福永武彦のレビュー一覧
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とにかくすごい小説だった。
寂しくて哀しくて、過去と現在が入り乱れる、揺蕩うような物語。文章がひたすらに美しい。
忘れたまま生きていくということ。
父親のパートでの、こちらの文章が印象的だった。
「私が物語を選んだのではなく、物語の方が私を選んだのだ。」
作中ではサルトルの劇が演じられるが、まさにサルトルのいう、「地獄とは他人である」という世界をこの小説で描こうとしたのかもしれない。
立体的に描かれていく家族の歪みと澱。生きることの罪。捨てていくこと。サルトルの「他者」。お見合い結婚の時代だからこそのままならない諸々のこと。秘密。賽の河原。愛と死。忘れるけど忘れないこと。死に近いから愛するこ -
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ネタバレひたすらに孤独な青年の恋と愛の物語。
サナトリウムに入っている私は手術で帰らぬ人となった汐見からノートを託される。そこには汐見が愛した二人の人、藤木忍とその妹千枝子との想い出が綴られていた。忍には渇望に似た感情を持ちつつも忍から拒絶され、千枝子には青年的な恋を心に抱えつつ、結局は汐見は孤独を選ぶ。
悪人や意地悪な人が出てこない、優しい人しかいないのに、それでも汐見は孤独だったということが、ひたすら寂しい。
想いを寄せられた兄は戸惑うばかりで妹は汐見の持つ兄というフィルターに困惑。解説の「夢を見る人」として、藤木兄弟から恐れられた、というのは寂しいけれど真実なのだろう。
恋も愛も難しい。 -
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サナトリウムで望みのない手術を自ら受け、帰らぬ人となった汐見。彼は、同部屋で親しくしていた「私」に二冊のノオトを遺していた。
物語は、この二冊の手記が中心となっている。
一冊目、「第一の手帳」
汐見が十八歳の時に下級生の藤木を愛した過去が、H村での弓道部合宿をメインに描かれる。
汐見は忍をプラトニックな愛(友情)で激しく愛するのだが、忍はしだいに汐見から離れていく。そして悲しい結末が訪れます。
(私はこの一部を中学の現国問題集で読み、腐女子だったので「はっ!ボーイズラブが!」と短絡的思考でテンションを上げて、その日に本屋に寄って購入しました。この出来事をきっかけに小説を好んで読むようになった -
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汐見茂思はサナトリウムで見込みの少ない手術を望んでそのまま死んだ。
”私”は汐見と年が近く、彼から手記を残された。
汐見が生涯で愛したのは、高等学校で一学年下の藤木忍と、その妹の千枝子だった。
高等学校で汐見が藤木に望んだのは、魂が共鳴し合うような友情を願っていた。
しかし藤木は自分はその想いに値しないと答えるのだった。
藤木はその二年後に病を得て死んだ。
汐見は藤木の家に残された母と妹千枝子のもとを訪れる。
千枝子との恋愛は静かに進んでいた。汐見はそのつもりだった。
しかし汐見には独自の孤独があった。それは信仰でも埋められない孤独だった。藤木のような若者が突然死ぬ。自分の学友たちが次々に -
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『夜の寂しい顔』
僕に欠けているのは、存在の感情なのだ。
親戚に預けられて心に空白を持つ少年。
夜ごとにある少女の夢を見る。
ある夜少年は、その少女の顔が自分そっくりだと気がつく。
僕の本当の存在が毎晩僕を訪れて来るのだ。
『影の部分』
心休まらない家庭を持つ売れない画家の僕は、ある母娘のもとを訪れていた。
だが娘が嫁に行ったことによりその訪問を取りやめていた。
母は、あなたは娘を愛していたのだと言い、
娘は、あなたは母を愛していたのだと言う。
僕の心はどこにも行けずに漂っている。
『未来都市』
ヨーロッパに滞在する画家の僕は、ふと立ち寄った「自殺酒場」で毒酒を煽る。
だが僕は死な -
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草の花から続けて読んだ、福永武彦作品。
藤代家の主人である「私」の独白に物語は始まり、語り口は彼の家族へ移りながら、ゆっくりと進行してゆく。
愛するということと、愛されていると感じること、其々に家族は苦悩を抱いており、日常と過去がシームレスに展開する中で、いつでも彼らは自分の心を探している。
福永武彦の巧みで独特のテンポ持つ文章はとても心地良く、酔いしれながらも読み進めてゆくと、作品を通して深い意識の中に潜っていってしまうような感覚があった。
綿密に練られた全七章からなるその構成は、これ以上無いくらいに読み易く、読後はとても爽やかな気分になれる。無人島に一冊もっていくなら、僕は迷わずこの一冊を -
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仏法説話集4作品を集めたもの。
仏教の教えに基づき、どう生きるかなどのテーマをわかりやすく説話形式に。
4編とも何となく似ていたり、同じテーマがあったりして、読んでいるうちに自分がどれを読んでいるのか分からなくなってきた(笑)
読みながら日本が仏教でなく神道が主流になったらどのような説話集になったのだろう?と思った。仏教説話集だと「被害者になったのも因果応報」「お経を唱えて死ねば極楽に行ける」という結論なのでちょっと消極的と感じてしまうことも。
いくつか「ラテンアメリカ文学で読んだぞこのテーマ」と思ったら巻末の解説でも描かれていました。距離と時代が隔たっていても人が語る物語は似るのだろうか。
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絶版になったと聞いて、散々捜し求め、やっと入手した本。
以前「草の花」を読んだ時、ひどく落ち込んだ気分になったので
恐る恐る最初のページをめくった。
前作からなんと10年の月日を隔てた288pに及ぶ長編とあって、
文体もかなり現代に近く、読みやすかった。(しかも回りくどくなくね(笑))
著者の想いが伝わってきて、不思議とすらすらと一気に読めた。
藤代家の四人の家族と、周囲の人々のそれぞれの心の動きが
一編ずつ綴られていて、そのあまりにも切ない感情が、読んでいて
ひどく辛かった。
主となる登場人物に、「彼」と「僕」、「彼女」と「私」
という微妙な隔たりがあるが、それを行き来するうちに、だんだん -
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同名のアニメですっかり有名になってしまった『風立ちぬ』でなく、「かげろうの日記」とその続篇「ほととぎす」を採ったのは、大胆な新訳が売りの日本文学全集という編者の意図するところだろう。解説で全集を編む方針を丸谷才一の提唱するモダニズムの原理に負うていることを明かしている。丸谷のいうモダニズム文学とは、
1 伝統を重視しながらも
2 大胆な実験を試み
3 都会的でしゃれている
ということだが、堀辰雄の「かげろうの日記」は、「蜻蛉日記」の現代語訳ではなく歴とした小説である。言葉遣いこそ王朝物語にふさわしい雅やかな雅文体をなぞっているが、主人公の女性心理はまぎれもなく近代人のそれであり、自意識が強く、