舞城王太郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ元の探偵ものシリーズのトリビュートとのことですが、未読のままこちらを読んだ自分も問題なく楽しめました。
(wikiの該当キャラの項目を先に読んでおいたほうが面白かったかも?)
それを踏まえても、元小説のファンはこの内容で怒らなかったんだろうか?と心配になる^^;
●以下ネタバレ
章の順番がめちゃくちゃなところからも、この小説がどういうものかがわかる訳ですが、色々時系列を気にして頭を回転させながら読んでも、ああ、そういうことなの・・・みたいなオチだから脱力すると同時にその疲労が全部悲しみに変わるストーリー構築なので再読する自信がまだ無い。
つくもかわいそうすぎるやろ・・・
●以下ラストネタバレ
ラストの「アキレスと亀」の引用は、時間をどんどん分割していくことによってはたからみたら永遠に静止しているように見える、ということを言っていると思う。
つまりカーズ様よろしく「考えるのをやめた」のだから結局目覚めないんじゃ・・・という結論になってしまって悲しい。
ていうか元々加藤さんちの地下室から出てないんじゃないかと思うんだけど・・セシルとセリカも本当はいないんじゃないかな。
って考えると本当に悲しいのでちゃんと目覚めて現実と向き合う展開で終わってほしい訳ですがそうなるともう別の小説なので続かないんだろうなあ -
Posted by ブクログ
ネタバレ(表題作について)
小学生の「まーくん」が猫のしっぽを千切って鞄に入れているという開幕早々戦慄の走る話だが、読んでいくと「まーくん」が普通に笑うどこにでもいる小学生という事実に行き着く。気味悪がっていた主人公は、一緒に遊ぶようになり、理由はどうあれ彼を庇うまでになる。子ども時代の楽しい生活は虫を潰しても何も感じないような残酷さをはらんでいる。その意味で、主人公はあくまで普通の小学生なのだろうし、まーくんも異常と呼ぶほどのものではない。虫を潰さず猫を潰していただけだろう。
もちろん、大人になってもそれでは異常な奴として扱われるのは仕方ない。子どもというのは、互いに少しずつ異常なものを持っており、友人間でそれを見つつ見せつつ、嫌悪感を抱いたり惹かれたりしながら、それこそ熊の場所に向かうように、自分をつくり上げていくものなのかなぁと感じた。
(バット男)
主人公は、一組の男女である大賀と梶原が織りなす破滅的な共依存的恋愛関係を観察する傍観者。一応相談に乗ったりしているが、やっぱり傍観者的。・・・いや、それより余程たちの悪い存在かも知れない。
大賀と梶原みたいな破滅的な関係なりキャラクタは、小説として読んでいると非常に面白い。自分は歩まなかった人生であり(←これはどの小説にも言えることだが)、そうならなくてよかったという安心感と、デンジャラスな人生を歩んでいることへの憧憬が同時に降り注ぐ。太宰治の『人間失格』とか、西村賢太の私小説作品群とか。
主人公も、そんな気分を味わっていたのではないだろうか(p.150「あっち側の自分」とか)。ただ、主人公にとっての二人は、私にとっての小説でなく、リアルな友人である。にも拘らず、それに『人間失格』を求めたらどうなるか。二人への助言を通じて、人生を操れる立場にいたらどうか。破滅的な愛なり依存の物語を、他人を使って味わってはいないか?梶原の浮気について大賀に伝えなかったのは、そうした隠れた意図に基づいた行動ではなかったか?
変な読み方かも知れないが、これは自分自身思い当たる節があったからだ。助言という道具を使って自分では到底選ばないような選択肢を相手に強いて、相手の苦悶する表情を小説を読むように楽しんだ経験があるからだ。
ただし、他人事だからこそ、踏み出しにくいけど良い選択肢を推せるというメリットもあるといえばある。その危険な選択肢をそろそろ自分に課す時が来ているのかなと、この短編を読んで感じてしまった。単なる破滅への憧憬なのかもしれない。
(ピコーン!)
昨今ワイドショーを賑わす愉快犯というか理不尽な暴力や殺人。「誰でもよかった」「人を殺してみたかった」などなど。分からないものは怖いものだが、主人公「チョコ」はそれをブルドーザーの如く押しのけていく。恐怖はあり感傷もあるが絶望は無く、生命力をエネルギーにしてゴリゴリと進んでいく。一般的な小説と比べて明らかにノリがおかしいのだが、描かれていることは至極真っ当だし、さわやかですらある。 -
Posted by ブクログ
舞城さんの本を読んだのは実に数年ぶりで…それこそ一つの前の職場にいた頃、一番読んでいたのは大学生から社会人になりきれてない、22の壁を越えられなかった頃だったと記憶しています。
出版年の頃にはもう今の仕事だったわけですが、その時期にこれだけぶれない話しが出せるんだから本当に凄いなと。
著者の作品は大学時代の私の「最先端」であったので、今となっては少し懐かしいものがあれこれとでてくるのです。
ガラケー。某巨大掲示板。絵文字。フォントによる表現。などなど。
懐かしさと少しの痛み(恥ずかしさとか)を伴う時代感覚と、古さなんてなにものですか読んでりゃわかるでしょおもしろいって、という感覚が同時にきて、斯くして私は夜中にひとりで笑い転げる始末でした。
短編集です。
スマホとかなかったころの最先端です。今でもスマホがわかんない世代と、産まれてからこの方ネットが常時接続だった世代の、丁度合間の世代には息苦しくなるくらいの感覚です。
ラノベを息をするように消費し、全く同列にさして疑問も挟まずディケンズとか芥川とか読んでた世代がごろごろしてました。あのころはネットもゲームも読書も結構私的な経験だったんじゃないか。
だからそれをのぞき見るような本書は悲しくても笑っちゃうような短編ばかりなのです。
すっとこどっこいしょ、はすごい秀逸なんじゃないか。
冒頭のやさしナリンでは「くそがっッ…」て思いながらいろいろユルして行けそうな気になって、最後までよんでまたもどって「くそがっッ…」てなりました。
いつだって自分の掌からとびたったようでそうでないものがたりに。 -
Posted by ブクログ
背中に鬣のある成雄くんが、書道家に弟子入りしたり馬を追っかけたり変な集落に迷い込んじゃったりして走りまくる。けれど他の舞城作品に比べれば穏やかで、少しファンタジーっぽくもある。
……などと呑気に読んでいたら、さらっとグロくなってさらさらっと自分が自分でなくなってしまい、うわぁ油断した、やられた、と思った。
舞城作品の登場人物たちは、頭がよくても間違う。きちんとリスクを考えて、その上で自分の頭で物事を決定するのだが、それでも現実はさらにその上を行くのである。成雄くんが鬣を剃ってしまう場面は、彼の判断の上の予期しない間違いとして非常に印象的だ。
何をどうするか、目の前のことにどう対処するか……これまで築き上げてきた「自分」がそれを決める。しかし、その主観が昨日までと全く変わってしまったら?
過去の自分に囚われない、ということは実際に可能なのだろうか。過去の自分を失うということは、現実とのつながりを失うということなのではないだろうか。
失敗して、間違っていくからこそ、私は私でいられるのかもしれない。昨日までの自分に振り回されること。形式を失わないこと。走り続ける成雄くんは、一体どこへ行くのだろう。