坂口恭平のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
氏を知る人なら言わずもがなだが、主題は「モバイルハウス」でも「三万円」でもない。
住宅や住むことについての価値観、発想の転換を促すモノである。
私も今年、牛小屋を自分で改造して住めるようにしたり、その屋根をくり抜いて薪ストーブ用の煙突を設けたりした。
特に煙突は無理だと思っていたが意外と簡単であった。(まぁ今後それが原因で火事が起こらなければの話だが…)
何事も、案ずるより産むが小野ヤスシである。
横山やすしでも良い。(※ただし秋元康はノーサンキューである)
とにかく、自分の手でやってみることに尽きる。
上手くいったときの喜びや達成感はひとしおの筈だ。
もしそれで失敗しても、歯痒くでも楽しい思い出は残る。
それが業者に言い値で頼んだ場合、得られるものは満足感と優越感くらいだろうか(頼んだことがないので判らない)
もしそれで仕上がり悪かったり直ぐに不具合が出ようものなら、残るのは歯痒い思い出どろこか怨恨だけのような…
追伸
それでも、ローンを組んで家を買う理由
人間は何らかの奴隷になりたがる生き物である。
ローン地獄になれば、それ以外のあれこれは考えなくて済む。
家族のために自分が犠牲になる。
美談なり… -
Posted by ブクログ
僕の幼年時代。それは幻の時間である。
小学校よりも前、あの頃の自分がしていたこと、何を考えていたか、どうやって生きていたのか。
ほとんど記憶がない。
記憶を手繰り寄せると、最初に出てくるのは幼稚園の入口の坂の下に生えていたグミの木の実をチマチマ摘んでは食べていた記憶を思い出す。
幼いころの記憶はあいまいで、いつ俺が俺になっていったのか分からない。
だから、筆者が今でも私小説として四歳児だったときの自分を書くことができるのがすごいと思う。
読んでいると、確かに幼いころの世界は今とは違って見えていたことを思い出す。
天井の木目をいつまでも眺めていたり、ベランダから見下ろす景色と部屋の中の世界との違いを感じていたり、太陽が当たる硝子戸の桟が仕切る直線の上は明るく下は暗かったり。
あの頃の自分の世界と、今の俺の世界とでは不連続だ。
筆者は自分の世界と、周りを取り巻く世界に違和感を幼いころから感じ、その違和感を今でも持ち続けているようだ。
誰にとっても当たり前の世界に疑問を感じた末に「東京ゼロ円生活」や「独立国家のつくりかた」につながっていく。
幼いころにしか持ちえない世界が懐かしい。 -
Posted by ブクログ
都市型狩猟採集民がどのようにして生活しているかが細かく書かれており、直ぐにでもホームレスでやっていけそうな気にはなってくる。
根本的な「土地も水も誰のものでも無いので、お金を出して買わないといけないのはおかしい」と言う考えには共感できないが、「物を大切に」や「自給自足」と言う観点からは勉強になる。
【学び】
東京の大気は汚いが、2時間もすれば雨が流してくれるので、水道水より純度の高い水になる。2時間後から雨水を貯める。
電化製品はガソリンスタンドで廃棄処分された12ボルトの車用のバッテリーで動く
都市型狩猟採集民は自発的によく働く。ニートや引きこもりの人々は一度彼等の元に修行しにいくといい。自分一人で、自分のための仕事を作ることができる、と言うことを実感できる。
【読みたい】
ジャック・ケルアックの「路上」
ソロー 森の生活 -
Posted by ブクログ
・狭い居酒屋だったのが、満席になるとより狭く感じるかとおもいきや、大空間に感じる。
といった空間が膨張したり、停滞したりする瞬間のほうが、正確に測った堆積や均等に流れているはずの時間よりも真実味を感じてしまう。
・4歳から98歳までの自分の98個の鍵盤のようにズラリと横一列に並べて歩いている。
55歳の自分が何をしているのかを想像することと、10歳の時の記憶は音色こそ違えど同じ色。
・人間を機会として捉えることは「人間的」には見えないかもしれない。しかし木の枝に擬態するナナフシを思えば、人間が機会に擬態することも「生物的」な行動であることがわかる。(鬱は脳の誤作動、と捉えること)
・ルドルフ・シュタイナー:蜜蜂が飛び回る姿を「思考が飛んでいる」
今までつながるはずのなかった者同士が、蜜蜂によって交配されていく。蜜蜂にはつなげている、という意識が全く無いように、思考も自由に言葉やイメージを組み合わせ、勝手に新しい世界と戯れ始める。
・ぼくにとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話ではなく、感覚器官という扉の向にしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している。
◎現実が集団にとって飲み実態のある空間であると、気づくことだ。個人にとっては仮想空間なのである。今僕達は、この現実を個人にとっても実態のある世界だと思い込んでいる。そして、思いつきや直感といった言葉で表現されるような事柄に関しては、勘違いや妄想といって排除してしまっている。
個人にとっては、自分自身の体の中に形成された自家製の「思考という巣」こそが実態のある空間であり、現実という空間は個人にとって「錯覚」にすぎない。 -
Posted by ブクログ
前著「独立国家のつくりかた」が面白かったので楽しみにしていた。そこでいわれたレイヤーを掘り下げる本かと思ったが、しかし、どうも違う。うまく読めない。僕としては珍しく、一日数ページずつというスローペースで読んだ。
どこまで読んだかわからなくなって行ったり来たりする。ここは読んだよな、いやはじめてかもしれないな。既視感がある。デジャブを否定されて悲しむ著者に自分を重ねたりしてみる。
「しっかりと言語化されていない叫びを人々に投げかけたとしても、誰も耳を傾けないだろう。他社もまた自分だけの空間を持っているのだから。土足で入り込んではいけないのだ。現実さんともそのように接する必要がある。」
そうだ、これは僕も通り過ぎてきたことの言語化ではないか。既視感はすなわち、うまく言えなかったこと。
だが、読後は引き続き言語化出来ない自分の思考に気持ちわりー、頭いてー、という状態である。ビバ人世(なんて言葉でごまかすからいけないんだよね、わかってるよ)。