【感想・ネタバレ】悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考えるのレビュー

あらすじ

世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか? ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起原』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。

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Posted by ブクログ

アーレントは全体主義は大衆の願望を吸い上げる形で拡大していった政治運動と捉え、大衆自身が、個人主義的な世の中で生きていくことに疲れや不安を感じ、積極的に共同体と一体化していきたいと望んだからと考えた。
ナチスを反ユダヤ主義を例にして、アレントが全体主義を考察した解説本。
今、また世界は大衆として安易な解決に飛びつき、また、「敵」を排斥しようとしている。
他者意識を認識し、議論していき、思考していくことの大事さを学んだ。
色々身につまされる話。

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2024年04月09日

購入済み

サイドにおいて

ハンナアレントの著書にトライしているが不完全燃焼。勉強不足なので、とってもためになった。今こそ考えよう

#タメになる

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2023年11月04日

Posted by ブクログ

今の日本も何となく全体主義化してるんじゃないかなぁ、と思い勉強のため購入。凄く丁寧で具体例により分かりやすく説明してくれるので助かった。
テレビでは政府への批判を聞く事もめっきり減り、政府も答えたくない質問には「回答を控える」で許される。フォアグラのガチョウの様にバラエティばかり朝から晩までこれでもかと見せられ愚民化政策が進み、「分かりやすさ」ばかりが求られる時代の危うさ。議論と言っても議論が深まる事もなく勝ち負けを決めるケンカのようなモノばかり。大衆化をヒシヒシと感じます。そんな世の中で解決策はと言えば「複数性に耐える」と言われてもムリ。実際しんどい。読み終わっても問題の大きさ深さに暗澹とする。

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2023年08月02日

Posted by ブクログ

とても読みやすい本。全体主義思想、ホロ・コーストがなぜ起こったのか、大衆の心理についてハンナ・アーレントの思想を読み解く。
エルサレムのアイヒマン(数百万人のユダヤ人の虐殺を執行した人、「法」に従ったのみだと主張した)の話に至るまでの最低限必要な知識が順を追って書かれているため、世界史に詳しくない人にもオススメ。
不安が広がると単純でわかりやすい思想に流れがちというのは現代にも通じる話。二項対立で善悪を決めつけるのではなく「複数性」を持つことが大事だと解く。アンナ・ハーレントが世間からの批判を浴びる覚悟で当時持論を展開したことに尊敬の念を抱く。アンナ・ハーレントを英雄視することもまた単純な二元論に過ぎないと釘を刺すあたりも含めて、良い論点が提示されているように思う。オススメ。

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2022年08月09日

Posted by ブクログ

ハンナ・アーレントの本を読みたかったけれど、難しそうだったので解説書から読むことにした。
アーレントの人生史や時代背景の説明をしながら、アーレントの考えについて解説されていたので、歴史に詳しくない私としてはとても読みやすかった。

全体主義の危険性を終始説いていたが、第二次世界大戦のドイツがなぜそのような思想に陥ったのか、そして現代の我々においても全体主義のリスクがかなり潜んでいることに気付かされた。

複数性に耐え、わかりやすさの罠にはまってはならないとと言われていたけれど、このマインドを維持するのは、本当に忍耐のいる作業だなと感じた。

成長は自分を傷つけることだという考えにも似ていて、常に自分の違う人の意見に耳を傾けて、特に論理的にも正しそうな意見に対して向き合っていくことが大事なのだろう。

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2021年09月20日

Posted by ブクログ

アーレントの思想を知る際に、最初に読むべき本。現代の文脈も挟まれており、分かりやすくて挫折しない。

現代社会にも見られる「排外主義」は非常に恐ろしいイデオロギーで、そのことはまさにナチスの歴史を見ればよく分かる。陰謀に惑わされ、思考をやめてしまうことがどれほど危険なことなのか、アーレントによる全体主義の考察を読めば痛感させられる。

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2021年05月06日

Posted by ブクログ

第二次世界大戦中にドイツからアメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント。彼女が執筆した『全体主義の起原』をはじめとした著書を通して、ナチズムやホロコーストを推し進める背景にあった社会の流れや大衆心理を説いていく。

『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング)や『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)を読んだときに感じた背筋がヒヤリとする感覚は、本書を通してかなり補完されました。

ヒトラーが大衆心理を熟知し巧みに操り、自身の「法」に従うよう扇動していたのはその通りです。アーレントはさらに歴史的惨事が起こった時代背景として、政治や社会が混沌とし敵味方の見通しがつきにくい、将来が不安定、蔓延した閉塞感などを挙げています。そのような不穏な世の中にいると大衆は求心力のある「分かりやすい」対象・イデオロギーを求めるメンタリズムが働くと説きます。当時ドイツは近隣国から今まで経験のない圧を受け、国はそれに一丸となって対抗する必要がありました。連帯感・仲間意識を維持強化するための安易な近道は「敵」をつくること。つまり当時のドイツ政府は早急に国民の統制を取らねばと考え、その格好の対象となったのが国内の社会コミュニティのなかで異分子でもあったユダヤ人でした。彼らを大衆の憎悪の対象に仕立て上げ“排除”しようとすることで国民の足並みを揃えようとし、未曾有の殺戮へと繋がります。

分かりやすくレッテルを貼り自分達の存在や立場を正当化する、善良性を証明しようとする行為は大小さまざまな規模で起こっています(子供のケンカから戦争レベルまで)。おそらく自分が自分らしくあるために人間に備えられた安全装置なのだと思います。無くなることはないでしょう。

至って平凡に生まれ平凡に育ってきたと自覚している自分でさえ、大衆の渦に飲まれたときに冷静でいられるかと問われると自信がありません。
本書を読む前は「歴史」に触れるつもりで手に取りました。しかし読み進めるほど本書で書かれていることは歴史ではあるけれど過去ではない、そして他人事ではないと痛感します。むしろ国内外問わず社会情勢としては当時の状況下とかなり共通点が多いのでは……と邪推するのは考えすぎでしょうか。

memo:ハンナ・アーレント『全体主義の起原』『エルサレムのアイヒマン』など

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2020年06月21日

Posted by ブクログ

本日第3章「大衆は「世界観」を欲望する」に読み架かりました。
白眉は大衆を定義した箇所。

 政治的に中立の態度をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している

投票を棄権する人(大衆)は、平素はとりたてて不満がなく
「ま、ひどいことにはならないだろう。」
と楽観し、実際に(多少ズルをする人がいるかも知れないが)気楽に生きていく程度には不自由がないのだろうと思います。
しかし、彼ら(大衆)が、世の中に不満を持ったとき、全体主義の再来が懸念される
と言うことなのでしょう。

日本では選挙のたびに、低い投票率が嘆かれますが、
無理に投票に行かせると、極端な主張をしている左派か、右派のどちらかに投票することになることが、前回の参議院議員選挙であきらかになったと思います。
いざ選挙になってから「投票に行け」と言うのはまずいと思いました。

不満があるときに、誰かの陰謀論にすがりつきたい気持ちは僕にもあるし、それが人気になるのもわかります。
でも、実際の所、不満を解消するには、自分なりの工夫や、ある程度の努力が必用。
例えばカネが欲しければ、自分が働くことが、最も確実な方法です。
それ以外の方法で金を生み出そうと知恵をひねると、いろいろな陰謀とターゲットを決めて搾取することになります。
むろん、そんなことをしても根本的には解決しません。
少し考えれば、そう思い至ります。

そんなことを考えながら、読み進んでいます。

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2020年05月14日

Posted by ブクログ

全体主義は突然変異だと思っていたのだが、ヨーロッパの歴史の中で産まれて来たのだとわかりびっくりした。アフリカを植民地支配したことにより優生思想、人種主義。金融業を独占していたユダヤ資本。国を持たない彼ら。歴史的に突き上げて来た差別意識が総合し、排他的というのか、あのナチスの全体主義が発生した。その中心を担った大衆の存在。ユダヤ虐殺の実行者の語った罪の意識の皆無。難しいが学ぶべきものが多い本であった。

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2020年03月05日

Posted by ブクログ

ハンナ・アーレントの重厚な著作は、存在こそ認知しているものの手に取ったことがない。
気にはなっている、しかし手に取るには様々な意味で重たい。しかし気にはなっている…
そんな自分にとっては実にありがたい一冊だった。

強烈なリーダーシップを発揮する独裁者が全体主義を作るのか?ここでは明確に「ノー」という答えが提示される。
大衆の動きが作り出すものであり、またそのメカニズムに組み込まれた大衆はそのシステムから求められる行動が、規範が悪であるのかはもはや判定不可能になる。なんとも恐ろしい話であるし、遥か昔に片付いた話というわけではない。全体主義は隣で、自分の中で息づいているのだ。

立ち止まって物事を捉える、Whyを問いかけ続けることの重要性に気付かされる一冊だ。

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2019年10月18日

Posted by ブクログ

アーレントから現代日本を生きる自分へ。
知性を、対話を諦めてはならない。

どの章も不気味なほど興味深かった。特にナチスの組織を扱った3章が怖い。

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2018年06月21日

Posted by ブクログ

いまの本邦がかなり全体主義的な雰囲気に満ちているので、そこに引きずられないようにするための手がかりとして、また全体主義とは具体的にどういうことでどういう経緯で起こって、現在に至るまでにどう影響してきたのかが知りたくて読んだ
読んでみて思ったのは全体主義は同質性に基づいているということで、やっぱり共感を重要しすぎてしまうと、自分と異なった意見を持つ人、それがエスカレートして自分と生きてきた環境や文化が異なる人を異質なものだと排斥してしまう可能性も充分にあって、自分と同じ意見を集めやすい環境ではかなり自覚的に気をつけなければなと思った。ハンナ・アーレント自身はナチスのユダヤ人迫害からアメリカに亡命してきた立場であり、本書でも彼女の著書や理論からナチスがユダヤ人にどういったことをしてきたのか、なぜそんなことになったのかを世界史の流れやドイツという場所の地政学的観点から論じていた。この地政学的な観点というのはなかなか出会わなかった視点でおもしろくて、もっとこういった歴史の出来事や流れを地政学的に分析した本とか読みたくなった
また彼女の著書「エルサレムのアイヒマン」についても書かれている章があるのだけれど、迫害や虐殺というのはいかにも凶悪な人間がやるわけではなく、凡庸で誰でもしうるということが書かれており、昨今のガザの状況を考えると非常に示唆的でもあった
敵か味方かなどの二項対立的な考えやわかりやすさを希求することが全体主義を引き起こし、それに染まる可能性があるとのことで、ネガティヴケイパビリティというか曖昧さや複雑さに耐え、自分と異なる意見を持つ人の背景を想像し、考えていく。地道にしっかりとそういう営みをしていくしかないのだと思う

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2024年04月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

※かなり自分の解釈,言葉が入っている.

■「大衆」とは
「全体主義」を支持するようなメンタリティを持つ人々.

「大衆」の対概念として「市民」がある.「市民」は,自らの利益を守ろうとする明確な意識があり,自分たちの利益を代表する政党を選んだり,要求を実現するための権利の主張やアソシエーションを結成するなどして,自分たちの利益を実現するために具体的な行動を行う主体を言う.(とはいえこれはアーレントがいう「政治」ではない,後述)

対して,「大衆」は,自らの利益のために主体的に動くようなことはせず,普段は政治に無関心だが,追い詰められた状況においては,普段政治に関わっていないこともあり「具体的な利益調整はまどろっこしくてよくわからない.何か現状を打破する一発逆転の秘策があるに違いない」という過度な期待を寄せるようになる.そして,そのニーズにこたえるわかりやすい物語(後述)を提示してくれる,「全体主義」を選ぶ.「物語」がもっともらしく,自分にとって都合がよければいいので,「物語」が正しいかどうかを検証するようなことはしない(つまりその「物語」が本当に正しいかどうかはどうでもよい).

言わずもがな,第一次世界大戦後のドイツは,大戦での敗北,領土の喪失,巨額の賠償金,世界恐慌と人々は極限まで追い詰められており,かつ当日の社会民主党は民主的審議を重視するあまり有効な解決策を提示できなかったために,「大衆」を生んだ.


■「全体主義」とは
現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の「物語」を提示することで求心力を維持する「運動」.固定的な「国家」ではなく,常に「物語」の確からしさを更新しつづけて(=「異分子」を設定して排除しつづけて)いかなければ,求心力を失って霧散するものなので「運動」と呼んだ.

■全体主義とアーレントにとっての「政治」
全体主義は,現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を統べる選ばれし民あるとか、それを他民族が妨げているといった架空の「物語」を提示することで,「大衆」を惹きつける.その「物語」に疑義がさしはさまれると,全体主義は求心力を失ってしまうため,秘密警察(ゲシュタポ)により「物語」に疑義を呈する者は摘み取られていく.何をしたら反体制派と見做されることになるのかよくわからない状況を作り出すことで,言論が抑圧され,批判的思考,多様な考え方を涵養する土壌は枯れる.人々は自分の頭で考えて自分で行動を決める(自律)ことをやめ,提示された「物語」を受容して生きる.

とはいえアーレントは現実的な利害調整、妥協形成が政治のあるべき姿(本質)だと言っているわけではない.アーレントにとって政治とは,異なった意見を持つ他者と対話を通してぶつかりあい,相手は自分と異なった意志を持つ人間であって思い通りにはならないということにぶち当たりながら(これは苦しいことである)なお,相手の人格を尊重し,共存する道を探ることである.(「多元的(plural)なパースペクティヴを獲得すること」ともいう.なので,「政治」において具体的なもろもろの決定を行うことそれ自体の重要性は二の次で,そのための議論を通して相手の人格を尊重することを学べるような空間があること,が最も大切だということなのかもしれない?)

この,お互いを単なる生物学的な意味でのヒトではなく、自由な意思を持った自分と同等の存在として尊重し合う根拠になるものが<道徳的人格>であり,それを涵養する「政治」を行う空間が「公的領域」である.

全体主義は,人々から「公的領域」を奪い,「道徳的人格」を奪う.全体主義に慣らされた人々は、同じように世界を解釈して批判的思考を失くし(=「道徳的人格」を奪われ),「異なった価値観や思考を持つ人間」として他者を認識し,対話をするという発想もなくす(=「公的領域」が消滅する).それはさながら,自分の頭で考え行動し対話する「人間」ではなく,号令で動く「動物の群れ」のよう.

これは私の考えだが,同じ物語を共有する人々との間だけで,居心地良く一緒に浸っているのは,気持ちのいいことかもしれないが,常にその「物語」からつまはじきにされる恐怖とも隣り合わせだろう.いい社会だとは思わない.



■ナチスドイツの組織構造
統治の安定をめざすなら,指揮系統が明快な組織構造にしたほうがよさそうだが,そうではなく,あえて複雑な組織構造になっていた.組織の内側にいてさえも,指揮系統の全貌が分からないようになっており,統治の矛盾を突けるような者はいない.そのうえで組織間でヒトラーへの忠誠心を競い合わせ続けることで,求心力を維持していた.また高い地位に行けばいくほどより多くを教えてもらえると感じさせるようなヒエラルキー構造になっていた.

■ユダヤ人迫害の段階的発展
ユダヤ人の迫害は最初からフルスロットルだったわけではなく,段階的に発展していったのだが,なぜ,ユダヤ教を捨ててほとんどドイツ人として生きているようなユダヤ人も対象になったのか.また,なぜはユダヤ人の国外追放やゲットーへの押し込めで飽き足らず最終的に「絶滅」を目指すようにまでなったのか.
そもそものナチスの統治の原理には,優生学的人種思想が組み込まれていた.言わずもがな,アーリア人種は全ての人種に勝る人種である,つまり,その血が多人種と混ざると穢されるという思想である.だから,ユダヤ教を捨てていようと,文化的にどの程度ドイツ人と同化していようと,「血」がユダヤ人である限り,アーリア人種を脅かすものと見られ,最終的に「絶滅」まで行きついたのである.

ユダヤ人迫害は段階的に発展する.まず,ヒトラーが首相に就任した三カ月後、一九三三年四月に制定された職業官吏再建法で非アーリア人は官庁から排除。次いで、大学教師、弁護士、公証人、保険医など、公的職業にユダヤ人が就くことが禁止され、民間企業にも圧力がかかった。自営業の人はアーリア系企業への売却が迫られ、自由業の場合でも、ユダヤ人の作家の著作が焚書に遭うなど、ユダヤ人の職業生活が次第に困難になり、多くの人がドイツを離れた.一九三五年に制定されたニュルンベルク法は、ユダヤ人の選挙権や公務就任権が奪われただけでなく,ユダヤ人とドイツ人との婚姻・性交を禁止するなど、まさに「血の浄化」を法制化したもの.一九三八年,ナチスに扇動された民衆による本格的なユダヤ人迫害開始。ユダヤ人商店やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、企業、住宅が破壊.

こうしたなかで、SSとゲシュタポはユダヤ人の国外追放や強制収容所送りを進行.ヒトラーは東欧をドイツ民族の新たな入植地(東方生存圏)にするという、『我が闘争』(一九二五)以来の構想を実現しようとした.当初は、ソ連を速やかに征服して、ロシア東部にユダヤ人を移送するつもりだったが、戦線が膠着化したため,ユダヤ人問題の解決策は、「強制移送」から収容所での「絶滅=ホロコースト」に転換した.「絶滅計画」が実行された主要な舞台が、ドイツ本国ではなく、東欧の占領地域だったことも、実行者たちにとって殺害のハードルが低くなった要因かもしれない。「追放計画」は政策として公表されていたが、「絶滅計画」は一般国民向けには公表されず、ヒトラーと側近だけで方針を決め、特別行動部隊やSSの絶滅収容所の管理部門で実行された.

このような大量虐殺の背景にあったのは,ナチスによる前述のドイツ人の「道徳的人格」の無力化にあったとアーレントはいう.道徳的人格がないヒトは,突き詰めれば,「ただの有機体(動く物質)としてしか,他者を認識しない」ということができる.

■アイヒマン裁判
道徳的人格が解体されていく過程や、人格としての自律を失った人間のメンタリティについて、アーレントがより本格的に取り組むきっかけとなったのがアイヒマン裁判である.
元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判は、ユダヤ人が建国したイスラエルで開かれた.








分かりやすい説明や、唯一無二の正解を求めるのでは



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が試行錯誤をつづけること。アーレントの『全体主義の起原』は、その重要性を言外に示唆しているように思い



永遠のユダヤ人』  一九四〇年に公開された、ナチスの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された反ユダヤ主義のプロパガンダ映画。原題の〈Der ewige Jude〉は、十字架のイエスを侮辱したため、永遠に放浪する呪いを受けた「彷徨えるユダヤ人」という民間伝承の登場人物を指す。アーリア人の優秀さとユダヤ人の劣等性の対比を強調しながら、ユダヤ人の世界支配の陰謀を



ゲッベルス  一八九七~一九四五。ナチス政権の宣伝相



言論・文化統制を行って反ユダヤ主義を喧伝し、国民を戦争に動員した。ヒトラーは彼を後継首相に指名して自殺したが、ゲッベルスもその翌日に



レーム事件  ナチス政権樹立後、SAの正規軍への格上げを主張し、ヒトラーや国防軍の首脳部と対立を深めていたSA幕僚長のレームや、社会主義的な路線を追求するナチス左派の領袖グレゴール・シュトラッサー、ヒトラーを公然と批判していたシュライヒャー元首相等がSSやゲシュタポ、国防軍によって粛清された



ヒムラー  一九〇〇~四五。ナチスの党官僚。一九三六年にSS全国指導者兼全ドイツ警察長官に就任し、国内の警察機構を掌握する。政権末期には内務大臣も兼務



ニュルンベルク法  ナチス政権下のドイツで、一九三五年九月に制定された「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」「帝国市民法」の二つの法律の総称。ナチスの全国党大会が開かれていたニュルンベルクにおいて召集された国会で議決されたことから、この名称で呼ばれている。前者でドイツ人とユダヤ人の婚姻や性交渉が禁止され、後者で非アーリア人に対して、選挙権や公職就任権などの帝国市民権が否定され



民族ドイツ人  ドイツの国外に居住しているが、血統的・人種的にドイツ人と認められる人。ナチスは東欧の占領地域で、民族ドイツ人と、ユダヤ人やスラブ人を区別し、前者を優遇し



著の主役であるアドルフ・アイヒマンは、ナチス親衛隊(SS)の中佐だった人物です。最高幹部というわけではありませんが、ユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所に移送し、管理する部門で実務を取り仕切っていまし



一九六〇年五月、潜伏していたアイヒマンをイスラエルの諜報機関モサドが拘束。イスラエルに強制連行し、翌年、エルサレムの法廷で裁判(*2) が開かれました。  アイヒマンはアルゼンチンに住んでいたわけですから、モサドによる強制連行は、アルゼンチンの主権を侵害する問題行為といえます。裁判そのものも、本来であれば国際法廷に委ねられるべき事案でしょう。しかし、ナチスによる大量殺戮の記憶が生々しい当時、他の国々も国連も、致し方ないとしてこれを容認したのでし



服従の心理と、その責任とは  アーレントは冒頭でこの裁判の枠組み自体に対して批判的なスタンスを示しています。通常の裁判は、被告が実際に何をやったか、それが処罰すべき罪なのかを法に従って吟味していきます。「この裁判はユダヤ人の苦難の上に組み立てられており、アイヒマンの行為の上に組み立てられているわけではなかった」、とアーレントは指摘しています。つまり、ユダヤ人に対して起こったホロコーストという前代未聞の事態の不当さを全世界に訴え、ユダヤ人が自分たちにとっての正義が実現された、と思えるような形での究極の裁きが期待されていたわけ



イスラエルのユダヤ人からしてみれば、被害者である自分たちの代わりに、国際軍事法廷が裁きを下すというのは我慢ならないことでした。それでは自分たちの苦しみが分からない。被害者としては、そのように思うのは当然かもしれませんが、そのどうしようもない痛み、口惜しさを晴らすための対象として、アイヒマンを想定していたのでは、彼自身の行為を裁くことはできませ



それに加えてアーレントは、検察側が、この裁判でアイヒマンを非ユダヤ人に対する犯罪でも告発するつもりであることを宣言し、その理由として、自分たちは「民族で差別しない」からである、とわざわざ断っていることも問題視します。一見すると、



の公正・中立さを確保しようとする姿勢の表れのように聞こえますが、よく考えると、近代の刑事裁判というのはそもそも、被害者が裁判官や検事と同じ「国民」や「人種・民族」に属するか否かにかかわらず、被告人が犯した犯罪行為について審理するわけですから、こういう宣言をすること自体が不自然なわけです。加えて、そう言っている一方で、当時のイスラエルでは、ユダヤの律法に従って、ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚が認められず、非ユダヤ人の母親から生まれた子には市民権が認められていなかったことを指摘しています。どこかで聞いたような話ですね。ユダヤ人は人種・民族差別の一方的な被害者であること、自分たちの手は汚れていないことをアピールしたい意図は明白



アイヒマンはホロコーストという歴史上前例のない事態を引き起こすのに相応しい人間でなければなりません。 「最終解決」の実行責任者であるアイヒマンは、ユダヤ人に対して強い憎しみを抱いていたはず。凶悪で残忍な人間に違いない──。アイヒマン裁判に注目していた人々は、そのように想像(あるいは期待)していました。しかしアーレントは、実際の彼はまったくそうではなかったと記しています。  そうした姿勢は「悪の陳腐さについての報告」という本書のサブタイトルにも表現されてい



そんなアイヒマンの発言のなかで、アーレントが特に注目し、驚かされもしたのが、その徹底した服従姿勢でした。しかも彼は、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張してい



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のすることはすべて、彼自身の見方によれば、法を守る市民として行っていることだった。彼自身警察でも法廷でもくりかえし言っているように、彼は自分の 義務 を行った。 命令 に従っただけではなく、 法 にも従っていたの



自分はこれまでの全生涯をカントの道徳の格律、特にカントによる義務の定義にのっとって生きて来たと彼が突然ひどく力をこめて宣言したときに最初に見られた。あきらかにこれはけしからん言い分であり、不可解でもあった。なぜならカントの道徳哲学は、盲目的服従をしりぞける人間の判断力と密接に結びついているからで



自分が従うべき道徳法則を自分自身の理性によって見つけ、それに従うのが人間にとっての自由であり、かつ義務である──というのがカントの道徳哲学です。これは徹底した自律の思想ですから、アイヒマンのような服従的な態度とは正反対のものに思えます。ただ「盲目的」に権威に従うだけでなく、彼が自発的かつ積極的に従属していたことをアーレントは特筆してい



人は法に従うだけであってはならず、単なる服従の義務を越えて自分の意志を法の背後にある原則──法がそこから生じてくる源泉──と同一化しなければならないという要求で



アイヒマンがカント哲学を日常的に用いる



それは 総統 の意志で



特徴」的なものでもあったとアーレントは指摘しています。  アイヒマン自身も、嫌々やっていたという意識は一切ないと証言しています。もし彼が上層部の命令に仕方なく従っていただけの小役人だったなら、ある意味、話は簡単だったかもしれません。その場合、嫌々やったというところに、ささやかな良心のかけらを見出すことができるから



ささやかな良心のかけらもない──というところに、むしろアイヒマンは自負を持っていたのです。彼にも「わずかなりと残った良心」はあったものの、法に例外があってはならないという彼なりの遵法精神によって、それは克服されてしまったとアーレントは考察しています。良心の呵責など封印し、ヒトラーという法に従って粛々と義務を果たしてきた



アイヒマンは、「法」に従い、秩序を守る義務を負った官僚としての自分を演じ続けました。まるで「法」の代理人であるかのように。彼は何となく長い物にまかれて生きている人間ではなく、ある意味、「法の支配」の重要性を知っている人です。そこが哲学者であるアーレントにとって、なかなか納得のいかないことでし



人間にとって「法」とは何か  哲学と「法」は一見あまり関係ないようですが、実は本質的なところで深く関係してい



西欧哲学の始祖とも言うべきソクラテスは、青少年をまどわしたという 廉 で自分に対して死刑



を下した裁判官たちの判断がおかしいと確信していましたが、逃亡するように勧める友人たちの声に耳を傾けず、冷静に死を受け容れ



これ以降、悪法に対して従うべきか、そういう義務があるのか、というのは哲学にとっての重要なテーマになり



そして、国家の法はそうした定言命法の形を取る道徳法則



基礎付けられていなければならない、とカントは主張し



市民たちが理性的に合意し受け容れた「法」に従うことこそが、市民にとっての自由



無論、様々な異なった環境で育ち、異なった考え方や生き方をしている人々が──たとえ近似的にでも──そうした理性的合意に達することは可能なのか、という根本的な問題がありますが、カントの影響を受けた近代の道徳・政治哲学者たちはその可能性を探究し続けました。アーレントもその一人



そうした「法」を重視する立場から見た場合、自らが「法」だと信じたものに従い続ける、たとえ死刑になると分かっていて、もはや自分にとって何の利益にもならないと分かっていても従い続けようとするアイヒマンの姿勢は、ある意味、極めて道徳哲学的であるように見え



人類の歴史には、後から考えると、とんでもない理不尽が常識に適った正しい判断や行為としてまかり通っていた、という例がいくつもあります。アイヒマンが従った〝法〟は最初から間違っていて、私たちが現に従っている「法」は絶対正しい、と何をもって言えるのか? 哲学的に掘り下げて考えると、私たち自身が拠って立つ、道徳的立場に関しても不安になってきます。普遍的道徳に従っているつもりで、とんでもないものに従っているのではない



普遍的な法の正義の名の下にアイヒマンを裁くイスラエルの矛盾を見抜いていたアーレントにとって、それは単なる漠然とした可能性ではなく、リアルな問題でし



自分(たち)の理性に絶対的な信用を置けないからこそ、一見、白々しい言い訳に見えるアイヒマンの〝法への忠誠〟が気になり、迷うわけです。『エルサレムのアイヒマン』の随所に、アーレントの葛藤が見受けられ



キリスト教の神を捨て、新しい宗教としてのナチズムを本気で信奉し、今なお信奉し続けているのだとしたら、ナチスをあまり知らない人は、ものすごい悪魔的な教義のようなもの、そして、それを狂信する、恐るべき狂暴な人物を想像してしまいます。しかし、アイヒマンが最後の瞬間に示した神観は、驚くほど陳腐でした。というより、 咄嗟 に思い浮かんだ弔辞の決まり文句をそのまま口にしただけでし



人々の予想を大きく裏切るものだったからでしょう。  極悪非道の素顔が暴かれ、どれほど酷い人間だったかが明らかになる──という大方の期待に反し、アイヒマンは「どこにでもいそうな市民」であり、「犯罪的な性格」を持っていたとは言い難いとアーレントは結論しました。そのことに落胆しただけでなく、読者のうちの多くが猛然とアーレントを批判した理由の一つは、怒りの矛先を失ったからでしょ



アイヒマンに悪魔のレッテルを貼り、自分たちの存在や立場を正当化しようとした(あるいは自分たちの善良性を証明しようとした)人々の心理は、実はナチスがユダヤ人に「世界征服を



悪」のレッテルを貼って排除しようとしたのと、基本は同じ



悪は平凡なものではなく「悪を行う意図」を持った非凡なものであるという思い込み、期待、あるいは偏見。近代の法体系すら、それを前提としているとアーレントは指摘し



アイヒマンがいかに陳腐で、どこにでもいそうな人間だったとしても、彼を死刑にすること自体にはアーレントも反対していませ



ただ、彼を死刑に処すべき理由は、彼に悪を行う意図があったかどうか、彼が悪魔的な人間だったかどうかということとは関係なく、人類の「複数性」を抹殺することに加担したからだと主張してい



人間は、自分とは異なる考え方や意見をもつ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができるとアーレントは考えていました。多様性と言ってもいいでしょう。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は、人類の多様性を否定するものであり、そうした行為や計画は決して許容できないというわけ



アーレントはこうした立場から、アイヒマン裁判において、判事は次のように被告に呼びかけるべきであった、と『エルサレムのアイヒマン』のエピローグを締め括ってい



君は戦争中ユダヤ民族に対して行われた犯罪が史上最大



であることを認め、そのなかで君が演じた役割を認めた。しかし君は、自分は決して賤しい動機から行動したのではない、誰かを殺したくなったこともなかったし、ユダヤ人を憎んだこともなかった、けれどもそうするよりほかはなかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。われわれはそれを信じることはまったく不可能ではないまでも困難だと思う。(中略)君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故に積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治は子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は



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そしてまさに、ユダヤ民族および他の多くの国の人民たちとともにこの地球上に生きることを拒む──あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住むべきではないかを決定する権利を持っているかのように──政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何人からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待できないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由で



アイヒマンを「ホロコーストという悪」の象徴と考えていた人々にとって、確かにこれは承服しがたい結文だったでしょう。しかし、アーレントに向けられた轟々たる非難の理由は、それだけではありませんでした。『エルサレムのアイヒマン』のなかでアーレントは、イスラエル政府と法廷について、かなり批判的



意見(*8) を述べています。また、中欧や東欧におけるユダヤ人移送に、同胞であるユダヤ人評議会(*9) が協力していたことにも言及しました。移送に関与したユダヤ人が、移送されるのは自分たちとは違う種類のユダヤ人と見なして(蔑んで)いたことも指摘してい



こうした言説がユダヤ人社会の反発を招くことは、アーレントも分かっていたはずです。しかし、ユダヤ人社会や大戦後に建国されたイスラエルを覆っていた「ユダヤ人は誰も悪くない」「悪いのはすべてドイツ人だ」というナショナリズム的思潮に目…
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な同胞愛や排外主義は、ナチスの反ユダヤ主義と同じ構造だからです。 「ナチスが犯した罪を軽視し、アイヒマンを擁護している」「ナチス犯罪の共同責任を、ユダヤ人に負わせるつもりか」と、イスラエルやニューヨークのユダヤ人社会から激しく非難され、アーレントは多くの友人を失いました。古くからの親しい友人たちから突きつけられた絶縁は、相当にこたえたようです。  しかし、そうなる可能性も引き受けた上で、彼女はありのままを…
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「ミルグラム実験」が示したもの  アイヒマン裁判の後、アメリカで、ある実験が行われました。閉鎖的な環境において、その場の権威者の命令に従う人間の心理──どこまで残虐…
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この実験で分かったことは、ごく普通の人も、一定の条件下では権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超えて、かなり残虐なことをやってのけるということです。これを看守と囚人との関係に置き換えた「スタンフォード監獄実験(* )」では、看守役の被験者がエスカレートして緊迫した状況に陥り、実験を中断



ざるを得なくなりまし



これらの実験結果を踏まえれば、アーレントがアイヒマンに見た服従の姿勢は、決して彼特有のものではなく、誰にでも認められる、まさに陳腐なものだった、と言うことができるでしょ



エルサレムのアイヒマン』でアーレントが最も強く伝え



のも、おそらくそこだと思います。条件が整えば、誰でもアイヒマンになり得るということです。  そうならないための具体的な処方箋は示されていませんが、「複数性に耐える」ことが、その鍵になると考えていたのは間違いないでしょう。「複数性に耐える」とは、簡単にいうと、物事を他者の視点で見るということ



アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は 絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うの



考えるという営みを失った状態を、アーレントは「無思想性」と表現し、アイヒマンは完全な無思想に陥っていたと指摘してい



彼女が本書で「悪」としているものも、善の対極というより、哲学的に思考することをやめた人が陥るものとしてイメージされています。そういう意味でいうと、私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく、機械的



本書の最大の功績は、アイヒマンが陳腐だということを指摘することで、それまで人間が「当たり前」としてきたことに一石を投じ、思考するきっかけを作ったことでしょう。この本が世に



いなければ、ミルグラムの実験も、人々が悪の特徴について深く考察することもなかったと思い



アイヒマンにならないための手軽な方法も、全体主義の再来を防ぐ「分かりやすい」処方箋も、残念ながらありません。ただ、閉塞的な現状を打破するような妙案があるように思われたとき、少なくともそれが唯一の正解ではないこと、まったく異なる案や物語も成立し得るということを認めることができれば、



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の図式に完全に取り込まれることはないでしょう。  アーレントのメッセージは、いかなる状況においても「複数性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならない──ということであり、私たちにできるのは、この「分かりにくい」メッセージを反芻しつづけることだと思い



SS長官  SSとゲシュタポを統率したハインリヒ・ヒムラー(一九〇〇~四五)のこと。ヒトラーの側近でユダヤ人の強制移住政策・絶滅政策部門の最高責任者だった。



降伏直前に姿を隠すがイギリス軍に拘束され、服毒自殺し



イスラエル政府と法廷に……批判的な意見  たとえば「第一章 法廷」で、アーレントはヘブライ語で行われた審理のドイツ語同時通訳について「まったく滑稽な、しばしば意味がわからないこともある代物」と言及したり、「イスラエルの



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精神とユダヤ人の屈従的な無気力さ」の対照を裁判のなかで明らかにしようとする態度を「芝居」「見せ物」などと表現し



ミルグラム実験  アイヒマン裁判の翌一九六二年、アメリカのイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラム(一九三三~八四)がアイヒマンらナチス戦犯の心理に興味をもって試した実験。アイヒマン実験ともいう。ドイツ人は特殊だと考えていたアメリカ人にも同じ傾向が認められたと



アーレントはどうして批判された



一つは、アイヒマン裁判を通して自分たち(ユダヤ人)をホロコーストの犠牲者として世界に印象付けるとともに、イスラエルという国家の存在の正当性を訴えようとしていたのに、アーレントによって台無しにされたと思った人たちの怒り。第二に、敵と味方をはっきり分け、敵を徹底的に批判しないと何の議論か分からなくなると思っている人たちの苛立ち。第三に、万人に普遍的な人間愛が本来備わっているはずで、ナチスのような



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は例外中の例外であると信じたい人たちの



二〇一三年に映画『ハンナ・アーレント』が公開され、日本でもプチ・アーレント・ブームになった時、アイヒマン裁判に関して、周りの人たちからいくら責められても、自分の信じることを語り続けたアーレントの姿勢を英雄視し、感情移入する声が多く聞かれました。その時あまりに簡単にアーレントに共感する人が多いのを見て、正直言って、これでいいのかなと思ってしまいまし



もし現代日本で同じようなこと、つまり、味方だと思っていた〝良心的知識人〟が、差別主義者とか国粋主義者、タカ派論客



擁護するかのように見える発言をしたら、それに対する非難の大合唱に自分も条件反射的に加わってしまうかもしれない。そういう意識が働いて、アーレントを単純に英雄視することを躊躇しないような人は、アーレントを全否定した人たちと同じ過ちを犯してしまうかもしれませ



二項対立思考はダメだと言っている人自身が、二項対立思考



ているというのはよくあることです。それを踏まえたうえで、アーレントの問題提起を受け止めるのでなければ無意味です。というより、危険でさえあり



このことは第三点とも関係しています。私たちは普遍的人類愛を信じているつもりで、いつのまにか、「敵」を想定し、排除しがちです。「人を人とも思わないこんな輩さえいなければ……」。他者に対して共感したり、価値観の違いを許容したりする私たちのキャパシティは自分で思っているよりもかなり小さいかもしれません。ほとんどの人はそれを本当は分かっているのかもしれません。…
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ただ、いかに哲学者アーレントの「人間」観に反発しても、ミルグラム実験やフランスのテレビ実験で証明された事実を覆すことはできません。ナチズムのような特殊なイデオロギーを信奉しているわけではない「普通の(西欧)人」の大半が、権威が命じるままに、(同じ人間である)他人に対して、死をもたらすかもしれない強い苦痛を加え続けました。条件さえそろえば、〝良心の働き〟は麻痺してしまうのです。 「人間」とは何か  全ての人間…
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近代はそうしたヒューマニズム的な前提に依拠してきました。しかしその前提は正しいのか、そういう普遍的人間性のようなものがある、と思い込んできただけではないのか。ナチス・ドイツやソ連で──それぞれ異なったメカニズムによりますが──何百万人もの大量虐殺を引き起こした全体主義という現象、アイヒマンの官僚的な陳腐さに宿る悪を見ていると、そう思えてきます。第4章で見たように、アイヒマンは、万人の有する道徳的理性によって「法」を基礎付けようとしたカントの定言命法のパロディーのように見…
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のは歴史的・文化的なプロセスの中で形成…
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人間の



この著作でアーレントは、「人間」であるための三つの条件



①労働(labor)②仕事(work)③活動(action)を挙げ、それらの起原を歴史的に考察し



活動」は、物理的な力ではなく、言語や演技によって他の人の精神に



説得しようとする営みです──英語の〈action〉には「演技」という意味もあり



この内、「活動」が最も重要で、まさにヒトを「人間」らしくする条件



自分の「意見」を他者に向かって表明するという行為は、相手は違った意見を持っているかもしれない、違う見方をしているかもしれないことを前提にしてい



様々な「活動」を通して、私たちのものの見方が多元化していくこと、それが第3、4章でお話しした「複数性」



複数性」が確保され、増殖していくには、ヒトとヒトを結びつける「間 in-between」の空間が必要



「無思想性」の本質  全体主義支配というのは、陰謀論的プロパガンダによって、人々の「世界」に対する見方を次第に均質化し、それによって「複数性」を衰退させるとともに、秘密警察などの取り締まりと威嚇によって、「活動」のための「間の空間」も消滅させてしまう政治体制だと言えるでしょう。全体主義的な空間では、言葉は、ものの見方を多元化するためではなく、均一化するための媒体になります。オーウェルの『一九八四年』に出てくる人工言語、ニュースピーク(Newspeak)はまさにそんな感じです



その都度民主主義的手続きに従って決めたこと、法令になったことについては守ってもらわなくてはいけないが、「法」や「道徳」の本質についてはいくら議論してもいい、というより議論してもらわないと困る。そう



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のが、自由民主主義です。しかし、全体主義の下では、ヒトラーの意思とか共産党の決定が、〝法〟だと決まったら、それ以上、議論することが許されない。それ以外の「法」の在り方について、自分の頭で考えることは許され



ちなみにミルグラム実験やフランスのテレビ実験でも、その場を支配している権威者に対抗する別の権威者がいて、その人が対立する意見を述べたり、同じ立場の被験者(のふりをしているサクラ)が一緒に命令に抵抗したりしてくれると、服従率がかなり下がるということが分かっています。「複数性」が存在する空間であると認識することが転換点になるのかもしれませ



奴隷や他の家族は、市民と対等で自由な存在ではなく、力によって支配されている存在です。



領域」で、生活の上で必要なニーズや経済的問題が処理されており、それが表に出てこない(=公にならない)おかげで、「市民」たちは、いろいろなしがらみに煩わされることなく、自由に討論できます──英語の〈private〉には、「親密な」という意味の他に、「秘密の」とか「公にならない」という意味合いもあります。人間の動物的な側面を「私的領域」の闇の中に留めておくことで、「公的領域」において自分の意見やものの見方のすぐれていること、卓越性を示すべく、多様な演技=活動をすることが可能になるわけです。  古代のポリスでは、他人の「労働」や「仕事」のおかげで、自由に「活動」できる市民たちが存在できたわけですが、近代



ではそうはいきません。ほぼ全てのヒトが労働や仕事に従事して、生活の糧を得ています。個々の「家」ではなく、社会全体に関わりを持つ「経済」の動向に左右されることなく生きられる人はいません──「経済」という意味の英語〈economics〉の語源になったギリシア語〈oikonomia〉の原義は、家政術、家を運営する術ということ



です。 (アーレントのイメージする)ポリスの市民たちと違って、現代の大衆社会に生きる私たちには、「公衆 the public」の前で優れた討論をすべく、自分の言葉を磨く時間も余裕もさほどありません。単に人前でしゃべるとか、ツイッターで発信するといった程度のことなら難しくありませんが、他者たちの視点から、自分のものの見方、考え方を批判的に問い直し、他者に伝わる表現を見つけるというのは結構大変なことです。アーレントの「活動」論をフォローしていると、どうも「活動」というのは知的エリートの能力ではないのか、討論に向けて自分を磨く時間も金もない



はどうしたらいいのか、という気になってき



「人間」を支える「教養」  実際、そうかもしれません。アーレントの議論が、というより、「人間」という概念自体が、もともとは知的エリートのためのものでし



古代ローマの哲学者で弁論家として有名なキケロは、「活動的生活」



送るのに必要な能力、弁論家としての能力として「フマニタス」を捉えています。つまり、「人間性」の中心は、言語や演技を



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て他者を説得する能力だったわけ



古代末期から中世にかけて、「フマニタス」を身につけるのに必要な七つの科目が特定されるようになりました。言語に関わる文法学・修辞学・論理学の三学と、数学に近い算術・幾何・天文学・音楽の四科です。これらを「自由七科(septem artes liberales)」と言います。英語だと〈seven liberal arts〉。「自由人=市民=人間」として必要な科目ということです。大学の教養科目のことを「リベラル・アーツ」というのはここから来ています。「教養科目」とは元々、ギリシア・ローマ的な意味での「人間」になるための科目だったわけ



こうした古代の「フマニタス」に由来する古典的な知の体系を



として、近代のヒューマニズム、普遍的な人間理性や人類愛を前提とするヒューマニズムが生まれてきたわけですが、後者のヒューマニズムは、「教養」、つまり言語を中心とした活動のための能力を鍛えなくても、人は分かり合える、共感し合えるという発想になりがちです。世の中にはさまざまな事情から十分に教育を受けることができない人もいるので、そうした平等主義的・非エリート主義的な考え方の方が受け入れやすいでしょう。みんなが生まれもっている人間共通の素質において平等と考える方が、〝人間的〟に思え



しかし、言語を介して他者の意見を知り、自らの世界観を多元化する努力を疎かにしてしまうと──つまり、そんなに考え



てもいい、教養なんてなくったっていい、難しい問題について議論しなくたっていい、人間として生まれただけですばらしい、というような態度を取っていると──全体主義の単純化された世界観に感染しやすくなり



無論、文系の知的エリートであれば全体主義に陥らない、と言いたいわけではありません。職業的な知的エリートもまた、学界や職場での立場、



との関係とか、いろんなしがらみにとらわれていますし、自分の研究テーマ以外のことにはかえって無関心になる傾向もあります。知的エリートも、本書の第3章で確認した意味での「大衆」



近代市民革命によって獲得された「自由」とは何かについて論じた『革命について』(*2)(一九六三年)でアーレントは、理性的思考や討論を軽視し、文明化されていない「野生人」の〝自然な〟共感能力を神聖視して、それを政治の原理にしようとすることの危険性に警鐘を鳴らしています。アーレントは、言葉ではなく、共感や同情、動物的な素朴さのようなもの、生き生きとしたものを〝人間性〟の共通基盤と見なし、それによって人々を連帯させようとする政治手法は、かえって、「自由」の空間を掘り崩してしまうと考え



私たちには、本当の意味で、言葉を交換する機会、活動する機会が少なくっています。「活動」が「労働」によって飲み込まれつつある。アーレントは、歴史の趨勢に関してはかなり悲観的です。私はそう見てい



この人の言うように、あるいはこのマニュアルの通りにすれば、全体主義に陥ることは絶対ない、というようなものがあると主張するのは、全くもって転倒した話



サンデルの授業が本当に優れている所は、学生にランダムに意見を言わせるわけでは



発言者の意見を、政治哲学上の主要な学説的立場に関係付けてやることで、自分がどういう考え方に近いのか反省的に捉え返させたうえで、さらに討論を続けさせること



あのような実践が、活動的生活のためのいい準備になると思うのですが、私が「もう一歩」というのは、自分の依拠している政治的・道徳的原理を把握するだけでなく、自分と対立して



ように見える)人の拠って立つところも理解する訓練を積む、ということです。「白熱教室」では、司会役のサンデル先生がそれぞれの立場を整理してくれたので、分かりやすかったのですが、各自が自分でそれができるようになることが大事



議論のための道具立てをあらかじめ設定していない場で、全てを見通しているかのような先生役もいない所で、お互いの立場、特に自分にとって気に入らない意見を言う人が、どういう基準で発言しているのかを把握するのは、知的にも感情的にもかなり大変です。しかしアーレントが『人間の条件』で、「公的領域」における「活動」と言っているのは、まさにそうした営み



その際に肝心なのは、自分に敵対してくる人たちのうち、最も筋が通っていて、論理的に反駁するのが難しそうな人の議論に集中すること



真摯に答えようとしたら、今までの自分を否定しないといけないので、聞いていて辛い、と思えるような対立意見をよく聴き、相手の考え方の原理を把握する。そこからしか、アーレントの言う意味での「思考」は始まらないのではないかと思い




■全体通して
「大衆」はバカな烏合の衆だと批判しているように聞こえるかもしれないが,私も含めて現代においてはほとんどの人間が「大衆」だ.現代の利害調整は複雑すぎて自分のポジションを見出すのも難しいし,単純な解決策に心惹かれることがない人はいない.だからこそそれを自覚して,単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と自分を制し,あえて自分と全く反対の意見を持つ人間と対話して,自分の考えを相対化していくことが大切なのだろう.

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2021年03月14日

Posted by ブクログ

アーレントの著書をわかりやすく解説している。哲学や思想を理解することは、人が歴史から学ぶためには必須であると思わされる。

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2020年04月27日

Posted by ブクログ

全体主義についてハンナ・アーレントの著書に解説、考察を加えながら、ドイツやヨーロッパの歴史的、社会的背景の解説とともに論じられています。別の書籍の解説書的位置づけなので、教科書的な面があり、物足りなさを感じた。

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2020年03月01日

Posted by ブクログ

結局全体主義の起源とは、国民国家の誕生による「均質に見える国民の出現」と階級社会の崩壊によって「お上から何か良いものが与えられるのを待っている無知蒙昧な大衆の出現」ということか。ここで言う全体主義の『全体』とは国家、あるいは国民の全体ではなく、全国民から異分子を除いた全体という事であって、随分と狭い意味で使われていることに気づかされた。
最近の日本でもアメリカでも全体主義の兆しが見えるが、国民が"99%"に均質化され、かつ愚民化政策で複雑なことを考えることをやめた大衆が増えた結果と言えようか。

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2019年06月22日

Posted by ブクログ

アーレントの『全体主義の起源』および『イェルサレムのアイヒマン』の内容をわかりやすく解説するとともに、「分かりやすさ」を求めて思考停止に陥っている現代日本の言論状況を批判し、アーレントの「複数性」の概念が持つ意義を再評価している本です。

著者がアーレントについて解説している本はいくつか刊行されていますが、そのなかでもとりわけ読みやすく、アーレントの思想のエッセンスをコンパクトなしかたで紹介しています。『全体主義の起源』は、読んでいてどこに連れていかれるのか皆目わからず、途方に暮れるほかなかったのですが、本書は非常にシンプルな見通しをつけていて、すくなくともわかったような気になってしまうこと請けあいです。もっとも、『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』(ちくま新書)や本書のなかで、簡単に物事を割り切って理解してしまうことの危険性をくり返し指摘している著者ですが、それでもやはり、本書の説明はわかりやすいといいたくなってしまいます。

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2018年11月21日

Posted by ブクログ

人は不安になると明解で時に過激な思想に傾き、それに従わない強い思考力を持つ人を除外しようとする。今の世界政治も、イジメの構図も、全く同じだ。

大事なのはきちんと自分の頭で考える。議論に勝つための不純な目的ではなく、本当の正しさを追求するために。

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2018年08月01日

Posted by ブクログ

すごく分かりやすいと思っていたら『100分de名著』の改訂増補版だった。再構成されていて、とてもいい。
『全体主義の起源』と『イェルサレムのアイヒマン』にフォーカスされた内容になっている。
なかで「犯罪の遂行には悪を行う意図が必要である」という近代法体系の前提すら、思い込みや偏見によって成立しているのではないかとするアーレントは厳しい。
実際、日本の犯罪報道では報道する側も受け取り側も、自分たちと悪との圧倒的な違いを探そうとする。これは容疑者に悪のレッテルを押し付け、その差異によって自分たちを正当化し善良性を証明しようとするものだ。この心性ははナチスがユダヤを迫害したのと同じ構図じゃなかろうか。怖いなぁ。危ないなぁ。

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2018年06月23日

Posted by ブクログ

悪い本ではないと思うが、「結局エリート主義しかないのでは?」という問いには答えられていない。まあ難しすぎる問題ではあるが。ただ、この点を突破できないと今アーレントを読む意義を上手く説明できない気がする。

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2019年04月30日

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