仲正昌樹のレビュー一覧
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アーレントの主張を読み解こうと思ったけども、
難しかったので入門書的なこの一冊を購入。
分かりやすさの危険性を主張するアーレントを
分かりやすく解説するというちょっと矛盾した本書。
【個の喪失】に繋がることには徹底して警鐘を鳴らす。
というアーレントの主張がわかりやすく書かれていました。
空気には絶対流されないその強い意志が、
アフガン戦争の時期にまだいてくれたのであれば、
アメリカの方向性も多少は違うものになっていたのかもしれないなー。
入門書から始めないといけないなーと思ったのはアダム・スミス以来。
彼女が書いた本もちゃんと時間かけて読んでみようと思います。 -
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自己決定をおこなう「自由な主体」という発想の限界を指摘するとともに、そのことが明らかとなったポストモダン状況の中での態度決定はどのようなものであるべきかを論じています。
前半は、アレントの「公共性」にまつわる考えが紹介されています。アレントは、「人間」の多元性を認め、そうした多様な立場の人びとが公的領域でたがいに意見を交換し合うことで、合意に至るプロセスを重視しました。ただし、こうしたアレントの「公共性」は、ハーバーマスの想定する普遍的な「討議的理性」と区別されるべきだと著者は言います。アレントの考える「公共性」は、古代ギリシアのアゴラにおける市民たちが自由におこなった討議に由来しており、歴史的な出生を持つ概念だとされます。
著者は、ギリシアの理性から西洋における人文的教養の歴史を経て、ルソーの自由な個人に至るまでの歴史を簡潔にたどりながら、「自由な主体」という概念の歴史的形成を説明しています。一方、現代の政治思想に目を移してみると、「普遍的な理性」に依拠するリベラリズムの立場は、個人の自由を最大限に尊重するリバタリアニズムの立場と、共同体の文脈や歴史的に形成された価値を尊重するコミュニタリアニズムの立場に挟撃されて、苦境に立たされています。そして、こうした状況の中で浮上してきたのが、私たちのアイデンティティの基盤になっている共同体的な価値観が多元的に存在しており、しかもそれらが複雑に重なり合っているために、普遍的な正義を明確に取り出すことができないという問題です。
ここで著者は、フェミニズム系法哲学者のD・コーネルが提唱する「イマジナリーな領域」という概念を参照しています。私たちのアイデンティティの形成は、さまざまなレヴェルで文化的な規制を受けており、そうした文脈を無視して自由に「自己決定」をおこなうことはできません。そこでコーネルは、リベラリズムなどが想定する「自己決定」に先立つメタ・レヴェルでの「自己決定」への権利を認めるべきだと考えます。自己決定をおこなう「自由な主体」は初めから存在しているわけではなく、さまざまな共同体や他者たちとの遭遇を通じてつねに変容し続けています。そこで、そうした「場」において生まれつつある「アイデンティフィケーション」のプロセスを、「自分」にもっとも適していると思われる方向へと導いてゆく(メタ)権利が認められなければならないとされます。言うまでもなく、こうした「イマジナリーな領域」を保護することは、性急な「自己決定」を人びとに迫る昨今の風潮に対する鋭い批判となっています。 -
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ヒューム、バーク、トクヴィル、バジョット、シュミット、ハイエクの六人の思想をとりあげ、解説している本です。
著者はこれらの保守思想家を、「制度論的保守主義」と呼んでいます。現代日本の「真正保守」が、日本の伝統と結びついた精神的価値を高く掲げる道徳志向的な性格をもっています。これに対して制度論的保守主義では、理性やその他の精神的価値に基づく設計主義を批判し、慣習的に形成される制度によって社会に安定がもたらされることの効用を正しく見積もることが重要とされます。
著者は、ヨーロッパにおいてはそのつど原点となる契約や慣習法の基本原則を参照しながらあたらしい制度が構築されていったことに触れ、そのことが制度論的な保守思想の形成される地盤になっていることを指摘しています。他方日本では、天皇制をのぞいてあたらしい国家体制がそれ以前の法・政治制度を明確なかたちで継承するということがなされておらず、いきおい精神論や文化論的なかたちでしか保守思想が展開されない状況にあると主張しています。
日本の真正保守の思想家である西部邁の著作では、しばしば解釈学などの成果を参照しながら保守思想の原理について考察をおこなう議論がなされていますが、そこでは伝統的な価値が守られるべきだという規範性が密輸入されているのではないかという疑念をしばしば感じてきました。そのようなこともあって、これまで保守思想の「思想」レヴェルにおける基礎づけに疑問を感じていたのですが、本書を読んでようやく保守思想の中心問題に触れることができたように思います。 -
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映画『ハンナ・アーレント』を観て、川崎修の『ハンナ・アレント』とともに読んでみた。
いずれも彼女の主著の『全体主義の起源』や『人間の条件』で議論された事柄を中心に拾っているが、違うところもありそうだ。でも、うまく言えない。著者は、「「もどかしさ」こそがアーレントの魅力である」という。解説本でそう言ってしまうのは無責任も甚だしいと思うのだが、全体としてやはりそういうことなのだろう。あえて政治思想のステレオタイプを避け、思考停止を避けることこそが、全体主義に取り込まれない姿勢であるというかのようである。
著者はアーレントのことを「戦略的なKY」といい、そこに共感したという。アイヒマン裁判の論争は、確かに意志をもったKYだというように思われる。そういった現実の論争だけでなく、著作の中でもそういう主張を行っているんだろうなと思う。
「匿名のおしゃべりに公共性はない、自らの発言に対して責任を持つことで初めて公共性が形成される」とアーレントは書いたらしいが、なるほどこの辺りは現代のネット空間に対する分析にも応用が利きそうだ。自由意思に関する分析も面白そうだ。このような汎用性のある思想こそが哲学と呼べるのだろうね。いや、まだ著作は読んでないけどさ。 -
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仲正昌樹さんの『精神論ぬきの保守主義』新潮選書をちょうど読み終えた。保守とは字義の通り「古くからあるもの」を“守る”思想的系譜のことだが単純にあの頃は良かったと同義ではない。本書は近代西洋思想におけるの伝統を振り返りながら、現下の誤解的認識を一新する好著。まさに「精神論ぬき」です
仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』新潮選書は6人の思想家を取り上げる。ヒューム(慣習から生まれる正義)、バーク(相続と偏見による安定)、トクヴィル(民主主義の抑制装置)、バジョット(無駄な制度の効用)、シュミット(「法」と「独裁」)、ハイエク(自生的秩序の思想)。
6人の思想家の保守を横断すると、保守主義とは「取り戻す」ものではない。現在の社会を安定させている制度や慣習に注目し、できるだけ抽象的思考態度のラディカルさを退けていこうという透徹した現実主義。極右も極左も観念的ユートピア主義に他ならない
ヒュームにはじまる保守主義とは、私たちが安定して暮らして「いる」制度を、「いける」制度へと、外側からではなく歴史的な経験を通じての内側からの改革を不断に追求するものだ。徹底して精神論を排した漸進的改革論といってもよい。
「美しい国土」や「大和魂」といった言葉も自称保守が忌み嫌う外側からの変革の抽象性と同じである。今の地平に足をつけて未来を展望するのが保守主義の「現実さ」とすれば、日本社会において、保守すべき伝統や制度や思想はあるのだろうか。今読むべき本。 -
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仲正先生の本。
アーレントの解説本。アーレントの著作を順に紹介し、仲正先生が噛み砕いてアーレントの思想を紹介してくれるんですが、さすが仲正先生。わかりやすすぎる。
アーレントってこんな分かりやすくて良かったっけ、って拍子抜けするぐらい。
複雑なものを複雑なまま受け止める姿勢というか、
議論し続ける姿勢というか、
そういうところがアーレント的であることの主なところというイメージがあったんだけど、
その本質のところを改めて知れたのは良かった。
単に議論し続ける姿勢、というとちょっとずれてしまう。
アーレントが捉える「政治」というものが、現在の利益代表による利益調整の場である政治とは違うものであるから。
アーレントのいう政治の本質とは、経済的な利害調整でも、特定の世界観の元での善への邁進(全体主義など)でもなく、(共同体にとっての)「善」をめぐる果てしなく続く「討議」である、というもの。
で、ここから進んでいくところの「活動的生活」については、仲正先生の解説をもってしてもなかなか腹落ちさせるのは難しい。簡単に腹落ちできる分かりやすさを求めるのがダメなんでしょうけども。
活動=actとは自分を発露し他人に働きかけることであり、それは舞台上で「演じる」ようなものでもある。演者がいるということはそれを傍観する観客もいるということで、そうした複雑な構成の中で自分の立ち振舞を考え実践していくことで人間性を、獲得していく。
利益的生活が超複雑に絡まりまくってしまっている現代社会でこうした営みを期待していくのは、なかなか難しい。むしろ全体主義の起源で語られるような分かりやすいストーリーによる危険性の方が現実近くて恐ろしくなります。
だからこその「今こそ」なんでしょうかね。良い本です。 -
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ハンナ・アーレントについての、伝記的な入門書。彼女の一生を時系列で追いながら、彼女の思想(思考)について、紹介しています。。
映画『ハンナ・アーレント』が昨年、日本でも公開されて注目度も高まっている折、彼女に興味を持たれる方も多いと思うけど、いままで彼女のことをまったく知らなかったという人であればこの本から入るのがお薦めです。非常にわかりやすく概略が示されています。
僕は、学生時代に(若干ではあるが)アーレントに触れたことがあったのですが、忘れていることの方が多かったので、再確認の意味で、この本は重宝しました。
この本を通して、著者が訴えたかったことは次の一文に集約されるのではないかと思います。
「アーレントと誠実に向き合うということは、彼女の思想を教科書とするのではなく、彼女の思考に触発されて、私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。(p229 あとがきより)」
ただ、この本だけで触発され世界を捉えなおすところにはいきません。まだ入り口に立っただけです。一歩進めて、他の本を読んだり、当たり前のことですけど最終的には、アーレント自身の著作に踏み込まないと「誠実に向き合う」ことにはなりません。
アーレントの思考は、いまの日本の状況に多くの示唆を与えてくると思います。僕は一歩も二歩も進めるつもりでいます。 -
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ネタバレ『全体主義の起源』の構成に即して、全体主義発生の過程をもう一度簡単にまとめておくと、反ユダヤ主義によって全体主義のための物語的な素材が準備され、国民国家の生成と帝国主義によって大衆社会が醸成され、その国民国家の経済的・社会的存立基盤が大きく変動し、大衆が動揺し始めた時、そうした大衆の不安を物語的に利用する世界観政党・運動体が出てきたわけである。p54
私の理解では、アーレントが古代のポリスに西欧的な「人間性」の原型を求めたのは、別に、そこに立ち返ったら、素晴らしい「人間性」を回復できると素朴に信じているからではない。彼女の関心はむしろ、「ヒューマニズム」に基づいて万人に普遍的な人権を付与し、民主主義の範囲を拡大してきた西欧の市民社会が、大衆社会的な状況に陥って"政治"的に不安定化し、全体主義の母体になった原因を、「人間性」という理念の起源にまで遡って探求することにあった。遡って考えた結果、「人間性」を育んだ古代の「ポリス」における理想の「政治」の前提として、「公/私」の厳格な区分が想定されていたことを再発見ーもしくは、そのように装丁されていたと想像ーしたのである。しかし、それは現代においては、失われてしまった区分であった。全ての人に市民権を認め、経済を社会全体として組織化するようになったがゆえに、「公/私」の区分が流動化している現代の市民社会(資本主義社会)では、特殊ポリス的な環境の中で形成されてきた「人間性」をそのまま保持し続けることはほぼ不可能なのである。p115
【(仲正流に再構成した)カント=アーレントの政治哲学の中心的テーゼ】p203
[判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]というラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)とが繋がっているのである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「政治」における「分かりやすさ」の危険性を指摘したハンナ・アーレント。彼女の政治哲学思想には、曖昧でよく分かりにくいというイメージがつきまとう。それもそのはず、「政治というものは、二項対立構造などを用いて分かりやすくすればよいという単純なものではない」という論旨と、それにあいまって巧みな哲学的・比喩的な文章を駆使する彼女の著作は、難解に見えるだろう。
本書は、「そうしたアーレントの政治哲学を論旨明快に解説…」というような新書ではない。逆に、「よくわからない、ということがよくわかる」ように書かれている。そこがいい。
・「活動」=「(物理的な暴力によるのではなく)言語や身振りによって他の人(の精神)に対して働きかけ、説得しようとする営み」=「『世界』には自分一人がいるわけではなく、複数の人格が存在していることを理解したうえで、(直接的に知覚することのできない)お互いの人格に影響を与え合おうとする営み」
・全体主義の問題=「自分たちと考え方が違う異なったものを抹殺することによって、『活動』の余地をなくし、『複数性』を消滅させようとしたことにある。『複数性』を喪失した"人間"は、他者との間で本当の意味での対話をすることができなくなる。」
・「『活動』が可能になる環境」=「ポリス」の基本構造=「『公的領域 public realm』と『私的領域 private realm』の分離化」
・ポリスの「政治」は、経済的な利害関係(interests)から自由な「市民」たちによって営まれていたので、ポリスの理想とか、市民が共通に求めるべき「善」についてオープンに議論することができたが、近代市民社会ではむしろ「経済」の運営などが、議会で行われる"政治"の主要な関心事(interests)となった。現在ではほとんどの場合、各人の関心は個人的な利害と全く無関係とは言えない。
・「アーレントの限界」
1.人文主義的教養(フマニタス)の必要性を説き、大衆を啓蒙する知識人や哲学者などの言論活動を生業としている者たちこそ、「複数性」を増幅させる純粋な「活動」をしにくくなっているかもしれない。
2.学者も給料をもらって仕事をしている限り、経済的利害から全面的に"自由"になることはありえないし、引きこもって思索するばかりだと「活動」する能力はかえって低くなる。
3.かといって、街頭演説で反権力を叫ぶ人の方が人間的「活動」力が高いとも言えない。複眼的な視点を生み出す討論なしに、集団で"一つの大きな声"を上げ続けることは、人と人の「間」を失わせることになる。
4.引き籠もるだけでも派手なアクションをすることだけでもダメ。複眼的視点を生み出す討論が重要だが、時間と場所とお互いに自由な人格として認め合っている仲間がいなければ、本当の意味で討論することはできない。
5.現代社会には、経済的利害から完全に切り離され、全市民が対等な立場で自らの意見を開陳できる「公共領域」など存在しない。
6.ポリス的共同体の伝統を持たない文化圏に属する人々にはそもそも、彼女の想定する「人間性」が与えられていないことになってしまう。
7.西欧圏でも家長の身分を持たない人、特に女性は、アーレントのポリス・モデルでは、ポリスの公共の場に「現れる=登場する appear」ことができない。現代では女性も市民的公共圏に参加できているが、「経済」的な関心が支配的になっている現代の「社会的領域」には、本来的な意味での「公共性」は成立しえない。
8.アーレントの理想の「ポリスの政治」は、現実にあったとされるポリスの政治とはかけ離れている。物質的な利害から完全に解放されて"自由"に思考できる「市民」など、現実の歴史には存在しなかっただろう。
・アーレント自身、上記の矛盾がもたらす冷厳な現実に気付いていただろう。その上で、「人間性の素晴らしさ」あるいは「ヒューマニズム」を無邪気に信じ、それを信ずることでいつかユートピアを実現できると盲信している"良心的"な知識人たちに警告を発している。無邪気な「人間性」信仰は、その理想に合わないものを排除する全体主義に陥りかねない。
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著者は彼女のことを、「人間性」に過剰な期待を寄せるヒューマニズム系思想を一旦解体したうえで、全体主義につながる危険性のある「思考の均質化」だけは何とか防ぐというミニマルな目標を追求した控えめな政治哲学者ではないかと考えている。
・「活動的生活 vita activa」と「観想的生活 vita contemplativa」
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人が「活動」の表舞台からいったん引き下がって物事を静かに見つめることの必要性も指摘。「活動」を通して他者の視点を知ることで「観想」の視野が広がるし、「観想」を行うことで「活動」における言論の中身も洗練されていく。
・「観想的生活」について述べたアーレントの未完の著作『精神の生活』より
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カントの『判断力批判』からアーレントが注目したのは、「一般伝達可能性」「共通感覚」「拡大された思考」の3つ。
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[判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]のラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)が繋がっている。
・「観客=注視者」の重要性。問題の当事者であるからこそ判断できないこともある。局外中立的な位置にあって、事後的に政治的・歴史的出来事の価値を判定する観客のことを、アーレントは「公平な=非党派的注視者 impartial spectator」と呼ぶ。
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各人の内なる"公平な注視者"は、厳密にはどこか偏っている=党派的(partial)なのは仕方ないが、各人が経験を積み、且つ、他者と意見を交換することで、それぞれの内なる"公平な注視者"が次第に相互接近していくはず。そうして社会全体が「公平な注視者」を共有することが社会的正義の基盤になる、と考えた。