舞城王太郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
読みながら感動した。
短編集だけど、同じテーマが散りばめられている。
正しさを押し付けること。
1作目柘榴の登場人物は、全員自分にも他人にも正しさを押し付けるだけ。
2作目で、他人に対して正しさを押し付けることの問題提起をする。優しさより正しさを先行する必要があるのか。
「結婚て、奥さんと二人で話し合ったりしながらやってくもんやろ?そのとき奥さんに対してじゃなくても、誰かに対する優しさより在り方としての正しさを求められたら辛くなってくんでないかな」
だから、「俺は優しさを発揮しなくてはならない」
勇気を出して歩き続けるところが好き。舞城だー!って感じ。
3作目で、正しさを自分に押し付けることを考える。先のことを予測して正しいことしかしない、なんて無理。だから、「俺は力を尽くさなくてはならない」
映画では先を予測する人が、現実では正しくないとわかっていても力を尽くしたいと言う、一方で映画では話を追うだけの人が、現実では先の予測ばかりしている、という対比も面白いし。
ナオって名前2回目!どういう意味?
それから不思議に対すること。
柘榴では不思議のない世界で不思議に対して拒絶をし、猿で不思議を受け入れる過程を、ため息ははじめから不思議のある世界を描く。
グラデーションになってる。
あとは3作目で気づいたのは、後悔しないこともすべてのテーマだったこと。
ため息で後悔しないって無理だから、切り捨てるのも思考停止もよくない。という話を出して。
遡れば、柘榴の人たちは思考停止で切り捨てるだけで、
猿の主人公は後悔するかもしれないけれどそれも含めて受け入れる、ができている。
愛されてなかったらしいんだよ。ふん、じゃあまあいいか。のとこも好き。
裏山の凄い猿が1番好き。
ため息はうーん、途中で何言ってるのかわかんなくなっちゃったけど、100点満点の好きじゃなくても価値があるのになと思うけれど、途中良かったので良いです。
柘榴は子育てを、妻という役割を押し付けていたことがちらちら見えて、なんか腹をたてながら読みました。
スタンダールは、はじめに恋心があり、それから相手がやってくると言っていた。
はじめに優しさを持っておきたいですね。
この作者は相変わらず天才。最高。大好き。純文学書いたら最強。
グロくもキモくもなかったから読めたけど、でも、次は失敗するかもしれなくても、他の作品も探しにいく! -
Posted by ブクログ
「愛は祈りだ。僕は祈る。」という屈指の痺れる1文から始まり、ページの隅から隅まで祈りと愛がこれでもかと詰まっている。1つの文章にこれ以上愛を詰め込むのは無理だろうと思う。
さらにこの小説は構成さえも祈りになっている。一見バラバラの短編が詰め込まれているようにみえるが、そうではない。恋人をなくした小説家の物語が一応は主軸になっており、ほかのエピソードは作中作と"しても"読めるようになっている。全ての物語は、死に行く想い人の前でなにもできない男の物語として緩くリンクしており、いずれの物語も恋人をなくした小説家の想いの発露としての読解可能であるからだ。一方で、作中の小説家の自己言及する作風とは少し違うようにもみえ、確実に彼の作品だと断言することも出来ない。この物語間の接続に「遊びの部分」が設けられているというのが肝であり、遊びの部分があるおかげで各エピソードは小説家の物語に従属するわけではなく並列した存在となりえる。この主軸から発生し緩くつながりながらも並列であるという構造は、本作が冒頭で提示した祈りの構造そのものであると言える。祈りは、"私"から産み落とされるが、私に従属せず、誰かのために世界を漂う。また、作中のエピソードに夢の壁を突破する話が出てくる。このことによってこの小説の各エピソードの間にはゆらぎが生じる。あるいは小説家の物語が、ほかのエピソードの誰かの夢かもしれないことになる。夢と現の境が曖昧になり、主体が客体となり、客体が主体となる。そして、ある種の集合的自我に発生する祈りを材料とした作中世界として境界線が合間になるとき、その小説を書いている舞城王太郎や、小説を読む私たちの今いる世界と物語の世界も並列であることになり、境界線が消滅する。人への愛と祈りを込めた小説家の作品群は、"彼"に拘束されず、『好き好き大好き超愛してる。』という物語全体に浸透し、さらにはこの現実世界のすべてを包み込まんとする。
テーマや文体、構成、小説として利用しうるすべてのものを使って、言葉を使って言葉を超えた愛と祈りを体現してみせんとし、見事に成し遂げた小説。今後並び立つ小説は書かれうるのだろうか。 -
Posted by ブクログ
怪作。
確かにジョジョではあるものの、確実にジョジョとは別の〝何か〟。ここにジョジョファンが求めるものは存在しない(と思う)ものの、そーゆーのを特に気にもしないジョジョファンである私は非常に楽しめた。
まずとにかく笑える。カーズ先輩は何かスゲーいい奴になってるし、荒木飛呂彦のキャラクターでも舞城王太郎のキャラクターでもない清涼院流水の九十九十九(あくまで同名の別人だけど)は登場しちゃうし、「ぼくのかんがえたさいきょうのすたんど」みたいなのが登場するし、各部のボス同士が戦うし、杜王町とネーロネーロ島は足が生えて動き始めるで、とにかく笑える。2022年で一番笑った小説は本作だろう。
洪水のようなアイデアも楽しい。スタンドバトルは置き去りに、個々のスタンドがあるギミックを成立させるための理論となる。「そうならこういうこともできんじゃん」的なノリで、もはやSFな現象が生じる。特にキング・クリムゾンとバイツァ・ダストの使い方が驚き。
要は本作は祭りだ。どんちゃん騒ぎが過ぎて上手くまとまっているとは言い難いものの、祭りとはそういうもんだ。とりあえず、「ジョジョとはうんちゃら」などという言説は忘れて、舞城のスピード感あふれる文体に身を預けよう。 -
Posted by ブクログ
どうしてなのか自分でもよく分からないけど、読み終わった後しばらく心に居座り続ける本がある。これもそうだった。
話は3つに分かれていて、それぞれの主人公を見守る『何か(もしくは誰か)』が物語を語る珍しい二人称の小説。
色々な解釈の仕方があるだろう。こういう不思議な掴みどころのない話は。
『これはこうだからこうなのだ』というほとんどの人が辿り着くような明確な結論はなく、悪意の近くに吸い寄せられるように現れるブラックホールのようなものの正体も、そしてその空間をいったりきたりする裸の男が誰なのかも分からない。
文章なのにそれらはわたしの頭の中でビジョンとして居座り続けるから、ついついそのことについて考え続けてしまう。
自分のやりたい道を迷わずに、ずんずん進んでいく人の物語を読むのは、とっても気持ちのいいもんだ。例えそれが、ところどころ身震いするような恐ろしい話だったとしても。
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Posted by ブクログ
久しぶりの舞城作品第二弾、本当に胸を貫く。
「ドナドナ不要論」が一番好きだった。椋子の母が、うちの母と、似てる~!!!去年結婚したこともあり、自分が膵臓がんになったら、うーん…そうなるかも。わからん。想像は無意味。舞城を大好きになったきっかけである「煙か土か食い物」の衝撃を思い出すが、苦痛は人を全く別の存在に変えてしまう、それもあれもその人でしかなくて、本当の私、とか繕ったあなた、なんてものは机上の空論でしかない。人間は他者によって認識されたそれぞれのかたちでこの世に発現するだけだ。四苦八苦、人生はほんとうにかなしいものだが、かなしみはかなしみ一色ではない。複雑でリアルな感情を想起させる作品は本当にすごいな…
泥臭く矛盾だらけで悩みながら疾走するそれぞれの登場人物に、苛立ったり愛おしかったりめまぐるしく最後には感極まって通り過ぎてしまった文字をなぞるばかり。この没入感。ほぼ1日で読み終えてしまった。いつまでも調布と西暁が登場する世界に安心する。また色々読み返したくなってきたけど、書店になかった「畏れ入谷の彼女の柘榴」を入手するところから始めなくては。