舞城王太郎のレビュー一覧
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ネタバレ正しさと優しさは両立しないことの方が多いと、つくづく思った。不思議の中に優しい物語を入れ込むのが舞城王太郎の凄さ。
「畏れ入谷の彼女の柘榴」
タイトルの語呂が良くていい。でも、モヤモヤする話だった。千鶴が不倫して出来た子供を「おめでたい出来事」と言い、そこから夫婦の関係が悪くなっても「雨降って地固まる」とか言っちゃうのも、イライラしてしまったが、「どのようなバカにも存在意義があって、この世の中の幸福につながるチャンスがそれなりにあるんだという俺の祈りが叶いますように」という優しさはなくてはならないような気がした。
「裏山の凄い猿」
「困っている人を助けようって気持ちがなくなったら社会は終わり」っていうのは、誰に対してもそうで、「柘榴」でもあるようにたとえ相手がバカだとしても人の助けがないと社会は終わってしまうと思う。「全てのお話は寓話であって、教訓や警句に満ちているのかもしれない。でもそれを打ち破るのも物語のあり方で、寓意なんかに気持ちをこなされないように、気を張って生きるしかないのだ。」というのは、舞城作品の全てに言えることのような気がする。
好きな人を求めて「絶対に、どこかにいる。」というラストは清々しくていい。
「うちの玄関に座るため息」
鷲田清一の「支え合うことの意味」の寓話のようなお話で、個人的に一番好きだった。人は持ちつ持たれつで、どんなに気をつけていても他人の負担になることはあるし、それを自覚すべきだと思う。これは前々から思っていたことだけれど、さらに「後悔を引き受ける」という考え方がいいなって思った。「後悔しないように生きる」という言葉は聞こえはいいけれど、「後悔しないこと」が目的化されてしまうと、後悔したくないがために考えを辞めてしまったり、行動しなかったりする場合も確かにあるなと思った。自分の後悔も相手の後悔も全部引っくるめて受け入れることが本当の優しさなんだろうな。 -
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密度の濃い文章で、スピード感ある展開。
タイトルは、祖母の死に際の言葉
「人間死んだら、煙か土か食い物や」から。
とても印象的で収まりの良いフレーズなので、どこか古典に出所があるのかと思いましたが、舞城さんの創作のようですね。
アメリカで働く腕利の外科医四郎。本人は、神の一人とまで言う。そこへ、日本の実家から母親が事件に巻き込まれた連絡が入る。急遽、帰国。
久しぶりの実家で、母親も含めた5人の女性の殴打生埋め事件の犯人探し。
事件解決への見事な推理を展開しつつも、振り切った暴力描写に何故か溢れる家族愛。
時折、ハイテンションな軽めの会話が入るけど、作者の頭の良さが滲んでいるから認めましょう。
細かいストーリーは、もう考慮しないで良いです。
全体的に面白いって感じで、どこへ向かうかわからなかったラストも不眠症も治りそうでハッピーエンドかな?
動物占いは、すぐ気がつきましたが、あれは、算命学の一術式からの発想らしいですよ。算命も占星術と言われれば、そうなのだけど。 -
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舞城王太郎作品では、感動と切り離されているようでいて人とは別の道で誠実さや愛にたどり着く主人公が多く登場するが、本作の主人公たちの世界や人間に対する興味のなさはかなり徹底していて突き放されているような冷酷な印象を受ける。特に「やさしナリン」や「あまりぼっち」「真夜中のブラブラ蜂」の主人公たちは冷たい印象で、「興味ないけど幸せになってね」ではなく「興味ないから」でおしまいにしてしまうようなタイプ。小説を読みながら彼らの思考に触れているとだんだん息苦しい気持ちになる。
最後に収録されている「美味しいシャワーヘッド」という短編がそういう行き場をなくしている息苦しさの逃げ道を作ってくれるような話になっている。本作の収録作のなかで唯一「自分はなにかを失っているのかもしれない」と気づく主人公で、ただ気づいたところでお話が終わる。話の構成としても太宰治でよくある感じで、ほぼ繋がりのないバラバラのエピソードがなんとなく同じ主人公の話としてひとつの題名のなかに収められていて、気の抜ける感じがある。 -
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舞城作品の中で特に好き。
これまでの舞城作品では、どこかしらファンタジー的だったり、SF的な要素があったが本作はそういったものがほぼない。かなりリアリティラインが高く
設定されている。本作の主人公は、ひたすらうじうじ悩むタイプ。卑屈さこそないけれど、自分で考えを広げた先から否定してその先に進もうとしない思考回路は、ドストエフスキーの『地下室の手記』を思い出した。序盤で登場する「夜の闇の中で、線路に沿って歩いていこうとするんだけれどその先がどうなっているかわからないといって引き換えしてしまう夢」は象徴的。そういった「象徴的な闇」に向かっておそるおそる一歩を踏み出すまでの、主人公の成長を描いた小説だった。 -
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元々は『みんな元気。』という単行本で出版されたのが、文庫化にあたって『みんな元気。』と『スクールアタック・シンドローム』に分冊されている。『みんな元気。』の収録作は「みんな元気。」「Dead for Good」「矢を止める五羽の梔鳥」。『スクールアタック・シンドローム』は「我が家のトトロ」「スクールアタック・シンドローム」に書き下ろしの「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」だ。
電子書籍で全部読もうとすると『みんな元気。』は単行本版で電子書籍化してしまっているので『スクールアタック・シンドローム』(文庫)は「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」を読むためだけに買うことになる。もう少しどうにかならなかったのかと思うが、この「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」がかなりの良作で、この一編を読むためだけに買っても後悔はないと思う。人によっては「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」をベスト舞城に挙げる人もいるとか。
以下「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」についての感想(ネタバレあり)。
「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」が舞城作品の中でも際立った作品であることは間違いない。どこが際立っているかというと、この短編では主人公に純粋さ(自分の感情に正直で屈託のないこと)があるにも関わらず、ことが解決せず終わる。私は舞城作品をようやく半分くらい読んだところだが、少なくとも「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」までの作品で、このような結論をとった作品はなかった。舞城作品では共通して、自分の感情に正直であることが重要視される。自分の偽りなき感情や、ときに偽らざるを得ないという心情を、受容することで主人公は問題を乗り越えていく。ときには殺人事件などの不可逆的破壊によって、一般的に平和と呼ばれるような理想的な状況に回復しないまま終わることもある。それでも、舞城作品の主人公たちは、どうしようもないことを受容することで、ニュートラルに、自分の人生を生きるすべを見つけていく。「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」は今までのそういった純粋性至上主義に対するアンチテーゼのような作品だ。そもそもが死の悲しみやままならないことへの足掻きに対するアンチテーゼとして舞城王太郎作品はあったけれど、今作はそのさらに揺り返しをやろうとしている。「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」では主人公はステレオタイプ的な恋愛や友情を脱して、ただ相手を大切にする想いを「友情」として再定義して、杣里亜を壊そうとする家族から彼女を救い出そうとする。しかし力及ばず、諦めざるをえない。そこで諦めるしかできないことにも真剣に向き合おうとする。ここまでは舞城作品的主人公のあり方なのだが、そこからこの作品では、主人公と杣里亜の関係が自然消滅してしまう。そして、主人公は、どこかそのように関係が遠ざかってしまったことを受け止めきれていないように読める。「杣里亜が俺の真の友達だったことって一度でもあっただろうか?」とまで言ってしまう。その後に、真の友達なんてなくて友達は友達で、自分から遠いところにいても幸せになって欲しいと『好き好き大好き超愛してる。』の冒頭の独白に通じる"祈り"の文章へと繋がっていくのだが、「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」の"祈り"は儚い感じがする。冒頭のソマリアについての解説を回収する形で紡がれるラストの言葉は、短編小説の構造としてはとても美しいけれど、同時に諦観を帯びているように感じた。 -
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3作品とも舞城作品の中でもかなり上位の完成度。
どの物語の主人公たちも試行錯誤してたまに思い直したりを重ねながら"自分の本質"や"本意"にせまろうとしていく。そして、その果てに高度な言語化や行動化を行う姿はまるでドストエフスキーの登場人物たちみたいだ。そういった"純粋性の探求"は舞城作品ではかなり頻発するテーマ、と言うよりも作家性と言うべきものかもしれないが、本作ではその結末に"この部分は考えたけどよくわからん"というのが見つかる。そして、それを"これ以上は解き明かせないもの"として受け入れることを選択するという意味で、さらに一段上の純粋性に到達していると言え、その誠実さに打ち震える。 -
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青春カケル殺人事件
冒頭の、肌を搔きむしって全身が乳首のやうになるシーンは、なかなか想像するとグロテスクだ。
下品でくだらなくて気色悪いのだが、最後まで読むと、まあめちゃくちゃでヘンテコリンな小説だけど、アリかなといふ気がしてくる。
登場人物はみんなどこかをかしい。けれど、まあツバキエノキ魅力的だしアリかな。連続殺人もバカミスすぎてアホらしい。けど、ここまで飛ばしてると、全体と調和してるしまあアリかな。で、最後もよく書けてゐる。
いままで読んだ舞城王太郎のなかでいちばんおもしろかった。
たとへばツバキさんが屍体を使ってしてしまったことが、たいへん狂ってゐる。度肝を抜いた。しかしそのイメージがいつまでも頭から離れない。鮮烈なイメージ。
笠井潔氏は、かつて日本推理作家協会賞の短篇部門に舞城氏の「ピコーン!」が候補になった時(2003年)、かう評した。《ミステリとしての歪みや撞着にかんして作者は確信犯であ》る。つまり、わざとこのやうなバカバカしい書き方をしてゐるといふことだ。舞城氏の作品が一貫してこの傾向にあることは、作品を読めば明らかだ。
さて、氏は小説にモチーフやパロディを用ゐる人だ。たとへば、デビュー作の『煙か土か食い物』は、尾崎真理子氏の指摘の通り、大江健三郎の『万延元年のフットボール』でした。また、短篇「熊の場所」と『阿修羅ガール』は、神戸連続児童殺傷事件がモチーフです。『ディスコ探偵水曜日』はさまざまなパロディが仕込まれてをり、西尾維新やそのほかに留まらない。
さう考へると、この『世界は密室でできている。』もなにかしらのものが根底にありさうな気がする。
(どうも私はまた大江健三郎の『万延元年のフットボール』なんぢゃないかと、根拠薄弱ながら思った。なんたって『万延元年のフットボール』は、《この夏の終りに僕の友人は朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死したのである。》といふ、度肝を抜く文から始るから。) -
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人を愛することの美しさ、切なさ、儚さがぎゅって詰められた話だった
愛する誰かを亡くしたことはまだないけど、この前大好きだった人に振られてとんでもない地獄を味わったとき、死別って耐えられないよなって感じたのを思い出した
でもやっぱり人は生きていくんだなっていうのは共感。どんだけ辛くてもいつかは記憶になってしまう日が来る、それがいいことか悪いことかはわからないし、誰かが決めるようなものでもない
好きって気持ちって不思議だよなあ
永遠なんてないって思いつつもそれを信じたいくらい好きと思える人に出会えた奇跡を噛み締めたいし、ずっとそういう恋愛をしたい
常に好き好き大好き超愛してる!って思えるように胸張って生きよう