仲正昌樹のレビュー一覧

  • マックス・ウェーバーを読む

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     マックス・ウェーバー入門書としてまとめられたものですが、「それぞれのテクストがどのような意味において知的に刺激的なのか、これから学者になろうとしている人、あるいは、少なくとも、学問と本格的に取り組もうとしている人の目線、言ってみれば、「学者の卵」目線で読んでいきたい。」(p18「序」より)と著者は単なる古典の「紹介」ではなく、読者の積極的な「読み」を要請しています。こうした姿勢は内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書・青版)とも共通しているように感じます。
     本書はウェーバーの膨大な業績の中から、宗教社会学(『プロ・倫』)、政治観(『職業としての政治』『官僚制』)、社会科学方法論(『客観性』『社会科学の基礎概念』)そして学問観(『職業としての学問』)の4つの柱を設定、古典を古典として読むことの大切さを丁寧に説明しています。選択はバランスがとれていると思います。
     こうした著者の立場は、「”現代日本の直面している課題”に対する”答え”を手っ取り早く知りたかったら、西洋の古典でなく、時事ネタ本を読むべきである。古典は、予言の書ではない」(p18「序」より)というもので、人によっては突き放した言い方に反発を感じるかもしれませんが、わたしはこの姿勢には大いに共感します。
     一方で、本書「第四章ウェーバーの学問観」では「ウェーバーとSTAP細胞問題」(p200~)という時事問題を取り上げ、ウェーバーの考え方の切れ味を実演してみせているところは興味深いところです。
     個人的には、著者が本書では取り上げなかったウエ-バーの『政治論集』(ウェーバーのフライブルク大学教授就任講演から第1次大戦中・戦後の『職業としての政治』に至る身を削るような時事論文も収録されている)、『社会学・社会政策論集』(講演『社会主義』が含まれている)、さらに第一次ロシア革命に触発され取り組んだ『ロシア革命論集』といった分野について、著者の読み方を参考にしながら、読みを深めていきたい、と大いに触発されました。

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    2014年09月27日
  • マックス・ウェーバーを読む

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    著者とヴェーバー両者の深い知識と知恵が調和している。文章も小気味よく、回帰して読み返したくなる入門書。……あとがきの毒づきっぷりは謎だが。何か嫌なことでもあったんでしょうか。
    本家(?)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も近々読みたい。

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    2014年09月23日
  • 今こそアーレントを読み直す

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    この本を読む前は、アーレントについて、ナチスの全体主義を糾弾した人、ということしか知らなかった。なので、バリバリの個人主義の人かと思ってたら全く逆だった。

    物事を単純化し、画一的な思考に陥ることを嫌い、言論活動を重視した共和主義者。他者と意見を交わすことでヒトは「人間性」を身に付けていくという。

    著者はアーレントの言説を援用しつつ、近年メディアやインターネットに蔓延する、複雑な事象の単純解釈や、短絡的で画一的な思考様式や、「傍観者」が自由に意見を言いにくい風潮に警鐘を鳴らす。

    「複雑な物事を複雑なまま捉える」……なかなか難しいことではあるが、とかく物事を単純化して理解したがる自分への戒めとしたい。
    多角的に思考できる冷静な「傍観者」でありたい。

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    2014年08月19日
  • 今こそアーレントを読み直す

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    アーレントの哲学は、両端に偏らないが、かといってどっちつかずでもなく、複数性というものを主張しており、他を排除しようとする風潮を批判するもので、今の世の中では、ほとんど実現できていないが、今学ぶに値する哲学である。

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    2014年02月14日
  • 今こそアーレントを読み直す

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    ネタバレ

    面白かった。

     マルクス主義の理論では、「階級」という仕組みが生まれたことによる不自由から人類の本来的な価値を「解放」するという考え方なのに対し、アーレントは、「解放=自由」ではなく、自由とは本来、市民が物質的な制約に囚われずに「活動」している状態と考える。解放を目的とするのではなく、共同体の「共通善」を探求することにより自由が現れて来るのだ。

     貧困や障害という「不幸な人々」への共感を人間の「自然な情の発露」と見なして弱者を苦しみから救うことが政治だ、という論調は、「人間としての正しい在り方」を押し付ける排他的な価値観に繋がりやすい。

    アーレントは、そういうヒトとして生まれたことよりも、人格=仮面を演じることを、人間の条件としてより重視している。公共における役割をきちんと演じることが、よりよい政治的共同体を形成していく。法的な差別は失くすべきだが、「社会での差別を廃絶することはできない」し、「強制すべきではない」ということだ。

     そうした共通善=公共善の構築のために市民が養うべきものとして、アーレントは「判断力」を重視する。そこには善/悪の道徳的判断力に加え、美的判断力がある。この判断力は伝達可能であり一般性がある。言葉にされる「美しい」という判断には、潜在的に他者のまなざしが入り込んでいる。それが共通感覚として、自分の感情や感性を調整する作用を持つというのだ。私達が思考を内=私から外=他者へと拡げることができるのは、この「拡大された心性」のおかげであり、それによって私達は、他人とお互いの考えを伝達し合いながら、共通の価値観や思考形式を形成することができるのだという。

     判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性というラインで、アーレントは活動者=役者(actor)の視点から政治を語った。この演劇的な視点での捉え方では、「公衆=観客」の立場がより重要になる。芸術作品が芸術として成立するためには、その美を判定する「観客」が必要ということだ。

     ここまで読んで、腑に落ちた。多くの人が政治に関心を失ってしまった理由は、政治に関わる有り様から「美」が抜け落ちているからだ。道徳教育の重要性を訴える人はいても、「美醜教育」の重要性などは議論もされないのではないか?
    「美醜と善悪は分けて考えるべきだ」という人もいよう。しかし、例えば子供の価値観の形成において、この2つを切り離すことはできないだろう。「本物の美」を教えることは難しいし、それこそ自分で見つけるものだと思うが、「醜」を教えることは可能ではないだろうか?そういうことが社会から抜け落ちているような、そんな読後感を持った。

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    2014年02月09日
  • いまを生きるための思想キーワード

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    中央法の入試で動物化の項が出されていて、感動してしまった。受験後すぐ購入。大学生になって何度も読んでいる。名前がライトなので中身も薄そうだが、そんなことはない。文系のみならず理系の人も読んでもいいだろう。文系生はここらへんまで知っているか知らないかでは議論の質が全然違うのでこの本でもなくてもいいのでここらへんまでは知っておいて欲しい(結構切実に)
    筆者にはどちらにも偏らないでいようという様子がなく、冷静にキーワードに沿って説明をしつつ、さらっとつっこんで自分の意見もいやらしくない程度に入れてくるスタンスが好きだ。

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    2013年08月31日
  • 現代ドイツ思想講義

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    序盤の「啓蒙の弁証法」の解説がありがたかったです。後半の「公共」に関する考察も、最近何かと「公共」が話題になるため、大変ためになりました。

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    2013年01月05日
  • 現代ドイツ思想講義

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    いわゆる現代思想の中でも、特にドイツのそれに焦点を当てて解説した本です。

    とにかく分かりやすい、読みやすい、コンパクト、面白い――と、現代思想の入門編としてはこれ以上のものはないのではないかといってもいいレベルです。

    ただ途中、アドルノの『啓蒙の弁証法』の読み解きにかなりのページ数が割かれていて、ドイツの現代思想を均等に眺めまわしているというにはちょっと偏りがあるかも知れません。

    むかし『現代思想の冒険者たち』シリーズを読んで以来、現代思想というのはハーバーマスとクリステヴァでストップしている印象があったのですが、彼ら以降の思想動向のようなものもちゃんと解説されています。
    ドイツ現代思想の「今」が分かる本でもあるのです。

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    2012年06月24日
  • いまを生きるための思想キーワード

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    ネタバレ

    昨今において、様々な所で語られる言葉の幾つかについて、著者の考え方が書かれている。

    よもすれば、私たちはこれらについて語る時、世論のコピーになりがちなのを、改めて自分自身で考える大切さを教えてくれていると思う。

    以下、ややネタバレも含むが、この本で取り上げられているキーワードを元に、沸き上がってきた私の考えを整理してみた。

    正義
    更生なルールを追求する議論から、心の奥底にまで入ってきて導きを与えてくれるような正義論への移行

    善
    何が善かを特定しようとすれば、主体的に係わらなくてはならなくなると思う。
    日本のように、自分の立場をはっきりさせなければ生死に関わるような宗教紛争もない国では、抽象的、曖昧、日和見な態度で、善を特定しないことが身の守りなのだろう。
    確かにそれは、戦争に突き進んだかつての日本、あるいはナチスドイツのような状況を産まずには済むかもしれない。
    しかし、そのままでいいのか。
    長いものにまかれろで済んだ、高度成長期は既に過去。
    これからは、自分にとって何が善かを語らなければ、個としてどう生きるべきか、わからなくなってしまうのではないか。

    承認
    『人間関係や仕事や勉強がうまく行っているときは、自分が「認め」られているかどうかなどとわざわざ考えたりしないが、いったん「認められていない」と”気づく”と、どうなったら再び認められることになるのか、見当がつかなるなるからである。周りの人も、どうしたら、本人が認められていると確信する=自信をもてるようになるか分からない。』
    世間の大筋の流れに載っていられた時代は、周りに合わせていればよかった。今はもうそういうものはない。
    自分で自分を承認できる基準を自分の内に持たなければならない。
    それは、【質の良い読書】によるものと、私は考える。

    労働
    あくまでも金を得る手段か、社会の一員であることを示すためか、「好きな事を仕事にしている」などの喜びのためか、食べていくためと労働を切り離すべきか、自己実現を目的とするのか。
    労働というものの意味が崩壊している。
    「労働に向き合わない自分」と向き合わなければならないことに、まだ、特に日本人は、慣れていないのに、それと向き合わなければならない情勢を迎えている。

    所有
    ネットでの匿名が本名での活動か、どこまでも自分の個人情報で、他人の権利であるデータなのか。
    金銭的、物理的なものは無料シェアに移行する。
    これが、あるいは個々までが「私」というアイディンティティが不明になり、どんどん希釈されていく。
    どこに、何によりどころを求めればいいか、その答えもどんどん遠くなっていく。
    この先、どうなるのだろう。

    共感
    共感というものは、すでに食いつくされてしまったように思える。
    今のように情報がこれでもかというくらい溢れまくる様になる前は、率直な自分の「感じ方」だけがその場に存在した。
    だから共感できたのだと思う。
    しかし、今は感じる前に、というか感じる必要を忘れさせるほどの情報が溢れている。
    あまりに多いので、自分が必要と思う情報だけを選択する。
    本当に相手が困っていても、それが選択基準ではなく、自分の「お気に入り」や「いいね!」が基準なのだ。
    よほどの震災でもなければ、「共感」は不要になってしまったのだろう。

    責任
    小沢一郎氏や堀江貴文氏への裁判所や検察の対応を見ると、本当の責任追及とはなにか首をかしげてしまう。
    東電もオリンパスもそうだ。
    明らかに間違っているものを罰しようとするのではなく、単なる祭りになっている。
    責任追及ではなく、個々が「これに対してどう対処しようか」と知恵を絞り行動することもまた大切なのだが、それが欠落しても責任追及は、本当の公正さを欠いてしまうように見える。

    自由意志
    結局、完全な自由意志など存在しない。
    何かに影響され、無意識の内に選択している。
    時々、その選択について「これでいいのだろうか」と怖くなる。
    その選択や怖いという感情を承認するために、また何かを再び無意識に選択する。
    しかし、そのことを、人はしばしば、「素晴らしい自由意志」と勘違いする。
    そして、それを繰り返すのだ。

    自己決定/自己責任
    『客観的に、”自業自得の人間”と”自己決定できない状況の犠牲者”の区別をすることは可能なのか?
    あるいは、皆犠牲者か』
    区別できないこと、とことん相手のために責任を負ってでも助けることに躊躇してしまうこと。
    これは共感力の欠如とそうせざるを得ない全体主義のおかげ。
    この問題を解決に近づけるのが「ベーシック・インカム」ではないのか。
    この章で触れられているロールズの「現代正義論」を再読したい。

    「心の問題」
    『フランスの哲学者フーコーは、精神医学が元々、~社会の秩序を保とうとする法的権力の要請に対応する形で理論を形成し、犯罪者の精神鑑定などを通して司法に貢献することで、社会的ステータスを獲得したことを指摘している。正常=規範性(normality)から逸脱する異常者(abnormals)たちから社会を防衛しようとする、治安(security)に対する社会の要求が、精神医学的言説に権威を与えたのである。』
    つまり、社会のありように寄って、どういう精神が正常か異常かはいくらでも変わる。本当の基準等などないということだ。
    よく考えたら恐ろしいことになる。
    ベーシック・インカムによって、「働かざるもの飢えるべからず」が当然になったら、今の精神診断基準なんて通用しなくなるかもしれない。

    ケア
    『「ケア」が人間の生活に不可欠だという前提で、教育や訓練などを通して、家族を中心にとする身近な人同士の関係を蜜にし、支えあうべき、というような価値観を各人に-半場強制的に-植えつけようとする保守的なイデオロギーが、ケアの倫理を培養土して育ってくる恐れもなくはない。…様々な「自由」の土台を掘り崩す危険も孕んで(はらんで)いる。』
    すでにそれは起きている、だたそれが潜在化して苦しんでいるのにそれを感じないように洗脳されているか、そういう人達の声が「家族で支えるべき」という考えに抹殺されているかのどちらかである。
    どうすればウォール・ストリートのデモのように、顕在化できるだろう。

    QOL(Quality of Life)
    これからますます、医療の選択肢と情報は増える。その時にほんとうに必要なのは情報やサービスそのもの以上に、患者や患者の関係者の心の持ち方ではないか。結局それが情報を選択するのであるから。

    動物化
    昔、人間性と教養は一つだった。今は人間性、いや人間そのものがなくても、インターネット上に教養がむせ返るほど積載されている。
    教養や情報が人間を媒体とすることを必要としなくなり、独り歩きしている。
    これが人間の動物化の所以。
    しかし、これもどこかで壁にぶち当たり、結局その時代に象徴されるような生身の人間を媒体としての教養、知識の伝達が起きるのではないか。
    現代において思いつく方法とは全く違うかもしれないが。

    「歴史(=大きな物語)の終焉」
    Aさんは歴史というモチーフで自分を権威付ける物語を形成する。Bさんもやはり同じ歴史を使って自分を権威付けする物語を形成する。
    時の権威に寄って、Aが肯定されたりBがそれをひっくり返したり、さらにCが出てきたりのパワーゲーム。
    歴史なんてそんなこと。と言いたくなる。
    その歴史にも目的があって、それも終焉するということか。
    『「歴史の目的」が消失することで、「人間」が目指すべき共通の理想も消失する』という。
    その先は、ユートピアか地獄か。

    二項対立
    以下、Twitterを利用する際のガイドラインとしたい
    1)二項対立図式は、対立・論争しているかのように見える両陣営が、それぞれどのような価値観や世界観を背景にしているかを明らかにするために使うべきである
    2)感情のもつれとかそれまでの成り行き、単純な誤解・理解不足のために”対立”しているだけであって、本当に理論的に対立しているわけではない場合が多い-というより、圧倒的多数である-ことに留意すべきである
    3)したがって、表面的な言葉遣いの対立だけがら二項対立図式を描くのは避けるべである
    4)自由主義/共同体主義とか、財政再建路線/経済成長路線のように、それぞれの立場の論拠を掘り下げて考えると、必ずしも対立していないと分かる場合が多いことに留意すべきである
    5)既存の二項対立図式が誤った前提に基づくものであったと判明したからといって、問題が解決するとは限らないと最初に認識しておくべきである
    6)二項対立図式が存在するからといって、問題が解決することが、必ずしも当事者にとって不幸であるとは限らない、と認識すべきである。
    ネットなどの”二項対立”論争に参加することで、孤独を紛らわし、生きがいを感じようとしている人、有名になろうとしている人たちには、こんなことを行っても無駄だろうが。

    決断主義
    先行き不透明な時代は、決断してくれる指導者がもてはやされる。
    もやもやを払拭してくれるように思えるのからだろうか。
    ヒトラー、小泉純一郎もそうだという。
    しかし、決断を人に委ねすぎると、結局バランスを失って倒れるのではないか。
    「自分では決断しない」というのもまた自己責任において下した決断なのであると、客観的に自覚すれば、自分で決断しようという気になるのだろうか。

    暴力
    かくして、諸先生方、警察、裁判所その他もろもろは、間違った取り調べや裁判を正当化し、経済問題は人口減少のせいでどうしようともないと行って、何の手も打とうとしない。
    利権を取られたくないという恐怖心を克服して、むだな暴力を手放していただきたいものである。

    アーキテクチャ
    『”私たち”の意識は、周囲の自然的あるいは技術的環境によって既にかなりの制約をうけており、その範囲でのみ「自由」があるのではないか、と思えてくる。』
    しかし、その「周囲の自然的あるいは技術的環境」も、実は無意識の内に自分で選んでいると思うと、また違う選択肢が見えるのではないだろうか。

    カルト
    以下、私自身も留意したい
    『実態がよくわからない内から、安易に、『協議に問題があるはずだ」とか、「おかしな協議によって若者が狂気に走っている」などと決めつけるべきではない。何の科学的・法倫理的検証もないまま、「教義が悪い」という前提で、その宗教を信じる人全てを犯罪者扱いするのは、「信教の自由の原則」をなし崩しにしかねない危険な徴候だが、日本では、大学の教員やマスコミに登場する評論家、大手出版社のベテラン編集者などにも、その肝心な店が全然ピンと来てなさそうな人が少なくない。そういう人は”カルトの恐怖”を語っている自分自身が、”フリーメーソンの陰謀”並の”雑で大きな物語”にはまっていることになかなか気付かない。』

    イマジナリーな領域への権利
    この本の中で一番難しいお題かもしれない
    『「自己決定」のための基礎としての「自己」自身を再想像する(メタ)権利である』
    まず、こういう権利があることに驚いた。
    進学先、医療等、私たちは常に選択と自己決定に迫られる。
    しかし、「自己」がどういうものか、どうしたいのかが分からなければ、それに関する決定もあやふやになってしまう。
    よもすると私たちは、自己決定とは名前だけの他人や世間体からの決定を強要されたり、自己決定の機会を見過ごしてしまうことにもなりかねない。
    だから『人生の重要な場面において、他者の助けを借りながら、「私」は何を求めているのか、どうなりたいのか、「自己」のイメージを(再)形成する機会を設定して貰う権利』を顕在化させ、意識しなければならないのである。
    そうしないと、性虐待を受けた人が、ポルノ産業でお金を稼ぐ事を正当化するために、性虐待の経験を商品としてみなすということが起きる。
    これは他人から強要された価値観を間違った仕方で内在化することだ。
    この人が新しい自己決定をするためには『人生の重要な場面において、他者の助けを借りながら、「私」は何を求めているのか、どうなりたいのか、「自己」のイメージを(再)形成する機会を設定して貰う権利』が必要である。
    『今の日本では、「イマジナリーな領域への権利」が法的理論の上から払い落とされたままではないだろうか。
    これについての議論がもっと顕現化すれば、失業、貧困、格差社会、そういう人達が受ける差別などの問題に、今までと違った角度で光をあてることになる。

    人間
    倫理として、医学技術から見て、環境問題の一貫として、そして法的にも。
    一口に、「人間とはこうである」と言えなくなってきた。
    個人的には、「人間とは」の前に、質の良い読書によって自分の内に確固とした、且つ柔軟な基準を気づきたいと願っている。
    それが、「人間として私はこうありたい」というものを作ってくれるのではないかと思うからだ。

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    2012年01月11日
  • ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

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    三省堂の神田本店で行われた連続講義の記録。全部参加して、割とちゃんとメモもとってたのですが、文字化されたものを改めて読み返すと忘れている内容も多く。「歴史の概念について」の講義が特に、再発見!な内容が多かったです。索引は歴史を解放する、等。

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    2011年11月19日
  • 思想の死相―知の巨人は死をどう見つめていたのか

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     本の帯に「18歳から読める現代思想の入門書!」とあり、確かに現代思想の代表人物を取り扱っている内容だが、あくまで仲正の読みによるものであり、教科書的に概論をしているものではなく、自分の主張のためのものであることを前提にして読むべきである。平易には書かれているが決して教科書のような位置づけにはならない。
     とは言え、別に批判して難癖をつけるためにこの点を断ったのではなく、以上の点を前提にして読むと非常に著者の主張が過度にエキサイティングなものではなく且つ冷徹・慎重に展開されているのがよく分かる。
     本書では現代思想の10人の代表人物を取り上げながら、哲学・思想が<死>と不可分に結びついていることを述べつつ、「生き生きとした世界」へ回帰しようという主張がいかに危険であるかを論じている。取り上げられた各思想家は論点は違えど、彼らは「生き生きとした本来あった世界」へ戻るために、その名の下に非人間的な行為や現象が起こっている現実(よくナチスが「ドイツの本性回復のため(=ここが「生き生き」したものへの渇望)」に立ち上がったものいうことで、例示されている)に対して過敏に反応していたことが分かる。そして、哲学・思想が既存の<エクリチュール>(これが、「生身のライブ<Leben(生)>というわけではない」という意味での所謂「死(Tode)」したもの)からしか出発できない厳然たる事実を認めなければならないと警鐘を鳴らす。
     普段の日常生活の中にも「生き生き」を語るものが多いが、その危険性を十分に認識されぬままに過ごしていく問題が非常に多い。見事に人間や世界の危険性をクリアに記載された本である。

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    2010年01月10日
  • 〈宗教化〉する現代思想

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    宗教についてまったく知らなくても、
    なんとなくわかるように書かれている。
    とっつきにくい場合は、同著者の他の本を読むべし。

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    2012年04月24日
  • 「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界

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    「主体性」が発揮されるのは、ある「ルール」があってのことである。


    主体性が大事だと主張していた団体に属していただけに衝撃的だった一冊。

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    2009年10月04日
  • 「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界

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    主体とは何なのか、まるで、僕らがしっかりと持っていると思われるような「主体」。言葉を変えれば「自分」であり「自己」。僕は自分が無いなんて全然感じたことがないけれど、周りには自分が無いと他人に言われ、自らもそう言っていた人がいた。主体とは、そんな有無で語れるような、ちゃんと輪郭をもったものなのだろうか。
    そして、彼女はなぜ自分が無いと思い、僕は自分が無いと思わないのだろうか。
     僕たちは「自分」とは何なのかを深く考えたことがない。恐らく好き嫌い、快不快程度の感情のことを「自分」と思い込んでいるのだろう。そして国の指針を示すような頭の良い人たちも「自分」というものをちゃんと考察していない。つまり僕たちがなんとなくその存在を感じる程度のノリでエラい人たちも考えている。
     自由主義が旺盛になり、自己決定の風潮がでてきてから「自分」という概念がクローズアップされてきた。それは詰め込み教育からの反省であり、多様な人生選択という生き方からの要請でもあったけど、もう一つ、自由主義社会での「自己決定論」がもっとも影響しているのだろう。自由経済では「自己(自分)」をしっかり認識している人間を前提にしないと話が前に進まないから「皆さん急いで自己を持ってください」みたいな本末転倒なロジックがある。「経済活動をする自己」ならば、なんとか輪郭を描くことはできる。自らの責任による決定さえできればいいのだから。そして、情報開示という方法で必要な条件はある程度はクリアできる。でも、経済活動における「自己決定論」と生きていく上での「自己決定論」を等しく考えてはいけないと思う。そこを同一視してしまうと、翻って経済活動をするもののみが「自己」であり主体性を持ちうるという、とっても苛立たしい認識が浸透してしまうように思うのだ。
    少しでも生きていれば主体性なんてイヤでも持ってしまう。自分が無い人なんて誰一人存在しない。仮に自分が無いと言っている人がいたとするならば、それは無いのではなくただ自分を持ちたくないだけなのだ。

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    2009年10月04日
  • 日本とドイツ 二つの全体主義~「戦前思想」を書く~

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    「1870年代頃に西欧的な意味での近代国家を形成し」「国民国家としての統合→帝国主義的拡張」を目指して「西洋近代の超克を目指して全体主義制を構築し、戦争へと突入していった」共通点を持つドイツと日本。

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    2009年10月04日
  • 日本とドイツ 二つの戦後思想

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    本書は、四つの章から出来ている。「二つの戦争責任」、「国の形を巡って」、マルクス主義という「思想と実践」、「ポストモダン」の状況、の四つである。■「戦争責任」は誰にあったのか。
    なぜ日本は「人道に対する罪」に問われなかったのか。
    「普通の国民」も加害者なのか。
    「反省仕方」のドイツとの違い。
    日本の左翼は平和護憲主義の矛盾など、戦後の左右の言論の矛盾点が前提を共にするという二項対立にある不毛の度合いが大きい論議になっているという問題意識が基軸なって論じられている。■第一章には、戦後ドイツと戦後日本の戦争責任の相違が述べられている。これを論じるにはヤスパースの「贖罪論」を抜きにして論じるわけにはいかないのだろう。保守派の佐伯啓思、西尾幹二もこの問題について論じている。(1)「刑法上の罪」(2)政治上の罪(3)道徳上の罪(4)形而上の罪、の四つである。仲正昌樹が、再度これついて論じている。ドイツ国家の名によって犯した犯罪行為に対して責任をまぬかれるものではない、これが「政治上の罪」。たとえ命令されたとしても、その命令に従ったのは自分であり、その自分の行為はに対してはあくまでも道義的な責任があある、これが「道義上の責任」。例えば、他人の殺害を阻止するための対応をせず傍観していたとき、社会から責められないにしても、やはり罪の意識は持つだろう、これが「形而上の罪」。道徳的な罪が、内面的であるとしても、社会や他者に対するものであるのに対して、形而上のものは、高度に個人的な使命感や倫理感に関わる。■戦争責任について論じているが、国民凡てが悪いのか、A級戦犯が悪いのかという「二項対立」に陥る議論は不毛だとする。どこまでの責任を天皇あるいは政府首脳に求めるか、戦争犯罪に部分的に加担してしてしまった一般兵士にどの程度の責任があるのか、犯罪に加担しなかったが政府や軍の方針を黙ってみていた一般国民はどういった責任を負っているのかといった細かい議論がほとんど行われていない。■ドイツでの憲法愛国主義と国民国家、あるいは西欧型市民社会と中欧としての独自の道を巡る論争のような、「歴史と国民のアイディンティ」に関する明確な対立軸があって、お互いがそれに基づいて
    教科書の記述を問題にしているという形にはなっておらず、同じことを良く言うか悪く言うかのと言うような啓蒙主義的な押し付けがましい議論になってしまっている、というくだり等、問題意識が共有できたような気にさせてくれる一冊であった。■今後の仲正昌樹の論述を注目していきたい。

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    2009年10月04日
  • 「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界

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    中正さんの本を初めて読んだんだけど、ものすごくわかりやすい。現代哲学をやっているだけあって、脱構築しまくり。本書の半分位をハンナ・アレンとの解説に割いているが、これも秀逸。

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    2009年10月04日
  • ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む

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    後輩が勉強しているというので、ハイデガーを勉強するのに読んだ二冊目。つくづく仲正昌樹の入門書は、初心者にやさしいつくりになっていることに割と感動した。
    この一つ前に、ちくま新書の『ハイデガー入門』を読んだのだが、そちらは、『存在の時間』でハイデガーが示している概念を、プラトンやアリストテレスの概念から解釈して、哲学史的なつながりを解説するものだった。個人的には、まったくためにならなかったのだが、仲正もまず最初に、従来の入門書が、そうした哲学史的な拘りから、他の哲学者との影響関係を説明するものばかりだったことを指摘していて、前回の本への感想が、自分だけの違和感でなかったことに安心した。
    では、この本では何をしているかというと、ハイデガーの主著『存在と時間』が、何を問題にしていて、どういった結論を出しているのかを解説してくれている。その際、専門家の興味をそそるような、哲学史的な説明ではなく、テクストに即して書いてあることを解釈するという形を取っている。入門書や概説書としては、とても当たり前のような気がするが、前回読んだ入門書のイメージがあるので、非常にありがたい一冊だった。

    一番説明としてありがたかったのは何かと言われると、第一章の「何故、「主体」ではなく、「現存在」と言うのか?」が、一番かもしれない。というのも、これまで読んだ本だと、「現存在」という概念が、なんとなく特別な何かのような気がしていたのだが、この問いの立て方によって、「主体」のことを言っているのだということがわかったからだ。
    このことはけっこうありがたくて、ハイデガーの色々な概念が、実は、他の人たちと同じものを指しているのだけれども、ハイデガー特有の「存在論的」な理解から、名付け方を変えているのだということが分かった。例えば、第二章で説明されている「共現存在」なんかも、基本的には、フッサールなんかの言う「間主観性」なんかに似た概念で、ハイデガーがどうしてそういった現象を、そういった名付け方で捉えようとしたのかという視点から捉え直すことができた。この辺、一般的によく知られている哲学的な概念や日常的な例で、ハイデガーの用語を解説してくれているので、非常にわかりやすい。

    そうしてハイデガーの思想の概要が分かってみて思ったことは、自分の考えが、いかに認識論的だったかということだ。ところどころで、著者の仲正さんも、デカルト的な世界観にどっぷりと使ったわたしたちの感覚からすると〜、みたいな説明の仕方をしているが、ハイデガーの言っていることを聞くと、たしかに自分たちがデカルト的な認識の世界にいることを、ものすごく感じさせられる。ハイデガーの言う通り、存在するとはどういうことか、それ自体を考えなくなって、すべて認識の問題に還元している節が、たしかにある気がする。
    ハイデガーの哲学的な位置付けではなくて、ハイデガーの思想自体の概要を知るのであれば、新書としてはこの本一択な気がする。それくらいに、初心者に対して、ハイデガーに哲学者的な関心のない読者に対して、良心的な本だった。

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    2025年11月25日
  • 人はなぜ「自由」から逃走するのか

    Posted by ブクログ

    エーリッヒ・フロムの名著「自由からの逃走」の解説本。「自由からの逃走」を読んだ際にこれは大切なことが書かれていると感じて、こちらの本も購入してあったがしばらく積読してあった。読書会で自由について考える機会となったので読むことに。宗教改革によって自由を得た人間が、自分で自由をうまく扱うことができずに、自由から逃げてしまい、その果てにナチスのような独裁や企業優位の資本主義が生まれていった流れがよく理解できた。その点日本はどうなのか?これからも折を見て振り返りたい。

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    2025年11月25日
  • 統一教会と私

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    某YouTubeチャンネルで統一教会が紹介されていた際、この本が紹介されていたので興味を持って手に取ってみた。

    主な構成は、著者が統一教会に入信してから脱会し、その後の生活を描いたうえで、「宗教とは何か」「統一教会での体験が自分の人生にどのような影響を与えたか」について語っている。

    まず、著者の入信と脱会のきっかけである。入信のきっかけとしては、アンケートを取った際に、後で案内された原理研究会のメンバーが自分に対して安心感を与え、話を聴いてくれ、話に対して承認を与えてくれたこと──つまり承認欲求を満たしてくれたこと──が大きかった。これが統一教会に入信した主な理由であった。

    一方、脱会のきっかけとしては、世界日報(著者の就職先)の記事の方針への不信感、北朝鮮報道に対する「手のひら返し」などの変化、祝福婚のマッチング相手との教義の考え方の違い、およびその相手および信者たちの考え方に対する不信感、さらに世界日報での給与の低さや教師に対する熱意の違い、信者内の人間関係から生じる見えない将来への不安などが積み重なったこと、である。これらによって著者は脱会を決めた。

    この本を読むまでは、私自身も統一教会というものを、オウム真理教のような極端なものかと思っていたが、著者の入信および脱会のきっかけを知って、特に「人間関係」が大きな要因であるという点が強く印象に残った。まるで職場を辞めるような理由が重なっていた、という感覚である。

    この点について、著者が最終章で「宗教とは、精神的な絆を求める人たちへの共同体である」という説明をしていたが、この説明に腑に落ちた。

    今回の私の学びとしては、まず第一に、統一教会とは何かを、偏見をできるだけ排して客観的に学ぶことができたということ。第二に、傾聴の重要性をこの本から学んだということ。特にこの「傾聴」は、宗教だけでなく人間関係全般において非常に重要であると感じたので、今後も重視していきたい

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    2025年09月15日