舞城王太郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
背中に鬣のある成雄くんが、書道家に弟子入りしたり馬を追っかけたり変な集落に迷い込んじゃったりして走りまくる。けれど他の舞城作品に比べれば穏やかで、少しファンタジーっぽくもある。
……などと呑気に読んでいたら、さらっとグロくなってさらさらっと自分が自分でなくなってしまい、うわぁ油断した、やられた、と思った。
舞城作品の登場人物たちは、頭がよくても間違う。きちんとリスクを考えて、その上で自分の頭で物事を決定するのだが、それでも現実はさらにその上を行くのである。成雄くんが鬣を剃ってしまう場面は、彼の判断の上の予期しない間違いとして非常に印象的だ。
何をどうするか、目の前のことにどう対処するか……これまで築き上げてきた「自分」がそれを決める。しかし、その主観が昨日までと全く変わってしまったら?
過去の自分に囚われない、ということは実際に可能なのだろうか。過去の自分を失うということは、現実とのつながりを失うということなのではないだろうか。
失敗して、間違っていくからこそ、私は私でいられるのかもしれない。昨日までの自分に振り回されること。形式を失わないこと。走り続ける成雄くんは、一体どこへ行くのだろう。 -
Posted by ブクログ
ぼく・わたしの未来が詰まった現在進行形ポップ純文学短篇集。
舞城王太郎従来のアクの強さは満載ながら、とてもまとまりのよい短篇集。なので、「これは素晴らしいなぁ、舞城王太郎を人に薦めるならこの本からと言いたいな」と思っていた。そしたら最終話の「ピコーン!」でいやいやいやいや、これ人に薦めたら駄目だ、となる。
もう、舞城さんなんなの~(笑顔)、こんなの人に薦められないじゃん~(笑顔)。
勢いに飲まれるキュートな最終話も素晴らしいが、1話・2話収録作もたいへんスマートで唸る。舞城王太郎は軽快ながらもある種の泥臭さがあり、そこが魅力でもあり時にくどくもあるのだが、この2作はそこのところを「書きすぎて」おらずテーマで非常にバランスよくまとめている印象を受けた。
特に表題作にもなっている「熊の場所」は、一読したら何度も思い返す人もいるテーマではないだろうか。
自分の感情と記憶の居場所を普遍的なものにする、それもまた物語の力だなぁと思う。 -
Posted by ブクログ
表題作は、まるでコマ割りのない漫画を読んでいるような文章だった。舞城さんの文章は思考と理屈と情景が感覚的なのが魅力だけど、特にこの作品はその境界線が限りなく曖昧である。
けれども、読んでいて理屈は理屈とわかる。
個人的には、「みんな元気。」は非常に身につまされる話だった。選択しなかったということも、選択に含まれること。
人生は一度きりで、やり直しはできない。<私>以外の人生を<私>が生きることだって、不可能だ。
私たちは生きている限り選び続けなくてはならないし、たとえ選ばなかったとしても、否応なしに人生は続く。失敗しても、間違っても……家族が家族でなくなってしまっても。
平行世界が文字通り同時進行で描かれる場面は圧巻である。それは存在しえたはずの世界であり現実なのだが、<私>の体は一人なのだ。いつだって現実は、経験と感情に振り回される。
「Dead for Good」もとてもよかった。現実に振り回されながらも、何が自分にとってリアルなのか、何を自分は選択していくのかに向き合っている作品なのではないかと思った。
でも、「矢を止める五羽の梔鳥」は全然わからなかった(笑)。 -
Posted by ブクログ
この本収録の、「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」を読んで、おおいに頭を抱えた。この後味の悪さ。優しさ。無力感。
自分の生きている世界こそが現実なのに、その現実はなんとグロテスクで即物的なのだろう。私達はこの現実に対して、どうやって立ち向かえばよいのだろう?
「でね、あんたが言うの。どんなに綺麗な夕日よりも私の人生は美しいんだから、そんなちっちゃい夕焼け空なんて拝んでないで生きようぜって」
でも、どうして守りたいものを守れないの? どうして助けたい人のことを誰もが助けたいと思わないの? 私のこの気持ちも嘘で、ただの偽善=ポーズなの?
なぜ物語が必要なのか、どうして私達は物語るのか、それは想像ということそのものが一種の救いであるからかもしれない。このお話の恐ろしい事実はただ事実として繰り返される。何度も繰り返されて、主人公はそれを止めることができない。
けれどなぜこんなにグロテスクでめちゃくちゃな物語が切ないのか、それはイメージの美しさがあるからだ。この短編の「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」という素敵なタイトル、ソマリアという紛争の絶えない地域の国旗になぞらえて終わるラスト、杣里亜が語る死後のソマリア(?)で見る夕日の情景……それらは現実には存在しない。みんなイメージで、実際に「起こった」とされていることではない。作中人物が想像上で思ったり見たり体験したこと、あるいは読者である私達が受け取ったイメージである。
けれどもそれがこの陰惨な物語を美しくする。事実とは無関係であっても、無関係であるからこそ。そしてそれが想像力の力であり、救いなのではないかと思う。 -
Posted by ブクログ
舞城王太郎の作品の読後ってなぜこんなにも生きる力が湧きあがってくるのだろうか。しかも、ジワジワと…ではなく、ぐわぁぁあー!っと。エナジードリンクを飲んでも感じたことのない、この走り出したくなる気持ち。
アンビバレントな気持ち。
決定的に自分の価値を無駄にした人が、自分を振った人だ。そんな人にまだ気持ちを持っていかれること。
人間としての価値や評価に友達の数は関係ない。
正論は正すためにあるのではなく、あくまでも自分という潜水艦の周囲の状況を確かめるために発信するソーナー。
人にはそれぞれの考え方、感じ方、価値観、行動原理があるってのは基本前提として誰にでも話も備わっているのだ。お互いの違いを認めてるからこそ、そうそう本質は変わったりはしない。皆自分の思うままに生きている。
両親のこと、恋愛のこと、彼氏とのこと、そして何より弟のことを