1年遅れで2021年に開催された東京オリンピック。そこでは史上最多の33の競技が実施されました。では、その33の競技をすべて挙げてみてくださいと言われたら、あなたならどんな競技の名前を思い浮かべるでしょうか?
水泳、体操、そして柔道…と日本選手がメダルを数多く獲得した競技の数々を思い浮かべる方は多いと思います。しかし、その調子で33の競技の全てを言い当てられる方はそう多くはいないのではないかと思います。そうです。近代五種、テコンドー、そして射撃…と言われてみれば思い出す競技もあります。
では、そんなあなたに質問です。あなたは東京オリンピックでも行われた『カヌー』という競技をご存知でしょうか?
ああ、『カヌー』ね、と思ったあなた。では、そんなあなたにさらに質問です。
あなたは、『カヌーとボートって何が違う』かご存知でしょうか?
さて、どうでしょう。実は東京オリンピックでは、『カヌー』の他に『ボート』という競技も行われています。『カヌー』と『ボート』、あなたは、その違いを説明できるでしょうか?
…えっ?と思ったあなた、そう、あなたです。そんなあなたにオススメしたい作品がここにあります。高校生四人が『カヌー』に青春を見るこの作品。そんな四人がインターハイ出場を目指して練習の日々を送る様を見るこの作品。そしてそれは、読者のあなたが『カヌー』から見える景色に思いを馳せることになる物語です。
『今日からここが我が家になる』と、『線香の匂いのする』祖父の家で思うのは主人公の黒部舞奈(くろべ まいな)。『ほんの数日前に』『両親の離婚が成立し』、『兄と姉はすぐさま母親と暮らすことを選択した』のに対し、『自分までもが見捨てたら、この人は一体どうなってしまうのだろう』と思う中に父親を選んだ舞奈は、『埼玉県大崎郡寄居町』という『三万四千人ほどの人』が暮らすこの町に越してきました。『ちょっとだけ散歩行ってくる』と父親に告げた舞奈は自転車で近くの荒川沿いを走り、そんな中に『流線形の小舟』に乗る一人の少女を目にします。斜面を駆け下り『すごい、ボートだ』と言う舞奈に『ボートじゃなくて、カヌーね』、『全く別物だから』と返す少女は『水面から小舟を引き上げ』ます。そして会話する中に、『秩父郡長瀞町にある私立高校』である『ながとろ高校』に進学する身であることを理解した二人は『黒部舞奈』、『湧別恵梨香(ゆうべつ えりか)』とお互いを紹介し合います。そんな会話の中で『私もやってみたい』『カヌー』をと言う舞奈は、『ながとろ高校』で『一緒にカヌー部に入』ることを恵梨香に提案します。そして、明日自転車での登校を待ち合わせした二人。場面は変わり、家に帰った舞奈は『今日ね、友達ができたの』と恵梨香の名前を伝えると『あそこの子は、ちょっと変わってるから』と祖母は口を濁します。再度場面は変わり、『同じクラスだったね』と一年一組で再会した舞奈と恵梨香。そして舞奈は『部活体験だって』と、『配られたお手製の小冊子』を開き『希望者はプールへGO』とアナウンスのある『カヌー部』のページを見ます。ホームルームも終わり、プールへ二人が向かうと、『わ、本当に人が来た』、『ちょっと千帆、その言い方は失礼でしょ』と話す女子二人が現れました。『私は部長の鶴見希衣(つるみ きえ)。で、こっちが副部長の天神千帆(てんじん ちほ)。なんと、我がカヌー部の部員はこの二人だけです』と言われ、自己紹介をする舞奈と恵梨香。そして、『カヌーって一口に言っても、種目にはいくつかの種類があるの…』と一通りの説明を聞いた後、『とりあえず二人とも乗ってみよっか』と、『練習用の服』を受け取った二人。着替え後、早速プールでカヌーへと乗り込むことになりますが、『足を入れただけで船体が大きくぐら』つく舞奈に対して、『涼しい顔でカヌーを漕』ぐ恵梨香と、対象的な姿を見せます。そんな中に『じゃ、離すね』と千帆に言われるも、あっという間にひっくり返り『うお』と呻く舞奈は、『乗れるようになる気がしない』と思います。場面は再び変わり、学校の帰り道に恵梨香から『カヌー部、本当に入るの?』と訊かれ『う〜ん』と考え込む舞奈。そんな舞奈を恵梨香は翌日の土曜日に、ある場所へと誘います。そして翌日『喫茶せせらぎ』という店に連れて行かれた舞奈はマスターの芦田から『レジャー用のカヌー』を借りる展開となりました。そして、カヌーに再び乗った舞奈は『競技用のカヌー』と違って『全然落ちない』という中に恵梨香と楽しいひと時を過ごしました。『カヌーって、楽しいでしょう?』と訊く恵梨香に『うん、楽しい』と返す舞奈は、『私、部活入るよ』とその決断を口にします。そして、舞奈、恵梨香、希衣、そして千帆という四人がカヌーに青春をかける日々が描かれていきます。
“初心者の舞奈、体格と実力を備えた恵梨香、上位を目指す希衣、掛け持ちの千帆。カヌー部女子の奮闘を爽やかに描く青春部活小説”という内容紹介が間違いのない”ザ・青春物語”を予感させるこの作品。武田綾乃さんというと、代表作「響け!ユーフォニアム」で、吹奏楽部を舞台にした”青春部活小説”の傑作が思い起こされます。そんな武田さんは、弟さんが高校でカヌーをやられていたということもあって、”カヌーをテーマにした小説ってあまり聞かないし、いずれ書いてみたいなあ”という思いをずっと抱かれていたそうです。ご自身が小学校、中学校でユーフォニアムを担当していらしたという経験に裏打ちされた「響け!ユーフォニアム」に対して、執筆への思いはあれど知識はないという中に武田さんは取材を重ねられます。そして、私たちの手元に届いたこの作品には、恐らく多くの方にとって馴染みのない『カヌー』の世界に読者がスーッと入っていけるように数々の工夫がなされています。それがわかるのが四人の登場人物の絶妙な設定です。まずはそんな登場人物からご紹介しましょう。
・黒部舞奈: 高校一年生。中学時代は水泳部でカヌーは全くの初心者。身長148センチ。両親の離婚により祖父母の家で父親と暮らす。スマホを持ちたくない。
→ 第一章、第三章、第五章で視点の主
・湧別恵梨香: 高校一年生。身長170センチ。カヌー経験があり、かなりの実力者。『喫茶せせらぎ』のマスター・芦田と親しくしている。
・鶴見希衣: 高校二年生。カヌー部部長。身長160センチ。小学校からカヌーを始める。中学二年生の妹あり。
→ 第二章、第四章、第六章で視点の主
・天神千帆: 高校二年生。カヌー部副部長。身長155センチ。小学校からカヌーを始める。農園部と掛け持ちしている。
物語では、中学時代もカヌーで大会に出場していた希衣と千帆が高校入学後にそれまで『カヌー部』のなかった『ながとろ高校』に『カヌー部』を設立する経緯も説明されており、一年目はたった二人、物語が始まる二年目にようやく舞奈と恵梨香が入部することで四人となった『カヌー部』の活動が描かれていきます。上記もしましたが、この登場人物の設定に絶妙な工夫が入っています。それが、奇数章で視点の主を務めることになる舞奈が全くの『カヌー』初心者であるという点です。このことによって、舞奈が奇数章でゼロから『カヌー』の指導を受ける過程がイコール、圧倒的大半と思える『カヌー』初心者である読者への『カヌー』の説明となっていくのです。この効果は絶大で、私も『カヌー』を全く知らない身でしたが、読み終わる頃にはその面白さがイメージできるほどになりました。
では、そんな『カヌー』について触れられた部分から少しご紹介しておきましょう。
『欧州では高い人気を誇るカヌーだが、日本ではまだまだマイナースポーツだ。競技人口も少なく、カヌー部を有する学校は限られている』。
まずはそもそも『カヌー』とは?という点に対する説明です。『欧州では高い人気を誇る』、『日本ではまだまだマイナー』という記述は、近藤史恵さんが”自転車ロードレース”の世界を描かれた「サクリファイス」を思い出しました。この世には数多のスポーツがあり、日本人が普段目にするのはまだまだその一部に過ぎないと改めて思います。一方で『カヌー』に似たイメージのスポーツとして『ボート』が挙げられます。では、この両者の違いはどこにあるのでしょうか?
『カヌーは前向きなスポーツです、ってよく言うね。見分け方としては、前に進むのがカヌー、後ろに進むのがボートって感じ』。
なるほど、これは知りませんでした。確かに公園で借りる『ボート』は後ろ向きに進みますね。そうか、『カヌー』は『ボート』と違って前向きに進んでいくもの。なるほどですが、具体的にはどうやって進むのでしょうか?
『ボートだとオールを使って漕ぐでしょ?両手でばしゃばしゃって。でも、カヌーは一本だけで操作するの。パドルって言うんだけどね』。
公園の『ボート』は両方の腕でそれぞれ持つ『オール』で頑張ります。これが『カヌー』では『パドル』という独特な形状のもの一本で頑張ることになるという違いがあるようです。なるほどなるほど。では、そんな『カヌー』には一種目しかないのでしょうか?
『カヌーって一口に言っても、種目にはいくつかの種類があるの。私たちがやってるのはスプリント。フラットウォーターっていう呼び名の通り、障害物のない水を進むスポーツだね』。
これもなるほどです。勝手なイメージで『カヌー』って渓流下りのこと?と思ってもいましたが、それは『スラローム』という全く別の競技のようです。この作品で描かれていくのはあくまで、『陸上の短距離走とかと同じ、直線距離の速さを競う競技』としての『カヌー』となります。これだけの抜き出しでもかなりイメージがついたのではないでしょうか?そして、そんな競技の醍醐味に繋がるのが『カヌースプリントという競技は、その性質からか、しばしば陸上競技に例えられる』という視点から見た競技中に選手が感じる思いについての記述です。
『マラソンのラストスパートが永遠に続く感覚、とでもいえばいいのだろうか。或いは、短距離走のスタートダッシュをゴールまで保ち続ける感覚といった方が近いかもしれない』。
上記した”自転車ロードレース”も独特な考え方の先に展開するスポーツでしたが、この作品で取り上げられる『カヌースプリント』もそんな競技が内包する競技中の苦しみの感覚がレースの場面で物語を盛り上げてもいきます。なかなかに悩ましく、それでいて絵になるスポーツを武田さんは選択されたのだと思います。
そんな物語は、初心者の舞奈が読者が『カヌー』の世界に入っていくことを助けてくれる役割を演じる一方で、スポーツ競技の面白さを演出していくのが部長でもある希衣の役割です。小学校から千帆と共に『カヌー』を始めた希衣ですが、『小学生部門で』『敵なし』という実力を発揮した千帆。『無敵の女王』として活躍してきた千帆と希衣は『相棒』としてペアを組み続けてきました。しかし、大きくなるに連れて負け始めた千帆は、『結果に固執することを止め』ていきます。『勝利に慣れていたが、敗北には弱かった』という千帆。そんな中に新しく入部してきた一年生の恵梨香は高い潜在能力を匂わせます。一学年しか違わないにも関わらず、そんな存在が全く知られてこなかったという謎を秘めた存在でもある恵梨香。そして、希衣はそんな恵梨香を見る中に一つの思いが込み上げます。
『もしも千帆が恵梨香と組めば、きっと ー』
そうです。長年ペアを組んできた千帆との関係を解消し、千帆と恵梨香でペアを組めばインターハイへの出場がより現実的なものとなるのではないかという部長としての想いがそこによぎります。物語はそんな四人が五月に行われる埼玉県の『学総体兼関東大会県予選』、そしてその先にある『全国高校総体 ー 所謂インターハイ』へ向けて練習の日々と予選へと向かっていく姿が描かれていきます。このあたりは同じように県大会を勝ち抜いて全国大会を見据えていく「響け!ユーフォニアム」と同じ構図ではありますが、八十人の吹奏楽部と四人しかいない『カヌー部』では見えてくる景色は当然別物になります。しかし、景色は異なってもその本質にあるのは”ザ・青春”を生きる四人たちの姿です。
・『もしも君と漕いで、そして結果を出すことが出来たならば』。
・『勝ちたい。自分の正当性を証明する手段が、希衣の手の中には既にある』。
そんな先に描かれていく『カヌー』に光を当てる物語。
『「Ready set go!」その瞬間、制止していたパドルが一斉に動き始めた。ブレードを水の中に差し込み、腕に力を込め、そして水面から抜き出す』。
そんな風に描かれていくレースの場面。初心者を向いた武田さんの描写はそんな熱い場面で読者を置いてけぼりにしたりはしません。『カヌー』という競技をほんの数時間前まで全く知らなかった読者をも熱くさせる武田さんの絶妙な描写によるレースの場面を経てそこに読者が見る納得感のある結末。そして、そんな物語は続編として続いていくことを匂わせながら終わりを告げました。
『自分は何になりたいのか、そして何になれるのか。その答えを、希衣はまだ見つけられていなかった』。
小学生の頃から『カヌー』の世界で友人・千帆と共に戦い続けてきた主人公の希衣。そんな希衣が新入部員として入部してきた舞奈、そして恵梨香とともにインターハイへの出場を目指して練習の日々を生きていく様を見るこの作品。そこには四人の高校生が青春真っ只中を生きる姿が描かれていました。『カヌー』のなるほど知識がとても参考になるこの作品。登場人物それぞれの明確な役割付けに武田さんの物語作りの上手さを感じるこの作品。
“カヌーという競技は、知れば知るほど面白いので、この小説をきっかけに興味を持つ人が増えてくれたら嬉しいです!”とおっしゃる武田さんの『カヌー』への熱い想いを感じる、そんな作品でした。