仲正昌樹のレビュー一覧
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昨年末…映画『ハンナ・アーレント』を観に行って驚いた。いつもは客席もまばらな単館映画ばかりをかけるハコが満席。用意された補助席も足らず、床に敷かれた座布団に腰をおろして観たのだった…アーレントの言説のなにに、今の日本の人たちは惹かれるのだろう…?
映画はアイヒマン裁判の傍聴からなされたアーレントの言説による、世間からのパッシングを軸に、その人生を俯瞰して見せてくれた…映画を観たあと、アーレントの思索をたどろうとして、主著である『人間の条件』を買ったのだけれど、数ページめくってみて、とても読める代物ではない…と諦めた…で、概説書が欲しくて手にしたのが本書だった。
ーアーレント理論の“忠実な解 -
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ネタバレQOL(Quality of Life)とSOL(Sanctity of Life:生命の神聖さ)の対立は、自由の中核である自己決定を尊重する考え方と、キリスト教の教えを忠実に生きようとする考え方のいずれもが強く根付いている、アメリカの道徳文化の特徴を凝縮しているように思われる。
【動物化】p102
アレクサンドル・コジェーヴ「動物化論」:「人間」の欲望は、「他者の欲望」を欲望する、他者志向的な性質を持つ。
Cf. ヘーゲル「承認」
ポスト「人間」の二つの可能性としての「動物(eg. American way of life)vs. スノビズム(日本の能楽、茶道、華道、武士道etc)
【ス -
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文体が読みづらいのか、内容がないのか?さっぱり理解できず。「」鍵括弧が多い。各章のテーマに沿って、作者の主張が語られていると思うのだが、他者の著作を批判する記載が多く見られる。その内容の正当性は分からないが、文体は不快である。(不快になるように記されているのかもしれない)
何でも自己決定の限界
自己決定するとはどういうことなのか?本当に自分で決めているのか?といったことを哲学的に考察している。内容は難しいと感じたが、普段の生活ではあまり円のない話題だからとも思える。自分で決めるということは、決断するということは、日常茶飯事であるが、その意味、決定という自己との考えることは、あまりしない。
「 -
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ネタバレ「私」が安心して「主体」として振る舞えるようになるためには、「私」から見て、立派な自立した「主体」であるような他者たちから、対等な立場で「承認」される必要がある。その他者もまた他の”他者”からの承認を必要とするはずである。つまり相互に(無限に)承認し合う関係が成立していることによって、「私たち」は安定的に「主体」たり得るのである。
自己の個性・自由・歴史性を意識する「人間」の欲望は、「他者の欲望」を欲望する。①他人が欲しがるものを「私」も欲しがる。②他者の欲望を「私」の思うようにコントロールする。③欲望する主体としての「私」を(同じように欲望する主体である)他人に認めさせる。―③相手に認め -
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政治哲学や倫理学の関連用語21を,各7ページ前後で紹介。特に「正義」「善」など,翻訳から来てる用語は日常語の色がついてまわるので,思想の文脈では注意が必要。
「正義」なんかは,日本語で「義の人」みたいに人情あふれる感じの語感があるけど,英語の「justice」は全然違って「法」「公正」という意味合いが強い。正しい解決のためのルールというある意味冷たい含意がある。
「アーキテクチャ」だけでなく「所有」の項にも登場するアメリカの法学者ローレンス・レッシグに興味をもった。クリエイティブ・コモンズの運動を提唱してる人。(主に)ネット上の知的所有権の範囲を限定して,共同創作を推進する活動は,なかなか意 -
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ネタバレ[ 内容 ]
本書は、「過去の清算」を軸にしてドイツと日本の六十年間の「戦後思想」を比較するものである。
[ 目次 ]
第1章 二つの「戦争責任」(「国際軍事裁判」はインチキか? 「人道に対する罪」を背負ったドイツ ほか)
第2章 「国のかたち」をめぐって(「国のかたち」は変わったか 分断された「国のかたち」 ほか)
第3章 マルクス主義という「思想と実践」(思想的武器としてのマルクス主義 日本における“何でもマルクス主義” ほか)
第4章 「ポストモダン」状況(ポストモダンの導入と批判的知性 ドイツのポストモダニズム ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おす -
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ネタバレ[ 内容 ]
「みんな」を求め、「みんな」に傷つけられた「わたし」は何処へ行く。
[ 目次 ]
1章 「みんな」って誰?(「みんなやっていることやないか!」 「赤信号」の法則 ほか)
2章 「みんな」の西欧思想史(法とは「みんな」の意志である 「みんな」による「みんな」の支配・全体主義 ほか)
3章 「みんなの責任」をどうするか?(「みんなの責任」の範囲 「自分で語ることのできない他者」への「責任」 ほか)
4章 「みんな」と「わたし」の物語(「みんな」から押し出された「わたし」 「わたし」が「みんな」から目覚める時 ほか)
5章 そして、「みんな」いなくなった!(「みんな」はいつまでも「み -
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三省堂本店で行なわれた著者の連続講義「ヴァルター・ベンヤミン──〝危機の時代〟の思想家を読む」を文字に起こし、おそらく編集部が体裁を整えたもの。素直に少しずつ読んでみることで見えてくるものがあるのを知らせてくれる点では、確かに刺激的である。とくに著者のロマン派研究が生きている、言語論の読解は示唆に富む。ただ、野村修の訳業にコメントを加えながら、原文の仕組みを解き明かしているところは、ドイツ語原文を参照する者にとっては興味深いが、それ以外の読者の関心をどれほど引けるだろうか。「複製技術時代の芸術作品」をメディア論として読む講義を中心に、著者とベンヤミンの資質の違いや、著者の芸術への関心の浅さが
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ネタバレルソーを学校レベルの知識でしか把握していなかったので手に取ってみた。
おそらく、この著者(仲正氏)はルソーと同じ高さで物事を見ることが可能な人物なのだと思う。不平等論を基にして、エミールや社会契約論までもアイロニーとしてとらえるべきだと彼は語る。そもそも自己矛盾の塊ではないかと。
しかし、ルソーを語る人々は、それを受け入れられずにそれぞれに関して素直に解釈し、全体を結びつけるときに根底にある矛盾の処理が行えなくなるというのだ。
そういうことを私たちにわかるように説明しようとしているのだけれど、富士山頂からの景色が登った人のみが真に感じられるように、どれだけ言葉を重ねても実感として感じら