稲葉振一郎のレビュー一覧
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労働力以外に売るものを持たない人々を「剥き出しの生」として扱われることから守るためには、労働力という人的資本の所有者とみなす擬制に基づいて、社会のセーフティ・ネットを基礎づけようとする試みです。
本書の議論は、ホッブズやロック、ルソーによって論じられ、ヒュームによって批判された「自然状態」という概念や、アダム・スミスによって論じられた「市場」、さらに「資本」と「労働」の関係について論じたマルクスらの仕事を解説するという形で進められていきます。著者は、ホッブズとロックの「自然状態」の理解の相違を、エコロジカルな条件の相違によって一つの見取り図の中に位置づけようとします。さらに、ヒュームの「コンヴェンション」やスミスの市場といった概念をも、同じように生態学的な条件の遷移のうちに取り込んでいきます。
マルクスは『資本論』において、資本の生成と運動のメカニズムを解き明かそうとしました。史的唯物論は、こうしたマルクスの思想に基づいて、資本主義社会の歴史を弁証法的に捉えようとする発想です。これに対して著者は、生態学的条件の遷移の中で資本主義の成立を位置づけるという非弁証法的な方法論に基づいて、労働と資本についての考察を展開していきます。
そしてここから著者は、マルクスの疎外論に抗して、「労働力=人的資本」に対する所有権を認めるということは、けっして克服されるべきものではないと主張します。それは、資本主義の生態学的な遷移を経て現実に根付いているものであるのだから、ヴァルネラブルな労働者の身体を守るための擬制と捉え、そのような財産権の主体として労働者を位置づける福祉国家を構想する方向へ進むべきだと論じています。
ゲーム理論にまったく不案内な読者としては、本書のような議論の筋道を通って市場や資本主義を説明することができるということが、非情に興味深く感じました。 -
Posted by ブクログ
もっぱら、現代でのピケティの議論に至る「分配」を巡っての経済学の長い歴史の一般的な解説である。このテーマが全世界と数百年の時を経て、幾人もの偉大な思想家と経済学者によって考察されてきても、いまだ誰にも全貌を見通しよく把握することのできない、人間の最大のテーマの一つ(生命とはなにか、とか、宇宙とはなにか、とか・・に匹敵する)であることがわかる。
新書とは思えない難しい内容であり、例えば、経済システムについての理解が現代社会の舵取りにはマストな教養インフラであったとしても、こういうことが政府部内や立法府でまともに議論できるようになるとは思えない。実際の政治システムや民意の形成では、「専門家」が否定され叩きのめされ、素朴な感情論で共感を得る政策しか生き残らない。社会システムでは「知の格差」の解消、トリクルダウンこそが必要だ。 -
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僕の場合、モダンとポストモダンの定義をかなり東の定義に依っていたので、本書で示されるような「近代」「モダン」「ポストモダン」という区分けは、歴史の位置づけを行う際の「多様性」を指し示してくれたように思う。
本書のキー概念である「テーマパーク型権力」に関しては、筆者も認めるように東の議論とかなりかぶるところが多いように見受けられる。ただ、大塚や他の思想家たちの思想を概観し、それぞれをある程度の客観性を持って俯瞰することが出来るようになったことは本書を読めたことの意義になるだろう。
ただ、あまり僕がこの手の分野に不慣れなせいかわからないが、本書の示しているような近代――特に「時代」としての近代と「方法」としての近代――の区別が、本を読んでいるその瞬間はなんとなく理解が出来るような気がするのだけど、本を閉じて数日もすると自分の中で曖昧になっている。
これは僕の理解力の面もさることながら、概念化させるキーワードとしてはやや曖昧性が高いからかなとも思う。あるいは説明が僕のような初学者にとっては不十分であるとも言える。このあたりの議論は興味深いので、もう少し細かく検討していただけるとさらに助かるのかなと思った次第である。 -
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公共性とは所与のものではないことから、
全体主義や動物化の議論を通して、リベラル・デモクラシーの立場を取り、自然、社会、個人の諸関係を結んでいく。
これまでの社会論≒公共性論の整理+著者の構想だけれど、
何も考えなくて済むようなポストモダン的な社会ではない、
方向へ少しでも向かう道筋をつけようとしている。
配慮しつつの啓蒙路線。
これは仕方ないし、こういう方向でしか啓蒙はもうできない。
種々の議論と論者が入れ替わり立ち代り出てくること、
著者自身ふらふらするところがあって、全体の流れを意識しながら読まないと迷子になる。
また、具体的に創出or批判しなければならない、という意識が強く、悲観的であると言いながら物言いは大胆なところがあるので怖気づかずに読まないといけない。 -
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400ページ程の本書の帰結するところは著者曰く「着地点はひどく見慣れた風景」との事だが、そこに至るまでの本書の内容は結構険しい。論は理路整然としているので順を追っていけば読み解けるが、とにかく骨が折れる。それでもそれだけの内容はあると思う。「公共性」などという定義するのも共通認識を形作るのにも非常に困難なものを現在において捉え、理解することを助けてくれる1冊。良書です。
市民社会における公共性とは何か?という問いに対して、著者はハーバーマスとアレンとの著作から公共性(市民的公共圏)の姿を描いてゆく。さらにはミル、ホッブス、ロックといった社会契約論的な地平まで遡って、公共性というものが成立する(と考えられる)政治的・社会的背景を掘り起こしてゆく。
そのような掘り起こしの中で、ハーバーマスが抱いていた19世紀末の公共性の危機的状況が、現在においては危機の消滅という方向に動いていることを指摘し、それを東浩紀のいう「動物化」と捉える。
そして動物化せず、全体主義にも陥らない立場としてリベラリズムを位置付ける、というのが本書の戦略と理解した。
こうして見ると、ポストモダンの現在において、公共性(市民的公共圏)を形作るのはひどく弱い働きかけしか出来ないようだ。建築という実体性のあるものをつくる自分としては、もっと突っ込んで考えて生きたいテーマである。 -
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ネタバレ全体的には自分には難しかったが、興味を引いた以下の点を引用として残しておく。
「インデックスファンドを買う、ということは結局、市場の現状に追随する、ということ、みんなの真似をする、ということです。さてここで誰もが誰かの真似をしたとして、その始まりはどこにあるのでしょうか?」「…リスクテイカーたちがいなくなり、みんながみんな他人の真似をし始めたらどうなるのでしょうか?いわゆる『バブル』はこうやって発生するのです。」(P.198)
自動翻訳でも同様のことが起きるとの指摘。「しかしそのうち徐々にインターネット上の言語データの中に、自動翻訳の成果、更には最初から自動出力の文章…も増えてくると、機械学習システムによる模倣、学習の対象の中に、それ自体が自動機械によって作成されたものが増えてくるでしょう。」(P.199-200)
「奴隷制度が否定された自由な労働市場を前提とすると、そこでの取引の対象は、人身それ自体にほかならない労働力、あるいは人的資本丸ごとではなく、その利用権ということになります。ですから労働の取引は商品の売買よりは資産の賃貸借の方に近いのです。…何が雇用であり何が請負となるかはもちろん具体的にはケースバイケースですが、大まかな方向性で言うと雇用においては仕事の内容や目的は特定されず、被雇用者は雇用主の指揮命令に服し、雇用主には指揮命令権の範囲内での被雇用者に対する懲戒権が生じる一方で、保護する義務も生じます。こう見ると雇用という制度は、奴隷制度を自由な契約によってマイルド化して整理した仕組みであると見ることもできるでしょう。」(P.162-3) -
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この本の前に感想とも言えない感想を書いた「社会倫理学講義」に続いて、稲葉振一郎を読むが、「社会倫理学講義」よりはましではあるが、これも、今の自分には、かなり難解な本だった。
私は、この春から、大学院後期課程、いわゆる博士課程に進学し、勉強というか、研究を続けている。進学したのは、経営学研究科、専門は人事管理。春から研究を開始するにあたり、指導教授と面談で研究計画を相談した際に、何人かの学者の本を読むように勧められたのであるが、稲葉振一郎はそのうちの1人であった。
博士課程に進学できたということは、修士論文を書いたということであるが、修士論文での私の大きな関心事は、日本的雇用システムであった。実際に修士論文にも、主としてバブル崩壊以降の日本的雇用システムについての先行研究を、研究背景として整理した。おそらく、指導教授は、日本的雇用システムについて、私が更に広く、深く理解しておく必要があると考えて、稲葉振一郎を紹介してくれたのだと思う。
ただ、稲葉振一郎は人事管理の専門家ではない。社会学者である。ただ、本書もそうなのであるが、資本主義とは何か的な、経済思想的な著作を何冊か書かれている。指導教授から読むことを勧められた学者として、中野洋があるが、中野洋は、既に亡くなられている労働運動家である。なぜ、指導教授がこの2人を読むことを勧めてくれたのかということを考えると、人事管理の背景として、企業とは何か、とか、その更に背景として資本主義とは何かまで遡って理解しておくこと、更には、かつては、資本主義に対抗する思想であった社会主義についてや、それを背景とした、日本の戦後の労働運動について理解しておくことが、研究に厚みをもたらすということをおっしゃりたかったのではないか、と勝手に考えている。
さて、この本は、「資本主義とは何か」という議論を、「資本主義vs社会主義」というテーマで始めている。アダム・スミスやマルクス以来の資本主義、社会主義(あるいは共産主義)の考え方を整理する一方で、現実の問題として、(少なくとも)ソ連・東欧型の社会主義は姿を消してしまったことにより、基本的には資本主義のみが残った状況も説明している。
しかし、資本主義というのは、放っておくと富の偏在というか、経済的な格差が生じて拡大していきかねない制度なので、それを良しとしないのであれば、資本主義の中にそれを防ぐ仕組みをビルトインしておく必要があるのである。
経済的には、税金や社会保障制度などによる広い意味での所得再分配制度、また、放っておくと弱者になりかねない存在である労働者や零細企業などを守るための法律等が、その仕組みにあたるのである。
考えてみると、利潤そのもの、株主の利益などを追及する企業という組織の中で、働く人たちが、経済的安定ばかりではなく、働きがいを得ながら仕事をするためにはどうすべきか、というようなことは、人事管理の根本的な課題と考えられる。
そのようなことをかんがえるべし、ということで勧めてもらい、読んでみた本ということだ。 -
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人工知能の発達によって人間の仕事がうばわれるのではないかという問いかけがなされる現在において、あらためて労働をめぐる経済学や社会哲学における議論の蓄積のなかから、この問題について考えるための手がかりをとりあげなおし、人工知能がわれわれにもたらすインパクトの本質について考察をおこなっている本です。
著者は、ロックやスミス、ヘーゲル、マルクスなどの思想を渉猟し、資本主義における労働や疎外について彼らがいったいどのような思索を展開してきたのかということをたどっていきます。そうした枠組みを踏まえたとき、人工知能が人間の仕事をうばうという問題は、それが管理業務のようなものにまでおよぶことになるかもしれないとはいえ、従来の社会哲学において議論の対象となってきた枠組みのなかに収まるのではないかという見通しが示されます。
他方で、人工知能が道具以上の存在になって、人間の「内面」や「意識」にあたるものをそなえるようになったとすれば、現実には人びとに大きな葛藤をもたらすことになるとはいえ、それは人工知能を人間社会のメンバーに迎え入れることに対する抵抗感にもとづくものであり、本質的にあたらしい問題が生じるわけではないとされています。そのうえで、むしろ人間の「心」をもたないような人工知能にわれわれがかかわっていく場面において、人と物の二分法という枠組みそのものが問いなおされるという新たな問題が生じるのではないかという展望が示され、倫理学的な問題にまで踏み込んで考察がなされています。
人工知能についての問いを切り口にした、労働の思想史という印象です。 -
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赤坂憲雄『ナウシカ考』を読んだのが2019年。
まさかの、宮崎駿と鈴木敏夫がこの本を読んでいて、「こんなこと考えて描いていない」「けれども、この本はおもしろい」と感想を述べている。
漫画版ナウシカが取り上げられるのは、扱っているテーマと今の状況に重なりがあるから。
でもって、ナウシカが行った最後の選択が、サラッと読むだけでは「よく分からない」からかもしれない。
「人類全体にとって重要な決断を、ナウシカ一人の直感で決めてしまってよいのか。」と長沼毅は語っている。
「シュワの墓所の科学力をうまく活用して、人間にとって劣悪な環境を改善し、人間性を向上させていくという物語の展開だったらよかったのに」と。
でも、私は、ナウシカは「直観」的に、それを選択してはいけないと分かったのではないかと、思っている。
川上弘美の「『人類が人類として精いっぱい生きる』ということと、『人類がいつかは滅びる』ということ」の両立を述べているように。
カタストロフィ後の世界を扱った物語として、パッと頭に浮かんだのは、ニアサー後のエヴァの世界、つまり第三村だった。
文明が後退し、限られた資源を共有しながら、脆弱な人間たちは生きている。
第三村が「シュワの墓所の超科学力」によって救われる結末は、やっぱり相応しくないと思う。
インタビュアーは敢えて、現実世界には「生命を操る技術」(たとえばワクチン)が必要とされていることを、何度も問いかける。
今の我々にはまだナウシカ的解答が出来なくとも、逆説的に?ナウシカが出した答えは、一つの古典に昇華したのだと思う。 -
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トマ・ピケティの『21世紀の資本』(2014年、みすず書房)が日本でも広く話題となった状況のなかで刊行された数多くの本のひとつですが、著者が「あとがき」で述べているように、ピケティの解説書ではなく「不平等との戦い」というテーマの経済学史における変遷をたどり、このテーマが現代においてあらためてとりあげられることになった文脈を明らかにしている本です。
本書ではまず、ルソーとスミスの対立にまでさかのぼり、ルソーが私的所有制度のもとでの分業が不平等を生み出すことを問題視したのに対して、スミスは市場メカニズムを通じて全体としての豊かさが実現できることに目を向けたことが説明されます。つづいて、マルクス経済学を瞥見し、新古典派経済学の誕生へと、経済学史のメイン・ストリームが解説されます。とりわけ、労働者と資本家の対立というマルクス経済学の基本的な構図が、新古典派経済学においては解消され、不平等というテーマも経済学者たちの主要な関心からしりぞいていった経過が論じられます。その後、現代の経済学において不平等をめぐる問題にふたたび注目が集まった経緯が解説され、ピケティの著書がそうした大きな文脈のなかでどのような位置づけをもつのかということが論じられています。