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6億4000万人の巨大市場の「いま」がわかる決定版!土着国家から欧米の植民地へ、日本による占領統治、戦後の経済発展、ASEAN経済共同体の誕生――。ホー・チミン、スカルノなど独立指導者のドラマ。ベトナム戦争、カンボジア内戦の悲劇。シンガポール、マレーシアの経済発展の光と影。フィリピン、タイ、ミャンマーの民主化運動――、ASEAN地域の過去・現在・未来を読む。
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Posted by ブクログ
今さらながら読んで良かった。 「多様性の中の統一」という指摘や、宗教のこと、東南アジアがいくつもの中・小規模社会に分節しているということ、そして土着国家←→植民国家、あるいはインドの影響――といった、他の国・地域との関係で論じていく様は、わかり易く、説得力があり、そして面白い。 但しその共感・理解...続きを読むのベースにはこれまでの各国での体験やベトナム生活があってこそとも実感。比較し、他国含め理解し、そうしてこそ越を更に理解できた。(読書と体験とは車の両輪) 越は唯一「中華世界」だったが、清が仏に敗れカンボジア・ラオスとともに植民地になったことで「東南アジア」したとか(p.57)、フランスはカンボジア・ラオスの統治にもベトナム人を利用したとか(p.69)、そういう越のユニークさに思いが至る。 その一方で、各国と同様、植民化の下で伝統経済(農業等)と近代経済(資本主義)の分断的共存とか(そしてそれがその後の経済格差の引き金となったことも)、 各国の独立の動きの中でも越でも独立がなされたこととか(但しスムーズさや次期には差異があったが)、といた共通性も感じる。 さらに言えば、ドイモイやASEAN加盟(元来は反共を契機としたASEANだったのに)の背景には、越の国際的孤立やソ連の崩壊といった切実な事情があったというのも、なるほどと思う(P.199)。 全体的に、複雑な歴史をきわめてわかりやすく(そして冗長な深掘りもなく、)読みやすく解いてくださっている良書だ。(文章の書き方含めて)
732 岩崎 育夫 一九四九年長野県生まれ。立教大学文学部卒業、アジア経済研究所地域研究第一部主任調査研究員などを経て、現在、拓殖大学国際学部教授。主な著書に、『リー・クアンユー――西洋とアジアのはざまで』(岩波書店)、『物語 シンガポールの歴史――エリート開発主義国家の200年』(中公新書)、『...続きを読むアジア政治とは何か――開発・民主化・民主主義再考』(中公叢書)、『アジアの国家史―民族・地理・交流』(岩波現代全書)、『世界史の図式』(講談社選書メチエ)などがある。 入門 東南アジア近現代史 (講談社現代新書) by 岩崎育夫 本章では最初に、土着国家を中心にした東南アジアの原型をみておく。具体的には、国土面積と人口、民族と言語、宗教文化、それにヨーロッパに植民地化される前の土着国家の姿と特徴がどのようなものか、簡単にみる。 読者は東南アジアと聞いて、どのような自然風景をイメージするだろうか。東南アジア最大の河川で、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムをゆったりと流れる全長四四二五キロメートルのメコン川、あるいは一大稲作地帯のハノイ、ホー・チミン、バンコク、ヤンゴン付近の広大なデルタ地帯だろうか。それともタイ北部やミャンマー北東部やラオスの、独特な民族衣装を着た少数民族が住む山岳地帯だろうか。読者のなかにはジャワ島のヤシの木に囲まれた緑豊かな田園地帯や隣のバリ島、それにルソン島北部の天まで届くような棚田を思い浮かべる人もいるかもしれない。一方で、ボルネオ島の熱帯ジャングルや同じボルネオ島の北東部に 聳え立つ東南アジアの最高峰で、富士山よりも高い四〇九五メートルのキナバル山を思い浮かべる読者もいるだろう。他にもスマトラ島のマングローブの湿地帯や、あるいは南シナ海やジャワ海の抜けるような青い海をイメージする人もいるに違いない。 いま挙げたすべてが東南アジアを構成する自然風景であり、このうちの一つで東南アジアを代表させることはできない。中東が砂漠の乾燥地帯、西ヨーロッパがなだらかに広がる緑の農地、アメリカが広大な大平原と、一つのイメージで語ることができるのに対して、東南アジアの自然風景は多様なのである。 東南アジアには一一の国があり、それぞれの国の自然風景が違うなかで、地理的に大陸部と 島嶼 部の二つの地域に区分するのが一般的である。大陸部は、ユーラシア大陸東南部に位置する、中国とインドに挟まれた地域で、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーの五ヵ国、そして、島嶼部は、大陸部から少し離れた、太平洋、南シナ海、インド洋に囲まれた大小さまざまの島などからなる地域で、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、東ティモール、シンガポール、マレーシアの六ヵ国である。全部で一一ヵ国になる。 表 1 は、一一ヵ国の国土面積(二〇一四年) と人口(二〇一六年) のランクである。国土面積は、最大のインドネシアの一九一万平方キロメートルに対し、最小のシンガポールは七〇〇平方キロメートルで、インドネシアの二七二九分の一しかなく、国というよりも点に近い(日本は三八万平方キロメートル)。人口も、最大のインドネシアの二億六〇五八万人に対して、最小のブルネイは四三万人なので、その六〇六分の一と、インドネシアの一つの市ほどの人口しかない(日本は一億二六三二万人)。 地域諸国の国土面積と人口に大きな開きがあるのは、アジアでは南アジアの七ヵ国も同様だが、なぜ、こんなにも大きな違いがあるのだろうか。その理由として、二つが挙げられる。 東南アジア諸国の社会の特徴は、どの国も複数の民族からなる多民族型社会にあり、国民は多数民族と数多くの少数民族から構成されていることにある。表 2 は、一一ヵ国の多数民族と主要少数民族、それに国語を示したものである。なぜ、ほぼ一つの民族が一つの国を創る単一民族型社会ではなく(日本にもアイヌなど少数民族がいるが、その比率はきわめて小さく単一民族型に分類される)、多民族型社会なのだろうか。その最大の理由は、いま国土面積と人口の違いが生じた要因の一つとして説明した、ヨーロッパの植民地化に求められる。また、どの国も多数民族の言語が国語になっているのは(例外はインドネシアとシンガポール)、第二次世界大戦後に東南アジア諸国が独立すると、多数民族を基盤にして権力を握った政府が、多数民族の価値(言語はその一つ) によって多様な国民を一つにまとめる国民統合を進めたからである(ここからどのような問題が発生したのかは、第三章でみる)。 一一ヵ国の言語が相互に外国語関係にあるなかで、唯一インドネシア語とマレー語は「兄弟語」関係にあり、初対面の人でも会話が可能である。例えば、インドネシア語もマレー語も、ジャラン(jalan) は「道、通り」を、ブルジャラン(berjalan) は「歩く」、そして、ブルジャラン・ジャラン(berjalan-jalan) は「散歩する」を意味している。その理由は、マレー語が、八世紀頃にインドネシアのスマトラ島南部で貿易に従事していたムラユ人の言語を出自にするものであること(マレーシアでは、マレー語はムラユ語と呼ばれる)、インドネシアも独立指導者が、多数民族のジャワ人のジャワ語ではなく(ジャワ語はアラビア文字の影響を受けて表記が複雑)、ムラユ語を基にして一九二八年にインドネシア語を考案したことにあり、両国は独立後の一九七二年に表記法の統一をしている。 ボロブドゥールは、ジャワ島中部のインドネシアの京都と言われるジョグジャカルタから北西に四〇キロメートルほど行った場所に位置する。ヤシの木と水田に囲まれた緑豊かな一帯にそそり立つ、王家の祖廟と言われる巨大な仏教遺跡で、七七五年に建設がはじまり、八一〇年頃に完成したものである。アンコール・ワットは、カンボジア西部のトンレサップ湖の北に位置する、緑深い木々に囲まれた広大、かつ壮大な寺院である。強大さを誇ったアンコール国が一二世紀に建造し、最初はヒンドゥー教寺院として造られたが、後に、仏教寺院になったものである。そして、パガンは、一二世紀頃にパガン国が造ったもので、ミャンマー中部の古都マンダレーから西に一〇〇キロメートルほどの場所に位置する。広大な原野に二二〇〇ほどの廃墟となった仏教寺院が点在する遺跡である。 仏教は、前五世紀頃にインドのガンジス川流域のブッダガヤの地で、ガウタマ=シッダールタが悟りを得て誕生した。一時期インドで広まったが、ヒンドゥー教が盛り返すと廃れ、現在、信徒は国民の一%にも満たない。しかし、二五〇年頃にスリランカ(セイロン) に伝わり、当地に住むシンハラ人の宗教になった。そして、一一世紀頃にスリランカからミャンマー(国民の七四%)、カンボジア(九七%)、タイ(八三%)、ラオス(六七%)、ベトナム(中部と南部) など東南アジア大陸部の国に伝わると、住民が受け入れて定着したのである。 筆者は、二〇一三年末に家族と一緒にアンコール・ワットとアンコール・トムの遺跡を訪ねた。遺跡は、それこそ世界中からの観光客で賑わっていたが、緑豊かな広大な土地に広がる寺院は壮大という言葉で形容するしか他になく、一二世紀にこのような宗教建造物を建てたアンコール国の国力と技術力にただ感嘆するだけだった(しかし、同時に、なぜ、このような文化力を持った国が、第三章でみるように、独立後は政治混乱に明け暮れする国になったのかという疑念も湧いて、国家の栄枯盛衰という言葉の意味を実感した)。 島嶼部で最初に土着国家が興ったのがインドネシアである。約一万三〇〇〇の島からなるインドネシアは、土地が肥沃で人口が多いジャワ島が歴史文化の中心だが、最初の有力土着国家はジャワ島以外の地で興った。その一つが、七世紀半ばにスマトラ島南部に登場したシュリービジャヤ国(七世紀半ば~一一世紀) である。同国が台頭した理由は、それまで中国とインド間貿易は、タイ南部のクラ地峡を横断するルートが使われていたが、新たにマラッカ海峡ルートが使われたことにあった。 一方、ジャワ島における最初の有力土着国家は、八世紀中頃に中部ジャワに創られた。インドのサンスクリット語を国語にした仏教国のシャイレンドラ国(七五二~八三二年) である。同国が東南アジア文化史に名を遺したのは、さきほどみたように、世界最大の仏教遺跡のボロブドゥールを建立したことにある。 アジアとヨーロッパの東西貿易が活発になると、ジャワ島では、東部ジャワを拠点にマジャパヒト国(一二九三~一五二〇年) が有力国として登場した。マジャパヒト国は、「はじめに」で紹介した「多様性の中の統一」の言葉を残した国であり、同国が注目されるのは、この時期にインドネシアのイスラーム化が進んだなかで、ヒンドゥー教を基盤にする国として発展し、インドネシアの民族文化のバティク(ジャワ更紗)、ワヤン(影絵劇)、ガムラン音楽など、ヒンドゥー・ジャワ文化を完成させたことである。 島嶼部も、「インドネシア小世界」、「マレーシア小世界」、「フィリピン小世界」に分節していただけでなく、それぞれの小世界内部もさらに分節していた。例えば、インドネシアは、人口が多いもののさほど面積が広くないジャワ島では、主要民族のジャワ人(ジャワ語) は中部や東部に住み、ジャカルタがある西部はスンダ人(スンダ語) が、ジャワ島の北東部のマドゥラ島はマドゥラ人(マドゥラ語) が、そして、狭いバリ海峡を隔てたバリ島にはバリ人(バリ語) が住むという具合に分節状態にあった。さきほどみた、ボロブドゥールを建てたジャワ島のシャイレンドラ国が南シナ海を北上して、大陸部のベトナム北部と中部、それにカンボジアを攻撃したこともあったが、これは例外的な出来事でしかなかったのである。 こうしたことが語るように、アジアの他の地域との比較でみた東南アジア土着国家の特徴は、つぎの点にある。東アジアでは、しばしば東アジア全域を支配下に入れた統一国家(唐や元や清など) が登場し、南アジアも、インド亜大陸を支配下に入れた統一国家(マウリヤ国やムガル帝国など) が登場したのに対し、東南アジアは、一度も東南アジア全域、それどころか、大陸部全域や島嶼部全域を支配下に入れた統一国家は登場したことがない。これもまた、東南アジアの分節性と多様性を語る一つなのである。ただ、東南アジアが分節していたなかで、土着国家の共通特徴もあったので、ここでは三つを挙げておく。 第一が、「インド化した国」である。これは、イスラームが伝来するまで東南アジアの土着国家の宗教が、ベトナム北部が儒教だったことをのぞくと、インドで誕生したヒンドゥー教と仏教だったことから、フランス人のアジア研究者ジョルジュ・セデスが一九六四年に刊行した本で名付けたものである。具体的には、東南アジア各地で土着国家が自生的に登場したなかで、四~五世紀になると、土着国家の支配者が自国の政治基盤の強化や、支配の正統性の手だてとして、ヒンドゥー教と仏教、インド的な王権概念、… プラナカン文化は、言語や衣服や生活慣習など、中国文化とマレー文化が融合したもので、ニョニャ料理はその一つである。見た目も味も、日本の家庭料理に似ているニョニャ料理は、筆者の東南アジア料理の好物の一つである。ニョニャ料理の店はシンガポールにもあるが、裕福なプラナカン一族の邸宅だった二階建ての家をレストランに改築したマラッカの店は歴史的雰囲気が漂い、ビールを飲みながら食べた料理は抜群だった。 スペインがフィリピンを植民地にした目的はもう一つあった。キリスト教(カトリック派) の布教である。多くの宣教師がフィリピンに送り込まれ、豊かな稲作地帯のルソン島中部を中心に、修道会の教会領が誕生して教会は大地主(アシエンダ) になった。また、フィリピンの国名は、一五四二年に到来した探検船隊が、当時のスペイン国王フェリペ二世に因んでフィリピナスと呼んだことに由来するもので、バランガイと呼ばれる小規模社会を単位に自治を営んでいたフィリピン人にとり、スペインの植民地国家がはじめての「国」となった。 土着国家時代に、東南アジアで唯一「中華世界」に属していたベトナム(北部) は、清仏戦争でベトナムの宗主権を主張する清が敗れたこと(中国に倣った科挙制度が廃止されたのは一九一七年)、東南アジアの「インド化」した国のカンボジアとラオスとともに一つの植民地になったことにより、これ以降、「東南アジア世界」の一員として歴史の道を歩んでいくことになった(古田元夫『ベトナムの世界史』、四一頁)。 読者のなかには、フィリピンはバナナやパイナップル、インドネシアはコーヒー、マレーシアはゴムとスズの世界的に有名な産出国であると、地理の授業で習った人がいるかもしれない。これは、それまで稲作を中心に生活していた東南アジアが、ヨーロッパ諸国の植民地になり、各地で大規模な一次産品開発が進められた結果である。このことが象徴するように、東南アジアは植民地になると、政治、経済、社会のほぼすべての分野で歴史的な変容が起こった(そのなかで、唯一ともいえる例外が、序章でみた宗教であり、一部の国や地域にキリスト教が広まったことをのぞくと、仏教社会やイスラーム社会が変容することはなかった)。ここでは、現代国家につながる、政治、経済、社会分野での変容を一つずつみることにする。政治分野の土着国家から植民地国家への転換、経済分野の自給自足の伝統経済から資本主義経済への転換、それに社会分野の単一民族型社会から多民族型社会への転換がそうである。 これが語るように、東南アジアでは植民地になると、各地で輸出向け商品作物の大規模な一次産品開発がはじまった。マレーシアはゴムとスズ、インドネシアはコーヒー、砂糖キビ、ゴム、フィリピンは砂糖、マニラ麻、タバコ、パイナップル、バナナ、ベトナムはゴム、コメ、ミャンマーはコメ、カンボジアはゴム、などが主なものだった。植民地化を免れたタイでも、チャオプラヤー川下流のデルタ地域で輸出向けの大規模なコメ開発がはじまり、バンコク周辺は一大稲作地帯になった。タイのコメ輸出は、バウリング条約により貿易の自由化を認めた一八五五年は五万トンほどだったが、一九世紀末には一〇倍の五〇万トンほどにもなったのである(その大半は、マレーシアなど出稼ぎ労働者が多い東南アジア域内向けだった)。 王族から平民への指導者の交代は、他の国よりも少し早いが、植民地化を免れたタイでも起こっている。タイは仏教が国教ともなっている国であり、敬虔な仏教徒のタイ人にとり国王は政治支配者というだけでなく、宗教権威者でもあった(後者は、現在でもそうである)。しかし、そのタイでも、一九二七年にプリーディーやピブーンなど、後に軍人と官僚になるエリートが創った人民党は、一九三二年に王制を否定する立憲革命を起こして、つぎのように述べた。 一九七五年にベトナム戦争が終わると、中国の毛沢東思想の強い影響を受けたカンボジア共産党(指導者はポル・ポト) が実権を握り、「民主カンプチア」(一九七六~七九年) となった。フランス留学経験のある知識人ポル・ポト率いる政府は、すべての古い価値、思想、制度と決別し、あらゆる搾取を追放して理想的な人間社会と考える原始共産主義社会の建設を謳い、それを実現するために有無を言わさずに強行したので、多大な犠牲者が出た。すなわち、首都プノンペンの二〇〇万人ほどの住民をはじめとして、全国の都市住民の農村への強制移住と農村での自活生活を強要した。さらに家族を解体して大人同士、子ども同士だけの集団生活、通貨の廃止、カンボジア人の心の拠り所である仏教の否定、旧体制時代の政治家、官僚、兵士などの処刑がおこなわれた。新体制の批判者や不満者に対しても容赦ない処刑がおこなわれ、処刑者、強制移住や強制労働にともなう病死者、食糧不足による餓死者など、正確な人数は不明だが犠牲者は一〇〇万人を超えた。これは、東南アジア近現代史上最大の虐殺と呼べるものだった。 筆者は一九八〇年四月から二年間、 ASEAN について勉強するために、当時所属していたアジア経済研究所から派遣されて、シンガポールの東南アジア研究所に留学した。シンガポール滞在中の一九八〇年一二月末に、はじめてインドネシアを訪問した時、ジャカルタの空港で税関の荷物検査があり、審査の列に並んだ筆者の前は、四〇歳ほどのインドネシア華人女性だった。女性が審査のために机の上にスーツケースを載せて開くと、荷物を調べたプリブミの検査官(インドネシアでは非華人のインドネシア人はプリブミと呼ばれる) は中国語の本を見つけ、後ろのポリバケツに無造作に放り込んだ(表紙のタイトルから推察して、華人女性が、たぶんシンガポールの書店で購入した、手軽にお金を貯める方法という類の本だったように記憶している)。その後、女性は何事もなかったかのようにスーツケースを閉じて立ち去ったが、この間、検査官も女性も無言で、きわめて事務的な手続きをしているかのようだった。当時のシンガポールはすでに英語社会化が進展していたとはいえ、外国人観光客が闊歩する目抜き通りを一歩それると、華人が七七%を占めていることから中国語世界であり、中国語の看板など中国的なものが溢れていた。華人社会シンガポールから来た筆者も、ただ黙ってこの出来事を見ていただけで、「これがインドネシアなのか」と感じたのだった。 とはいえ、現在もタクシンは外国からタイ政治を動かしつづけているし、国内では、タクシンを支持する農村部・都市部下層住民(赤色のシャツ) と、タクシンを批判する都市部中間層住民(黄色のシャツ) の対立と混乱が続いている。二〇一四年五月には再度クーデタが起こり、タクシンの身代わりとして二〇一一年に首相に就任した妹の企業経営者出身のインラックが追放されて、現在、タイは軍政下にある。タイでは、民主化、すなわち、軍の政治関与の終焉はいまだ未完の課題なのである。 しかし、これに対し第三タイプの移民は、頭脳流出としてフィリピンで深刻な問題になっており、二〇一〇年の人口統計にはっきりと表れている。フィリピンの二〇歳以上の国民の最終学歴において大卒は全体の一六・四%だが、アメリカのフィリピン人就労者の約四三%を大卒が占めているからである。これを別の角度から言えば、二〇一〇年には大卒者の約七・三%が海外就労者なのである。フィリピンが世界各地に移民や出稼ぎ労働者を送り出している理由は、人口が一億を超えて東南アジアではインドネシアについで二番目に多いものの、国内に就業機会が少ないこと、それに国民のあいだで英語が普及していること(とりわけ、高学歴のアメリカ移民者) にあるが、海外出稼ぎ労働者と移民は、フィリピンが直面している問題の一つでもある。 それでは、日本にとって東南アジアはどのような意義を持った地域なのだろうか。アジアには東アジア、東南アジア、南アジアの三つの地域があるなかで、歴史的にみると、東アジアが地理的に近いこともあり、日本がアジアとは東アジアのことであると考えていた時期が長いこと続いた。日本と東南アジアの本格的交流がはじまったのは、第二章でみたように、室町時代末期から徳川時代初期の朱印船貿易、それに日本人町の誕生であり、明治維新以降、日本は東南アジアに経済進出し、一九四〇年代には軍事進出して占領したが、第二次世界大戦後は、政治・軍事関係は弱くなった。現在、日本と東南アジアは経済交流が中心になっているなかで、東南アジアが日本に持つ意義はつぎの点にある。
体系的、時系列的にまとめられていて、それぞれの国について丁寧に説明されている。複雑な内容なのに意外と読みやすかった。 個人的に東南アジア諸国と仕事関係していくこととなったので、手に取ってみました。どういった歴史を経て、現在の経済成長著しい東南アジアになっていったのかイメージを掴むことができた。各国...続きを読む多様性の中紛争、内乱を乗り越えて、政府主導や華人の躍動を経験しながら現在の姿があるんだと理解した。 将来的には中国、インド、日本に迫る経済力を付けていくのだろうけど、その頃の日本を想像すると何となく頼りないよなぁ。ASEANってEUとは違って政治統合まで突き詰めてなくて、緩やかな経済統合、内政不干渉や全会一致原則があるなんて初めて知りました。力強さは物足りないのかもしれないけど、EUはドイツ、フランスという大国に利益の偏りが出ている状況を考えると、時間はかかっても最適な形を模索するASEANの今後動向は気になるし期待しちゃうよね。 次は、個々の国について学んでみるか。。
ペナン島に旅行し、また今後、仕事で東南アジアに関わる可能性が出てきたので、関心を持ち購入。 土着国家の成立ち×植民地化の歴史×独立時の共産圏へのポジションで、東南アジア諸国のあり方をざっくり理解できる。 初心者には大変優れた本だと思う。
東南アジア11か国の近現代史と現状、課題について概観した1冊。各国で宗教、民族が大きく異なり、多様性が特徴のこの地域ではあるが、こうして東南アジアとして括って外観してみると、例えば、EUや東アジアとの違いが浮き彫りになって面白い。(EUは宗教的にも近い、歴史的にも侵略、交流を重ねてきた国々が、一つの...続きを読む共同体としてまとまろうという動きが、ASEANとは異なる。東アジアは、歴史的に分断された国(中国・台湾、南北朝鮮)が存在するために、統一の動きは困難) 最近読んだ、池上彰さんの東南アジア本の記憶が鮮明だったので、理解を深めるには良いタイミングだった。
東南アジア各国の土着の頃の話から日本軍占領や冷戦、開発独裁や現在の新興国としての成長などを非常にわかりやすく解説されていて読み応えがあった。現在マレーシアに住んでいるので2018年の歴史的な政権交代後の道筋がどうなるかなど著者の更なる考察など読んでみたい。
東南アジア各国の歴史、政治、経済がコンパクトにまとまっていて、興味がある人には非常に有益な本だと思う。 東南アジアの各国がどのように国家を形成し、植民地化、戦争経験を経て、現在の発展に至ってきたかをダイジェスト的に紹介されている。 個人的には、 戦時中の日本の蛮行や、なぜ植民地化の色合いが各国バ...続きを読むラバラなのか(タイだけ植民地を免れてたり)など、興味をひかれる話がたくさん。 東南アジア、ASEANの今後は多様性の中の統一というインドネシアの国是に沿った考え方をもって緩やかな連携を目指していくべきという筆者の提言はまさにそのとおりだと思う。その中で、日本や我々がどのように東南アジアと関わっていくべきか考えたい。
東南アジア諸国の植民地化以降の歴史(土着国家時代の歴史の概要も含む)がわかりやすくコンパクトにまとまっている。 「多様性の中の統一」という特徴を持つ、現代の東南アジア諸国の成り立ち、来し方について、よく理解することができた。 東南アジア諸国が多民族型社会となった理由など、これまで知っているようで知ら...続きを読むなかったことが多く、勉強になった。
日本史やヨーロッパ史や中国史にもちょこちょことでてくるのでわかった気になってあまり読もうとしてこなかった東南アジア史。当然知らなかったことも多く、新大陸やアフリカとの対比も興味深かった。歴史を読むときの粒度を、もっとうまくしたいと思いつつ。
東南アジアは最近でこそ地域としての一体感を見せようとしているが、ヨーロッパなどとは背景・地域としての経験が全く異なる。ひとつの帝国にまとめられたこともないし、宗教もバラバラだ。 そんな中で功利的な理由から纏まろうとする試みの最先端がどうなっているのか。様々なニュースの背景を理解する助けとして、今時点...続きを読むではとても参考になる内容が丁度よく収められていた。
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