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畑村洋太郎(はたむら ようたろう)
1941年生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工学院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授を歴任。東京大学名誉教授。工学博士。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。2001年より畑村創造工学研究所を主宰。02年にNPO法人「失敗学会」、07年に「危険学プロジェクト」を立ち上げ。日本航空安全アドバイザリーグループ委員、JR西日本安全有識者会議委員、リコールの原因調査・分析検討委員会委員長などを務め、2011年6月より東京電力福島第一原発事故・事故調査・検証委員会委...続きを読む 員長。
著者に『失敗学のすすめ』『創造学のすすめ』『みる わかる 伝える』『危険不可視社会』(以上講談社)、『直観でわかる数学』『技術の創造と設計』(以上岩波書店)、『数に強くなる』(岩波新書)、『畑村式「わかる」技術』『回復力』『未曾有と想定外』(以上講談社現代新書)など多数。
技術大国幻想の終わり これが日本の生きる道 (講談社現代新書)
by 畑村洋太郎
また、火力発電が増えれば当然二酸化炭素の排出量も増えますが、不思議なことにだれもそのことには触れません。「原子力反対!」を叫ぶ人が多いので言われなくなったということでしょうが、少し前まで二酸化炭素の排出量増加の問題が声高に叫ばれていたことを考えると、おかしな話だと思います。
一方、その時点で原発そのものが絶対的に安全なものとは考えていませんでした。それは技術としてまだ未熟な部分があると見ていたからです。そもそも原発は、産み出す熱の三割程度しか発電に使うことができない効率の悪いものです。ちなみに石炭などによる火力発電では産み出す熱の四割以上を発電に使うことができますが、これはまさしくそれまでの経験のちがいで、技術の成熟度の差なのです。これは技術の歴史を振り返ればある意味当然です。というのはどんな分野の技術でも、十分な失敗経験を積んで技術が成熟するには、だいたい二〇〇年かかるからです。
原子力がその時点で本当に安全なものなら、石炭火力と同じレベルのエネルギー効率になっていたはずです。それができなかったのは、技術がまだ発展途上だったからにほかなりません。ちなみに発電のメカニズムは、原子力も火力も同じで、蒸気でタービンを動かします。しかし火力のほうがはるかに高温高圧の蒸気を使い、タービンを回しているのです。
そのこと自体は、おかしなことでもなんでもありません。発展途上の技術の扱いを慎重に行うのは当然のことです。 何より問題だったのは、発展途上の技術を「 絶対安全だ」 といって使っていたこと です。そういわないとまわりが納得しなかったのかもしれませんが、そのような運用をしつつ大事故を起こしてしまったことが致命的な失敗につながりました。
アメリカでスリーマイル島原子力発電所事故が起こったのは、一九七九年のことです。それ以降もアメリカでは一〇〇基を超える原発が動いていますが、あの事故後に新設されたものは一つもありませんでした。またドイツは一九八六年のソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故以降、原発の利用に否定的でした。近年は両国とも原発の利用を前向きにとらえていましたが、福島第一原発の事故で再び国民の否定的な意見にさらされて、エネルギー政策に大きな影響が出ています。
その周期はだいたい三〇年くらいだと思われます。というのも人間というのは、基本的に自分の経験でしかものを考えられないからです。すると三〇年くらい経つと、社会の中で人間の入れ替わりが進み、経験していない人が多数派になることで、風潮も変化します。これは津波や地震など、大災害に対する反応でも明らかです。この理屈で考えると、日本でもおそらくこれから三〇年くらいは、原発を積極利用しようという話にはならないでしょう。もちろんその間に、他国であろうと原発がらみの重大事故が起こったら、さらに遠のくことになるでしょう。日本の原発利用は、あの事故によってそれくらい大きな制約を受けることになっていると考えなければなりません。
これから日本が進むべき方向としては、やむを得ず原発を使うという道もあれば、それでも原発には依存しないという道もあります。後者は決して不可能ではなく、新たな方法でエネルギーを産み出すという解もあるし、技術のイノベーションによってこれまでと同じことをより少ないエネルギーで実現するという解もあるでしょう。大切なのは、どちらに進むにしても制約条件をちゃんと把握して、その中でもがき苦しみながら最善の答えを導き出すことなのではないでしょうか。
実際に移民を早くから受け入れてきた西ヨーロッパでも、まだまださまざまな課題があります。戦後積極的に移民を受け入れ、いまや人口の五分の一が移民出身者で占められるドイツでは、移民出身者の教育問題、失業問題などをどう解決していくか、いまなお模索が続いています。私は一九八〇年代のはじめにドイツに留学していたことがありますが、そのとき知り合った日本人医師が勤めていた病院は、ドイツの中でも貧しい人たちが住んでいる地域にありました。そこでは移民も多く、偏見をもとにしたさまざまなトラブルが起こっていたと聞かされました。文化が異なる外国人を入れる移民政策には、必ずそういった影の部分があります。
また、二〇一五年一月のフランス紙襲撃テロ事件では、フランスのイスラム教徒が全国民の七%を占めていることが話題になりました。移民の問題と事件を軽々に結びつけることはできませんが、事件の背景に近年フランス国内で高まっているイスラムコミュニティ排除の問題が指摘されています。
日本の中に外国人を入れるのが悪いことだとは思いませんが、そのときに何が起こるかはあらかじめ考えて慎重に判断する必要があります。
私は外国人を入れる前に考えるべきは、やはり高齢者と女性の雇用だと思います。
その一方で、経営や企画が本当にできる人は、いまでも高い価値があると認められています。これは人ごとに収入が全部違うので一概には言えませんが、大ざっぱに見ると、経営ができる人で年収三〇〇〇万円、本当の企画ができる人で年収一〇〇〇万円程度という感じでしょうか。
たとえば、かつて日本メーカーが市場を席巻していた半導体の世界では、高品質の日本製の歩留まりが九〇%台後半だったのに対し、後進の韓国・サムスン製は当初六〇~七〇%台だったそうです。それを聞いた日本企業の関係者は、「やはり韓国製は粗悪品だな」とバカにしていたそうです。 しかしその分、サムスンは価格の安さと数で勝負しました。半導体の世界は規模が勝負を決める装置産業の要素が非常に強く、また日進月歩で技術が進歩していくことに特徴があります。日本が品質にこだわっているうちに、サムスンは、どんどん数をつくって、そこでできた資金でどんどん設備を新しくして市場を奪っていったといいます。そして歩留まりも次第にあがって八〇%台に。もっともそれでも日本製とは一〇%以上の開きがありました。しかしそれでも市場を取ったのはサムスンだったのです。おそらく歩留まりを八〇%台から九〇%台後半にするのは、非常にたいへんだと思います。サムスンはそこで歩留まりを上げるより、新たな設備を導入し、規模を拡大するほうを選んだのです。どちらが正しかったのかは、その後のシェアが証明しています。
ノウハウ(know/how) ばかりにこだわっていると、社員や作業者は自ら考えることを放棄するようになります。これではせっかくの技術が弱体化していくだけです。技術をより強くするのはノウハウを守ることではなく、ノウホワイ(know/why)、つまりその技術の理由や動機を知ることが重要になります。さらにはノウワット(know/what) という目的意識をしっかり持って技術を扱うことが大事なのに、日本の技術運営はそこが抜け落ちているのです。
日本はいままで「価値」というものを突き詰めて考えてこなかったと思います。いや、昔は考えられていたのかもしれません。茶器、襖絵、浮世絵といったものは、価値を認める人々がいなければ、現在日本文化を代表するものとして残っていなかったでしょう。日本各地に残る祭りもそうです。それぞれの地域で価値を認める人たちがいたからこそ、これだけ多様な祭りが残っているのでしょう。そう考えると、日本人が価値について考えなくなったのは戦後のことかもしれません。そして、価値について考えてこなかったのは、日本人が戦後、経済的に豊かになることだけを考え、自分たちの生き方について真剣に考えてこなかったことと等しいのかもしれません。
「日本の企業はたしかにどうやってつくるかという構造を考えるのはうまい。でもその土地や土地に住んでいる人々が大切にしている文化のことはあまり考えていません。これは日本企業が価値について真剣に考えてこなかったからではないですか」 わたしはハッとしました。たしかにいままで漠然と考えていた文化の違いというのは「価値」という言葉で見てみるとスッキリします。また、日本企業がグローバル競争で苦戦しているのは、価値ということを真剣に考えてこなかったからだというのは、まさにその通りでした。
たとえば、サムスンの地域専門家制度は、吉川さんなどの元関係者の紹介もあり、最近では日本でも知る人が多くなりましたが、これはたんなるマーケティングとは似て非なるものです。数字やレポートで出てくる情報を頼りにしていたら、しょせんはよそがすぐに真似できるものしかつくれません。
アップル製品はその代表例でしょう。電化製品では、やはりアップル製品のブランド力が頭抜けていますが、それはおそらくスティーブ・ジョブズのものづくりに対するこだわりに共感する人が多かったからだと思います。 ジョブズは、いままで機能を中心に考えられていた電化製品の見た目の格好良さ、肌触りといった五感のイメージに徹底的にこだわった人です(おそらく一世を 風靡 したソニー製品にも以前はそうしたこだわりはありました)。だからこそ以前からアップル製品を熱狂的に支持するユーザーがいたのです。
しかし場合によっては、技術の変化によって市場の様子がまったく変わってしまうことがあります。たとえばフィルム事業がそうでした。デジタルカメラが普及するにつれてフィルムの需要は急速に減少し、いまでは一部のマニアとフィルムならではの価値を認めるプロが使う製品になってしまいました。
この急速な変化に対応したのが富士フイルムです。かつてフィルム事業を主要としていた同社は、いままでのコアビジネスが成立しなくなったときに事業の転換をはかりました。フィルムで培った技術をベースとして、いまでは化学や化粧品などのファインケミカルなども含めて複数の事業を展開するようになっています。一方で、同じフィルム分野の企業で、切り替えられなかったのがコダックです。需要が少なくなったとき、この世界最大のフィルム会社は経営破綻に追い込まれました。時代の要請に合わせてコア事業を切り替えられなければ、企業の発展がないことはコダックと富士フイルムとの比較から明らかです。
この第3部では、すでに進められているそうした戦術を、企業の実例もあげながら検討していきます。ここで取り上げられていることがすべてではありませんが、今後、どのような方向に進めばいいのかを考える上で大きなヒントになるでしょう。
かつて日本の消費者も同じ道を辿ってきましたが、初めて製品を使う人には、基本的な機能があれば十分です。自動車は走ればいいし、洗濯機は洗って絞ることができればいいのです。便利な機能が必要になるのは、製品にある程度慣れてからで、最初は便利さよりも手頃な価格で入手できることのほうが喜ばれます。そうした製品は、すでに部品から完成品までをすべて新興国でつくれるようになったので、日本から輸出する必要はありません。つまり工業製品もいまは、地域で生産して地域で消費する「地産地消」が世界の趨勢になっているわけです。 そこで必要となってくるのは、機能を充実させることよりも、その国の文化を知り、その国の文化にあった製品をつくることで、その国の消費者の圧倒的な支持を集めることなのです。
たとえば自動車産業で考えてみると、インドの国内自動車生産台数は二〇一〇年が三五〇万台だったのが一二年は四〇〇万台といったように年々増加傾向にあります。インドは国全体で見ると、産業発展期の入り口ですが、それでも自動車の生産量はすでに四〇〇万台を超えて、しかもそれをすべて国内で使っています。二〇二〇年には一〇〇〇万台という予測もありますが、これは現在の日本の国内生産量と同じです。これが日本の人口の約一〇倍の一二億人の市場の力なのです。
一方、インド以上の巨大市場を有している中国の自動車生産量は、二〇一〇年が約一八〇〇万台、一二年が約一九〇〇万台、一四年が約二四〇〇万台で、すでに日本の二倍を超えています。世界の総自動車生産量はだいたい八〇〇〇万台強なので、世界で新しく生産される自動車の四分の一以上が中国製なのです。
さらに最近、中国の自動車生産能力はすでに年間五〇〇〇万台まであがっており、完全に供給過剰の状況になっているようです(日本経済新聞二〇一五年五月六日)。当然その過剰分は海外への進出という形であらわれます。私は当初、中国製のほとんどは、自国内で消費されていると思っていましたが、二〇一四年に南米のペルーを訪れたとき、中国車が入ってきていると聞いてたいへん驚きました。ペルーでは、日本車の価格を 10 だとすると、中国車は半分の5くらいということです。経済的にそれほど豊かでない新興国では、低価格を武器に中国車が存在感を発揮する可能性は十分あります。
日本の企業が数多く進出している中国には、反日デモなどの危険要素もあります。これまで市民の間で反日感情が盛り上がったときには、日本系のお店や飲食店などが一部の過激な市民の攻撃対象とされました。また新興国の中には、政治の体制が不安定なところもあります。こういう国では、ある日突然政権が崩壊して国内のルールが変わってしまう危険もあるわけです。
こういうこともまた、現地のことを知らないとわかりません。日本の感覚で製品開発を行っていたら、求めている機能がないものになってしまいます。インドだけではなく多くの新興国では、日本より韓国の家電メーカーのほうが広く支持を集めていますが、それは韓国メーカーがその国ごと、地域ごとの文化や生活環境などを取り込んで、どのように使われるかまで考えて製品開発を行っているからです。そこは謙虚に見習うべき点です。
実際に、私が新興国を回ってみた印象では、日本が売りたい原発や新幹線などハイテクを利用したインフラは必ずしも相手が欲しているものでないように思いました。たとえば移動手段でいったら、高速鉄道よりふつうの鉄道のほうが必要だし、需要でいったら高速道路のほうがあるのではないかと思いました。そのほうが物流にも使えて便利だからです。
そもそも新幹線のようなハイテクのインフラが使えるのは、日本のように電気が安定的に供給されている場所にかぎられます。そういう視点で新興国のことを考えると、高速鉄道を導入するまでに乗り越えなければならない壁はかなり高いように感じます。むしろ新興国の都市で深刻化している渋滞緩和のための都市交通の解決策として鉄道が使えるのではないでしょうか。
職場のリーダーがメンバーの出産計画にまで立ち入るというのは、日本では考えられないことです。それが当たり前のように行われているのは社会主義国ということなのか、それとも土地柄なのか、いずれにせよベトナムだから可能なシステムなのでしょう。海外で生産活動を行うときには、このように地域とのつながりやその社会がどのような文化を持っているのかといったことを考慮する必要があります。
その企業が必要としている多くの人手は、いくら中国でもその場で簡単に集めることはできません。地方から人手を募っているということで、集められていたのはその地域とはつながりもない遠方からやってきた人々です。そのため孤独感を感じやすいのか、自殺する人がいたそうです。 さらに、自殺者が出たとき、会社が遺族に弔慰金を払ったところ、「自殺はお金になる」と考える人が出てきたそうです。そして故郷の親族のために弔慰金を残すべく飛び降り自殺をするようなケースが出てきたので、自殺防止のための対応策に取り組まざるを得なかったようです。
働いている会社からお金をもらうために自殺をするというのは、やはり日本では考えられないことです。そうしたことが起こるのは、無理な人集めをしていることに原因があるように思いました。地域や文化と関係なく、お金を中心にすべてを動かしているのが中国流の経営です。働く側もお金にシビアで、少しでも賃金がいい働き口が見つかるとすぐに転職してしまうようです。それが中国の文化ということなのかもしれません。
この人に求められるのは、ものづくりにかかわるすべてのことについてマクロの現象・ミクロの現象やそのメカニズムを理解していることです。さらにどこがその技術を持っているとか、それを使うにはいくらかかるかといった費用などのことまですべて把握していると、本当の意味で技術を武器にした商売ができます。
先ほどのスティーブ・ジョブズは、トップでありながらこういうことができる人だったと思われます。もしくは、自分の希望していることをまわりや協力企業の人たちに正確に伝える技に長けていたということなのかもしれません。 日本の企業にこのような人材がいるかというと、いまはおそらくいないだろうとしかいえません。だから日本の企業は本当の企画ができないというのが、いまのところの私の結論です。
幸福でいられるのは当たり前で、努力すれば報われるのが当然という社会は、そういう社会をつくる私たち一人ひとりの努力の上に成り立っています。それなのに大多数の人が、「自分には関係ない」とか「だれかがそういう状態をつくってくれればいい」と考えて行動していたらどうなるでしょうか。その結果、求めている幸福感が得にくくなっているのがいまの日本の状況なのではないでしょうか。
しかし一方で、効率化がはたしてすべて良いことかということも考えていく必要があります。日本は近年、効率は善、安売りは善、便利なことはいいことだということで社会が進んできました。しかし、その結果、街からは小売り店が消え、スーパーや量販店、コンビニエンスストアだけが残るようになりました。しかしそのことで私たちの生活
が豊かになって便利になったかというと、どうもそうとはいえないと実感しています。
たとえば街から八百屋や魚屋、豆腐屋や肉屋が消えたことで、食卓に並ぶ食材が貧しくなったと感じたことはないでしょうか。近所に街の電器店があれば、なにか困ったときもすぐに助けてもらえるのにと思うことはないでしょうか。街の電器店は、たしかに量販店(最近はネット販売店) に比べると、割高になるかもしれませんが、それも困ったときに助けてもらうための代金を含んでいると思えば納得できる気がします。これはいわば新興国へ鉄道車両だけを売りっぱなしにする商売と、鉄道の運用・保守の指導込みの商売とどちらが良いかというのと近いものを感じます。
日本に必要なのは、このように自分自身で状況を把握し、自分なりの考えをつくることができる人材です。そのようにして導き出した答えには、当初は明確な正解はないかもしれません。しかし自分なりの考え(仮説) をつくることができれば、とにもかくにも信じる方向へ動き出すことはできます。そして自らの仮説に基づいて実践することで、自分の立てた仮説が正しいかどうか実証するのです。それが正しければそのまま進み、間違っているとわかれば、その原因を検証し、別の仮説を立てます。
いまの日本には、明らかにこういう人材が不足しています。理由は単純で、やはり教育カリキュラムがそのようになっていないからです。日本が生きていくためには、こういうタイプの人を意識的に育成することが急務になっています。そしてこのようなタイプの人たちが社会の核となるところで活躍するようになったら、日本は変化に強い、世界の中で大活躍する国へと再び生まれ変わることができるのではないでしょうか。