舞城王太郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
何かを読んで心を動かされるのにも2種類あって、ひとつは作品と自分の中身がマッチした心地よい心動かされ方、もうひとつは心なんか動かされたくないのに無理やりに、強制的に、ほとんど暴力的にその辺を引きずり回されるような、そんな凶暴な感動だと思っているんですけど、私の中で舞城作品は完全に後者。小説と云うより劇物と呼びたいくらいです。
で、『短篇五芒星』。
5篇全てが芥川賞候補作!と言われても文学賞に疎い私には、それがどんだけのどういう事なのかちょっと分からないんですけど、読んでみてなんかスゲー!というのは思い知らされました。
言ってる事もやってる事も推理も結婚も要は起も承も転も結も突拍子もなくて -
Posted by ブクログ
『何とかと煙は高いところが好きと人は言うようだし父も母もルンババも僕に向かってそう言うのでどうやら僕は煙であるようだった。』
『でも僕までここで一緒に泣いていたら、誰が明るい明日を運んでくるんだ?』
『ポテトチップスさえあれば全てがOK。』
『頭働かせよう、何かちゃんと考えようと思って考えるのが最近習ったばかりの受動態の構文で、ビーサプラチズドアット、ビープリーズドウィズ、ビーボーンインとか一生懸命唱えちゃって訳が判らない。ビーパンチトバイやげ俺。』
「ふざけんなって、ねー?奥さん妊娠させといてこっちも妊娠させようって、それは虫が良すぎるってもんでしょ。こっちの子宮は甘くないっつの」
-
Posted by ブクログ
「すねなんか好きなだけかじればいいけど ー 心はかじられると、痛いし、辛いし、ねえ、苦しいし…かじられた分、心ってのは削られて減るんだわねえ…」
「『吸血鬼は実在する』って書いてあったんだよ、それもキリンの脇の下に。怖くない?」
「何でそんなとこに書いてあんのよ」
「逆に、そこにしか書けなかったんじゃない?そういう情報だから」
「ああ…」
「誰かに読んでほしいとかじゃなくて、とりあえず書いておかないと、みたいな」
『架空の物語っていうのは、本当のことを伝えるために嘘をつくことなのだ。』
「ああ…正論ね。正論って駄目だよね。人の怒りとかってコンロの火みたいには消えないから、うまく騙して振り -
Posted by ブクログ
出来事→あいつらなんかこうなればいい→でもホントは違うんだ…そうだとしたらあぁなっちゃうし。だからあれなんだ。
むちゃくちゃなようで妙に説得力があるし、実際間違ったことはいってない。
表現そのものより、表現しようとしているものに含まれるメッセージが胸を打つのかもしれない。あと突拍子のないストーリーと設定とテンポ。グルーヴよりのり。
物語としては素人くさい、パンク。オチむりやり。でも読んじゃう。
わかった、作者が一番楽しんでるから、読者も楽しいんだ。
パッきゃらまどうあたりからあきはじめる。話に関係ない話を楽しめなくなってきた。しかし気づくとはまってる、くそぅ。てかほんと、何でこんな風に書け -
Posted by ブクログ
「死ぬのと、死ぬって思うのと、死んでることと、どれが一番好きか」「そんなん一番好きとかでねーやろ。どれが一番マシかって感じやろ」「バーカ。生きてんのに死んでるのと変わんねーのが一番最悪だっつーの」
『やばい。いろんなところ触ってもんで、もみくちゃにしてからいろんなふうに折り曲げてのばしてぐるぐるにして、そんでべろべろべろべろ舐めてからちんちんこすりつけたい。やっぱり写真とかテレビで見る女の子とかと違って体温があって呼吸していて匂いがあってワオー!』
『世界は穢れている。何故なら俺たち皆が穢れているからだ。』
『セックスすること、愛すること、生きること、人間が好きな全ては、結局のところ鼻ク -
Posted by ブクログ
どうして舞城節の虜になっちゃうかっていうと、例えが抜群に気持ちいいからだと思う。って書いたけどぱっと思いつかないからパラっとめくってみたけどそれでも見つからなかった。前どっかで見たのが「大人だってトトロにガバっと抱きついてがおーってしたい時もある」ってのがあって、単に「ストレスを発散させたい時もある」って書くのと比べたら感覚に訴える土着力がトトロのほうが高いのは歴然でそれが持続して読書中飛びっぱなしだから読んでいる間は一種のアッパーになってる。リーディングハイ。あと発見したのが限りなく映画的な動きが見えたりする。椿の抱いている赤ちゃんに近づくシーンでは”ゆっくり近づいたが、しかしそれはもう走る
-
Posted by ブクログ
「事実や真実は常に隠されている。隠れている。それらを知るには探さなくては駄目で、探し始めるには疑いが必要だ。それがどこにあるのか?それはどんな姿をしてあるのか?それはどうしてそんな形でそこにあるのか?そうやって疑うことを生業としてきて人の欲や暗部についてはより深く広く知っていると思うが、その知識の応用で別の事実や真実を知ることはまずない。別のものは別の形で隠されているので別の探し方と別の疑いを必要とするものなのだ。さらに、疑うことそのものにも際限なんてない。思いがけない発見をしたという経験が、人をより強く、新しい疑いへと駆り立てる…。隠された、隠れていた事実や真実を知ることは善きことだろうか?