柴崎友香のレビュー一覧
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三人称多元視点の小説であることの仕組みと効果は本文庫の解説に述べられていて、割合と正当な批評ができるていると思ったから、その事に関しては特に言うべき事がない。相変わらず本作も技巧は冴えているように読めた。
日常を書いた小説、と誰もが雁首揃えて言うのだけど、日常の描き方にも種類がある。ただただ波風が立たなくて退屈しそうなくらいで、だけど平和で幸福な日々を淡々と書く作家に第三の新人にカテゴライズされる庄野潤三という大物がいるが、柴崎友香はそれと正反対だ。波風が立ちまくりである。
事件というほどでないが、比較的平穏な描写から急にシリアスな緊張感の支配するシーンになる、ということが本当によく起こる。そうした日々の暮らしの中で避けて通れない嫌な出来事を書かせたら、たぶん近代以降、柴崎友香より右に出る者はないのではなかろうか。普段の日常を無条件に賛美するではなく、厳しい側面が絶妙なスパイスとなっている。
あと、本作では自身が大人か否か、その自覚がテーマになっている、というのは指摘するまでもないけれど、その悩ましさもうまく書けていると思う。読んでいる最中は「あの頃の未来に 僕らは立っているのかな/すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ」という歌詞がある昔のヒットソングがあって、その曲がわたしの頭の中でかかりっぱなしだった。彼女たちは30歳という老いてはいないが、もう若くもない年齢だけども、たぶん、彼女たちが十年前の二十歳の大学生だった時に想像した、あるいは夢想した将来にはきっと立ててはいないのだろう。けれども前を向いて歩く事をやめるわけにはいかない、夜空の向こうにはもう明日が待っているから。それは珠子もかおりも夏美にも等しく訪れる明日でもある。 -
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ネタバレ主人公の春子さんとかその同期の友達が、いろいろなことを代弁しているように感じ、なんだか友達と会っていろいろ話したような気持になる本だった。
読む前は、お話の中だけでも、なんか待ち遠しいことがあるといいなーと思っていたんだけど、最後の方になって、ああ、この主人公もそう思って過ごしてる感じやなーと気付いた。結婚とか、子どもとか、大人になること当たり前にできると思ってたことがぜんぜん自動的には進まなくて、でも歳だけはとっていく。
歳を重ねることが怖くなる。
引け目を感じる現状に対して、自分の育ってきた環境とか、子どものときに親から受けた影響とか、分かってるけどいろいろと過去に原因を求めてしまう。
いや、でももっと厳しい状況の人もいるんやし、まだ幸せなほうや、思い描いてたのとは違うけど、悪くはない、って開き直るか今ここの幸せを大事にすることに集中しようとする。
答えはなさそうやけど、なんか話の続きをまた誰かとしたくなった。 -
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この小説(『小説』という鋳型に嵌め込むのもどうかと思う、解説も言っていたように連作散文詩という方が妥当)は、あえてジャンル分けをするとすればそれは心境小説という事になるかと思う。
古いカテゴライズで、有名所で言うと志賀直哉の『城の崎にて』、芥川龍之介の『蜃気楼』等々が挙げられると思うが本作はこれらをすべて千切り捨てている。柴崎友香のセンスが段違いなのだ。
同様に同世代作家も確実に差をつけられていて、保坂和志なんぞが待ってくれと言った所で、一生追いつけない位置まで柴崎友香は来たのだな、と再認識させられる傑作、怪作。
この頃で言う、心に〈刺さる、差さる〉表現がこれでもかとてんこ盛りで、文庫本でせいぜい200ページあるかないかだが、連載ものにしたってこれは書くのに相当、難渋したろうと思わせるものだ。
わかる人にだけ開かれた小説であり、わからない人には何の配慮もない小説だが、現代文学のエッジに位置する事は間違いない代物。 -
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ネタバレ幻想小説は好きだが、怪談には手を出さずにきた(たとえば平山夢明の小説は好きだが、彼の実話怪談ものには手を出していない)。
そうして読んだ本作。
筆のすさびに怪談専門誌「冥 Mei」に書いたんだろうなと少し侮っていたが、いやいや、怖い怖いマジで。
ただしおそらく実話怪談的な怖さではない。
柴崎友香がずっと書き続けてきた、記憶の不思議さ、忘却と抑圧、目の前にいない人が気になるとはどういうことか、といった事柄が、すべていちいち怪談と親和性が高いのだろう。
というか認知の曖昧さと記憶の不確かさはそのまま怪談。
語り手の体験を細切れに書くが、その感覚した事柄ひとつひとつが、認知や記憶のフィルターを通すと、もう怪談にしか見えない。ここが実話怪談との違い。
そのわかりやすい例が、入眠時幻覚すれすれの恐怖体験だ。
もはやこの作品が書かれてしまった以上、柴崎友香の過去の作品未来の作品すべてが怪談に転じ得る。
語り手≒視点人物の世界認識と文体は関連しているが、やはり柴崎友香文体が怖いのであって(奇想の藤野可織や松田青子とは路線がちょい違う。記憶や人称という点では似ているのは滝口悠生や奥泉光か)、きっとこの流れで実話怪談に手を出しても怖がれるわけではなかろう。
そういう意味では筆のすさびでは全然ない、極めて構築的な小説を読んだわけだ。
終盤に明かされるのは、柴崎友香なりのミステリでもあるし、文体の伽藍こそが怖さを生み出すのだ、とも言える。
柴崎友香の「語り手のやばさ」はなかなか言語化しづらいのだけれど、この作品はその極北。
連想。黒沢清「回路」。というか全作品。曖昧さという点で、世界の見方や感じ方が似ているのではないだろうか。
また、テレビとマンションの一室という点では、村上春樹「アフターダーク」、その流れでデヴィッド・リンチも、具体的に言えないが「テレビ的」。 -
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男やから、女やから、結婚してるから、結婚してへんから、子どもいてるから、子どもいてへんから、仕事してるから、仕事してへんから…
◯◯やから××なんやろ?って決めつけられたり、自分も無意識に決めつけてしまっていたり、そんなことから自由になれたらきっとすごい楽なんやろな。
昔と比べれば多様な生き方が認められていることは確かなのかもしれへんけど、でも物心つく前から刷り込まれているものは頑固に根深い。
決めつけられたり、自分で自分を決めつけながらも、自分が自分でいられる暮らしをひっそり守って生きている春子がとても愛おしかった。
そして、登場する人たちの関西弁がはんなりしてて気持ちよかった。 -
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『まだ夜にはなりきっていなくて、空は薄紫色が残っていた。高速道路やビルがひしめいて見通しがいいわけではないが、地上に出てすぐ川の上を走る』
柴崎友香の描く主人公はいつも、積極的に決断をすることがない。もちろん何も決めなかったとしたら日常生活は儘ならない。そういう意味ではなく、人生の中で何か転機になるような時や分岐点に差し掛かった時に、この作家の主人公は簡単に選択肢を選ばないということ。それがきっとこの作家の信条のようなものなのだと、デビュー以来読み継いで来た中で改めて認識する。その信条とは、世の中を日常的に観察し得る以上に脚色しない、ということかと想像する。それは「きようのできごと」からずっと変わることのない柴崎友香の芯のようなものなのだろうと思う。
「待ち遠しい」という第三者からの「期待」と自分自身の中のもやもやとした不安との折り合いの悪さは、何も今の世の中に特有の不均衡ではない筈。だが、それにしても近頃は結果を求めるまでの時間がどんどん短くなり、一人ひとりに求められるものの明確化、峻別化圧力が強いように感じる。多様化が叫ばれている反面、世の中の基準とでも言うようなものは画一化され、ポリティカルコレクトネスばかりが求められる。生き方の多様性、などと声高に叫ばれていなかった30年前の方がむしろ様々な人が自由に生きていたような気さえしてくる。そういう中で、柴崎友香の描く主人公は、とてもオネスト(正直、ではなく)である。そこに共感が生まれる。けれど、この共感と思ったものもよくよく吟味してみると、同じ価値観を共有しているよ、といった類の共感ではなく、同じ時代を同じように苦労しながら生きているね、という式の共感であるような気がする。価値観の一致に裏打ちされた共鳴を求めないまま、何やら捉えどころのない感情を呼び起こすことが出来るのが何より柴崎友香的文体だと思う。
この作品では今まで以上に周囲に翻弄されそうになる、あるいはされてしまっているのにそれにすら中々気づかない、主人公が描かれる。この作家の小説にしては珍しい位に様々な出来事が起こり、主人公以外の人物の色が多彩だ。それを作家の社会へのコミットが増えたからと解釈するのは少し言い過ぎかも知れないが、アイオワでの経験なども含めて、デビュー以来この作家が歩いて来た道程の健全なことが反映しているのは間違いないように思う。その健全さに信頼感が湧く。これからもきっと柴崎友香を読むのだろうな、と改めて思う。
もちろん、彼女の繰り出す大阪弁のニュアンスや、一回り異なる世代の異性の価値観など本当のところ理解し得ないとも思うけれど。と言いつつ、柴崎友香の大阪弁は案外と自然に脳内変換される。そして相変わらずの動体視力の良さにしびれる。 -
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柴崎友香さんを初めて知ったのは2015年の7月@国際ブックフェアのトークイベント。その時の対談相手、西加奈子さんとの間で交わされた(力不足で要約できないけど)その日の、降りそうで降らないお天気にちなんだ作家ならではの観察眼の話は今も覚えている。
本書はその翌年(大統領選の年のアメリカで)著者がインターナショナル・ライターズ・プログラムに参加した時のお話。
外国で、(本人いわく)参加者の中で一番英語が苦手だと言う著者が、様々な国から来た作家達と三ヶ月に渡り生活を共にすることでそれぞれの文化を学んだり、心を寄せたり。アメリカ、オハイオ州の広大さシカゴカブスの優勝の瞬間も追体験させてもらえてお得でした。 -
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『幽霊が現れたり消えたりするように、わたしにもほかの人間が見えたり見えなかったりする。人々だけでなく、世界の全体が遠のいて、虚空に投げ出されたような心地になる』
夢十夜の第一夜を彷彿とさせるような味わい。柴崎友香が踏み出した新しい境地を伺う思いがする。如何にも主人公の男性であるような男優の写真が少しうるさいような気にもなるけれど、写真が伝えるものは文章が描き出そうとするものを邪魔する訳ではない。一瞬でもなく永遠でもない。そんなふうに写真のフレームに封じ込められたものは、短篇小説の言葉の世界と良く共鳴している。
デビュー以来、作家自身と同じような世代の等身大の主人公を描くことの多かった作家が描いた怪奇譚という種はこんなふうに開花するのか。あるいはアイオワの地で受けた刺激が作家のパレットの色味を広げたのか。百年待った訳ではないけれど、その花の放つ淡い色の力がしんしんと伝わって来る。香りではない。薄い蒼の滲んた白の持つ力。輪郭も曖昧なその色と周囲の空気との交わり。ただただ拡散してゆくだけのこと。そんな小説を柴崎友香はいつの間にか書くようになっていたのだなと、苔の上に座っていた男のように気付く。傑作。 -
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『それを知っているというだけで、なにかが通じたように感じる。共通の背景を確認できれば、わかることがふえる。それはコミュニケーションの重要な要素だと思うと同時に、それはコミュニケーションなのだろうか、とも思っていた』―『It would be great』
この疑問の在り方は、とても柴崎友香らしいと思うと当時に、この作家の少し引いた立ち位置から静かに主張する様に(あるいはそれを謙虚さと呼ぶのが適切なのかも知れないが「よう知らんけど日記」から受ける印象からはそれも少し違うと思う)安心感を覚える。
海外に行くと妙に自分たちの国や文化のことが見えたような気になる。時にそれが災いして、だから○○はだめなんだ、とあたかも自分が初めてそれを指摘したかのように威張って言う人がいて、赤塚不二夫の描くところのイヤミみたいな人はきっと遣唐使の頃から居たんだろうなと妙なことを考えたりする。自分だってついついそんな風にものが分かったような口を利いてしまいがちになるけれど、そこにはきちんと裏打ちされた考察が無いことも多い。だから、さも分かったような気になったことについて何かを語りたくなった時は、よくよく考えてから言葉にした方がよい。
柴崎友香は、もともと疑問符の多い文章を書くイメージがある。あるいはオープンエンドな投げかけが多いと言い換えることもできる。そうであったとしても、初めての海外生活を綴ったこのエッセイには、これまでの作品以上に疑問符が頻発する。そしてそれは、どこか自分自身もかつて感じた疑問であったり、懐かしさを覚えるものであったりする。ああ、似たようなことを自分も東海岸の小さな町で考えたなあとか、何だかサイモンとガーファンクルの歌詞の意味がストレート沁み入って来たなあとか。果たして自分自身がそこから少しは成長できたのか甚だ心許ないが、作家にとってこのアイオワ生活は随分と自分自身を掘り下げる時間となっただろうことが見て取れる。ここから新しい視点や考え方、あるいは表現の仕方などが出て来る予感が大いにする。
『モルタダはエンジニアでもあって、石油関連の会社でも働いていて、幕張に三か月いた、と言った』―『公園へ行かないか、火曜日に』
それは多分、自分も四年程通っていたあの青い大きな施設での三ヶ月。このモルタダは国から選ばれて研修にやって来たエリートであったに違いない。その場所を知っているというたたそれだけのことで、急に分かったような気になる。もちろん、このアラビア語を話す作家の何を知っている訳でも作品を読んだことがある訳でもない。ただそこに単純な共通項を見出しただけのこと。柴崎友香が正しく疑問符を置いたように、それだけで解り合えたように感じつつ何も判った訳ではない。共通のものは互いの共通点を直ちに意味するものではない。それはその通りだが、その互いに知っているものによって作用する共振のようなもの、それはきっとコミュニケーションの根底を成すものなんじゃないかという予感はある。柴崎友香は、それを具体的に言葉にしてくれるのではないか、そんな淡い期待を寄せることができる稀有な作家であると思う。