで明深い疑問が生まれてくる。立っていることに何か利点があるとしたら、どうだろう?言い換えると、ここに錬金術の果たす役割はあるだろうか?
想像してほしい。車両の真ん中だけに座席があり、窓に沿った両側は立っている乗客向けにデザインされた通勤電車を。座った人の席にはカップホルダーが設置されているが、ほかには何もない。立っている人は窓の外の景色を眺められ、体を預けるクッション入りの台があり、かばんやノートパソコンを置く台とUSBを充電する差込口が2つある。こうなると、立っている乗客のほうが座っている乗客よりも得なのは明らかだろう。立つことが妥協ではなく、択だと思われる――まわりの人からも、自分でも――はずだ。
このような計画は、偏見にとらわれずに愚かな質問をしたときしか生まれてこない。通勤する人は立つことが嫌だとわかっていても、理由はよくわかっていない。その人に尋ねれば、もっと座席を増やせと要求するだろうが、それには巨額の費用をかけてさらに列車の本数を増やすしかない。我々が基本的な質問をしない理由は、いったん脳がロジカルな答えを出したら、もっといい答えを探すことをやめてしまうからだ。ちょっとした錬金術を用いれば、よりよい答えは見つかるはずである。
行動経済学や進化心理学のような科学が提供する新しい双眼鏡のレンズはどれも完璧とは言えないが、少なくとも、より広い視界を与えてくれる。どんな発展にも当て推量が伴うが、さらに広い範囲で推測することは役に立つのだ。新しいレンズのおかげで、もっと心理ロジック的な視点から問題を見られる(そして解決できる)単純な例を以下にあげよう。オグルヴィ・チェンジのクライアントの1つである大手のエネルギー供給企業では、セントラル・ヒーティングのボイラーの修理やサービスの日程を顧客と修理工との間で調整している。午前か午後かということは予約できる――これ以上の正確な予定を決めるのは難しい。各訪問先でどれくらい時間がかかるかは予測が困難だからだ。顧客はこの点に不平を言っていて、こんな不満がもっともよく聞かれる。「私はまる1日、仕事ができなくなる」こういう顧客たちの本音は1時間単位で予約を取りたいということだ。しかし、彼らの要求をそのまま受け入れてそこまで正確な予約方法にしようとすれば、膨大なコストがかかるし、修理工が約束どおりの時間に行かれなくなった場合は必ず失望感が生まれるリスクがある。もっと鋭い人なら、1時間単位の予約では「まる1日、仕事ができない」という問題が必ずしも解決しないことにも気づくだろう―――たとえば、予約した時間が午後1時から2時の間なら、職場が家から近くないかぎり、在宅するためにはやはり仕事をまる1日休まなければならない。
我々がまずクライアントに勧めたのは顧客の話を聞くことだった。だが、”文字どおりに”ではなく、“横方向に”聞くようにと。予約の時間帯が長いことに人々が何らかのいらだちを示したのは明らかだが、もしかするとそれは時間帯の長さよりも、修理工がちゃんと来るのかどうかという不確実性のせいかもしれなかった。家で5時間も修理工を待ったことのある人なら誰でも、それが苦痛だと知っている。なんだか自宅に監禁されている気分だと。トイレに行くとか、1パイントの牛乳を買うためにちょっと外出するといったことができない。そんな行動をとったとたん、修理工がやってくるのではと不安だからだ。そこで、やきもきしながら半日を過ごすことになる。そもそも修理工が現れないのではないかと心配しながら。もしも修理工が訪問先に着く30分前に携帯にメールを送ってくれることになったら、そのような気持ちはどれほど変わるだろうか?突然、顧客は1日がほぼ休みになったかのように自由に過ごせるだろう。やるべきなのは携帯電話に目を光らせていることだけだ。これは試すことを我々が提案している解決策の1つだ。この方法は1時間単位で予約する方法と同じくらいよいのではないだろうか?完全なものではないが、感情や知覚を90%は向上させるかもしれない。しかも費用は1%増える程度で。古い双眼鏡で見ていてはこんな方法は生まれないだろう。顧客の不満を文字どおりに受け取ってしまうからだ。
合理的なものはあまりにもすぐに承認されてしまう。直感に反したアイデアはしばしば疑念を持って扱われるのに。業績が悪化した製品の値下げを提案してみるといい。うんざりするほど合理的な提案は何の疑問も持たれずに承認されるだろう。だが、その製品の名前を変えて売ることを提案すれば、あなたは骨の折れるパワーポイントでのプレゼンテーションだの、リサーチグループだの、多変量解析(訳注複数の変数に関するデータをもとに、変数間の相互関連を分析する統計的技法」だの、ほかにも何やかんやをやる羽目になる――それもこれも、あなたのアイデアが従来型のロジカルなものでないからだ。しかし、もっとも貴重な発見は最初、筋の通らないものなのである。筋の通ったものなら、ほかの人間がとっくに発見していただろう。そして人々から嫌われるアイデアは、好かれるアイデアよりも強力かもしれない。人気があって明らかなアイデアはどれもすでに試されているのだ。
直感に反したものを試みるべきだ誰もそうしようとしないからである。
企業や政府は毎日のように、人々が関心を持つものについて、とても単純で間違った想定をしている。アメリカの2つの大手小売業者、JCペニーとメイシーズは割引クーポンや特売を頼みにするのをやめて、単純に通常価格を引き下げることにしたときにそんな失敗を犯した。どちらの場合も、取った戦略は商業的な災厄だった。人々は低価格を求めていたのではなかったーー求めていたのは具体的な節約感だったのだ。この事態について考えられる説明の1つは、人間が心理的に張り合いたがることである。人は他人よりもよい取引をしていると感じることを好む。誰もが安い金額しか払わなくてもいいなら、ほかの人に勝ったというスリルは消えてしまう。定量化できる節約をすると自分が賢い気にさせられる一方、みんなと同じ安い金頼を払う行為は自分がケチだという気持ちにさせられるだけである。もう1つの考えられる説明は、低価格は値引きと違って、買い物というイベントの後に人々が購入品について喜びを込めた描写をする余地がないことだ――「私は33ポンド節約した」のほうが「私は45ポンド使った」よりもいいのである。
注意というものは、人が気づいているよりもはるかに多くの影響を思考や行動に与えている。ダニエル・カーネマンはエイモス・トベルスキーとともに行動経済学の父親と言うべき存在の1人である。彼が「フォーカシング・イリュージョン」と呼んでいるのは、注意を引かれるものの意味を人間が過大評価してしまうことだ。カーネマンがこう説明しているように。「そのことについて考えている間は、自分が考えているそのことがもっとも重要だ。マーケターはこのフォーカシング・イリュージョンを利用している。あるものを『手に入れなければならない』と信じ込まされたとき、人はそれによって変わるかもしれない人生の質の違いを過度に誇張する。フォーカシング・イリュージョンの大きさはものによってまちまちで、それに人の注意が引きつけられている時間の長さによる。オーディオブックよりも車のレザーシートに対するほうが、フォーカシング・イリュージョンは大きくなりやすい」
マーケティングでは、消費者をだますために対照表を利用できる。もし、車が故障したときのサービスに焦点を当てた対照表を作成する人が客観的であろうとすれば、すべての会社が提供しているサービスにおそらく50個は利点を追加できるだろう。しかし、対照表の作成者は、これらのあらゆる利点のうち、宣伝しようとしているブランドが独自に提供する小さな部分に、消費者の焦点を合わさせようとするのだ。昔の広告業界の信条だった「独自の売り(USP)」を持つことも、フォーカシング・イリュージョンを引き出す。他社にない1つの特質を提供するだけで商品はより売りやすくなる。たとえこの特徴がやや根拠に欠けるものでも、独自の特質を強調することによって、競合する別の製品を買った場合に買い手が感じそうな喪失感を増大させられるのだ。キャンプ用品はフォーカシング・イリュージョンにとらわれている間に買うにはもっとも危険なものだ。店にいるときは、完璧な気象条件で製品を使う自分を想像するだろうが、そういった天候は実際にはめったにない。第二に、購入時にこの上なく魅力的に思えた製品の特質は、実を言えば、それを使うときには不都合かもしれないのだ。たとえば、売られているときは、入りそうにないほど小さな袋にどの寝袋もきちんと収められている。しかし、長期にわたって見れば、新しくてきちんとまとめられていたときは魅力的だったかもしれないが、使用後の寝袋を袋にまた詰めることなどほぼ不可能なのだ。
私が前に述べたように、人間の脳はある程度までは無意識に、どんな決定にも交換条件があると推測してしまうものだ。もし、ある車がより安価であれば、性能はより悪いだろうと推測される。ある粉洗剤が環境により優しいものなら、より洗浄効果が低いだろうと推測されてしまうのだ。だから、「地球に優しい」として製品を宣伝するのはリスクを伴う―――地球を救おうとあまり言わないほうが、地球を救うことにつながるのではないか?私に言わせれば、環境保護運動の失敗は、人々は正しい行動をすべきだというだけでなく、正しい理由のためにそうすべきだと決めつけるせいだろう。私自身の見解はもっとひねくれていて実際的だ。人々が環境にいい行動をとるなら、その動機など一切気にしなくていいということである。
正しい行動をとれと求めたうえに、正しい理由のためにそうしろと求めるのは基準が高すぎる。英国の家庭での廃棄物リサイクリングの回収率を高めるようにという依頼があったとき、埋め立て地の増加やホッキョクグマの減少などに関する家庭の考えといった議論をすべて棚上げしようとオグルヴィは提案した。リサイクルをする気にさせる行動の原理は、考え方よりも周囲の環境に関係があると指摘したのだ。単刀直入に言うと、キッチンにゴミ箱が2つあれば、リサイクル可能なゴミを分けられてかなりのリサイクルをすることになるが、1つしかゴミ箱がなければ、たぶんそんな行動はとらないということである。「ゴミ箱1つはゴミ」というスローガンのもとで、我々はこのキャンペーンに専念した。家庭にゴミ箱を2つ以上置くことを勧めて回ったのだ――どうやって人々を環境保護運動の正会員にさせるかといった話題は避けながら。
我々はこのキャンペーンがどうせ失敗だろうと思っていたわけではないし、人々にもっと環境を意識させることをあきらめていたわけでもない――逆から考えて問題を解決していただけだ。人間の意思決定に関する従来の常識は、考え方が行動を駆り立てるというものだが、たいていの場合、プロセスが逆に働く証拠が多くあがっている。自分がとる行動が考え方を形作るのだ。ゴミを廃棄物とリサイクル可能なものとに分別する人間はそんな行動をとった結果、環境をもっと意識するようになるだろう。テスラを運転する人がその車を買ったそもそもの理由に関係なく、自分の車が環境にいいと熱心に話すのと同様に。
行動が先。考え方はそれを持続させるために変化する。