このテーマと内容の翻訳本を新書で出すとは、さすがのブルーバックス。感心した。心から応援する。
タイトルにもなっている「もうひとつの脳」とは、脳を構成する細胞の内、ニューロンの他に存在するグリア細胞のことだ。実際に脳の細胞数に占める割合はニューロン細胞よりもグリア細胞の方が多い。そのグリア細胞はこれ
...続きを読むまで脳内の充填物程度に思われていたが、最近の研究により、これまで考えられていた以上に脳や神経系の動作に関与しているという。ニューロン中心主義からのパラダイムシフトと言っていいだろう。少なくともこの領域の研究者である著者はそう思っている。
グリア細胞が注目されている例として、アインシュタインの脳の話がある。アインシュタインの脳はこれまで大きさもニューロンの数も一般のものと大きな違いは見られなかったというのが通説であった。最近になって、先日のNHKスペシャルでも取り上げられていたが、アインシュタインの脳の一般とのある違いが注目されている。それはニューロン以外の細胞の数 ― グリア細胞の数 ― が一般の脳のそれと比べてはるかに多かったのだ。一般に刺さりそうなネタではあるが、グリアが脳活動に大いに影響を与えていて、その多くの領域がまだ未知であることは確かなようだ。
「グリア細胞」には、大きく4種類存在する。※この4つの分類だけでよいのかもまだ明確でないという。
・アストロサイト: 神経伝達物質を濾過して取り除いたり、ニューロンのエネルギー源である乳酸を供給。脳の発達における臨界期や可塑性にも大きく関与。アインシュタインの脳でその存在比が一般人よりも大きかった細胞
・ミクログリア: 脳を損傷や病気から保護する役割を持つ
・シュワン細胞: 末梢神経に存在し、軸索の周囲にミエリン鞘を形成する。ミエリン形成型、非ミエリン形成型、終末型の三つのタイプに分類される
・オリゴデンドロサイト: 脳や脊髄に存在し、軸索の周囲にミエリン鞘を形成
また、シュワン細胞およびオリゴデンドロサイトが構成するミエリンは軸索を保護するとともに、その存在により軸索を通る神経信号の伝達速度が大きく制御されることがわかっている。
著者らの研究により、シュワン細胞がニューロンの信号を検知して別の信号伝達に関与している可能性も取り上げられている。これからの脳の研究において、ニューロンの活動だけではなく、グリア細胞を含めたシステムとして脳を理解する必要があると言われている。
まだまだグリア細胞の役割については論争中のものも多いらしく、新しい知見が生まれる場所になっているらしい。特にアストロサイトがニューロン間で交わされるメッセージを感知することでどのような役割を担っているのかというのは非常に大きな知見を得られるかもしれない。そうなると例えばニューロンの配線をすべて明らかにすることで脳活動の全貌や個々人の脳の違いがわかるだろうとするコネクト―ムと言われる研究活動にも影響があるだろう。
一方、グリア細胞の異常が様々な疾患の直接的な病因にもなっていることがわかっている。ALS(多発性硬化症)はミエリンの消失により発症する。統合失調症、うつ病、双極性障害、癲癇などでグリアを含む白質で構造の変化が起きていることも明らかになり始めている。例えば統合失調症の患者の脳内でオリゴデンドロサイトとアストロサイトの減少が著しい。脳腫瘍は、分裂を起こさないニューロンには発生せず、グリア細胞で発生する。HIVウィルスはニューロンではなくグリア細胞に感染する。パーキンソン病やアルツハイマー病の原因のひとつとされるレピー小体の蓄積はニューロンだけでなくグリア細胞にも同様に蓄積されており、これらはニューロンの病気というよりもグリアも含めた病気と認識した方がよいのかもしれないと言われている。特にアルツハイマー病では蓄積されたβ-アミロイドによりミクログリアおよびアストロサイトの機能が大きく影響されることがわかっているらしい。また、妊娠時のアルコール摂取によっておこる胎児性アルコール症候群もグリアの正常な成長ががアルコールによって不可逆的に阻害されてしまうことから発生する。四肢の骨折が容易に治癒するのに、脊椎損傷の場合に神経系が再生できないこともグリアの機構によるものが大きい。また、老化による脳容積の減少はグリア(ミエリン)が多い白質の方が灰白質に比べて大きいことがわかっている。加齢によりアストロサイトの数も増加して損傷を補修するグリオーシスを多く生じるようになる。これらの疾患や老化についてはグリアの動きを理解することにより治癒や予防に向けた研究が進むことが期待されている。
また、fMRIなどの脳イメージングの研究により、脳内の血流の制御にアストロサイトが大きく関与していることもわかっている。「神経血管ユニット」と呼ばれる「アストロサイト-毛細血管-ニューロン」群は、片頭痛とも大きく関わっているとのこと。この辺りのfMRIやEEGの技術による脳機能の調査は今後も大きく進展することが期待される。
脳内に占める体積や細胞数はニューロンよりもグリア細胞の方が多い。グリアが脳活動や神経系の活動に大きく関わっていることから、今後より詳しく脳が動く仕組みがわかってくるのではないか。ただ、どんどん専門的な内容になってきてついていけなくなりそうだけれども。それにしても人体(生体といってもいいのかもしれない)は全く精妙で、どのようにして自然淘汰と進化の過程の末にこういう機構ができあがってきたのかはとても不思議である。今、グリアも含めて脳がどのように機能しているのかを知ることもひとつ大きな研究ターゲットだが、その仕組みが生物の歴史的にどのようにして生まれてきたのかを知ることがもうひとつの知的探求のターゲットになるだろう。また、ひとつの受精卵から細胞分裂により成体へと成長する胚発生のメカニズムも大きな探究のフロンティアである。今までもそこにあったグリアが長く無視されてきて、近年著者らの努力により脚光があたってきたというが、それも含めてまだまだわかっていないことは多いのだなと思う。
それにしてもブルーバックスは新書の枠組みを超えているな。素晴らしい。