加藤廣のレビュー一覧
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秀吉も悪いが利休も悪い!
先月、新刊の平積みの本として目に入る。帯の『利休は何故切腹したのか?』が何故か引っかかり購入した。
本書を読み千利休のイメージが変わった、後書きにも書かれているが、日本人特有の判官贔屓により傲慢な成り上がりの秀吉に利休が切腹を命じられた事で理由はどうあれ秀吉悪の利休善と思ってしまう。しかし本書を読むと一概にそうとも言えない。
何れにしても晩年の利休と切腹を命じた秀吉の二人ともに出逢った頃の茶を思い出して欲しかった・・・
何事もルールやマナーなど概念的なものを規則化し文章化してしまうと、解る人には解りやすく、興味を持たない人を遠ざけてしまうのでは?と思った。
千利休の功名心により茶道は一歩、民衆から遠い物になってしまったような気がします。
因みに作中に登場する利休の妾の琉球女とは花の慶次のリサのお婆さんでしょうかね。
本当にいたんだ!?と思いました。 -
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利休が秀吉により、切腹されられた謎を解くミステリーというけれど、それほどミステリアスな話でもない。
本書では、秀吉が求めた大らかな茶の道と、「遊」なるが故やたら小うるさいルールが必要だとする利休との茶の道の路線対決という構成になっている。
ただ若い時には淫蕩三昧な生活を謳歌していた利休が、突然お茶の求道者に変化したのかが、イマイチよく分からない。
利休(宗易)が信長時代に、秀吉(当時藤吉郎)の茶の手ほどきをし、秀吉の茶の師匠として振る舞ったという描写はあるが、茶人として名声と権威を誇り、秀吉の政事にも大きく関わったというような描写は端折られている。
また秀吉が江戸を中心に関東を見て回って、家康を豊饒な関東への移封が間違いだったと後悔する秀吉の記述など、時代小説ならなんら問題はないが、歴史小説としては事実関係の検証が荒っぽい気がした。
秀吉が検知を行ったのは、家康の関東移封の後で、家康の石高が当時250万石という数字が分かっていた訳ではない。
山本兼一の直木賞受賞作の「利休にたずねよ」の方が、構成や心理描写など面白かったような気がする。
本著は、事実関係や心理描写の粗っぽさが目立つ感じがした。
ただ歴史小説ではなしに、歴史に題材(謎)を求めた時代小説に近いものだと割り切れば、全般に読みやすいし、嫌いな作家ではない。 -
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著者の「信長の棺」「秀吉の枷」「明智佐馬助の恋」は読んでいる。帯にはいよいよ最終章へとあるが、信長の遺体消失の謎は解決しているしなあ、と思いつつ頁を開く。
久し振りにサクサク読書できた。変に利休を美の探究者として褒め称えていないのが良い。秀吉の茶はもっと大らかなものでいいじゃないか、という言い分ももっともだとも思う。天下人が云うのは矛盾があるとしても。
武士の茶、利休の探究の茶、秀吉の茶。茶道といっても違うものだし、利休がその探究を押し付けた結果の衝突かな。
岡倉天心「茶の本」、藤森照信「茶室学」のことなど思い出した。
淀の方の懐妊以前の秀吉後継とか、小田原征伐後に秀吉が江戸を初め関東を見て廻っているなど、初耳の話もあった。本当なのかな。頭にメモしておこう。 -
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上下巻読み通しての感想。
「信長公記」の著者・太田牛一の視点で信長の死にまつわる謎を追う物語である。
本能寺の変後、必死の探索にもかかわらず信長の遺骸は発見されなかった。
果たして遺骸はどこへ消えたのか?
古来より戦いの勝者によって歴史書が作成された例は多い。
日本だけでなく海外でも、勝者がやがて国の覇者となり、勝者・・・すなわち覇者にとって都合の良い歴史書は数多く残されている。
秀吉も例にもれず、牛一に命じて意に沿った書を書かせようとするのだけれど・・・。
牛一という人物がやけに人間臭いのだ。
自分の信じてきた信長像から外れた情報は嘘だと信じようとせず、本来ならば後の世に残る資料になるかもしれないものに対して、思い切り私情をはさんでしまっている。
秀吉にしろ牛一にしろ、結局のところ目的の違いこそあれ「歴史を私物化」している点では似たり寄ったりではないだろうか。
時代ミステリーとしてはとても面白かった。
行方不明のままの遺骸を追い、事実として残された多くの隙間を縫うようにして構築された物語は読みごたえがあった。 -
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ネタバレ作者が「置き去りがたく、捨て去りがたく思いながら、書き残した人物」たちの短編集。
作者の思い入れが強すぎてか解説が多くて物語の盛り上がりに欠ける気もするけれど、視点が楽しくて最後までワクワクした。
信長を幼少時代から見守る平手政秀。
南蛮人に占拠された伊吹山の薬草園の謎。
秀頼に関わる只ならぬ噂の真相とは?
幕府とキリシタンの板挟みに苦渋の決断をする天草富岡城城代。
ドラマや小説ではヒーローとしては登場しない、権力に翻弄される人々から語られる、信長、茶々。
権力を手にした人間の醜さに弱々しくも立ち向かいながら、進む道を模索する。
それぞれが信念を貫いている様子が心地よいのかも。 -
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本当に教科書のように感じる!学校の教科書というわけではなく、歴史小説の教科書のような気がします。本当に入門編としては非常にいいものだと思うのですが、先読みが簡単すぎて飽きてくるときもあるのですが、いい書き手だと思います。
「神君家康の密書」
オムニバス的に短編の三作品をまとめたものだが、スポットを当てたのは京極高次・柴田勝家・福島正則の3人である。75歳デビューと遅いデビューの加藤先生ですが、読みやすく感じる。
ただ、作品とは全く違う思考が僕の場合は働くのだが、素直に描いた作品を読んでいるとどうしても石田三成が好きになってくる。律義者・忠義者、正しいことをしている人間に与えられる称号はすべて彼の肩書になるのではないかと思う。
判官びいきというわけでもなく、彼に対してはどちらかと否定的なことをというよりも間違ったこと、人望がなかったことを言われるが民に愛され秀吉に信頼を受けた人間に対しての妬みにしか感じられない。武功ではなく、人間を書き綴ったらこの時代の人間性は彼が一番かもしれない。 -
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信長の棺からの3部作を書かれた加藤氏の最新作です。昨年末に本屋さんで文庫本として山積みされているのを見つけました。久しぶりの加藤氏の新作で中身も見ていないのに感激してしまいました。
ワクワクしながら空けて読んでみると、第一章は信長の守役として名前だけは知っていたものの、信長の若いころに切腹してしまった平手長政を中心に扱ったものでした。この本を読んで初めて、信長と平手政秀との関係を知り、信長がいかに彼を慕っていたかもわかりました。
他の三章も、著者の加藤氏が述べているように、今までの三部作を書くために調査している最中に明らかになった人々が主人公になっています。とても楽しく読ませてもらいました、是非、続編も期待したく思います。
以下は気になったポイントです。
・岩倉城を居城とする守護代の嫡流織田伊勢の守(信安)、清須城を居城とする守護代の傍流織田大和守の二大系統に分かれて、上四郡と下四郡(知多含む)を分割支配していた(p13)
・屠蘇とは、酒に、山椒・肉桂・桔梗・ミカンの皮・赤小豆等の7種類の薬草をいれたもの(p17)
・尾張の守護代に過ぎない一家老に過ぎない信秀が大きな城を構えたわけは、この居城から1キロ以内に津島を領有していたから(p33)
・たわけ者とは、戯けと書き、頭の良し悪しとは違って、悪ふさげすることで、多くの場合は近親相姦を示した(p74)
・平手政秀が自害したのちに信長は変身した、3か月後には数年来の約束であった舅である斎藤道三との会見をした(p94)
・淀の方は敬語、淀君は侮蔑語である、当時、女の「君」には、だれにでも肌を許す遊君という意味があった(p174)
・富岡城が幕府の一国一条令の例外として、唐津城のほかに認められている。対岸の交易港・長崎を異国の侵入から防ぐという意味もあった(p260)
・当時の日本において明智光秀の謀反に一番理解を示したのは、徳川家。数多くの明智の関係者を迎え入れている(p279)
・江戸城内では、十万石の大名は、詰所7か所の上位二番目にあたる「大広間」に殿中席次を与えられていた(p310)
・キリスト教が、メキシコを含む中南米、アジア諸国で、なぜ日本ほどの宗教的抵抗や摩擦がなかったかという理由として、国民の識字率が低く、ほとんど無知であった。さらに、日本の武士のような幅広い知識階級が存在しなかったことにある(p324)
・島原の乱が一般の百姓一揆と異なるのは、戦う理念が明確、為政者よりも農民側が迅速で組織的、農民の兵器が充実していた、ことにある(p359)
2015年1月1日作成 -
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ネタバレ家康に関する短編集。
蛍大名と言われた京極高次の話、重要文化財で現存する高麗青井戸茶碗の名前にもなった”柴田”勝家の話、加藤清正とならび、豊臣家の行く末を最後まで気にかけていた福島正則の話の3つである。
秀吉は子をなせない胤なし男であることは噂されていたが、そんな秀吉の妻茶々が身ごもった。その茶々の夫重ねの相手は誰なのか。高次は茶々と幼馴染で、恋心を抱いていたが、父浅井長政の敵とも言うべき秀吉の妻になど何でなったのか。夫重ねの相手として噂になっていたのは、1位大野治長、2位石田三成、3位前田利長である。高次は最終的には徳川に味方し、茶々を見限ることになるが、周りからは、秀吉の温情により、功もないまま、従3位にまで昇進したので、当然、西方と思われていたようだ。徳川に味方したものの、家康は関が原の戦いで高次を助けに行けなかった。ただ、高次が、西軍大将毛利輝元の叔父・元康と、立花宗茂などの猛将の一部を引き付けておいたために、関が原で勝利を得たため、高次は3日で籠城戦に終止符を打ち開城したにもかかわらず、若狭8万5千石を賜った。
高麗青井戸茶碗”柴田”と呼ばれるその茶碗は、勝家が信長から褒美にもらったものだ。信長も茶器集めに血眼になっていたが、当時は高麗茶碗はそこまで重宝がられておらず、それがため、信長は勝家にこれを与えたのであろう。この”柴田”は、勝家がお市と最後の茶を喫するときにも用いられたようであり、現在、見ることができるその素朴な茶碗には、今も当時の悲しさが満たされているように見えるものである。明治36年にこの茶碗は見つかり、競売にかけられ、長州出身の藤田伝三郎が落札した。藤田は、維新後、藤田組を組織し、陸軍御用達の土木請負業として、西南の役で巨利を博した金満家であった。その後、昭和9年に藤田家の入札で売りに出され、12万円で鉄道王・根津嘉一郎が落札した。現在の価値で言えば3億円以上と言われる。”柴田”は日本の歴史上、最高の価格をつけた茶碗になった。